2021年8月30日月曜日

『岩石を信仰していた日本人―石神・磐座・磐境・奇岩・巨石と呼ばれるものの研究―』吉川 宗明 著

日本における岩石信仰について整理する本。

岩石信仰とは、「岩石を用いて霊を信仰した信仰体系全般を指す(p.76)」。 つまり岩石そのものを神とみなしたり、岩石が神の依り代となったりする信仰だけでなく、祭祀の中で石が使われたり、特に石を神聖なものとみなしていなくても特別な役割が与えられている場合をも含め、著者は岩石信仰と呼ぶのである。

著者は、岩石信仰を体系的に考察するための学問的基盤を作ろうとしているようだ。 

本書では、まずこれまでの岩石信仰の先行研究を整理する。この部分だけでも私には大変参考になった。本居宣長、柳田國男、折口信夫といった先駆者たちの業績、今では学界からは冷笑されているが当時は大きな影響を及ぼした鳥居龍蔵の巨石文明論、神社界から「イハクラ」を研究した遠山正雄、神道考古学を提唱し石神・磐座・磐境の概念整理をした大場磐男、その他民俗学や仏教学からの研究が手際よく紹介される。

そうしたこれまでの岩石信仰研究では、しっかりした学問的枠組みがないまま、自身が「見たいものを見る」式の研究が行われてきたきらいがあった。祀られている巨石をなんでも「 磐座(いわくら)」と見なしたり、それどころかたいして祀られていなくてもそれらしい岩を「 磐座だ」としてしまうようなところがあった。信仰とは外からは見えないものも多いので、研究者がそう言えば地元の人も「あの岩は磐座なんだ」と納得してしまう場合さえあったのである。

そうした反省に基づき、著者は非常に抑制的な態度で岩石信仰を見る。「巨石」とか「磐座」のような曖昧で価値判断を伴う概念を避け、ある程度はっきりと評価できる機能面に注目して岩石信仰を体系的に分類していくのである。

著者の分類では、A. 信仰対象、B.媒体、C.聖跡、D.痕跡、E.祭祀に至らなかったもの、という5つの大分類があり、さらにそれぞれが中・小分類に分かれていく。特にB.媒体は中分類・小分類・その細目があり、例えば「BABB.岩石の上に別の依代が置かれて祭祀される」とか、「BCA.神聖な空間や祭祀空間を示す岩石」といったような細かい分類がアルファベットを用いて規定されている。これは帰納的に作られた分類で、あまり信仰の内面に立ち入らないで構成されたものである。

もちろん全ての岩石信仰の事例がどれか一つのカテゴリに収まるというわけではなく、信仰はいろいろな性格を持っているのでBABB.でありまたBCA.である、といったようなケースも出てくる。そういう重複はありながらも、この分類は誰がやってもある程度似たようなところに決まってくるもののように感じた。けっこう優れた分類である。

ただし、この分類法の欠点は、BABB.とかBCAというようなアルファベットの羅列がわかりづらいことである。もうちょっとわかりやすい表示の仕方はなかったのだろうかと思ってしまった。

それはともかく、このような分類作業を行ってから、ケーススタディとしていろいろな岩石祭祀の事例を提出し、またそれが分類のどこに当たるのかを考察している。先ほど「誰がやってもある程度似たようなところに決まってくる」とは書いたものの、実際には信仰・祭祀がどのようなものであったのかははっきりとはわからない。何しろ、岩石そのものに霊性を感じていたかどうか、というようなことは当時の人に聞いてみないとわからないことで、しかも聞いてみたとしても人それぞれの考えがあったかもしれない。よって著者は様々な状況証拠からそれを考察しており、優れた分類があるからあとは当て嵌めるだけ、というような作業ではないのも事実である。

そしてケーススタディの部分は、当然だが事例列挙的であって、やや行き先を見失いそうになる部分である。どのような意図で提出された事例なのか最初に書いてくれているとわかりやすかったかもしれない。しかしながら、このケーススタディによって、著者が強調する岩石信仰の「多様性」の一端を垣間見ることはできる。

全体として、著者の目的と思える「岩石信仰を体系的に考察するための学問的基盤づくり」は十分に達成している。大げさに言えば、本書は岩石信仰研究の上で画期的なものである。

ただし本書は、著者自身が言うように「木や水などではなく、なぜ岩石を信仰したのかという根源的な問いに対する回答を用意できていない(p.313)」し、岩石信仰は日本人に何をもたらしたのか? といった思想史的な部分についてはほぼ全く手がつけられていない。だが、こうしたより深い研究に移っていくための基盤の部分までで本書を終わらせたのは、物足りない感じがする一方で好感も持った。あくまでも学問的な姿勢を崩さず、安易に「岩石信仰とは…」と語らないのが本書のよさである。今後のさらなる研究に期待したい。

なお、岩石信仰の分類では、石仏・磨崖仏・墓石のようなものは対象外になっているようである。石で作られる祭祀の道具といえば誰でも真っ先に墓石が思いつくし、本書でも紹介される大護八郎『石神信仰』、五来重『石の宗教』などの先行研究でも、そうしたものが「岩石信仰」の中心をなしている。石仏などはあくまでも素材としての利用だからということで省いたのだろうか。どのような整理を行ったのか記述してもらいたかったところである。

岩石信仰に学問的基盤を与えた画期的な本。

【関連書籍の読書メモ】
 『石の宗教』五来 重 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/05/blog-post.html
石仏を民間宗教の側から読み解く。石仏の奥にある、石自体の神聖性に着目した刮目すべき本。

 

2021年8月29日日曜日

『日本の歴史(9) 南北朝の動乱』佐藤 進一 著

南北朝時代がいかに始まり、いかに終わったかを述べる。

本書は、川添昭二(中世の九州を専門とする歴史学者)により「まさに完成された芸術作品をみる思いである」と評されたもので、南北朝の動乱を多角的に描き、その学問的骨格を与え、その後の南北朝史研究を触発した名著である。

確かに記述は平易であるにもかかわらず分析は深く、ややこしい南北朝時代を生き生きと描いている。が、私自身がこの時代にあまり詳しくないこともあり、とても内容が頭に入ったとはいえず、本を読み終わった今でも「一知半解」というのが実感だ。

というわけで、以下はその「一知半解」のメモである。

南北朝の動乱とは、大まかに言うと室町時代のはじめの方で、後醍醐天皇の「建武の新政」が瓦解してから、皇統が南朝・北朝に分かれて、それが再び統合されるまでの約60年間の動乱を指す。なぜそのようなことが起こったか?

後醍醐天皇は反鎌倉幕府の勢力をまとめ、1333年、幕府を打倒して天皇親政国家を樹立した(建武の新政)。その勢力の一人だったのが足利高氏だ。高氏は後醍醐天皇の名(尊治)から一字もらって「尊氏」に名を変えたのである。

しかし建武の新政はすぐさま瓦解する。後醍醐天皇が、異常なまでに天皇一極集中の政体を作り、法と慣習を無視した政治を行ったからだ。一方で、尊氏は庄園領主(これは今の言葉で言えば既得権益層とでもいえるかもしれない)の権限を認める保守的な考えを持っていたから、後醍醐の新政を歓迎しない勢力が靡くようになり、それを基盤として独自の権力を行使し始めた。それを反逆とみた後醍醐は尊氏討伐に打って出たが、激しい戦いの後に敗北した。

尊氏は後醍醐天皇と講和し、光明天皇(持明院統)を擁立。ところが、講和したはずの後醍醐は「そちらに渡した三種の神器は偽器(ニセモノ)である」といって、自らが正統な天皇であることを主張、吉野に潜行して独自の政権(南朝)を打ち立てたのである。元々、鎌倉時代の後半から、天皇家は持明院統と大覚寺統に分かれて交互に天皇を擁立した(両統迭立)のであるが、後醍醐がこの無茶をやったお陰で持明院統と大覚寺統が完全に分裂し、北朝と南朝となるのである。

足利尊氏は、後醍醐のように明確な支配のイメージは持っていなかったように見受けられるが、弟の直義と権力を二分する両頭体制で政権を樹立(著者はそれを「建武式目」制定の時に置く)。 南朝が政権を奪還すべく果敢に攻勢してくる中、徐々に政権は整っていった。そして延元4年(1339)、後醍醐は12歳の後村上天皇に帝位を譲り亡くなった。1333年から僅か6年間。その間に護良親王、楠木正成、北畠顕家、新田義貞ら南朝の武将の多くは死んで、武家=北朝方の優位が確立するかに見えた。

が、動乱はまだ始まったばかりだったのである。

それは、南北朝の動乱は、単に権力奪取のゲームであったのではなく、その背景に様々な時代の変化が内包されていたからだ。特に武士の在り方がいくつかの点で鎌倉時代とは変わっていった。

第1に、鎌倉時代には御家人としてまとまっていた武士のまとまりがなくなった。それは、鎌倉幕府倒壊によって主従関係が解消されたからである。もともと武士は傭兵である。武士たちは誰を主人にしてもよかった。足利尊氏は征夷大将軍に任命されていたが、「征夷大将軍」とは象徴的な官名であるだけで、全国の武士には尊氏に従う義理はなかった。

第2に、そういう状態であったから、武士はより有利な条件を求めて分裂した。これはもちろん保険の意味もあった。南朝と足利政権のどちらが勝ち残るかわからないからだ。政治状況次第で武士団は分裂し、武士団が分裂することによってさらに政治が複雑になった。

第3に、武士の相続が、分割相続から単独相続になっていった。鎌倉時代の武士は所領が各地に分散していたが、これは動乱の時代には維持しきれなくなる。いつでも見張っていなければ横領の危険があったからだ。自然と所領は本拠地の一箇所になっていく。そのため、兄弟に分割する余裕はなくなり、単独相続に変わっていくのである。こうして、惣領制から家督制(←この用語は本書にはない)へ徐々に移行していくことになる。

第4に、戦い方も変わった。それを象徴するのが徒歩(かち)武者=歩兵の登場である。鎌倉時代の武士は騎馬武者であって一対一で戦うものだったが、南北朝時代には既存の、いわば「古き良き」戦いかたではなく、悪党的なゲリラ戦法が中心になってくる。そして槍が武器として使われるようになるのもこの時代である。集団的な戦い方、殲滅戦になってくるのである。

このような武士の変容を背景にして、足利尊氏と直義の争いである「観応の擾乱」が起こる。

もともと室町幕府は、尊氏は直接には政権運営を行わず、高師直(こうの・もろなお)を執事として、実務を直義が担う体制になっていた。

直義は日野有範(儒学を家業として王朝に使えた家)を幕府政治に参与させるなど儒教思想を好み、性格は誠実・真面目で、夢窓疎石との対話『夢中問答』でも有名なとおり仏教教理にも明るかった。

一方の高師直は、仏神や天皇を含め既存の権威を全くみとめず、合理性を至上とした、全く違ったタイプの執政官であった。この二人は当然のように対立し、武士団が二人を筆頭に分裂していくのである。

こうして、鎌倉幕府的な秩序の存続を願う勢力が直義に、それと反対の破壊勢力が師直=尊氏につき、さらに南朝がそれに加わって、「天下三分の形勢」にいたるのである。観応の擾乱は、高師直と足利直義が共に没落して決着し、尊氏の覇権が確立するものの、尊氏の非嫡出子で直義の養子になっていた直冬が新たな勢力となって「天下三分の形勢」は続く。

そして観応の擾乱後、またしても南朝が奇策を弄する。北朝から三上皇と廃太子を拉致したのである。こうして北朝は天皇不在の異常事態に見舞われる。皇位を与える資格がある上皇すらいないのだから、北朝としては天皇を新たに立てるのも不可能になった。天皇不在の王朝はありえないため、自然と北朝は解消されると南朝は考えたのだろう。

ところが北朝は、これを常識外れのウルトラCによって克服する。広義門院が上皇の代わりとなって神器の代わりに神鏡の容器(小唐櫃)をつかい、後光厳天皇を擁立したのである。広義門院は後伏見天皇の妻で、また花園天皇の准母(名義上の母)であったが皇族ですらない人物だ。北朝は苦し紛れにありえない方法で天皇を擁立したため、天皇の権威低下は避けられなかった。

14世紀後半、畿内では南朝が低調になった一方、九州では南朝方が興隆する。それには、延元元年、8歳で征西大将軍になりたった12人の従者とともに九州に下向した懐良親王が関わっていた。九州では、郡司系の土豪が守護からの圧迫に耐えかねて南朝に帰属したのである。九州には筑前の少弐、豊後の大友、薩摩の島津という強大な守護がいたため、これに対抗するために「敵の敵は味方」方式で土豪たち(鹿児島では「国人」という)が南朝についたのである。

また、足利直冬も九州に移り、少弐頼久に迎えられて幕府党が直冬に応じたため一時は強大な勢力となったが、直冬はやがて南朝に転じて影響力を失うこととなる。ちなみに少弐頼久が直冬を迎えたのは、全九州の軍事指揮官=鎮西大将軍である一色道猷を排除しようとした思惑があったようだ。九州でもいろいろな勢力が競い合うことで「天下三分の形勢」が出来したのである。

ところで、南朝の最高指導者にあたる立場だったのが北畠親房(ちかふさ)である。彼は『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』を著し、王朝の絶対性を主張することで武士を説得しようとした。彼の論は、武士に対し南朝に帰順する利益(官位がもらえるとか)を説くものではなく、利益を度外視して王朝に尽くせという主張だったので当時は形勢を変える力を持たなかったが、むしろ後世に影響を与えた。

文和4年(1355)、幕府は三度の京都奪回に成功してほぼ勝敗の帰趨が明らかになった。ここからは天下三分の残した課題に答えようとする幕府の苦闘の歴史となる。延文3年(1358)、尊氏は死んで、その子の義詮(よしあきら)の時代となったが、同年、義詮に男子が産まれる。南北朝動乱を終わらせる足利義満の誕生であった。

幕府の苦闘は、第1に政権の組織をどう組み立てるのかということと、第2に庄園領主と武士(守護)間をどう調停するかということに主眼があった。

第1の点は、両頭政治によって混乱したことの反省を踏まえ、権力を一元化することが図られた。具体的には、執権の在り方が変わった。執権はかつては将軍の補佐官・秘書であったが、幕府は執事の地位・権限を強化し、幕府の支配機構を一元化した。これによって執権は「管領」となっていった。これは今風に言えば官房長官のようなものになったのだと思う。

第2の点は、そもそも南北朝の動乱の根っこにある問題だった。それを象徴するのが、「半済(はんぜい)令」である。これは、庄園・国衙領の年貢の半分を守護が兵粮米として徴集できる法である。長引く戦争の費用を捻出するために守護は税金の5割を取ったのである。「半済令」の問題は、幕府は全国に領域的支配権を確立していたわけではなかった、ということにある。

つまり本来的には幕府の支配領域ではない国衙・庄園に守護が税金をかけていた。庄園領主、すなわち寺社がこれに反対するのは当然である。しかし戦乱が続く限りその費用はどこからか出さなくてはならない。守護職には所領が付属していたとはいえ、所領と遠く離れた戦地で全ての戦費を弁済するのは難しかったので、寺社勢力と対立してでも各国で「半済令」が乱発された。

本書には詳らかでないが、もしかしたら守護の収支を考えてみると、戦乱が続いて「半済令」が適用できる方が利益になったのかもしれない。戦時の特別税である「半済令」を使えるよう、むしろ守護は戦乱の収束を願わなかったのかもしれないと思った。

それはともかく、「半済令」はあくまでも戦時の特別説である。よって幕府の覇権が確立し、戦乱が収まってくると幕府はそれを禁止した。つまり幕府は寺社を保護し、守護以下の武士の抑圧したのである。ではなぜ幕府は同胞である守護ではなく、むしろ社寺を保護したのか。

それは、庄園領主=寺社本所と守護勢力の均衡の上に幕府が成り立っていたからである。この二つの勢力がせめぎ合い、そしてそのバランスを取ることに幕府の存在価値があった。守護が強くなりすぎるのも困るのである。

もともと、「守護」とは一国の軍事指揮官であり、幕府はそれを吏務職(りむしき=役人)化したかった。直義は「国を治める能力があるものが守護を務めるべきで、恩賞として守護を与えるべきではない」と至極真っ当なことを言っている。

一方で守護の方では幕府から独立した勢力を打ち立てたかった。しかし守護というのは一国の運営全てを担うのではなくあくまでも軍事指揮官である。つまり領域的支配権(土地の支配権)があるわけではない。よって土地の実権を持っている庄園領主を徐々に圧迫する形で統治権を広げて行った。守護は庄園制に寄生したといえばいいのかもしれない。そして本来は国衙(国司)が持っていた国検(検地)の権利も守護が奪取したものと見られる。こうして、国衙領や国衙の実務を守護が奪うことで、一国の主としての守護の支配体制が出来上がっていった。それを「守護領国制」と呼ぶ。

よって第2の点、庄園領主と武士(守護)間をどう調停するか、ということについては、幕府は庄園領主を保護する政策を行ったものの、結局は守護の力が自然と強くなっていったということになる。1360年代が守護領国制にとっての画期であり、応永(1394〜1428)あたりには守護職は一家相伝のものに変質してしまった。ちなみに国司は自然消滅したようだ。

なおこの時代、庄園の在り方も変わっていった。多くの庄民が寄合に参加する庄民結合あるいは村落結合が出現する。少数の支配者が村落を治めるのではなく、庄民の結合が庄園=村の実体となり、それが法人格的に扱われるようになったのである。

このように多くの変化を内包しつつ、足利義満の治世になって、南北朝の動乱は終結する。

義満は、管領・侍所・直轄軍をそれぞれ将軍直属にするなど幕府の権力を将軍に一極集中させた。また奉公衆(将軍直属の高位の武士)を将軍の直轄領の代官にする制度をつくるとともに、将軍家を頂点とする家格の固定化を行った。

また、衰微していた南朝と和睦し、実質的には吸収合併に近い形で南朝を接収した。

義満は王朝に強い関心を示しており、早くから異常な早さで官位を進めて太政大臣に昇りつめ、しかもそれをすぐに辞任した。義満は無力な公家をバカにしていたらしいが、それと距離を取るのではなくて、公家のルールを逆手にとって形式的にその上位に立つという老獪さを持っていた。義満はさらに出家によって聖俗の身分を超越し、武家・公家の上に超然と立つ立場へ自らを置いた。義満は自らを天皇に擬していた。

そして、統治の最後の仕上げが九州の統一であった。この頃の九州は、管領・細川頼之によって九州探題として派遣された今川貞世(了俊)が九州を制圧する勢いだったが、守護たちとの諍いによって混乱している中でもあった。九州が中央にとっての大きな政策課題になっていたのは、九州は対中国貿易の窓口となっていて、その実権を奪い合っていたからで、事実、今川了俊はこの時期に盛んになっていた倭寇=海賊衆の力を借りていたのではないかという。

しかし、1368年に成立した明は、自由貿易を禁止して朝貢貿易のみに一本化する政策を実施(1371年、海禁令)。義満としては自由貿易か対等な形での貿易を行いたかったようであるが、明がそのような方針である以上、明に朝貢するという臣下の礼をとる以外には貿易ができない。そこで義満は今川了俊を解任、それによって大内義弘が力をつけて反乱を起こしたがそれを鎮圧。このように九州を直接平定し、応永8年、明帝に臣下の礼をとった。

そして明は、天皇ではなく義満を「日本国王」と認めたのである。これは対外的にはもちろん、国内へ向けても、義満が完全な支配権を確立したことを明のお墨付きで示した画期的なことだった。このようにして室町幕府の覇権が確定したのである。

南北朝の動乱全体を通じて私が感じたのは、武士の支配にあたって問題を複雑化させたのが「所領給付」にあったのではないかということだ。そもそも鎌倉幕府の成立にも所領の問題が大きく関わっているのであるが、鎌倉幕府がなくなってしまったことでその問題が蒸し返された観がある。所領が武士の働きの見返りである以上、戦乱が起こればかならず土地が必要になる。一方で、幕府は土地の支配権の獲得によって成立した統治機構ではない(「征夷大将軍」という軍事指揮官としての統治機構である)ので、そこにどうしても矛盾が生じるのである。

しかもこの時代、幕府の財政の中心は土地からの年貢ではないようだ。そもそも守護は別として、幕府自体は年貢をとっていないように見える。幕府は、営業税や貿易による利益、つまり商業を手中に収めることで収益を得ているような感じである。だから守護以下の家臣団と幕府の双方の思惑は、何かちぐはぐな感じがぬぐえないのである。

そうした考察は本書にはないので私の勘違いなのかもしれないが、幕府と家臣団の双方の財政構造はもうちょっと詳しく知りたいと思った。

南北朝時代の優れた概説書。

 

【関連書籍の読書メモ】
『観応の擾乱—室町幕府を二つに引き裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』亀田 俊和 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/03/blog-post_8.html
観応の擾乱を丁寧に解きほぐす本。『南北朝の動乱』とは違った視点で足利尊氏を描いている。

『中世奇人列伝』今谷 明 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/12/blog-post.html
中世における、知られざる6人の小伝。広義門院による天皇擁立というウルトラCについて詳しく述べており非常に面白い。

『寺社勢力—もう一つの中世社会』黒田 俊雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/09/blog-post_13.html
中世における寺社勢力の勃興と衰退を述べる。寺社勢力が公家・武士と並ぶ権門であったことを明らかにした名著。

『中世薩摩の雄 渋谷氏(新薩摩学シリーズ8)』小島 摩文 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/06/8.html
中世の渋谷氏に関する論文集。南北朝時代の鹿児島の状況に詳しい。