2020年4月30日木曜日

『海洋国家薩摩』徳永 和喜 著

鎖国体制の中でも薩摩が東アジア世界と繋がっていたことを述べる。

薩摩藩は中世から南蛮貿易・唐貿易を行い、また鎖国体制下においても琉球国を隠れ蓑にして中国等と交易を行っていた。しかしこれは密貿易であったために史料があまり残っていない。

そこで著者は様々な史料の断片からかつての貿易の様子を推測する。本書はこのような断片の集積であるため、決して読みやすいものではなく、時代が行ったり来たりする上に記述にはかなり粗密がある。また、既存研究である程度明らかになっていることについては記載しないという方針であったのか、重要なことでもかなりあっさりと書いている部分も多い。例えば、薩摩藩の海外貿易に巨大な影響を与えた琉球侵攻についてはほとんど結果のみを述べるだけだ。さらに専門的な事項でも全く説明を与えていない箇所がある(例えば「嘉吉附庸説」は一般的でないから説明した方がよかった)。

つまり、本書は「これまでの研究の隙間を埋める」形で、しかも通時的ではなくトピック的に書かれているため、初学者にとってちょっと取っつきにくい。私も全て飲み込めたかというと覚束ない。そんなわけで、以下は気になったところの備忘録的なメモである。

「第1章 島津氏の中世外交」では、鎖国以前の島津氏の外交政策が述べられる。特に義久が山川港を直轄港としたこと(天正11年=1583)や、中国商人の自由貿易を保護した家久の貿易政策については興味深い。家久は後になって琉球に侵攻して貿易を我がものにするにもかかわらず、当初は自由貿易推進派だったらしいのが不思議だ。本章ではこの他薩摩の朱印船貿易について述べられる。朱印船貿易では、中国ではなく、カンボジア、シャム、ベトナム、ルソン(フィリピン)、西洋までにも行っている。これは純粋な官営ではなく、商人を募って貿易船を派遣する方式だったようだ。

「第2章 鎖国下の藩密貿易」では、薩摩藩による官営密貿易(これを著者は「藩密貿易」と名付ける)の実態が述べられる。その方式はこうだ。琉球を薩摩藩の属国としつつ、表向きには独立国のように見せかけて中国の冊封体制に留まらせ、進貢貿易に参加する。こうして琉球を通した藩密貿易(=琉球口交易)を行ったのである。

ちなみに進貢貿易とは、琉球が親善のために中国に貢納品を持っていくと、それ以上に価値あるいろいろな品が下賜されるため、実質的に貿易と等しい価値を持つ進貢の形態である。薩摩藩は琉球を中国にはわからないように実質属国化したことで、この進貢貿易による莫大な利益を手にすることとなった。つまり、薩摩藩は琉球が独立国であるようしつらえていたのであるが、その装置の一つが七島(宝島)と呼ばれたトカラ列島だ。

薩摩藩は元々七島衆が持っていた交易権を奪取し、琉球口交易を独占した。一方で琉球に薩摩藩からの船が来ていれば、琉球と薩摩藩の関係が中国にばれてしまうことから、七島(宝島)をさも独立国のように見せかけ、薩摩藩の船は七島からの往来と称して隠れ蓑に使ったのである。もちろん七島は薩摩藩領であった。にもかかわらず七島を「虚構の国」としたことを著者は「近世最大の虚構」であるという。

しかしこのような虚構が中国に見破られないハズもなく、中国との関係が難しくなったことから、享保3年(1718年)頃にこのような虚構の国を隠れ蓑に使う体制を改め、以後は中国からは薩摩藩の船を徹底的に隠蔽する工作を行うようになるのである。

同時期に、密貿易の一大拠点だった坊津では「享保の唐物崩れ」と呼ばれる事件が起こる。これは、藩による密貿易の一斉摘発事件である。どうやら薩摩藩は幕府との関係上、私の密貿易については厳禁とし、山川港での藩営琉球口交易に一本化した模様である。これによって貿易港だった坊津は潰滅させられた。ただしこの事件については未だ史料で裏付けられていない。

さらに本章では、天保年間(享保から約100年後)の史料に基づいて、具体的な琉球口貿易の商品である昆布・煎海鼠・干鮑等の「俵物(たわらもの)」の流通を考察している。俵物は長崎を通じた幕府の交易における主力商品だったため幕府はこれを独占的に取り扱ったが、薩摩は幕府の目を盗んで俵物を集荷して、これを琉球口交易で捌いていたのである。特に重要な商材の昆布については、北前船を利用した富山の薬売りのネットワークを活用した。

薩摩藩は、薬売りチーム「薩摩組」に薩摩での売薬を許可する代わりに、昆布の上納を求めたのである。これは当初は売薬権との引き換えに過ぎなかったが、やがて薩摩組は昆布の運搬を主体的に担うようになっていく(嘉永2年(1949)から)。

琉球口交易で薩摩が売っていたものが昆布だとすれば、買っていたものの流通はどうなっていたのか。それを伺えるのが天保6年に新潟で起こった、薩州船の遭難抜荷事件である。この事件は、要するに密貿易品を積んだ薩摩の船が新潟で遭難したため、密貿易が幕府にもばれてしまったというものである。この船に積まれていたものは、唐薬種、毛織物、鼈甲、犀角といったものだった。これら薩摩が取り扱っていた品は低価格で広く流通し、北陸や東北地方まで流通経路があった。

「第3章 幕末薩摩藩の倒幕資金」では、幕末の薩摩藩のいろいろな金策が述べられる。例えば調所広郷の財政改革では、その目玉として黒砂糖の運輸など海運の振興が行われた。しかしこれは密貿易を伴っていたために、調所の自殺とともに密貿易の終焉ももたらすことになった。また島津久光は「琉球通宝」(琉球と銘打っているが全国流通)の鋳造及び「天保通宝」の偽造で財政を豊かにした。本書では「琉球通宝」の鋳造量やその背景事情などが詳しく述べられている。

「第4章 東アジアの漂流民送還体制」では、薩摩の通訳制度、苗代川の朝鮮人(子孫)たち、漂着民の返還ルール等が取り上げられる。薩摩には、唐通事・朝鮮通詞・(幕末では)西洋通詞という通訳体制があった。朝鮮通詞については、苗代川の朝鮮人子孫が担った特殊な通詞である。このように通訳を配置していた藩は異例だといい、本書ではこれらの細かい制度(例えば職階や処遇)について考察している。こうした中、西洋通詞になった上野景範という人物が紹介されており興味を持った。唐通事の家に生まれた上野景範は、当初蘭学、追って英学を勉強し、独断で上海に渡ってさらに勉強しようとした面白い人物(上海には渡海したもののすぐに露見した)。彼は開成所の句読師(英語教師)になった。

全体を通じ、既に述べたように本書はなかなかややこしい。薩摩藩の海運関係の史料がほとんど残っていないため、やむを得ない部分もあるのだろうが、それにしても研究ノート的な部分があることは否めない。本書の内容を年表化するだけでもかなり見通しが良くなったのではないかと思う。ちょっと自分でも改めて頭の整理をしてみたい。

ややわかりにくいが、薩摩の海洋・貿易政策を考えるために参考になる本。


2020年4月29日水曜日

『黄檗伝心法要』入矢 義高 訳(西谷啓治・柳田聖山編『世界古典文学全集36A 禅家語録 I』 所収)

禅学概論の書。

『黄檗伝心法要』は臨済義玄(りんざい・ぎげん)の師匠であった黄檗希運(おうばく・きうん)の講義録である。

これは、黄檗の在俗の弟子であった裴休(はいきゅう)が江西の鍾陵における説法(842年)と宛陵での説法(848年)を筆録したものを基本に、他の弟子が記録した宛陵の筆録(宛陵録)を加えたものである。

私はこれまで『禅家語録』によって初期の禅思想のテキストを追ってきたが、本書を読んで感じたのは「禅思想の完成」ということである。

達磨に仮託される初期の禅は、大雑把には仏教的な老荘思想であり「禅」としての独自性は弱かった。一方、六祖恵能(実際にはその弟子の荷択神会(じんね))の頓悟禅は、あまりにも超越的というか、ハッタリ的な部分があり、「そんなものがあればすごいけど多分ないだろう」というスーパー理論である。それを具体的に実践可能な形に組み替えたのが馬祖道一で(※『禅家語録』には馬祖の語録はない)、さらに学問的に整理して経典によって理論付けたのがその弟子の大珠慧海であった。

こうした禅の系譜に基づき、その諸思想を結実させたのが黄檗希運である、と本書からは感じる。その言葉は、論理的かつ直截的であり、また教育的である。禅思想の概論として、本書以上に簡潔かつ明解なものはないだろう。しかし逆に言えば、黄檗自身には独自の思想というものはないように思われる。いわばそれまでの禅思想を集大成し、普遍的な形にまとめたのが黄檗であると言えるかも知れない。

もちろんそれは本書がつまらないということではない。非常な名言が次々に飛び出すとても面白い本だ。例えば次のような言葉がある。
  • 「あらゆる仏と、一切の人間とは、ただこの一心にほかならぬ。そのほかのなんらかのものはまったくない」
  • 「偉大なる菩薩たちが顕現する徳も、実はわれわれ人間にはみな具わっている」
  • 「もともと法というものは一切ないのであり、そんなものの幻想から離却することがむしろ法なのである」
  • 「仏も衆生も、みな君の虚妄の見が作ったものだ」
  • 「山河も大地も、日月も星辰も、すべて君の心の外にあるのではない。三千世界はすべて君という自己にほかならぬ」
  • 「いま大事なことは、あらゆるとき、あらゆる機会に、日常の行住坐臥の一つ一つのうちにひたすら無心を学び、ものを分別することなく、ものに寄りかかることもなく、ものに執着することなく、日ねもすのほほんとして成りゆきにまかせ、まるで阿呆のように生きてゆくことだ」 

本書はこのようにエキサイティングと言えるほど生き生きした禅籍であるが、この完成度があるだけに、却って一抹の不安すら抱かせる。それは、禅思想がここで完成の時を迎え、これ以降は衰退——と言って悪ければ「固定化」——するのではないか、と感じさせるからだ。実際、後代の禅はいわば「訓詁学」となっていく。

ちなみに、『黄檗伝心法要』は北条顕時が来朝僧大休正念に命じて弘安6年(1283)に出版させており、これが日本における禅録流布のはじめとされている。その詳しい事情はわからないが、本書は日本における禅録出版の第一号にふさわしい重要なものである。

しかし異常に(?)行動的な『臨済録』や、衒学的な『碧巌録』、そして意味深長な詩偈など、トリッキーな禅籍が流行するようになると、地味な講義録である本書はさして重要でないものと見なされ、顧みられなくなった。しかし後代の後知恵で評価すれば、『黄檗伝心法要』こそ禅思想そのものとして受け取るべき第一の書であったのである。

初期禅思想の到達点。

2020年4月9日木曜日

『頓悟要門』平野 宗浄 訳(西谷啓治・柳田聖山編『世界古典文学全集36A 禅家語録 I』 所収)

頓悟の理論書。

禅には北方で行われていた禅(北宗)と南方のそれ(南宗)があるが、『六祖壇経』の六祖こと恵能(えのう)の弟子荷沢神会(じんね)が、
北宗は漸悟——長い修行の末に悟る
南宗は頓悟——すぐさま悟る
だと決めつけてから南宗の独走となった。

そしてそれを新しい角度から発展させるのが馬祖道一である。馬祖道一は優れた弟子を多く輩出し、神会の一派(荷沢宗)をしのぎ後の臨済宗へと発展して行く。そんな馬祖道一の弟子の中でも第一の学匠だった大珠慧海が馬祖の禅を理論化したのが本書である。

本書は上下に分かれており、上巻は大珠による頓悟の理論書である。理論展開としては、問答の形式により、「○○はこうである。なぜなら××経にこのように書いているからである」、または「××経には○○とありますが、これはどういう意味ですか?→それはしかじか」とする形が多い。禅の語録は数多いが、このように禅の教義的根拠を明らかにした著作は少ない。ここには後代の禅のような韜晦な「禅問答」はなく、経典を参照して自らの考え方を明解に述べるという学問的態度が禅籍として実に新鮮である。また、本書では様々な経典が参照されており、禅の立場は特定の経典ではなく、それの「読み方」に依拠するものだったことを感じさせる。

下巻は大珠の語録(言行録)である。上巻の方が禅の歴史において意義深いのかもしれないが、私にとってはやや間怠っこしい。一方、下巻は具体的な問答であるため生き生きしており読んで面白い。元々の大珠の著作は上巻(「頓悟要門入道論」)のみであったが、それに下巻の言行録をセットにしたのは妙叶(みょうきょう)という僧であった。これは『頓悟要門』の普及に役だったと思う。

さて、そんな『頓悟要門』における大珠の主張を一言でいえば、「心こそが仏である」ということになるだろう。そして「究極はそなたのみ」なのだ。「その本性はもともと清浄であって、修行をする必要はない。証を立てたり修行したりという方法を取るものは、思い上がった人間と同じである」という。このあたりは、日本の盤珪禅師の「不生禅」(人は産まれながらに必要なものは全て備わっているという悟りの禅)を思わせる。

しかし同時に「心すらも幻である」と付け加えるのが大珠らしさかもしれない。大珠にとっては地獄も実在のものではなく、心が生みだした幻にすぎない。この世の中には実在的なものは何一つなく、あらゆるものは幻であり、自分が拠り所にするべきなのは自分の心(精神作用)以外は何もないのである。それ(心)が幻だったとしても! このあたりの論理は、ちょっとデカルトの『方法序説』にも似ているところがある。

ところで神会の禅は「煩悩即涅槃」のように、「煩悩があることを肯定することで、それが即ち悟り(涅槃)の世界となる」といった認識の問題を中心に据える。認識一つで悟りの世界にいけるから「頓悟」なのだ。一方、大珠の禅もそうした面はあるが、「心を清浄に保て」といった修養の性格もかなり持っている。大珠の「頓悟」は認識を変えるための方法論を「心」にフォーカスして述べたものといえるかもしれない。

禅籍としては稀なほど学問的に書かれた頓悟の教科書。


【参考文献 読書メモ】
『六祖壇経』
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/01/36a-i.html
唐代の禅僧、恵能の言行録。
内容は歴史的事実ではありえないが、創作的人物としての恵能の言説が魅力的な本。