2023年12月31日日曜日

『日本人の他界観』久野 昭 著

日本人の他界観をエッセイ風に考察する本。

日本人は、どのような他界観を抱いていたのだろうか。他界には「死後の世界」と「異界」の二つの意味がある。これは概念的には全く別であるが、その二つは重なっていた。本書は、古代までの他界観の変遷を述べて、日本人の他界観を考察するものである。

日本の神話にはスサノオが黄泉の国に行く話がある。黄泉の国は死体が腐り蛆が湧く汚い場所で、スサノオはイザナミの死体に恐れおののいて急いで黄泉から戻ると、その穢(けがれ)を禊ぎで洗い流して黄泉の国との絶縁を完了した。どうやら神話の中では、黄泉の国は、簡単に行き来できると考えられていたようである。

この神話は、明らかに古墳の石室がモチーフとなっており、一見、古墳時代からの他界観を受け継いでいるようにも見える。

しかし装飾古墳(石室内に絵が描かれた古墳)の絵には、船の絵や舟形の埴輪が出ているから、古墳時代には、異界は海の向こうという認識があったのだろう。しかし黄泉の国は明らかに地上と地続きである。奈良時代に他界観に変化があったのか、それとも古墳を作っていた人々と神話を作った人々が別だったのか、いずれかである。

平安時代になると、死体が強く忌避されるようになったためか、鳥葬や風葬が普通になった。そこに他界観の変化を伴っていたかどうか、本書には詳らかでない。

著者が日本人の他界観を探るのに取り上げるのは、浦島伝説である。浦島伝説は、神話の「海幸山幸」を原型として様々なバリエーションが各地に残されているが、そこに描かれた他界=竜宮(海神の宮)は、財宝に満ちた理想郷であることと、現世と時間の進み方が違うことが共通している。そしてその理想郷が、道教的な要素を持っているということは注目される。

例えば『日本書紀』(雄略天皇22年)にある浦嶋子伝説では、浦嶋は海に入って「蓬莱山(とこよのくに)」に着き、「仙衆(ひじり)」に会う。『丹後国風土記』でも浦嶼(うらしま)の子が「蓬莱(とこよのくに)」「仙都(とこよ)」に行く。ここでの異界は明らかに神仙思想の影響を受けている。『古事談』に掲載された『浦嶋子伝』『続浦嶋子伝記』は、中国六朝時代後半に成立した道教経典『金庭無為妙経』『度人上品妙経』などの影響があるという。

日本人の異界観で「黄泉」の次に出てくるのが「常世(とこよ)」で、これは海の彼方にあるというイメージとともに、道教的な装いがある場所なのだ。では、常世は外来の概念なのか、それとも古墳時代からの海上他界を引き継ぐ概念なのか。本書では特に考察されていない。

平安時代には、山岳信仰も盛んになったが、そこでは山中他界が盛んに喧伝されていた。山中には数百歳の仙人が住み、そこでは不思議な能力を身につけることができた。ここでも神仙思想の影響が濃厚だ。だが、中国の神仙思想と決定的に違うのは、日本人は不老不死にあまり関心がなかったことで、山で修行した人々も、不老不死を希求していた形跡はない。古代以前には日本人は山に墳墓をつくり、また古墳も山になぞらえたものであると考えられるが、その他界観と山岳信仰の山中他界は接続するものなのかもしれない。

8世紀に入ると、火葬が貴族の間に普及してくる。すると野辺の煙が魂を思わせるものとして認識されたのではないかという。煙が空へ上ることも、山中他界のイメージに沿うものとして受け取られたかもしれない。

平安時代には、仏教的な他界観も浸透する。輪廻転生や六道四生である。六つの世界を生まれ変わりしながら、永遠に輪廻するという世界観で、その六つの世界の中で、特に日本人が強くイメージしたのが地獄であった。末法思想の中で、浄土に生まれ変わることは難しいと考えられたこともあり、人々は堕地獄を恐怖した。源信は『往生要集』で地獄の凄惨なさまを異常に力を込めて描き、極楽と対比させた。

こうして、死後の世界は急に具体的イメージを持って迫ってきた。例えば、人の寿命を司る泰山府君という神がいるとか、生前の罪を裁く閻魔大王がいるとかである。これらはいうまでもなく中国から伝わった概念であるが、日本人はそういった他界観をさしたる抵抗もなく受け入れているように見える。黄泉か地獄か、といった二者択一的な疑問は誰も抱かなかったらしい。

そして当然ながら、人々は地獄に落ちることを避け、浄土を希求した。本来の輪廻転生の考え方では、畜生道とか阿修羅道もあったのだが、それは理論的には存在しつつも、輪廻転生を超えた浄土の世界と、六道の一番下である地獄が他界の代表となっていった。 すなわち、地獄と浄土の二本立てが、日本人の他界観として確立したのである。

本書は全体として、大変文章がうまく、非常にすらすらと読むことができる。一読してなるほどとわかった気になる本だ。しかしながら、よく読んでみると展開があまり論理的ではなく、海上他界、山中他界、神仙思想などがバラバラに扱われているだけで、どうつながるのか、つながらないのか、曖昧な記述が多い。ちょっと厳しい言い方をすれば、著者の思う他界観に合うように事例をピックアップしてきたという感じを受けるのである。

その曖昧さは、他界を「死後の世界」と「異界」で都合よく使い分けていることに原因があると思われる。「死後の世界」としての他界を述べるならば、古墳時代から平安時代までの葬送の変化を述べざるを得ないが、そういう作業を本書はしない。その代わりに「浦島伝説」のような「異界」を述べて「黄泉」からの中継ぎとし、やはり「異界」である山岳信仰の「山中他界」を媒介して「浄土」へ至るのである。これはストーリー的にまとまってはいるが、「日本人の他界観」の歴史としては成立していないと言わざるを得ない。

興味深く読み応えもあるが、日本人の他界観を論理的には考察していない惜しい本。

【関連書籍の読書メモ】
『畜生・餓鬼・地獄の中世仏教史—因果応報と悪道』生駒 哲郎 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/blog-post_6.html
中世の畜生・餓鬼・地獄の世界観について述べる。事例紹介的で「中世仏教史」は名折れだが、中世の悪道の軽重を知ることができる手軽な本。

★Amazonページ
https://amzn.to/3H2IRRa

『本地垂迹』村山 修一 著

本地垂迹を中心として神仏習合について述べる本。

本地垂迹とは、本地たるインドの仏が、日本に神として垂迹(すいじゃく)したという理論である。その淵源は法華経寿量品にある文で、そこでは久遠実成の釈迦を本地とし、歴史上の釈迦が垂迹とされている(ただし、本書には書いていないが、法華経の本文に本地や垂迹の文字はない)。

また僧肇は『註維摩』で、「本に非ずして以て跡を垂るる無く、跡に非ずして以て本を顕わす無し」と述べ、智顗は本迹関係を体系的に分類し考究している(『法華玄義』)。ただしここでいう本迹は日本の本地垂迹とは違い、仏の本体を本地とし、その顕現を垂迹として捉えるもので、譬えるなら、本地とはプラトン哲学のイデアのごときものであった。

中国では仏教の受容にあたって道教・老荘思想が媒介の役割を果たしていた。仏教は中国においてすでに神仏習合的風潮があった。

こうした基盤の上に、本書では古代日本の仏教受容について述べているが、戦前の史学を基礎としているためにやや学説は古い(日本書紀の記述を史実として扱っているなど)。ともかく、仏教受容の初期から神社への神宮寺の建立、神前読経などの神仏習合が進んだ。特に八幡神は習合的な性格を強く持ち、神仏をうまく使い分けて国家との深い関係を樹立した。

なお、承平年代(931〜938)に大宰府から筥崎宮(八幡)に出した宝塔造立を命じる牒状に「彼宮此宮その地異なりと雖も権現菩薩垂迹猶同じ」とあり、これが権現思想の初出であるという。

神仏習合思想に影響したものに、御霊信仰がある。怨みを持って非業の死を遂げた人物が神になり、祟りをもたらすという考えである。 この頃、政治的失脚者が続出する情勢となっていたことがその背景にあった。そして災害や天候不順は怨霊のせいであるとされ、怨霊を鎮めるために読経や造寺が行われた。またこの時期に頻発した疫病も怨霊の祟りと結びつけられた。それらは民衆側からの自然発生的な考えだった。そこには、政争の結果として災害や疫病が起こったのだ、という悪政への批判が込められていたのかもしれない。朝廷もこれを無視しえず、貞観5年(863)には合同慰霊祭ともいうべき大規模な御霊会を京都神泉苑で開催した。

御霊信仰によって、神となった怨霊を仏教によって慰めるという形式が確立するとともに、それまでの自然神に替わって、人格神的なものが登場したのである。神仏習合のみならず神祇観念の転換としても御霊信仰は重要だ。

さらに、御霊が特定の政治的敗者ではなく、疫病を起こす神として表象され、陰陽道や宿曜道の影響の下に生まれたのが牛頭天王とそれを祀る祇園天神堂(観慶寺感神院)である。これはやがて天台座主良源によって延暦寺末に取り込まれる。祇園の御霊会では民衆は熱狂的に盛り上がり、藤原道長が祇園社での奇抜な見世物を停止させる宣旨を出すと、神は怒りの託宣を出し、果たしてその夜内裏が全焼。朝廷は祇園社を含む4社へ陳謝の奉幣を行った。民衆が朝廷に勝利したのである。良源はこのエネルギーを欲しがったのかもしれない。

祇園社には牛頭天王だけでなく雑多な神が祀られ、蛇毒気神・八王子・大将軍といった神もあった。牛頭天王も異形の神であるが、民衆は恐ろしくて力のある、降魔的な神を求めていた。

天満天神(菅原道真)もそうして生まれた神である。その背景には、沙門道賢の『冥途記』もあるという。これは道賢が死んで幽界へ行き帰ってきた記録で、その中には幽界の王として威徳天=道真も出てくる。道真の霊は、怨霊から威力のある神に変質し、さらに文道詩作の神へ変わっていくのである。

ところで、御霊信仰の成長期は修験道の形成期にもあたっている。修験道は、仏教と山岳信仰が習合したもので、特定の教祖がいるのではなく、僧侶や貴族たちの自然発生的な信仰から生まれた。摂関期には金峯山参詣、いわゆる御嶽詣が流行し、道長が寛弘元年(1004)の御嶽詣で行った納経は有名である。なお、修験道の主尊というべき金剛蔵王権現については、当初「金剛蔵王菩薩」として登場する(例えばさきほどの『冥途記』)。これがいつ「権現」になったのか。これは本地垂迹思想の解明にとっては重要だが、本書には記載がない。ともかくやがて金剛蔵王は釈迦の垂迹、熊野十二所権現は弥陀・薬師・観音・大日等の垂迹であり、山は浄土であるとみなされるなど、山の神たちはことごとく本地が定められて垂迹思想の中に吸収された。

院政時代には、個別具体の本地仏が次々と定められて本地垂迹説はほぼ完成された。これによって、神の世界の父・母・子などの関係が仏の世界の脇侍・眷属・護法神に置き換わり、本地仏の特色による霊験などが強調されるなど、神格がよりありがたいものへと変わった。特に護法化・眷属化された神祇には降魔的性格が付与されているのは注目される。

本地垂迹思想は、いわゆる鎌倉新仏教にも受け入れられ、日蓮宗に至っては神祇信仰との習合を積極的に理論化した。しかし日蓮の本地垂迹説は、すべての本地が久遠実成の釈尊であるとしつつ、神祇は釈尊以外の諸仏・天などと同様に扱われるなど特徴がある。また彼は日本から神祇は去ったと考え、一時は神祇不拝を主張した。しかし日蓮後には、神祇がかわるがわる法華経を護るという三十番神の思想が確立した。日蓮宗は神仏習合的ではあったが、本地垂迹的な要素は少なかったように思われる。

鎌倉新仏教の中では、臨済宗も特徴的である。臨済宗は権力者の庇護を受けたために民衆的な習合思想に迎合する必要はなかったが、詩文を大切にしたことから天満天神が聖神として祀られるようになり、これを媒介にして神祇信仰との融和が進んだ。そして儒仏一致の思潮から神儒一致の風潮を生じ、近世儒家神道興起の遠因となったのである。

さらに本書は、「縁起譚と習合文芸」と題して、いわゆる「縁起物」について述べている。この内容は類書には少なく、本地垂迹説とは何かを考えるのに大変参考になる。

縁起物は、神社の由来等の物語であるが、これは本迹関係成立に至るまでの(空想的)歴史を述べるものとなっており、「地獄や兜率天のごとき現世から遠くかけはなれた異郷の展開は空間的・時間的遠隔感を信者に与えることによって本迹関係の偉大さ、ひいては神秘的ありがたさを強く印象づける結果(p.216)」をもたらした。本地垂迹説は、荒唐無稽なるがゆえに、かえって神祇の不思議さありがたさを強調したのである。

縁起物の中でとりわけ大きな影響を与えたのが『神道集』である。著者は安居院(あぐい)、成立年代は文和3年(1354)~延文3年(1358)の頃と考えられている。『神道集』の内容は(1)神道論的なものと、(2)本地垂迹を縁起的にとくもの、の2種で構成され、(1)においても諸経を引用して「和光同塵」を主張。天神七代・地神五代の歴史を述べながらも、本地垂迹思想によって神道の由来を説明している。

(2)では、例えば『上野国児持山之本縁譚』の話は面白い。いわれなく流罪になるなど辛酸をなめた男女が神から「神道の法」が授けられ、「妻は群馬の白井保内武部山に児持明神としてあらわれ、(中略)本地如意輪観音となられ、和理(※夫)のほうは見付山手向に本地十一面観音の明神としてあらわれた(p.226)」という。この話の面白いところは、人間だった男女が神になり、事後的に本地仏が設定されているところで、「インドの仏が日本で神として垂迹した」という本地垂迹説から明らかに逸脱していることである。人間が神になるという発想は御霊信仰と似てはいるが、著者はこれを「人本神迹」と呼んでいる。

そしてこういう説話においては、もはや「ありがたい仏が本体であるから…」といった縁起ではなく、神仏がともに尊しとされており、本地関係はその尊さを増幅させる意味にしかなっていない。これらの説話は、人生の苦悩や悲哀と戦ってそれを乗り越えた人間が神になるという筋書きが、史実を無視した由来によって潤色され、「かえってそれが民間における無智な人々の真摯な信仰の姿を象徴(p.244)」している。つまり素朴な人間中心主義が本地垂迹説を援用して表現されているのである。しかしながら、これは現世的刹那主義へ傾く危険も内包していた。

さらに「神影図と習合曼荼羅」では、本地垂迹説に基づいて製作された神像や曼荼羅が述べられる。日本における最古の神像は仏像に近い表現であり、次に官人風の俗形となっていった。平安中期には図像表現が行われるようになったが、図像の場合は影向図などではっきりとは姿を描かないものがあることが注目される(例えば「春日明神影向図」)。仏の場合は姿を表現するのに、神ははっきり描かないという違いが面白い。さらに、八幡曼荼羅をはじめとし、神の世界が曼荼羅として表現されるようになった。

習合曼荼羅は、熊野曼荼羅のように仏教の曼荼羅的な構図もあるが、自然の風景が描かれているものも多い。そんな中で圧倒的な製作数があるのが山王曼荼羅。日吉社では多くの神が神仏習合理論によって複雑に体系化されたので、山王曼荼羅図も多様なものがある。これが大量に製作されたのは、天台の修法儀式に先立って山王諸神に供饌する「山王本地供」という修法の本尊として山王曼荼羅図が用いられたためである(景山春樹)。

他、室町末から江戸初期にかけて各地の社寺参詣が観光要素を含んで盛んになり、絵解きや名所図会式の曼荼羅が生みだされている。

本書はさらに「天台の神道」「真言の神道」「卜部家の神道」として、神仏習合によって生みだされた神道を概観している。

「天台の神道」では、『法華経』の本迹門を基調としつつ、摩多羅神、新羅明神、赤山明神など異形・異国の神も護法神として取り込み、玄旨帰命壇のような秘法も生みだした(元禄の初めに禁止されて廃絶)。天台座主公顕は「日本人は神祇に祈るのが仏に祈るよりよい」という神本仏迹立場を表明している。慈円にも「まことには神ぞ仏の道しるべ 跡をたるとは何故かいふ」の歌がある。宝地房証真はこうした信仰のごった煮ともいうべき状況を憂慮し、『三大部私記』30巻を著して文献主義に徹して本覚思想(=人も自然もあるがままで悟っているとの思想)を批判している。

しかし神本仏迹的な神仏習合の思潮は変わらず、天台の神道は『山家要略記』『耀天記』『渓風拾葉集』などで理論化された。それらの内容を簡約すれば、日本は大日如来の本国、諸神は仏であり、日本の国土自体が仏国土に重ね合わされ、北斗七星の信仰を通じて陰陽道が結合し、比叡山の神猿は釈尊の化身である…というような、まさに信仰のごった煮だ。さらに室町期になると『日吉本記』『厳神抄』『日吉山王利生記』など多数の文献が出た。信長の比叡山焼き討ちからの復興を成し遂げたのが生源寺行丸で、復興のための記録として『日吉神道秘密記』を書いている。これら天台の神道は、天海によって山王一実神道として公的なものとなった。

「真言の神道」は、金剛・胎蔵両界の曼荼羅の教説をもとに形成され両部神道と呼ばれる。広い意味では天台の神道もこれに包摂されるが、ここでは狭義で使う。両部神道の理論で早くに現れたのが『三輪大明神縁起』(14世紀初め)。この書では三輪寺が来訪した叡尊を肉身の釈迦と見なして、叡尊に寺を献じ大御輪寺と称している(有名な聖林寺十一面観音があった寺)。なお叡尊の影響下で三輪神道が成立したと本書にあるが、詳細不明である。ともかく三輪神と伊勢神は同体であるとか、三輪が本で伊勢が迹であるなどと述べているところを見ると、三輪神が伊勢神に対抗するために仏教理論を援用してできたものらしい。

同時期の『八幡愚童訓』では神国思想・神威高揚が企図されるとともに、板東八国は胎蔵界、九州は金剛界とか、釈迦・弥陀の本地は大日如来、といったように二重三重の本迹関係を作りだしている(はっきり言ってよくわからない)。

次は、伊勢神宮の関係を取り上げる。外宮関係で有名な「神道五部書」では、『造伊勢二所太神宮宝基本記』で「心は神明の主たり」「神々の加護をうけるには正直が何より根本だ」「神をまつるには清浄をもって先とし」とするなど(p.333)、それまでの神仏習合理論とやや違う毛色が感じられる。それは心のあり方を問題にしているのである。『孝子』や『礼記』などの中国古典、歴史や『日本書紀』などをやや無節操に使いつつ、陰陽五行思想や儒教思想をも用いて、雑多な理論で「心」を強調しているのが『宝基本記』である。

「神道五部書」を受けて制作されたと考えられるのが『麗気記』で、おそらく外宮祀官の手によるもの。ここではかなり理論が整理され、誰にでもわかりやすいものが志向されている。

内宮関係では、通海の『大神宮参詣記』がある。ここでも道教・陰陽道の信仰が援用され、両界曼荼羅を内宮・外宮に対応させるなどの理論が展開される。注目されるのは、伊勢神宮で仏教を忌み遠ざける習慣を批判しているところである。

こうした神道理論を一段と発展させたのが北畠親房の『神皇正統記』で、そこでは「儒教も仏教も超えた原始の世界に立ち帰る」ことを進めるなど、近代神道へ続く発想が生まれている。

「卜部家の神道」では、吉田神道が概観されている。吉田兼倶は『唯一神道名法要集』で神仏習合的な神道を否定し、自らの元本宗源神道(唯一神道)を称揚した。ここでは絶対無為の道教的な理想状態が措定され、その神道は天児屋根の託宣によっているとする。そして「三教枝葉花実説」を主張(神道が根で、仏教・儒教は花や実であるとする理論)。「唯一神道なるものは、彼がしりぞけた両部神道や陰陽五行説・儒家・道家の思想を根拠としたもの(p.357)」であった。

最後に、林羅山の神道が取り上げられる。彼は兼俱の子清原宣賢を通じて吉田神道を受け入れ、「理当心地神道」と呼ばれる神道理論を述作した(『本朝神社考』『神道伝授』)。そこでは、「心の外に別の神なく別の理なし、心清明なるは神の光であり、行迹正しきは神の姿である(p.368)」など宋学の心即理の考えをもとにした心学的性格が強く、これを王道に結びつけた儒本神迹的思想を展開した。彼の神道は尾張侯徳川義直に受け継がれ、『神祇宝典』に結実している。

著者はこれらの流れを総括し、「その理論構成は顕密両教・陰陽道・道教・儒教に、新たに伝わった宋学の説をも加えて煩雑極まりない習合説を形成し、本地垂迹説本体の姿はその跡かたをとどめないまでに変化した。それゆえ神と仏を対置してその本迹を論ずること自体あまり意味がなくなり、権実思想は権威を失ってついに本地垂迹説の宗教界における指導的地位に終止符が打たれた(p.371)」と結論している。

全体を通じて、本書は事例列挙的な部分が多く、やや読みにくい。本書の前半は辻善之助の神仏習合論(『日本仏教史 第1巻』)を明らかに下敷きにしているが、不思議なのは、辻がこだわった垂迹思想の始まりを(おそらくは)意図的に曖昧にしていることである。本書では、本地垂迹説は奈良時代以来の神仏習合の思潮から連続的に生まれてきたとされているが、それは本当なのだろうか。そして権実思想についても、本書ではその始まりを明確に書いてはいない。本書の問題は、「本地垂迹」を書名に掲げながら、本地垂迹の歴史を真正面から扱うことをせず、事例の列挙に終始していることである。

そういう問題はあるが、神仏習合事典として見れば、本書はよくまとまっているように感じた。特に近世の神道が心学的に変容していく様は、本地垂迹説との関連はともかく蒙を啓かれる思いだった。

本地垂迹説についての扱いは小さいが、神仏習合理論について豊富な事例で学べる本。

【関連書籍の読書メモ】
『吉田神道の四百年—神と葵の近世史』井上 智勝 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/03/blog-post.html
神道で有名な吉田家の近世史。平易かつ面白く吉田家の歴史的意義を理解できる良書。

『神道とは何か—神と仏の日本史』伊藤 聡 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/09/blog-post.html
神道の歴史を概観する本。中世神道を中心に、神道の多様な側面を描いた良書。

★これまで、ブログの末尾にAmazonへの画像付きリンクを貼ってきましたが、2024年1月1日よりAmazonによってこの機能が廃止されたようです。これまでの記事の末尾の画像リンクも機能しなくなるものと思われます。

Amazonページ
『本地垂迹』村山 修一 著
https://amzn.to/3TEDijx

2023年12月15日金曜日

『「戦前」の正体—愛国と神話の日本近現代史』辻󠄀田 真佐憲 著

戦前の日本を神話をキーにして読み解く本。

「大日本帝国は、神話に基礎づけられ、神話に活力を与えられた神話国家だった(p.6)」。しかし、それが狂信的な「国家神道」(この用語は本書では注意深く避けられている)の押しつけの結果だったかというとそうでもない。神話は「大日本帝国」を支える物語ではあったが、神聖不可侵な存在ではなく、意外にも民衆的な広がりを持った存在だった。

最近、政治の世界では戦前的なものが復活しつつある。その一つが神話や神社、日の丸といったものである。これらは悠久の昔からの日本のアイデンティティを構成するものと思われているが実はそうではない。明治維新の際、新政府側がその正統性を箔づけるために持ちだしたのが「神武創業」であり、神話だった。

そこでは、天皇の統治は天壌無窮の神勅に基づき、「臣民」は神話的古代から天皇に忠節を尽くしてきた、という虚構の歴史が語られた。軍人勅諭や教育勅語は、そうした歴史に基づくものとして、まるで神典のように扱われた。そして日本は、万世一系の天皇が歴代統治し、それを臣民が支えてきたという万邦無比の「国体」がある国だとされ、その理想を世界に敷衍していく(つまり世界征服して日本が世界を統治する)ことが使命だとされたのである。

実際に、日本は日清・日露戦争に突入していくが、そこで政府が利用したのが神功皇后である。神功皇后は神話に登場する皇后で、神話では三韓征伐を行ったとされている(史実ではない)。神功皇后は、明治時代には神武天皇よりもよく知られており、日本ではじめて政府紙幣に肖像画が採用された人物でもある。当時の軍歌には神功皇后がたびたび登場している。ところが面白いことに、日露戦争が終わる頃には神功皇后はあまり人気がなくなり、次第に実際の戦争で活躍した人物がフォーカスされるようになった。例えば北白川宮能久親王(明治維新の際の輪王寺門跡だった人物)。彼は台湾で陣没したためヤマトタケルと重ねられ、台湾神社(のちの台湾神宮)などで祭神として祀られた。

後に、日本は日中戦争、そして大東亜戦争と世界大戦に参戦していくことになるが、興味深いことに、江戸時代の国学者たちは日本が世界征服をすべしとする理論を提唱していた。平田篤胤の門人の佐藤信淵は『宇内混同秘策』で、日本を「世界万国の根本なり」とし、大真面目に世界征服プランを立案している。世界征服すべしとする根拠にはもちろん神話が援用されていたが、彼らは神話を字義通りではなく、都合のよいところをピックアップして、時には歪曲して使った。また神話の価値が高まるにつれて、『竹内文献』のように、『古事記』『日本書紀』以前に書かれたとされる古代の文献が偽作され、荒唐無稽な内容ながら権威を帯びるようなこともあった。神話は、かなり自由に解釈され、時には創作されていた。

昭和15年は折しも皇紀2600年に当たっており、これを記念して日本各地で祝祭行事が行われた。この年に最も注目を集めたスローガンが「八紘一宇」である。これは、『日本書紀』の神武東征の神話にある「八紘(あめのした)を掩ひて宇(いえ)にせむ」の言葉を基に、日蓮主義者の田中智学によって大正2年に造語されたものであるが、「日本が世界を統一する」という理想が重ねられた言葉だった。この年、宮崎県は全国から切石を集めて「八紘一宇の塔(八紘之基柱)」を建設。発案は宮崎県知事の相川勝六で、設計は日名子実三である。なお日名子は「皇軍発祥之地」と「日本海軍発祥之地」も設計している。

さて、「八紘一宇」は、本当に世界征服を意味する言葉だったのか? これがなかなか面白いところで、「八紘一宇」自体が田中智学の創作であったことからも分かる通り、政府の公式見解でそう表明されていたわけではなかった。だが、人々の方が神話を調子よくアレンジした軍歌や詩やモニュメントをつくって消費し、神話を拡大解釈し、そこに誇大妄想的な日本の自画像を重ね合わせていたのである。佐藤春夫が「詩編 大東亜戦史 序曲」で「新世紀の神話時代」と謳ったのはその雰囲気をよく伝えている。彼らは政府から依頼されて嫌々ながらプロパガンダ詩を書いていたのではなく、けっこうノリノリでやっていた。

もちろん、大本営は戦争を遂行するためのプロパガンダを流していたし、神武東征と大東亜戦争の共通点をしつこく強調するキャンペーンなどをやってはいた。しかしそういう「上からの統制」だけで神話国家が出来上がったのではない。国民の方も、景気の良い物語を求めており、神話を「消費」することに旺盛だったのだ。神話をネタ元にした記念碑やレコードが続出したのは、時局に棹さすことで儲けたい企業と、戦争の熱狂を楽しみたい消費者の存在を抜きにしては理解できない。そして時には、プロパガンダを流していた政府自身が神話を真に受けて振り回されるほどであった。

そうした視点から、本書には軍歌、流行歌、記念碑といったものがたくさん取り上げられており、神話国家が「上からの統制」だけではなく、むしろ国民(企業・一般国民)の方からの自発的な運動として出来ていったことが強調されている。そしてその際語られる神話が『日本書紀』『古事記』を実直に読み解いたものというより、あやふやな記憶から都合よく切り貼りしたものである場合が多いことが指摘される。それくらい、神話が身近なものだったのである。

神話は、今風に言えば「国民に夢と希望を与える物語」だったのかもしれない。戦後、それは否定され、日本は自らを表象する「国民的物語」を失った。戦前の神話を知ることは、それを超克する新しい物語を生みだす第一歩となるだろう。

蛇足ながら、本書には、拙著『明治維新と神代三陵—廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』が参照されている。この場を借りて御礼申しあげる。

軍歌や記念碑を取り上げて、戦前日本における民衆の側からの神話を読み解いた良書。

★Amazonページ
https://amzn.to/3TMzHQj

2023年12月13日水曜日

『天皇の即位儀礼と神仏』松本 郁代 著

天皇の即位儀礼の変遷とその意義を述べる本。

天皇の即位儀礼といえば、「即位式(+践祚儀)」とその後に行われる「大嘗祭」であるが、明治維新直前まではそれに加え「即位灌頂」という密教儀礼が行われた。本書は、この失われた「即位灌頂」を中心として天皇の即位儀礼について述べるものである。

このうち、即位式は令制以前にかさのぼる継承儀礼であり、大嘗祭は7世紀後半に天皇制とともに確立したものである。大嘗祭は、天皇を天照大神の子孫(皇孫)に位置づける神事で、「天孫降臨の再演(p.73)」として天皇自身がこれを行った(桜井好朗)。古代の即位式・大嘗祭においては、天皇の権威を支えたのは神だった。

しかし、桓武天皇以降は天皇の即位儀礼が「脱神話化(p.57)」していく。それは天皇の皇位継承が安定したものとなり、また先帝の意思に基づく譲位が常態となったことが影響しているという。

そして平安時代中期に即位灌頂が登場する。

即位灌頂の起源はインド国王の即位式にさかのぼるが、仏教儀礼としての灌頂は「正統な継承者となる」ために頭から水を灌ぐ儀式である(ただし天皇の即位灌頂では実際に水が灌がれることはなかった)。これはやがて琵琶や箏などの秘曲、和歌の奥義を授ける儀式にもなった。ともかく、秘説や秘伝を後継者に伝授する儀式が灌頂だったのである。

中国では、唐代に玄宗ら皇帝が灌頂を受け、また国内が混乱する中で皇帝が菩薩戒を受けており(皇帝菩薩)、皇帝への仏教的権威の付与がなされている。また日本でも空海が平城天皇・嵯峨天皇に戒を授け灌頂を行っているが(西本昌弘)、これはあくまで仏教儀礼として密教の奥義を伝授するものであった。

一方で、「皇位」は何者かが天皇に対し伝授するものではない。即位灌頂で天皇に伝授されたのは「印契(いんげい)」(両手指を組み合わせて仏を表現するもの)と「明(みょう)」(真言)の「即位印明」であった。そしてこれを伝授したのは基本的には摂関家であり、僧侶ではなかった。即位式において、天皇が摂関家から「即位印明」を与えられるのが即位灌頂だったのである。

そしてこの「即位印明」は、秘説として特別に伝授されるものであったが、口伝でありながら故実書や聖教に記載され、「公の秘説」として、ある程度の広がりをもって認知されていた。本書ではこの「公の秘説」がキーワードになっている。

初めて即位灌頂が行われたと推測されるのが後三条天皇(1068年即位)。後三条天皇に即位灌頂を行ったのは(摂関家ではなく)護持僧だった成尊(真言宗小野派)と考えられている。即位灌頂を自ら史料に残したのは伏見天皇(1288年即位)。伏見天皇は二条師忠から「金輪王躰金剛界大日印像」という印契を伝授されている。その後、二条家は即位印明を相伝していき、室町時代後期には二条家が「天下の御師範(p.97)」と号されることになった。 

なお、孝謙天皇の頃には即位に伴う仏教儀礼として「一代一度大仁王会」という法要が行われたこともあったし、玉体護持のためには仏教も大きく協力していた。後三条天皇の場合、「延暦寺・東寺・園城寺から代始護持僧がそれぞれ一名ずつ選ばれ、天皇の在位期間中、玉体護持のために普賢延命法、不動法、如意輪法を修す「三壇御修法」が修された(p.21)」。即位灌頂については、摂関家と距離があった後三条天皇が新たな天皇権威の創出を企図して行ったものと見られる。しかしそれが結果的には摂関家の方を仏教的に権威付ける結果となったのは皮肉というほかない。

ところで大嘗祭は後土御門天皇(1464年即位)以降は斎行されず、220年余り中絶した。これが再興されたのは霊元天皇の後を承けた東山天皇(貞享4年(1687)即位)の時である。ただし次の土御門天皇では大嘗祭は行われず、さらに次の桜町天皇の時に吉宗の協力で再び再興されている。

なお、大嘗祭は夜通し行うものであるが、先述の通り大嘗祭は天皇親祭で摂政や神祇官の代行は認められない。では年端もいかない幼主の場合はどうしたか。その場合、やはり摂政がある程度の代行をしたようである(5歳で即位した崇徳天皇の場合など)。大嘗祭はなかなか手間のかかる儀式であり、しきたりもうるさく、しかも天皇の他、摂関家と特定の采女以外は知りえない秘伝が多かったため、故実を蓄積し式を補佐する摂関家の役割が大きくなっていった。そして秘伝を相伝していることが摂関家の権威をさらに高める結果となった。即位印明はこうした相伝の一環となり、「天皇に近い立場で権力を維持するためのもの(p.117)」であった。

しかし即位印明が単なる摂関家の権威を演出する道具として創作されたものかというとそうでもない。それは様々な形で解釈され、関係づけられ、理論化されたものであった。そもそも経典に基づかない即位印明がどのようにして生まれ、発展させられたのか。本書ではそこで夢に着目する。慈円の夢、花園院の夢(の記録)が分析されているが、特に花園院は3度もかなり具体的な夢を見、結果として北野天神の夢想感得像をつくらせるとともに、「即位灌頂秘印」が天神から授けられた(とされた)。 

ところで、即位印明を相伝したのは二条家であったが、江戸時代になると五摂家にはその相伝を巡って相論が起こった。特に九条家は二条家に対抗し、歴代宝物や伝えられた神話を持ち出して相伝を主張。近衛家も関係文書の伝来を根拠に印明伝授を行う資格があると申し立てた。結果的には二条家により行われたが、二条家による伝授が正統とは決定されなかった。

このように、即位灌頂とそこで伝授される即位印明は、仏教儀礼というよりも摂関家の有職故実の世界にあったのだが、複雑なことに、即位儀礼そのものは寺院によって理論化・相承されていたのである(!)。例えば、東寺では大日如来からアマテラスを経て(!?)弘法大師に至る系譜が説かれ、神話と仏教的世界観が接続されたし、天台宗では法華経の偈自体に天皇の即位の正統性を読み込んだ。天皇の正統性を保証する「物語的機能」が即位灌頂の理論を通じて出来上がっていた。著者は寺家と摂関家は「一種の協働状態にあった(p.189)」という。

本書はさらに古代インド、タイの国王の即位灌頂について紹介し、その正統性を思想がどう支えたかを概観する。さらに仏教的世界観の中に天皇の存在を位置づける作業の一環として、仏教的世界観の認識が考察されている。その中心は須弥山である。仏教的な世界観の中心には須弥山があったが、その壮大な世界観において世界の王とされたのが金輪聖王(とそれを表す一字金輪)であり、天皇はそれらに擬された。金輪聖王とは、須弥山世界における4つの世界(四大洲)全てを統治しているとされる(我々の世界はその中の一つ南贍部洲)。

大嘗祭が天皇と神を一体化させる儀式であったとすれば、即位灌頂は天皇を仏教的世界観に位置づけて金輪聖王と一体化させる儀式であったといえる。

しかし、西洋の天文学が伝わると仏教的世界観に動揺が走る。そんな中で僧侶の普門円通は『天啓或問』を読んで旧来の須弥山説に疑問を持ち、それを科学的に解釈した『仏国暦象論』を著して地球説と地動説を批判。寛政年間には梵暦社を組織している。須弥山説は護法運動という政治的色彩を帯びて盛んに擁護された。「アジアのなかでも日本の須弥山論争は、17世紀から19世紀という長期に亘り、規模も儒者や国学者などの世俗的知識人をまきこみ、庶民にも影響を与えるなど大規模なもの(p.247)」であったが、事実によって否定されて仏教的世界観は崩壊。明治天皇の即位式では即位灌頂は廃止された(つまり明治維新前に廃止されている)。

ちなみに明治天皇の即位儀礼では、福羽美静の「思いつき」で地球儀が天皇の前に置かれた。これはたまたま調度品として利用できたことから置かれたという偶然の側面もあり、「新政府の構想を必ずしも正しく反映したものとはいえない(p.257)」が、結果的に仏教的世界観ではなく科学的世界観に立った君主として明治天皇をしつらえることになったのである。

全体として、本書はちょっと読みづらい。見慣れない用語が多く、時代が行ったり来たりする上に、著者の関心事項は非常に詳しく書いてある一方で、全体的な見取り図はあまり描かれないので、即位灌頂がどのようなものであったのか最後までよくわからなかった。

一番よくわからなかったのは、即位灌頂がどこで、どのように行われたのかである。例えば、即位灌頂は誰が同席していたのだろうか。群臣が参列する中で行われたのか、それとも秘密の儀式であったのか。これは注意深く読めば書いてあったのかもしれないが、私は見つけることができなかった。君主の正統性を示す儀礼であれば群臣参列が普通であるが、密教儀礼であれば秘密の儀式が妥当である。どちらなのだろうか。

本書は即位灌頂についてまとめたほぼ唯一の概説書であり、その価値は高い。ただし、私自身その内容を十分に理解したとは言いがたい。

失われた天皇の即位儀礼「即位灌頂」を明らかにする労作。

★Amazonページ
https://amzn.to/3Hv82fA

2023年12月6日水曜日

『延喜式』虎尾 俊哉 著

『延喜式』の概説書。

平安時代の神祇や禁忌を見ていくと、『延喜式』の大きな存在感に気付かされる。奈良時代が律令の時代だったとすれば、平安時代は『延喜式』の時代だったとも言えそうだ。この『延喜式』がどういうものか知りたくて本書を手に取った。

まず「式」とは何か。中国の法律は律・令・格・式の4つの法典で構成されていた。これは律=刑法、令=行政法、格=律令の補足法、式=施行規則である。現代日本に置き換えると、律令=法律、格=施行令(政令)、式=施行規則(省令)ということになるかもしれない。

中国では律令格式がまとめて制定されたのであるが、日本の場合、律令に比べて格式の制定は1世紀も遅れた。しかし格は必ずしもなくてもよいが、式(施行規則)がなければ律令の施行ができない。ではどうしたか。日本では施行規則が「もっぱら個々の単行法令として制定公布されていた(p.10)」。当時「令師」と呼ばれた明法家(みょうぼうか)たちが、『大宝令』の直後から必要な細則を制定する活動をしていたのである。それらの施行規則は、『八十一例』(81の条文)など次第に「例」としてまとめられるようになった。

しかしながら、体系的な施行規則である「式」は作成が困難で、長く編纂されることがなかった。それが遂に、延暦期に編纂されることになる。延暦期は、法典編纂の気運が高まった時代だったのである。

まず、延暦10年(791)に『刪定律令』24条、さらに時期は不明だが『刪定令格』45条、次に延暦11年(792)に『新弾令』83条、続いて延暦18年(799)までに和気清麻呂による『民部省例』20巻、その後延暦22年(803)に『延暦交替式』が撰上された。この時代に個々の法令の制定を超えた法典編纂が行われたのは、明法学の発達がその背景にある。

このような趨勢の中、桓武天皇は信頼する実務官僚の菅野真道に格式の編纂の命を下した。ところが、まもなく桓武天皇が崩御して事業は停滞。次の嵯峨天皇の時代、弘仁年間に編纂が再開され、弘仁11年(820)、格10巻、式40巻の『弘仁格式』が完成した。

こうして律令格式が遂に揃ったが、法令は絶えず改正し続けられるので、『弘仁格式』は早晩改正の必要があった。それが改正されたのが貞観年中で、これを『貞観格式』という。藤原良房が人臣初の摂政となって藤原氏独占の摂関政治が開始された時代である。しかしながら、『貞観格式』は、『弘仁格式』を廃止することなく、その編纂後の訂正・増補された事項のみをまとめたものであったので、『弘仁格式』と『貞観格式』は併存した。つまり、両方を見なければ法令の内容がわからないから、はなはだ不便だった。

そこで、延喜年間、醍醐天皇の治世に『弘仁式』と『貞観式』を統合させ(と本書にあるがおおそらく「格」もあわせて)、体系的な格式を編纂することが左大臣藤原時平に命じられた。この頃は、「延喜聖代観」に見られるように、後世から理想とされた時代であるが、実際には律令制が有名無実化していく末期にあり、最後の班田が行われるなど律令制の維持が試みられるも崩壊していった頃である。国史編纂も『日本三代実録』(延喜元年(901))を以て終了している。『延喜式』の編纂は、律令制の最後のあがきだったといえるかもしれない。醍醐天皇は式の編纂になみなみならぬ熱意があったという(醍醐天皇は自ら式に細かい修正意見を出しており、醍醐天皇の修正意見は『短尺草』という史料に見える)。

最初に完成したのは『延喜格』で、延喜7年(907)に完成して翌8年には施行されている。ところが『延喜式』の方は翌9年に時平が死去したこともあって遅れ、最初の編纂委員のほとんどが死去して延長5年(927)、通算22年もかかって完成した。なお、『延喜儀式』と『延喜交替式』も編纂され、ここに律令格式・儀式・交替式が揃ったのである。

ところが『延喜式』は奏上後、ながく施行されることがなく、なんと40年後の康保4年(967)に至ってようやく施行された。なぜそのように長く放置されたか。一つには、『延喜式』は『弘仁式』と 『貞観式』を統合したもので新しく効力を持つ条文はほぼなかったので急ぐ必要がなかったのと、奏上後も修訂作業が必要であったためと考えられる。また式の規定そものが有名無実なものになっていたせいもある。

こうして放置されていた『延喜式』を改めて施行したのが村上天皇で、その背景には天徳4年(960)の内裏が全焼したとされる火災があると著者は考える。焼失した内裏の再建に活躍した藤原在衡こそ、『延喜式』の施行を主宰した人物だったのである。

次に、本書では『延喜式』の内容について行政組織ごとに簡単に紹介している。これは全部をメモするとかなり煩瑣になるので、気になった点のみ触れる。

『延喜式』には、遣唐使関係の規定が散見される。しかしすでに遣唐使は廃止されていたどころか、唐自体が亡んで存在していない(延喜7年滅亡)。にもかかわらず遣唐使関係の条文が残ったのは「『延喜式』の性格の一面をよく伝えているといわなければならない(p.96)」。『延喜式』の編纂は法令の制定である以上に文化事業なのである。 

『延喜式』の編纂にあたって、伊勢神宮から『儀式帳』が提出されており、その内容は(純粋に儀式敵な部分以外は)ほとんど『延喜式』に取り込まれた。

「祝詞式」(本書では『延喜式』の民部省の巻を「(延喜)民部式」などと略称しているので以下それに従う)は古い祝詞を伝える貴重な史料である。また「神名帳」(本書では「神名式」)は、神社の格を確定させる上で大きな影響があった。

「図書式」には、当時の行政機構が必要とする紙の必要量が規定されていて大変興味深い。またこれにより各官司の机上事務量の多寡を計ることが出来る。

一部の職名以外は、訓読される習いであった。例えば「図書式」は、「ずしょしき」ではなく「ふみのつかさ」と読む。しかし本メモでは訓読のルビは割愛する。

「大学式」で規定される大学の学生の定員は400人で意外と多い。

「民部式」の国郡一覧表は『倭名類聚抄』と並んで古代の地名を知るための最も基礎的な文献。 「民部式」には、課税を負担する子を5人育てればその父親の課税は免除されるという規定がある。「民部式」は、課税・収税・そのための帳面の作成など重要な規定が多い。しかし「こういう律令文書行政の形式がのこっていることは興味深いが、それが全く形式だけの遺存にすぎないことはいうまでもない(p.164)」。

「隼人式」には、隼人が特殊な任務を帯びていたことを伝えている。「この隼人式にかかげられた二十ヵ条の規定は、すべて隼人についての貴重な史料をいわなければならない(p.170)」。 

「弾正式」には、「京中で病人を家の外に遺棄することに対する取締り(p.196)」が規定されている。罰金刑を認めないで体刑とする上、それを隠匿したものも同罪とするという意外と厳しい規定である。

「左右京職」については、なぜ同じ組織を左京・右京にそれぞれおいたのが興味が湧いた(他に「左右近衛式」、「左右衛門式」、「左右兵衛式」、「左右馬式」なども)。そして同じように行政が整えられたのに右京が衰微したのはなぜなのだろうか。

ちなみに、兵庫寮は令政では左右二寮に分かれていたが、寛平8年(896)に左右二寮が合併されている。これによって兵器の作成・保管の業務が一元化された。これが普通の行政組織のあり方だと思う。左右に分けるのは本当に不思議だ。

……このように、『延喜式』の内容は厖大かつ多岐にわたるのであるが、制定の意義はいかなるものであったか。これについて著者は「論ずべきほどの意義は存しないといってよい(p.88)」と容赦ない。つまり律令が有名無実化する中にあって、その施行細則などあってもあまり意味はなかったのだ。

しかしながら、法令としての価値はそうであっても、文化事業としての価値、古いしきたりや社会の様相を記録する意味での価値はとても大きかった。

『西宮記』(源高明)や『北山抄』(藤原公任)には『延喜式』が引用されているし、後三条天皇時代の関白藤原教通は車(牛車であろう)に必ず『延喜式』を携帯したという。院政期においても藤原頼長は『延喜式』を1年以上かけて読了している。これは法令そのものより故実への関心で読まれているように見受けられるが、もちろん明法家も『延喜式』を研究した。令宗允亮(よしむね・ただすけ)の『政事要略』、藤原通憲(この人は明法家ではないが)の『法曹類林』などで『延喜式』は研究・利用された。

中世にも引き続き『延喜式』は参照の対象となり、室町時代には特に「神名帳」が唯一神道の興隆と結びついて注目された。卜部兼俱の『神祇式神名帳頭注』はその代表的なものである。

このように『延喜式』は決して無意味な法令だったのではなく、「延喜の聖代」を伝える重要な文献・権威・規矩としての役割を果たした。『太平記』には、「あら見られずの延喜式や」との言葉が見え、『延喜式』が「かた苦しさや儀式ばったことの代名詞(p.224)」として否定的意味で使われており、こういう用法があったこと自体、『延喜式』が広く知られた傍証である。

近世になると、徳川家康は幕府の法制を整備するための資料として、古書の蒐集と謄写を命じたが、これによって多くの古書が湮滅を免れた。『延喜式』も一部の欠巻がありながらも謄写され、後に他の写本がみつかって慶安元年(1648)に遂に完本が公刊された。さらに、松江藩主松平斉恒・斉貴親子の努力によって雲州本と呼ばれる周到な校訂本が文政11年(1828)に完成した。

また個別研究としては、特に祝詞・神名・諸陵の各式の研究が盛んに行われた。中でも賀茂真淵の『祝詞考』は「祝詞式」に対する初めての本格的研究であり、本居宣長、平田篤胤と研究が進められ、鈴木重胤の『祝詞講義』に至って最高潮に達した。「神名帳」については伴信友の『延喜式神名帳考証』が著名である。

明治維新後は、大学南校の法科で『延喜式』が必読書の一つとされるなど、明治維新の復古主義に支えられて重んじられ、現代でも歴史研究の対象・基礎文献として利用されている。しかしながら、戦後は『延喜式』を直接の対象とする研究論文はあまり見られず、そんな中で宮城栄昌の『延喜式の研究』は最初の総合的研究として価値が高い。

本書は全体として、『延喜式』の世界を平易に概観しており、『延喜式』について知りたくなったら先ず手に取るべき本として推奨できる。というよりも、本書以外に『延喜式』の概説書はないといってもいい。本書の公刊は1964年で約60年ほど前になるが、未だ本書を越える本は登場していないのかもしれない。

ところで、本書は3度も増補されており(書き換えではなく、追記が3つ付いている)、研究の進展によって改訂の必要がある箇所もいくつか存在し、著者自身が「○○頁から○○頁は全面的に改訂の必要がある」などと追記で書いている(それなら改訂してほしかったところだ)。そろそろ『延喜式』の最新の研究をまとめた概説書が出てもよいと思う。

本書を読んで思ったのは、『延喜式』は律令制が有名無実化していく中で最後に作られた、ということが逆説的だがその命脈を保つのに役だったということだ。なにしろ『延喜式』は施行されたその時に、すでに法令としての役割をほとんど担っていなかった。よって、『延喜式』は改訂されることなく、不朽の法典になったのである。また、『延喜式』は律令のような国家の根幹に関わる法典でなく、施行規則であったことも重要だった。律令は形無しになれば意味がなくなるが、施行細則の場合、儀式のやり方、神社のランク、祝詞の文言といった細かい内容は、いつまでも無意味にならないからだ。『延喜式』は、律令国家の置き土産として長く日本社会に影響を及ぼしたのである。

有職故実の世界に大きな影響を及ぼした『延喜式』を知るための必読書。

★Amazonページ
https://amzn.to/3ui9pLo

2023年11月29日水曜日

『江戸を歩く—近世紀行文の世界』板坂 耀子 著

近世の紀行文についてのエッセイ的な本。

著者は近世の紀行文を専門とする研究者であるが、本書は学術的なような、エッセイのような、なんともいえない不思議な本である。一応、近世紀行文の世界を案内するという目的はあるものの、各章はかなり散漫なテーマになっていて、少なくとも体系的な近世紀行文の案内ではない。

それでは、著者の強調するポイントはどこにあるか。あえて本書の主張を一つ掲げるとすれば、「近世の紀行文というと、芭蕉の『おくのほそ道』以外は面白くないと思われているが、決してそうではない」ということである。

近世は、旅がとてもやりやすくなった時代である。そのため、「都から出発した旅人が鄙の淋しさやわびしさに耐えつつ、自己の孤独を抱いて歩きつづける(p.70)」というような、それまでの紀行文の枠組みは現実的でなくなった。そもそも紀行は都会から出発し地方を巡るもの、ということ自体が思いこみであり、近世には都会の案内記(としての紀行文)もたくさん著された。

そして、かつての紀行文は「歌枕」を巡るものだったが、近世では軍記物に描かれた「名所」(特に古戦場)がクローズアップされてくる。都会の人が頭の中で勝手に作った「歌枕」とは違い、歴史の証人としての「名所」は、地元の人にも大事にされ、伝説を付加させつつ観光地化した。つまり近世の人々は、歴史に強い興味を持ち、「名所」を通じて歴史に親しんだのである。本書で最も心に残った点はここである。

また、かつての紀行文はしばしば美しい文章そのものを目的にしていたが、近世の紀行文は、もちろんそういう作品もあるものの、多くはルポルタージュ的だ。特に、旅先で出会った珍しい話や変わった話を書き留め、伝達することに力が割かれた。その中におよそ事実とは思われない虚構(伝奇)が入り込むことも多いが、これは「そういう伝奇を聞いたことは事実」という形のルポなのだ。

一方で、美しい風景の描写などはほとんどないのも近世の紀行文の特色である。「あまり巧みな名文で花に限らず美景を描写すると、全体の雰囲気を壊すし、目立ちすぎて醜いという意識すら、あるのではないか(p.174)」と著者は言う。

ところで、近世以前の人々は神仏を素朴に信じていたと思いがちだが、実はそうでもない。「幕府の役人たちが薬草を採取する時の紀行文、いわゆる採薬記類などを見ていて感じるのは、この時代の人たちが時には現代の私たちよりよほど大胆に、迷信を拒否するということである(p.191)」という記述は目を引いた。わざと禁忌を犯して何事もなかったことを書いていたりするのである。そこには素朴な「懐疑的精神」があったのだ。

本書は最後に、紀行文に使われるいくつかの文体を整理している。記録文体や雅文体は、紀行文の一つの型をなしており、それらに沿って書く限り駄作にはならない、と言っているのが面白い。つまり近世の紀行文は、型が生みだされるくらい、大量に書かれたのだ。ちなみに雅文体を完成させたのは国学者たちだった。なお、『おくのほそ道』の歴史的な存在感とは逆に、『おくのほそ道』は同時代にはあまり影響を与えず、俳文体の紀行文自体が少ないというのは意外だった。『おくのほそ道』は、近世紀行文学の中では変わり種のようである。

本書は先述の通り、学術書でもエッセイでもない不思議な本で、突然著者のプライベートの話題が差し挟まれるかと思うと、慣れた人でないと読みこなせない紀行文の引用が長々と続くこともあり、読んでいるとなんだか「名物教授」に付き合わされているような気がした。全体的には平易だが、紀行文の引用はやや不親切なところがある(語義の注釈がほしい)。本書は近世紀行文の入門編でもなく、かといって研究書でもなく、その位置づけがよくわからないが、多分本人の気の向くままに書いたものなのだろう。

近世紀行文学を著者のエッセイも交えて紹介する、不思議な雰囲気の本。

★Amazonページ
https://amzn.to/3Svv6kE

2023年11月24日金曜日

『穢と大祓』山本 幸司 著

穢(けがれ/え)の歴史的事実を明らかにする本。

古代から中世にかけて、穢は大きな問題になった。「様々な規則や禁忌が存在し(p.10)」人々の行動を煩わしいまでに支配していた。

穢とされた人は、神事に参加出来なかったし、参内もできなかった。また神事の場所が穢となった場合は神事自体がしばしば延期され、または変更された。しかも穢は本人・場所だけでなく、そこに触れた人にも「伝染」した。

『延喜式』によれば、そのような規制を受ける日数は、人の死:30日、お産:7日、六蓄の死:5日、六蓄の産:3日、肉食:3日、となっている。また『延喜式』には規定がなく、後に定められたと思われるが、死体の一部が欠損したものの場合は「五体不具穢」となり7日間であった(『西宮記』『日本紀略』などによる)。さらには失火穢といって、火事も穢の要因であった。理不尽なのが、消防活動に従事した人までも穢になってしまうことである(ただし失火穢は伝染しないらしい)。

一方、後代のイメージとは逆に、流血はそのものは穢ではなく、また殺人者も持続的に穢とは見なされていない(死体に触れたら穢であるが、殺人という行為は穢ではない)。

また、妊娠中の女性は穢であるとする説と穢ではないとする説の両方が当時あり、議論があった。さらに、六蓄以外の野生動物の死体は穢ではない、とされるものの、いや猪は六蓄だ、など当時の人も甲論乙駁の議論をしている。

穢というものは実に難しく、当時の人も自然に理解していたのではないのである。

先述の通り穢は伝染するのであるが、これも一筋縄ではないルールがある。まず穢は発生源から2回伝染する。甲の場所が穢になっていたとすると、そこに入った乙は穢となり、乙がいる場所に来た丙はまた穢となってしまう。しかし丙のいる場所に丁が来ても、伝染は2回までなので丁は穢とならない。この原則自体は簡単だが、いろいろなケースで「これは穢となるかどうか」が議論されることは珍しくなく、貴族たちはそのたびごとに明法博士・明法家に頼った。はっきりしない時は「勅断によるべき」とも考えられていた。

また、穢は開放空間では伝染せず、穢となるのは閉鎖空間(垣で囲まれるなど)であることも重要だ。よって道路に死体が落ちていてそこを通っても穢にはならないが、野犬が死体の一部を垣の内に咥えてきたら、家の敷地全体が穢になる。そして面白いことに、穢所(穢に汚染されたところ)に行っただけでは穢は伝染せず、着座しなければ穢を避けることができる。

さらに、穢はモノにも伝染するが、全てのモノが穢を伝えるのではない。穢を伝えるモノは、穢所で作られた食物や、函や櫃などの容器、軸に巻かれた文書、衣服や身につける品などに限られる。だから、死を伝える文書を収めた函は、文書そのものは(軸に巻かれていなければ)穢ではないが函は穢になる、などは意味がよくわからない。それから、水は流れていれば穢にならないが、たまった水は穢になる(池や井戸に死体があった場合など)。

不可解なのは、死穢の日数は葬儀の日から起算するとされたり(現実には死んだ日から起算することも一般的だった)、認識していない汚物は穢をもたらさず、認識した時から起算するとされたりしていることだ。当時の人にとってもこれらの規則はややこしく、穢であるかどうか大外記に問い合わせたりしている。

このように、穢は多分に観念的な存在である。著者はその本質を、社会的な秩序を乱すものと考える。よって天皇に反逆したり神に対する冒涜も穢である。また着座しなければ穢が伝染しないなど、社会的関係・接触の深さに穢は関係している。とはいえ服喪とは違い、穢の場合はあくまでも物質的に死体等に接触したかどうかが問題なのだ。

穢を避けるため、下女や下僕が死にそうになると、主人はしばしば彼らを追い出した。家で死なれると死穢で30日間も謹慎が必要になるからだ。それも一因で平安京の路頭には死体がたくさん放置されていたのだ。国家はたびたび検非違使にその清掃を命じている(が、そのために検非違使は穢になってしまうのにいいのだろうか)。

さて、では穢になってしまうと、謹慎以外に何か不利益があるのだろうか。内裏など公的施設の穢は、皇太子の体調不良、天候不順、物怪の出現などの原因になると考えられていた。穢を許したことに対する神の怒りが皇族に向けられ神罰が下る、という理屈らしい。ただし、これは因果関係が後付けされていたに違いなく、「実際には病気とか物怪、天変地異などの知覚されうる現象が起こったときに、その原因を求めたら、穢に触れるようなことがあった、というのが一般的な認識の順序である(p.112)」。何か異変があったときは陰陽師がこれを占い、どこそこに穢がある、などといってその原因を確定させた。

穢が厳重に避けられたのは神事の際の内裏と諸社であるが、これは先述の通り神事・祭礼・儀式に差し障りがあるからだ。「触穢による神事や儀式の中止・延期は、記録されているだけでも枚挙に遑がない(p.132)」。よって穢を避けるため、「不浄の人来るべからず」という札が立てられるなどした(『小右記』寛仁元年(1017)7月1日)。これはやがて神事札として確立していくことになる。

なお、次第に穢は心の在り方にまで敷衍して考えられ、人間の内面的態度を問う考え方の延長に「おそらく伊勢神道の教説にみられる「心清浄」のように、清浄・不浄を(中略)人間の内面的態度にも適用するという発想が生まれてくるのであろう(p.149)」。

ところでいつから穢が気にされたのかというと、史料的に明らかなのは9世紀からで、10世紀からは事例が膨大になる。高取正男は8世紀末から9世紀にかけてではと考えたが、著者は史料に残っていないだけで記紀の頃から穢を気にする意識はあったのではという。

本書の次のテーマは大祓(おおはらえ)で、これと穢との関連が検討される。従前、大祓は穢のために行われるものと漠然と考えられていた。ところが史料を注意深く見てみると、大祓と穢は直接の関連がないことが明らかになった。確かに臨時の大祓が行われるに先立って穢のことが問題になった事例は多い。ところが、これは神事が穢によって延期されたことが要因で大祓が行われたと考えられるのである。これまで、穢=罪という先入観があり、罪を祓うために大祓が必要とされたのだろう、と考えられてきたのであった。しかし大祓によっても穢は消滅(または期間が短縮)することはないことも、穢と大祓に直接の関係がないことを示している。大祓はあくまで犯した罪を謝罪するためのものであるというのが著者の考えである。

では罪とは何か。現代的な罪だけでなく、天災や病気などの災いも罪と見なされた。なぜそれらが罪であるかというと、何らかの瀆神的行為があり、それによって天災や病気が起こったのだ、と考えられたからではないかと著者はいう。その意味で「災い」と「罪」は同じものだった。

また、大祓が罪を謝罪するものであるといっても、特定の罪がない大祓(6月と12月に行われる定例の大祓)は何のために行われたのか。それは、特に悪いことをした意識がなくても(あるいは顕在化しなくても)人間は罪を犯すという考えがあったために行われたのではないかという。「儀礼それ自体の目的は、あくまでも国土の浄化による神との関係の確認・再確立、またそれによる国土の再生にあったのだと考える(p.226)」。

大祓はどこで行われたか。平安京以前は大祓が行われたのが「天下諸国」などとされて明確でない。平安京では、朱雀門、建礼門、八省院(東廊)その他であり、逆に全国的な大祓の挙行は消える。ともかく意外なのが、大祓は門とか廊といった、通常の儀式とは違う場所でやるということで、その他の場合も庭とか路といった事例が散見される。本書では場所の分類のみで終わっており、このような場所にどのような意味があったのかはあまり考察されていないが興味深い。

なお大祓については、本書を読みながら、仏教の悔過(けか)・懺悔(さんげ)の影響が大きいのではないかと感じた。

最後に、補論として「仏教と穢」の項目があり、ここでは往生するためには五体満足でなければならないという観念、穢を乗り越える仏教理論の動きなどが考察されているが詳細は割愛する。

なお、本書は穢や大祓、罪といったことを考える端緒にギリシアの場合が参照されるなど、全体として広い視野で考察している。が、私は本書を読みながら、著者の考えには疑問を持たざるを得なかった。その疑問は、著者が穢をあくまで宗教的な「ケガレ」として分析しているという一点に集約される。穢は「エ」という法律的概念と捉えた方がよいのではないか。

というのは、著者は穢について「様々な規則や禁忌が存在し(p.10)」たというが、規則は多くても「禁忌」があったのだろうか。穢を規定していたのは常に規則であり、宗教的な禁忌があったようには感じられない。人々は穢か穢でないかを議論し、明法家や大外記に頼ったが、それは穢が法律的な問題であったことを示唆している。もちろん、人々は陰陽師にも頼ってはいた。だがそれは怪異があった時の原因を占ってみると、それはどこそこの穢が原因であった、というように、見えない因果関係を探す時が多い。少数ながら、穢を陰陽師に払ってもらうということもあったが、にしても、穢であるかどうかを陰陽師には聞いていない。穢はあくまでも法律に規定されたものであり、いわゆる宗教は関係なかった、というのが本書により明らかであると思う。

ここで注目されるのが、『中右記』に記されたある事例(p.158)。そこでは神事(臨時祭)をやった後で穢があったことを申し出たことに対し、「もし隠すなら最後まで申し出るべきでない」と『中右記』の著者は記している。これなどは、もし穢が本当に宗教的概念であれば出てこない言葉ではなかろうか。また、汚物は認識した時から穢を起算するというのもそれを示唆する。宗教的なケガレであれば、人間が認識しようがしまいが、そこに存在するはずだ。

貴族たちは穢を避けるためにいろいろな便法を生みだしていくのであるが、穢に関する言説は一見迷信的に見えて、貴族たちはかなりドライなのである。おそらく「五体不具穢」も、死体が散乱していた平安京で死穢がそうしばしば適用されては仕事に差し障りがあるということから、「五体満足揃っていない死体は穢も軽いはずだ」という理屈で謹慎期間を軽減するために生みだされたものなのだろう。

本書は、穢について初めて実証的に明らかにした本であり、画期的な意義を有している。しかしながら、その概念の分析においては「穢は宗教的な禁忌にまつわる概念である」という先入観から自由になっていないことが素人ながら気になった。

穢の実態を初めて明らかにした労作。

【関連書籍の読書メモ】
『死者たちの中世』勝田 至 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/blog-post_9.html
中世、多くの死者が墓地に葬られるようになる背景を説き明かす本。本書がかなり参照されている。思想面は手薄だが、中世の葬送観について総合的に理解できる良書。

★Amazonページ
https://amzn.to/3SxnBtv

2023年11月19日日曜日

『『日本書紀』の呪縛 (シリーズ<本と日本史>①)』吉田 一彦 著

『日本書紀』とはどういう本か述べる本。

『日本書紀』ほど日本に大きな影響を与えた本はないだろう。それは神話と歴史を述べて国の形をつくった、まさに「正典」であった。

であるだけにその研究は自由に行うことができず、大正期に行われた津田左右吉の研究を例外として、戦前ではその存在に率直にメスが入れられることはなかった。

戦後には『日本書紀』を自由に研究することが可能になり、飛躍的に研究が進展。『日本書紀』は神話や歴史そのものを記載したというよりも、かなり創作が入っていることが明らかになり、また厳密な史料批判によってどのように『日本書紀』が成立したかもわかってきた。しかしながら、未だに『日本書紀』は正典に准じた立場を失っていない(これが著者のいう「呪縛」)。

そこで本書では、そうしたこれまでの研究の蓄積を平明にまとめるとともに、『日本書紀』がどんな本なのかを批判的に検証し、それを相対化する試みを行っている。

「第1章 権威としての『日本書紀』」では、『日本書紀』の位置づけが時代によって変わりつつも、常に高い権威を持っていたことが述べられる。戦後、『日本書紀』の記述全てを事実と見なす態度は改められたが、坂本太郎は古代史を『日本書紀』に従って構成し、これが大きな影響力を持った(著者は「坂本パラダイム」と呼ぶ)。しかしそれは勝者の歴史に過ぎないのだ。

「第2章 『日本書紀』の語る神話と歴史」では、その成立が検証され、神話と歴史の特徴が述べられる。それは、国の統治権が血統によって継承されてきたということだ。そこでは天照大神から神武天皇へ、そして歴代天皇へと「万世一系」で国が譲られてきた。しかし継体天皇は血のつながりがないという理解が有力で、「万世一系」は虚構である。しかし『日本書紀』の編纂者たちは天皇統治を正当化するためこれを押し通した。『日本書紀』は「一言で言って、天皇の歴史を記した書物(p.42)」であり、「「天皇」という存在を歴史的に説き明かすことを目的にして作成された書物(同)」なのである。

「第3章 『日本書紀』研究の歩み」では、その研究史が概括される。まず津田左右吉の説が振り返られ、(1)神武天皇から仲哀天皇までは事実として認めがたく、(2)天武・持統天皇のあたりは実録だが、(3)十七条の憲法は聖徳太子の作ではない、(4)大化改新は後世の脚色で事実でない、といった説が首肯できるものとして紹介される。

戦後、これを受けて大化改新の文が『大宝令』に基づくものであること、「公地公民」の概念は同時代になく戸籍や班田も後世の付加であること、『日本書紀』の最初期の年号(大化、白雉、朱鳥(あかみとり))は創作であること、聖徳太子自体が中国の理想的な聖天子像に合致するよう創作された疑いが濃厚であることなどが明らかになった。

さらに、『日本書紀』が中国の典籍から文を借用して作られていることは古代から知られていたが、実際の元ネタがかなり明らかになった。どうやら梁の時代の類書(テーマごとに多くの書物から文章を抜き出したもの)である『華林遍略』や唐の時代の『文館詞林』がかなり参照されているようだ(池田昌弘)。要するに『日本書紀』の文章は孫引きで作られたものらしい。また、複数の仏典も参照されており、その作業をしたのは僧の道慈だと著者は述べている。

そして『日本書紀』の紀年に矛盾が多いこともこれも以前から知られていたが、『日本書紀』の紀年が人為的に設定されたものであることも明らかになった。さらに、『日本書紀』の用語用事の使い方を詳細に分析することで、複数の編纂者たちが、α群(巻14~21、24~27)、β群(巻1~13、22~23、28~29)、巻30の3つの区分で担当したことが明らかになった(森 博達)。

「第4章 天皇制度の成立」では、「天皇」の意味が再考される。「天皇」は中国の皇帝が称した称号の一つで(津田左右吉、渡辺茂)、明らかに中国風制度を日本に導入し、倭王の存在を皇帝に擬(なぞら)える目的で導入された。それは天武期の途中または持統期とみられ、著者は持統天皇が「天皇」を初めて名乗った天皇と考える。とすれば天皇の最初は女帝だった。中国風制度とは律令体制を意味し、都城・法の支配・官度制などがまとめて導入された。「天皇」号は、単に倭王の呼び名が変わったのではなく、新たな「日本王朝」の創始の意味を持った。そしてアマテラスと伊勢神宮が7世紀末に成立したこともそこにつながっている。

「第5章 過去の支配」では、『日本書紀』が王朝の正統性をどのように支えたかがまとめられる。天皇制が成立して、初めて「大宝」という年号が設定された。『日本書紀』は<時間の支配>のために作成された書物でもあった。「天壌無窮の神勅」によって未来にわたり日本の支配者は天皇であることが述べられるとともに、天皇を支える各氏族も神話的に位置づけられた。特にアマテラスとニニギは持統天皇→文武天皇、元明天皇→聖武天皇、という祖母→孫の権力継承を正当化するための創作神話であり(黛弘道)、そこにはその外戚であった藤原不比等の意向が大きく働いていた。また神勅の文言も仏教文献に出てくる「宝祚長久」祈願の影響を受けている(家永三郎)。さらにアマテラスは持統3年(689)から文武2年(698)にいたる10年間で天皇家の祖先神となっていったとされ(筑紫申真(のぶざね))、高天原の概念も持統期から文武天皇即までに成立したものであった(大山誠一、青木周平)。

このように、日本王朝の創始にあたり、<あったはずの過去>を設定するために、7世紀末~8世紀初頭につくられたのが『日本書紀』の神話・歴史だった。神の子孫である天皇家が、万世一系で日本を治めてきたという「唯一の過去」がここで制定されたのである。

「第6章 書物の歴史、書物の戦い」では、『日本書紀』を人々がどう受容し、または反発したかが述べられる。前章までのように『日本書紀』が国家の正典として制定されると、その記述が貴族たちの権威の基準にもなった。例えば忌部氏は『日本書紀』では中臣氏と並んで祭祀(伊勢神宮への幣帛使)に携わっているが、8世紀中頃以降に力を弱めて幣帛使から外された。その挽回を図るために忌部(斎部)氏は中臣氏を訴えて訴訟は3回に及び、『日本書紀』が根拠になって忌部氏の主張はほぼ認められた。そして斎部氏の立場をさらに強固にするため、斎部広成は『日本書紀』が漏らしたことを記録するという立場で『古語拾遺』を著した。自分たちに有利になるように歴史認識を修正しようと試みたのである。その際、口承で伝えられてきた「古さ」が正しさの論拠となった。

「第7章 国史と<反国史><加国史>」では、『日本書紀』の記述に不満があった貴族たちが独自に家の歴史を編纂していったことが述べられる。それらは「家牒」「家伝」などと呼ばれ、『日本書紀』に述べられていない歴史を記録するものであった。貴族たちは『日本書紀』の枠組みの中で、「それに追加したり、あるいはそれに反論したり、さらにはそれを書き換えるような歴史を主張した(p.130)」。

「第8章 『続日本紀』への期待、落胆と安堵」では、『続日本紀』への貴族たちの対応が述べられる。上述のように、『日本書紀』には様々な面で不満をいだく貴族がいたのであるが、続く歴史書『続日本紀』は、『日本書紀』の枠組みを前提として、史料に基づいて法制度や任官といった記録を淡々と記録するものだった。これには、落胆するものもいれば安堵するものもいたが、落胆したものたちの声を受けて政府が作ったのが『新撰姓氏録』である。それは貴族たちが提出した家の記録を元に、氏族間の利害を調整して作成されたものである。

「第9章 『日本書紀』の再解釈と偽書」では、『日本書紀』がどう読まれたかが述べられる。奈良平安の頃、政府は『日本書紀』を購読する勉強会を開催しており、その記録が『日本紀私記』として残っている。それによれば、漢文で書かれた『日本書紀』を日本風に読み下すことに重点が置かれており、日本のアイデンティティを形成・確認する試みであったといえる。さらに文献の古さが根拠として求められた結果、いろいろな古い書物が後世に偽作されることとなった。

「第10章 『先代旧事本紀』と『古事記』」では、『日本書紀』と並ぶ古典が概説される。 文献の古さが権威と思われたことでつくられたのが、聖徳太子撰という触れ込みの『先代旧事本紀』である。これは「『古事記』の記述を強く意識して、これに対抗し、『古事記』を批判しようと考えて創作(p.174)」されたと思われるもので、室町時代までは日本最古の歴史書として権威を持った。江戸時代にはこれが疑われ、今では平安時代初期に作成された偽書であると考えられている(坂本太郎ほか)。内容が物部氏に有利であることから物部氏の系統の誰かであることは確実で、著者は矢田部公望としている。なお、『古事記』は江戸時代から偽書説もあるが、本居宣長がこれを研究して高い評価を与えたことで『日本書紀』と並ぶ地位に押し上げられた。しかし『古事記』は『日本書紀』を見て書かれたものらしく(梅沢伊勢三)、その成立を解明することは今後の重要課題の一つである。

「第11章 真の聖徳太子伝をめぐる争い」では、『日本書紀』の記述を訂正していこうとする動きを聖徳太子伝をケーススタディとして見ている。意外なことに『日本書紀』では、法隆寺が聖徳太子による創建されたものだという記述はない。しかし法隆寺は聖徳太子創建であることを誇り、『上宮聖徳法王帝説』という伝記を作っている。他に四天王寺と広隆寺も聖徳太子の伝記を作った。仏教興隆の立役者として聖徳太子を顕彰し、その権威を借りようとする動きが活発になったのだ。それらの伝記は、しばしば『日本書紀』の記述を訂正・加上・否定するもので、伝承の古さを根拠にしていた。

「第12章 『日本霊異記』—仏教という国際基準」では、『日本書紀』のカウンターカルチャーとしての『日本霊異記』が紹介される。『日本書紀』と一線を画したはじめての書物が『日本霊異記』である。仏教は、日本の歴史とは違う別の文明からの視角を準備した。それは中国仏教に対抗し、日本にも仏教の「奇事」があることを主張しつつも、自国の歴史ではなく大陸の仏教や経典、僧尼にその価値の源泉が置かれたのである。これは歴史書ではないが、『日本書紀』的なものとは全く別の価値観・世界観もあったことを示している。

「終章 『日本書紀』の呪縛を越えて」では、これまでの見解がまとめられ、『日本書紀』はありのままの歴史が書かれた書物ではないことが解明されながら、それでも規範性を失っていないことが改めて指摘される。 その「呪縛」を乗り越え相対化するため、さらなる徹底的な研究が期待されるとして擱筆されている。

本書は全体として、これまでの厖大な『日本書紀』研究を端正にまとめており、記述の密度が高いのにもかかわらず非常に読みやすい。私は『日本書紀』に関する本はいろいろ読んできたが、この本を最初に読みたかったと思ったくらいである。

『日本書紀』の成立とそれにまつわる言説を平明に述べた良書。

★Amazonページ
https://amzn.to/495SiLG

2023年11月17日金曜日

『伊勢神宮の成立』田村 圓澄 著

伊勢神宮・天照大神がどのように出来上がったか推測する本。

伊勢神宮は古代以来、朝廷・皇室によって最も貴ばれた神社であるが、その成立は謎に包まれている。というより、意外と古い歴史がないようなのだ。では伊勢神宮が、どうして国家の宗廟となっていったのか。著者は主に『日本書紀』に拠り、慎重に伊勢神宮の成立を考察している。

天照大神は、日本神話の中心的な神であるが、『日本書紀』の古い部分には存在していない(※『日本書紀』は記事が「一書」の形で挿入されているが、それを分析すると段階的に成立したことが知られる)。古い神はタカミムスビノ神で、天孫降臨も原初的記事ではタカミムスビが命じるものとなっている。倭王が奉じていたのも、タカミムスビであった。

ではいつ天照大神はタカミムスビと入れ替わったのか。天照大神は、『日本書紀』では他に「日神」「大日孁貴(オオヒルメノムチ)」「天照大日孁尊(アマテラスオオヒルメノミコト)」の4つの名で記載されている。このうち古態を示すのが「日神」で、雄略期ごろに伊勢地方の地方神に「日神」が重ねられ、「日神」(伊勢大神)→「大日孁貴」(日神を祀る巫女の神格化)→天武期に「天照大神」となって伊勢に祀られたらしい。

天照大神が祀られたことが明確なのが、持統天皇の即位式で中臣大嶋が奏上した「天神寿詞」。 『日本書紀』の新しい部分では、天孫降臨説話で中臣・忌部氏の祖先神が随伴しており、天照大神の成立にあたって中臣・忌部氏が影響したことが示唆される。

天照大神の前に大和で信仰された中心的な神はおそらく三輪神であった。しかし三輪神があくまでも三輪山の土地神であったために新しい国家体制にそぐわず、天照大神にその地位を譲った。

天照大神が登場したのは、『日本書紀』によれば天武元年(672)6月。壬申の乱に際して大海人皇子(後の天武天皇)の「直観と自覚を通じて」その原像があらわれたのだ、と著者は考える。

天照大神が誕生した要因を私なりに3つにまとめると次の通りである。

第1に、天皇の存在を神話・歴史によって説明すること。特に天皇が天照大神の子孫であることがその核となり、天皇は「明神」となった。ムスビ(生産力)の神であるタカミムスビではその役割が果たせない。『金光明経』に説かれる「帝王神権説」がその背景にあったのではないかという。

第2に、持統天皇→文武天皇の祖母→孫の継承を正当化し、日嗣の法(直系で天皇の地位を継承していく法)を確立すること。

第3に、律令国家構想の中心的イデオロギーとして、「国家」・「国土」の観念とそれを天皇の所有に帰する理論を提供することである。律令国家は公地公民であるが、それまでは地方豪族が土地や人々を私有しているという感覚が当然だったであろう。これを打破するための理屈が、日本という「国家」とその「国土」は、天照大神によってその子孫に永遠に譲られたとする神話であった(天壌無窮の神勅)。『日本書紀』では天皇に「天の下治しめす天皇」などと、天皇の統治者としての性格が執拗に強調されているが、これはその傍証だ。

要するに、国家統治のために生みだされたのが天照大神であり、それは「政治的な神」であった。

では、具体的には天照大神はどう祀られたのか。律令制では神祇官が置かれ、「天神地祇」を祀った。全国の豪族が祀っていた神を序列化し、班幣(幣を頒つ)などによって国家と関連付け、その序列の最高位に天照大神を置いた。律令制を神のレベルで支えたのが神祇官であり(これは中国の律令制にはない組織)、その主神が天照大神だったのである。

一方、伊勢神宮はいつ創建されたか。はっきりとはわからないが、持統2年(688)の第1回目の式年遷宮とされる時が、社殿の創建の時期であると著者は考える。これは藤原京の造営開始時期と連動したものであったと推測される。そして文武2年(689)、『日本書紀』ではじめて「伊勢大神宮」の文字が登場する。ここが伊勢神宮の成立の時であるという。

伊勢神宮が特徴的なのは、正殿を五重もの垣が取り囲み、皇室から伊勢へ派遣された皇女(斎内親王)ですら第二重までしか進むことができず、それ以外の神官に至っては第三重どまりであった。そして伊勢神宮には拝殿もない。これは、伊勢神宮が「天皇ただ一人のための神宮(p.224)」であったためだと考えられる。天皇自身は伊勢に参拝することがなかったために拝殿は必要なかったのだ。

ちなみに当初の祭主を務めたのは中臣氏で、特に中臣大嶋(おおしま)は天照大神の形成と祭祀に深くかかわったと考えられる。一方、忌部氏は社殿の造営に携わり、心御柱の用材の伐採・造形には忌部氏が独占的に携わった。他、禰宜を世襲した荒木田氏、豊受宮(外宮)の禰宜を世襲した渡会氏がいる。

ところで、神祇官が行う祭りの中で最も重要だったのが践祚大嘗祭である。祭祀は斎の期間により大祀・中祀・小祀に分けられるが、践祚大嘗祭は唯一の大祀であり、一月の斎を要した。『日本書紀』における即位礼としての「大嘗」の初見は持統5年(691)で意外と新しく、おそらく持統天皇がこれを初めて行った。それまでの倭王の即位は単なる地位の継承であったが、ここに天照大神により委任された統治権を受け継ぐという神権的意味が付与され、「天皇」即位という画期的な意義が生まれたのである。

中祀には、祈年祭、月次祭、新嘗祭、神嘗祭の4つがある。このうち祈年祭と月次祭は、「天神地祇」を祀るもので(ちなみに大嘗祭も天神地祇を祀る)、祈年祭では3132座の神、月次祭では304座の神を祀る。神祇官は天照大神の権威を使って、全国の神々を祀る(=祭祀権を持つ)ことができたのである。なお新嘗祭は、古いムスビノ神の祭りの名残と考えられる(伊勢神宮への奉幣がない)。

天照大神・伊勢神宮の成立は、単なる一神社の創建ではなく、「天皇」・「日本」・「天照大神」の三位一体で考えなくてはならない。天照大神の登場と軌を一にして倭→日本、倭王→天皇、という転換が起こり、天皇制国家が誕生した。天照大神は「天皇による日本統治のみにかかわる神(p.313)」であり、臣・民の神ではなかった。五重の垣に守られて、人々は伊勢神宮正殿に近づくことはできず、私に幣帛を封建することは重い禁断であった。

本書は全体として、細かい項目ごとに考察していくスタイルをとっていること、『日本書紀』がフリガナ(と送り仮名)がない漢文で引用されることから、なかなか読みにくいものである。とはいえ、考察が延々と続くわけではなく、項目ごとで見れば簡明で、史料に基づいて、あまり想像を交えずに結論を出していることから論旨は堅牢である。

ただ、少し気になったのは、明らかに上山春平『正・続 神々の体系』に影響されているように見えるのに、参考文献には一切挙げられていないことだ。『続・神々の体系』で述べられた「神祇革命」のアイデアは、本書によりほぼ論証されたと言える。上山がアイデア的に書いていたことが正しかったのである。著者の田村圓澄は、上山が専門の古代史家ではないので参考に値しないと判断したのではないかと思われるが、『正・続 神々の体系』を結果的に無視した形になったことは奇異な感じがした。

また、『正・続 神々の体系』で強調されながら、本書ではほとんど触れられないのが、天照大神のデザインにあたって藤原不比等が大きく影響しているのではないかという説である。藤原不比等が実際にどのくらい影響しているのかを実証的に述べることはできないとはいえ、影響があること自体は明白だ。本書は、実証的であろうとするあまり、意図的に藤原不比等の存在から避けているように見受けられる。

もう一つ不十分だと感じたのが、本書では豊受宮(外宮)は考察から外す、という立場であることだ。しかも、なぜ外宮を考察から外すのかは全く説明がない。伊勢神宮の特徴は内宮と外宮がセットとして存在していることなのだから、合理的な理由なく外宮を考察外にしたのは、重大な瑕疵のように感じた。

そのような欠点も散見されるものの、天照大神の成立を『日本書紀』の丁寧な読解で明らかにした堅牢な本。

【関連書籍の読書メモ】
『神々の体系—深層文化の試掘』上山 春平 著https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/10/blog-post_30.html
日本神話編集の背景を推測する本。藤原氏独占体制と日本神話との関係を探った重要な本。

『続・神々の体系―記紀神話の政治的背景』上山 春平 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/11/blog-post.html
前著『神々の体系』を補完する本。記紀神話を新たな視点で読み解いた先駆的な著作。

★Amazonページ
https://amzn.to/4bbJUMn

2023年11月4日土曜日

『続・神々の体系―記紀神話の政治的背景』上山 春平 著

前著『神々の体系』を補完する本。

著者は『神々の体系』で、記紀―『古事記』『日本書紀』―が藤原氏専制体制の確立のための神話として編纂されたことを主張した。しかしそれはいわばアイデア段階のものとして提示され、論証はさほど丁寧ではなく、古代史家からの反論もあった。そこで本書では前著を補完し、改めてその政治的背景を考察している。

私自身、前著の記述はいまいち全体のつながりがよくわからないところがあった。特に著者が述べる神々の体系、

アメノミナカヌシ→
【高天の原】イザナギ→アマテラス→ニニギ
【根の国】イザナミ→スサノオ→オオクニヌシ
→イワレヒコ(神武天皇)

が、どのように藤原氏専制体制に結びつくのかが前著では不明確だと感じていたのである。本書では、この体系の中に藤原氏の奉ずる神がどう包摂されているのかがまず述べられる。

すなわち、藤原氏の祖先神であるアマノコヤネとタケミカヅチがニニギの天孫降臨で付き従った神として描かれ、しかも『日本書紀』では妙に大活躍していることが指摘される。藤原氏は元来は中臣氏で、藤原不比等の頃に”祭祀をつかさどる中臣氏”と”政治に携わる藤原氏”に改めて分かれた。この際、中臣氏=アマノコヤネ、藤原氏=タケミカヅチと祖先神が整理され、中臣氏と藤原氏の分業体制が確立したと著者は考える。

これは神祇官と太政官が並立することとも無関係ではないだろうという。さらには、『古事記』と『日本書紀』の二本立ては、記が古代豪族への配慮、紀が律令制原理の貫徹を意図するという目的を持ち、中臣氏と藤原氏の分業体制を反映して編纂されたものだというのである(これはやや強引な見方で、本書の後半で著者自身により少し修正されているが細かい話なので割愛する)。

次に、高天の原と根の国の対立と統合については、前著ではその意味があまり描かれていなかった(なお、本書では「タカマノハラ」「ネノクニ」とカタカナ表記になっている。表記を変えた理由は不明)。本書では、高天の原は律令制原理、根の国は氏姓制を象徴するものとし、根の国は「黄泉の国」がいつのまにかすり替えられて、社会的な死者の国に変貌したものであるとする。大王家に服属したものたちが根の国系、大王の仲間たちが高天の原系と整理されて、服属が天孫降臨によって正当化されたというのである。

さらに著者は、記紀編纂のリーダーが藤原不比等であったことや、記紀の編纂年代(6世紀か8世紀か。著者は8世紀説をとる)、天皇という称号の成立の意味についての論証をしているが、いずれも状況証拠の域を出ないものであると感じた。

ともかく、こうした考証を経て、著者は大化改新の際に「神祇革命」が起こったと主張する。その内容は、高い神格を持っていたオオナムチがオオクニヌシの別名とされて根の国に位置づけられる一方、三輪山の神が一豪族の神から国家最高神に生まれ変わって伊勢に祀られるなど、神体系の組み換えが行われたとするものである。

つまり伊勢神宮は、古代律令制の確立に伴って新しく創建されたものなのだ。しかるに伊勢神宮の神事を『皇大神宮儀式帳』(平安時代に書かれたもの)で見てみると、それは「唐文化の影響をもろにうけた天平文化のおもかげを鮮やかに伝えて(p.152)」おり、「伊勢の伝統的神事が、「国粋的」というよりはむしろ「国際的」な色彩を濃厚に帯びている(同)」。さらに著者は神宮の歴史を供犠や遷宮、宮司・祭主・禰宜などの制度の変遷を簡単に振り返り、そうしたものが藤原・中臣氏の影響があったことで整合的に理解できると主張している。

すなわち、律令国家の成立にあたって、国家の側は各地に残る神話や神々を国家的レベルで統合することを企図し、国家(と藤原氏)に都合の良いように体系化した。さらに三輪山の神を辺境の地である伊勢に祀って国家最高神とした。こうしたことが7世紀の後半に行われたというのである。

本書は全体として、状況証拠を積み重ねていく形で論考が進んでいくので、「そうかもしれないが、その確たる証拠はない」という主張が多い。特に記紀の編纂については、やや単純化して考察しているように感じた。例えば、それらが藤原不比等のリーダーシップでまとめられたにしても、なぜ記紀二本立てにされたのかということを、中臣・藤原分業体制に求めるのは少し強引な気がした。そこには定量的・言語学的な分析が何もないためである。

「神祇革命」についても、仮に著者が主張する神話・神統譜の組み換えがあったとしても、それを藤原不比等の作為と比定しうるだけの根拠はなく、単に「天皇家の支配を正当化するため」で十分に説明できるように思う。

一方、そうした欠点を挙げることはできるが、それまでにない視点で神話の構造を考究したという点では、本書は大きな価値を持っている。また「神祇革命」自体については、その眼目が藤原不比等の企みではなかったにせよ、かなり確からしい説であると思われ、面白く読んだ。伊勢神宮の歴史についてはさらに調べてみたいと思う。

記紀神話を新たな視点で読み解いた先駆的な著作。

【関連書籍の読書メモ】
『神々の体系—深層文化の試掘』上山 春平 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/10/blog-post_30.html
日本神話編集の背景を推測する本。藤原氏独占体制と日本神話との関係を探った重要な本。

★Amazonページ
https://amzn.to/3UkX0RP

2023年10月30日月曜日

『神々の体系—深層文化の試掘』上山 春平 著

日本神話編集の背景を推測する本。

著者は、『古事記』と『日本書紀』の神話、特に『古事記』の神話に登場する神々が、整然とした体系を持っていることに気付いた。それは、

アメノミナカヌシ→
【高天の原】イザナギ→アマテラス→ニニギ
【根の国】イザナミ→スサノオ→オオクニヌシ
→イワレヒコ(神武天皇)

という、高天の原系と根の国系が対応し、イワレヒコで統合されるというものである。それは自然に成立したものというより、何らかのイデオロギーなり国家哲学があったのではないか、と著者は推測する。

では、その背景に何があったか。津田左右吉は大正時代に「記紀は天皇家の支配体制の正当化を神話によって表現したものだ」という説を唱え、それが無批判に受け入れられてきたが、著者の考えは、記紀の編纂は藤原不比等が中心になって行われたもので、記紀は藤原家支配の正当化のためになされた、というものだ。

周知のように藤原家は、大化改新で政権奪取の立役者となった中臣鎌足から政権の重臣となった新興家系である。その頃は「氏姓(うじかばね)制度」で、基本的に家格と役職が定められており、ある意味では江戸時代の身分制度に似ていた。だが藤原氏は新興家系であるため、氏姓制度での後ろ盾がない。そこで鎌足の子、藤原不比等は、平城京への遷都と律令制によって法治国家の体裁を整え、氏姓制度に風穴を開けたのだ……と著者は考える。

そして、記紀が完成したのが、どちらも不比等が権力の絶頂にあった頃であることを考えると、記紀の編集には不比等の意向が反映していたに違いないという。というのは、記紀は元明女帝の頃に完成しているが、元明を擁立したのは他ならぬ不比等である(と著者は考える)からだ。

元明は天智の子、天武の子(草壁)の妻であり、文武の母である。文武の妻(宮子)が不比等の子で、その子が聖武である。重要なことは、不比等にとって天皇家との縁戚関係開始がこの宮子と聖武にあったということだ。だから文武が僅か28歳で死去してしまった時、不比等としては是が非でも次期天皇は聖武(当時は首皇子。不比等の孫)に継がせたかった。そのためには中継ぎとして文武の母=元明を担ぎ出す必要があった。そして元明→聖武という祖母→孫へという権力継承を企図したのである。

これが、アマテラス→ニニギという祖母→孫継承の母型として表現されている、と著者は考える。また、神話の登場人物は当時の権力者になぞらえられているとされ、例えば不比等はタカミムスビに当たるという。さらに、皇統の父系相承の継承原理「不改常典(あらたむまじきつねののり)」は初めて元明の宣命によって出されており、聖武への継承を絶対のものにするために導入されたものだという。

では、これらの証拠はあるのだろうか。著者は2つの和歌を手がかりにする。第1が「ますらをの 鞆の音すなり もののふの(物部の) 大臣(おほまへつぎみ) 楯立つらしも」という元明天皇の歌。第2が著者が元明天皇の歌と比定する「飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば 君があたりは 見えずかもあらむ」という歌である。説明は省くが、これらは強引に即位させられ、平城京へ遷都させられた元明天皇のそこはかとない無力感が表現されているという。

しかしながら、著者は最初の神々の体系が、どう藤原氏独占体制に繋がっているのかをしっかりと説明していないように見受けられ、本書はアイデアの提示だけで終わっているような感じを受けた。実際、本書が発表されるや、多くの古代史家がこれに反応して批判した。

著者の専門は哲学で、日本古代史は専門ではなかったのだが、それまでの通説を違った角度から否定し、生き生きとした新説を提示したことで、本書はかなり大きなインパクトを与えることになった。この頃は学際的な雰囲気があって、梅原猛や梅棹忠夫らと共同して日本史や日本文化論を考察したことは、新たな「日本学」を作った。

とはいえ、本書は著者自身も認めるように不完全なものであり、『続・神々の体系』でそれが補完されることになる。

藤原氏独占体制と日本神話との関係を探った重要な本。

★Amazonページ
https://amzn.to/4bcQsdN

2023年10月16日月曜日

『女帝と道鏡—天平末葉の政治と文化』北山 茂夫 著

孝謙/称徳天皇と道鏡について、天平末期の政治状況から述べる本。

女帝・称徳天皇は病気を治してくれた道鏡を重用し、遂には道鏡を天皇として即位させようとした。しかし、宇佐八幡宮からの神託は「天皇は皇緒をつけよ」という道鏡の即位を否定するものだったため、その野望は果たせなかった。天皇の地位を皇子でないものが狙った、日本史において唯一の事件である。

本書は、天平末期の政治状況からこの事件を位置づけようとするものであるが、私はどうも内容に没入することができなかった。

というのは第1に、本書には一次史料に基づかずに筆を走らせている部分が非常に多い。最も重要な女帝と道鏡の関係については「情事」をたびたび述べているが、当然ながら一次史料には女帝と道鏡が情事を持ったことは書かれていない。よって「情事があったのではないかと考えられる」とすべきである。他の点でも、著者は通説を批判することなく用いている箇所が散見される。

第2に、出典が明記されず、史料批判が一切行われていない。道鏡関係については、『続日本紀』と『八幡宇佐宮御託宣集』(に収録されている史料)が、主な典拠史料になるかと思うが、本書にはいちいち出典が明記されていないので、どの史料に基づいて記述しているのかわからない。そして、『続日本紀』にしろ『御託宣集』にしろ、そしてその他の史料にしても、史料は何らかの意図を持って作られており、使用に当たってはその意図を吟味することが求められる。本書はそうした作業を経ずに書かれている。

第3に、後半はやや舌足らずな部分があるように見受けられる。本書では宇佐八幡宮神託事件における和気清麻呂の行動はかなり簡略化して述べているが、その後の考察では前に述べていない事実に基づいているなど、書き忘れたのではないか? という箇所がたびたびあった。新書版あとがきによれば、本書は一月ほどで書いたものだそうなので、足りない記載がいくつかあったのかもしれない。

このように、本書は一言でいって脇が甘く、現在の歴史学の水準から見ると緻密さに欠けるように思う。

ただし、女帝と道鏡を天平末期の政治状況に位置づけるという目的は、ほぼ達成されている。また、彼らの政治は仏教政治といわれるが、実際の政策には仏教はそれほど影響を与えておらず、むしろ唐風の統治機構を取り入れるなど、唐風政治の側面が大きい、という著者の主張には蒙を啓かれた。

そして、女帝と道鏡の歴史的意味については、その蹉跌によって国家仏教が終わった、という点が強調されている。これは通説の範囲であろうが、改めて言われてみるとその通りだと思った。

通説を無批判に用いているため迫力はないが、称徳天皇・道鏡の時代について見通しよく述べる平明な本。

★Amazonページ
https://amzn.to/497Uhzb

2023年10月13日金曜日

『暗殺の幕末維新史—桜田門外の変から大久保利通暗殺まで』一坂 太郎 著

幕末明治における暗殺を述べる本。

幕末には実に多くの暗殺や暗殺未遂事件が横行した。その数は百件を超す。また維新後も、数は減ったものの暗殺は続いた。本書は、そうした事件をほぼ時系列的に列挙して幕末維新の歴史を述べる「闇の維新史」である。

そのように暗殺が頻発したのは、日本史の中でも幕末しかない。それには天皇の存在が関わっていた。自らの考える「正義」が天皇に仮託され、「叡慮」を覆う奸臣、宸襟を悩ませる逆徒を誅することが「尊王」であると信じ、殺人をなんとも思わなくなってしまったのだ。

攘夷を叫ぶ人々が最初の標的にしたのは外国人だった。攘夷家たちは外国人によって神国が「汚される」と考えたのである。外国人暗殺事件の第一号は、安政6年(1859年)に、ロシア艦隊の水夫と海軍少尉が殺害されたものである。犯人は水戸の天狗党のひとりである。ハリスの秘書兼通訳のヘンリー・ヒュースケンも暗殺された。しかも犯人は捕らえられていない。イギリスが公館をおいた東禅寺は二度も襲撃を受けた。

開国に踏み切った井伊直弼が白昼堂々殺害された際にも、斬奸状には「実に神州古来の武威を穢し、国体を辱しめ」と非難されている。東禅寺襲撃犯の一人も「夷狄の為に穢れ候を傍観致し候に忍びず」云々という書を持っていた。外国人への反感が、「神国を穢す夷狄」という図式で正当化されていた。

しかし「文久2年(1862)以降は神国思想による狂信的なテロは少なくなり、政治的なパフォーマンスとしてのテロが主流になる(p.45)」。しかも確固たる理由があったのではなく、噂を真に受けて簡単に人を殺している場合が多い。国学者の鈴木重胤が暗殺されたのは廃帝の調査をしているという噂のためだった。暗殺者たちは、要路にある人物を殺害することで卑賤の身にすぎぬ者が政策決定に影響を与えるという誘惑に勝てなかったのである。

そういう殺害はやがて「天誅」と呼ばれるようになる。天誅第一号とみなせるのは、関白九条久忠の家士島田左近(文久2年)の殺害。犯人は薩摩藩の田中新兵衛であるが、裏には藤井良節らがいた。薩摩藩は過激な攘夷派を粛清した寺田屋によって評判を落としており、その人気を取り戻すためという側面もあったようだ。島田の首は青竹に突き刺されて鴨川の河原にさらされ、斬奸状には井伊直弼のブレーンだった長野主膳を批判しつつ、それと同調した島田を「天地に容れざるべき大奸賊也。これにより誅戮を加へ梟首せしむ者也」と述べてあった。グロテスクな見世物は大評判になり、人心を無視しえなかった彦根藩は長野主膳を斬罪に処している。天に代わって人を討つとは随分不遜な殺人があったものだ。

なお、田中新兵衛は後に土佐の武市半平太と意気投合。武市は「派手な暗殺で土佐の存在を京都じゅうにアピールしようとし(p.65)」ており、二人は京都に血の雨を降らせた。同じく土佐の岡田以蔵は、多くの大衆作品で描かれ人気があるが、彼は「殺人をゲーム感覚で楽しんでいた(p.71)」。桜田門外や坂下門外の浪士たちとは違い、岡田たちは「天誅」を大義に、「抵抗できない者をなぶり殺しにするサディスティックな快感に酔いしれながら、それを正義と信じていた(p.72)」。

治安を守るべき幕府の役人も標的になり、4人の首が処刑場にさらされた。これには薩長土と久留米藩の「志士」が関わっているという。町奉行所は報復を恐れて及び腰で、大抵の暗殺犯は捕らえられずに済んだ。治安が崩壊していたのである。

このように、文久2年は暗殺の年ともいうべき年であった。しかし高官を直撃するのはテロリストとしてもリスクが大きい。脅して黙らせるのが目的なら高官自身を狙う必要はなく、周囲の人物で十分だ。

文久3年(1863)、儒者の池内大学が殺され、その耳が三条実愛と中山忠能の屋敷に投げ込まれた。震え上がった二人は直ちに議奏を辞職した。岩倉具視や千種(ちぐさ)家も標的になった。先ほどの島田左近もそうだが、幕府側だけでなく朝廷側もかなり暗殺の被害を被っている。ちなみに公家自身が暗殺された最初は、攘夷公卿として知られた姉小路公知。過激な攘夷から態度を軟化させつつあった矢先の出来事であった。攘夷派は、国論が開国でまとまろうとするたびに暗殺でそれを妨害した。

こうした状況を受けて、会津藩主の松平容保(かたもり)は、暗殺が繰り返されるのは上下の事情が隔たり過ぎているからだとして、「言路洞開」が必要だとした。「言路洞開」はこの頃盛んに言われるようになっていた。容保はテロを取り締まるのではなく(というより町奉行所の取り締まりが期待できないので)、浪士たちを組織化して統率しようとし、その構想は後に「新撰組」として実現。奉行所と違って断固として治安維持を行ったので市民からの信頼を得た。

なお暗殺をしたのは浪士ばかりではない。例えば攘夷派の清河八郎は、新選組の母体の浪士組(芹沢鴨と近藤勇をそれぞれ中心とした2グループ)と朝廷を結び付けようとしたため、危険を感じた幕府によって暗殺された。また会津藩も、有栖川家に近づき宮家の警護を申し出た芹沢鴨を近藤グループに暗殺させている。

長州藩では、旗本の幕府からの親書を持ってきた中根市之丞が暗殺された。奇兵隊は中根が乗ってきた重陽丸を奪った上、藩がその返還を命じたのに返さず、ついには暗殺したのである。長州藩自身が奇兵隊に振り回されていた。この幕使暗殺という暴挙は、後に長州征討の理由にもなった。

孝明天皇が開国を勅許すると、「叡慮は攘夷にあり」と息巻いていた暗殺者たちは大義名分を失う。暗殺者たちは天皇の意を体しているつもりでいたが、孝明天皇は暗殺のような手段を憎んでおり、暗殺の横行は意に沿わぬものであったことは言うまでもない。

しかしその後も暗殺は続き、佐久間象山(開国を説いた)、中山忠光(攘夷公卿で長州藩に逃れたが、長州藩にとってはやっかいな存在)、イギリス陸軍の少佐と中尉、真木和泉の四男菊四郎、原市之進(徳川慶喜側近)、赤松小三郎(洋学者、薩摩藩に門人が多かった)、坂本龍馬、中岡慎太郎、伊藤甲子太郎(元新選組幹部、新選組に殺された)など、いろいろな立場の人物が次々と凶刃に斃れている。

幕末後期にあっては、暗殺はもはや異常なものではなくなり、各陣営にとっていともたやすく実行されるものになっていたといえる。攘夷・開国・幕府・藩・浪士など、主義主張や立場を異にする者たちが暗殺を使っていた。だが意外なのは、この時の最高権力者(天皇・将軍)が暗殺を用いた形跡がないことだ。下々の者は暗殺に狂っていたが、最高権力者の方は冷静だったのだろうか。

明治維新が起きると、明治元年(1868)1月に早速政府は暗殺を禁止した(暗殺禁止令)。そして暗殺が横行したのは「言路洞開」のルールがなかったからだとして、形の上では公然と意見を言えるようにした。それでも暗殺事件は絶えなかった。ここで本書では、明治11年までの代表的な暗殺事件について述べてその背景を探っている。

それを大雑把に述べれば、明治の暗殺者たちは「維新に乗り遅れたものたち」で、開国にかじを切った新政府を憎んで開化政策に反対していた。彼らは「維新」に裏切られたと思っていた。しかし幕末と違ったのは、そうした事件を起こした者たちが政府によってちゃんと裁かれたということだ。結局は、幕末に暗殺が横行したのは幕府の治安維持体制の弛緩による部分が大きい。

本書は最後に、暗殺されたもの・暗殺したものに対する顕彰運動について述べている。例えば明治40年、旧彦根藩の旧臣たちは井伊直弼の顕彰(銅像の建設)に乗り出した。ところが政府の元老たちは「井伊直弼は志士を弾圧した本人。顕彰などけしからぬ」と横槍を入れ、彼らに対抗して井伊を暗殺した浪士たちを「烈士」として礼讃。「桜田烈士五十年祭」を靖国神社で挙行した(主催はやまと新聞)。誰を顕彰し、誰を顕彰しないか、それは社会や政府の様々な思惑が働いていた。反幕側では、暗殺者は靖国神社に祀られ、官位の追贈を受けたものが多い。しかし全くそういう顕彰がなされなかったものもいる(例えば岡田以蔵)。

本書は、暗殺というテロ行為を主役にして幕末維新史を述べるものであるが、一言でいって、幕末の志士たち、少なくともその一部は狂っていた。天下国家を論じる大言壮語に気焔を上げながら、同時に人を殺すことをなんとも思っていなかった。それどころか、暗殺によって名を上げるために殺害に適当な人物がいないか探していた。武市半平太の門人の田中光顕は、京に上がって「さて誰を殺そう」と考えたというが、これなどはテロリストであるよりも、むしろ単なる殺人者であった。彼らは、芸者を侍らせ、一廉の人物として怖れられることを望んでいただけのならず者であった。

伊藤博文も噂話で人の命を簡単に奪い、しかもそれを終生反省していなかったらしい。正義が自分の側にあると信じて疑わなかったからだろうか。それとも、維新の過程は一種の「戦争」だったからだろうか。最近はあまり言われないが、明治維新は「無血革命」であったとされることがある。しかし多くの血が流されたことは間違いない。

明治維新の血塗られた側面を平易に語る良書。

★Amazonページ
https://amzn.to/3SxdkgI

2023年10月7日土曜日

『江戸の幽明―東京境界めぐり』荒俣 宏 著

荒俣宏が語る江戸の田舎めぐりの本。

本書は、「朱引のうちそと」を荒俣宏が歩き、江戸時代そこはどういうところだったか、どのような変遷があったか、見どころはどこかなどを自分史に絡めて語る本である。

では「朱引のうちそと」とは何か。江戸時代には、江戸は府内と郡部(郊外)が分かれていた。その境界は時代により変わって一定しておらず、しかも明快さを欠いていたが、江戸時代後期になってようやく境界が定められた。その地図を「朱引図」といい、府内が朱線で囲まれていた。だいたい四里四方の範囲であり、これは旗本が外出届不要で江戸郊外へ外出できる範囲でもあった。この範囲内がいわゆる「江戸」であり、大江戸八百八町などという「町」はこの内側にある。最も多い時で1700もの町があり、人口100万人を超える当時世界最大の都市であった。

では府内と郡部は何が違うか。要は、郡部は各地の代官が支配していた、ということが一番大きな違いのようだ。では府内は全て町奉行の管轄だったかというとそうでもなく、寺社奉行の管轄する場所(寺社地)や勘定奉行の管轄する場所もあった。そして町奉行が独占的に支配している地域が朱引の中にあり、これは黒線で表したため「墨引」の名がある。

ところが朱引の外に墨引がはみ出した地域がある。これは、江戸府内ではないが町奉行が管轄した地域で、具体的には目黒にあたる。目黒は森と山ばかりの地域であったが目黒不動周辺は門前町として栄え(他にも名刹が10以上あった)、そこに不法滞在する人が多かったので町奉行の管理を要したためと考えられる。

つまり江戸は、都市計画的に作られた境界のある都市ではなかった。徐々に町が拡大し、郊外との間に「朱引のうちそと」がまじりあう領域を持った膨張する都市だったのである。本書は、そうした境界部をめぐることで、江戸の周辺的話題を盛り込んだ本なのである。

しかしながら、江戸に都市計画がなかったわけではもちろんない。特に上水と水路(運河)については入念に整備されており、中心から放射状に延びる陸路と、環状または同心円状に造られた水路という二重構造が江戸をダイナミックに発展させた。

本書は約500ページあり、本書に描かれた江戸=東京は多様であるが、心に残った項目だけをメモしておく。郊外都市を人工的に生み出した田園調布、明治神宮のS字型に曲げられた参道、井上円了がつくった中野の「哲学堂」、明治の末まで「文化果てる地」だった田端文士村(芥川龍之介の居宅があった)、深川の八幡祭りの巨大かつ豪華な神輿(重量4.5トン、佐川急便の社主佐川清の奉納。鳳凰の胸には7カラットのダイヤモンド! 大きすぎて使えない)、馬込文士村(尾崎士郎、川端康成など)、銀座大火をきっかけにして築地から銀座へと繁華街は移ったこと、など。

ちなみに、著者が「本書は、私が刊行した書物のうちで、もっとも私的な要素を盛り込んだ本になったのではないだろうか(p.503 )」という通り、個人的な回想や私的な関連事項の記載が多く、これはこれで面白い。特に著者が力を入れて書いているのは著者の文学上の師匠である平井呈一についてで、平井が永井荷風から絶縁されて後のことなど、本書の主題からは逸れるのだが興味深く読んだ。

また、上述の田端文士村や馬込文士村だけでなく、文学とのかかわりがたくさん書かれているのも本書の特徴である。それで感じたのは、近代文学は文士たちの「お隣さん意識」に支えられて勃興したということだ。彼らはバラバラな個人だったのではなく、しばしば近所に住み、文学的な議論はもちろんのこと、奥さん同士が助け合ったり、困ったときに金を貸しあったりしながら作品を書いていた。新しい芸術を生み出すには、そういう「密度」が必要だとつくづく思った。

江戸の残照を感じつつ、いろんな話題を気軽に読める肩の凝らない本。

★Amazonページ
https://amzn.to/3u70cFM

2023年9月30日土曜日

『近世の解体(日本史講座 第7巻)』歴史学研究会・日本史研究会 編

歴史学研究会・日本史研究会の第4次の講座の第7巻。近代の国民国家の形成過程を述べる論文集。

「近世の解体」というタイトルからは明治維新後を思い浮かべる人も多いだろうが、本書に収録された論文のほとんどは近世は内部から解体していったという立場に立ち、その解体過程を述べている。

1 18-19世紀転換期の日本と世界」(横川 伊徳)では、幕府の置かれた対外的状況が概観される。従来、幕府では貿易統制を行ってきたが、外国船が来港して直接の通商を求められるようになり貿易統制政策が変化。貿易の緩和を志向した。そして自然発生的に発展してきた蘭学を体制内に取り込む(文化8年、蕃書和解御用の設置)とともに、軍備が強化された。

2 伝統都市の終焉」(吉田 伸之)では、江戸時代後期の幕府の商業政策を述べる。元禄7年(1694)、江戸では「十仲間」が結成された。これは江戸の代表的な商人の組合である。享保6年(1721)、幕府は商売人の組織化を目論見、多業種で組合を作らせた。幕府はこの組合を通じて、相場を報告させたり、販売数量を把握したりした(十仲間・十二品問屋体制)。文化度になるとこうした組合はあらゆる業種に拡大し、総額1万200両の冥加金の上納を対価に〆株として株仲間数を限定し、いわば公認カルテルのような体制を構築した。ところが天保12年(1841)、幕府は逆にこれら株仲間の解散を命じる。株仲間体制が物価の高騰を招いているとして、カルテル体制を厳禁して自由競争に転換したのである。ところが市場は混乱し、自由競争にしても物価は下がらなかった。そこで約10年後の嘉永4年、諸問屋が「古復」されて組合を以前のように再興させた。ただし冥加金はなく株札を幕府から交付もしなかった。本章は、近世の解体というよりは、幕府の商業政策の混乱・迷走を描いている。

「3 地域社会の成立と展開」(奥村 弘)では、身分制の解体について研究史を振り返りながら述べている。近世身分制の解体に新しい視座をもたらしたのが朝尾直弘の「身分的中間層論」である(庶民の上層が領主の御用を請けることで地域財政システムの一部を担い、中間層として成立していくこと)。一方、かわたもの(穢多)がその職能を物権化させ、また職能化していったことによる身分上昇も見逃せない。この二つはその力学は違っていたが、それまでの身分・職能・格式が一体化したあり方を崩すものとして共通していた。しかし幕府はそうした動きと同時に身分制の強化も図った。それにより、身分が曖昧になっていくのではなく、一見「新たな身分」が作り出されていくような形となった。明治維新が起こると、明治政府は職能と身分の分離を図り、身分を解体する方向となった。さらに廃藩前(明治3年〜)には、統治身分としての武士を解体していく。この頃は、賤民解放令に代表されるように、身分を解体するのではなくて、「身分的なものを認めない」という形に変わった。現実を認めてそれを変えようとするのではなく、非身分的な社会の仕組みを規定して、そこから逸脱したものを取り締まっていくというやり方に変わったのである。

「4 近世的物流構造の解体」(斎藤 善之)では、近世後期に発達した新興海運勢力について述べる。近世初期には、近江商人など幕藩権力や領主に保護された存在が海運を担ったが、天明の飢饉を契機として、農民的商品経済を担う新しい海運勢力が勃興した。北前船、奥州廻船、尾州廻船がその代表であり、この3つで全国の海岸をきれいに三分割してカバーした。これらの新興海運勢力の特徴としては、運賃積ではなく買積であり、市場競争原理が優越していたこと、魚肥など農民向けの商品を積んだことである。彼らの活動によって幕藩制流通機構が解体させられ、近代国民市場が内側から形成された。

5 明治維新と近世身分制の解体」(横山 百合子)では、近世後期と明治維新後における身分制の解体を述べる。なお、私はもともとこの論文を読みたくて本書を手に取った。なのでやや詳細にメモする。最初に、朝尾直弘の「身分的中間層論」と塚田 孝の「身分的周縁論」による諸身分の形成という2つの学説が批判的に紹介される。朝尾は武士と農民・町人の身分の流動化により中間層が生まれて身分制が解体したという見地で、大雑把にいえば身分が曖昧化していったという見方である。一方塚田は、社会的分業の進展によって諸集団が生まれ、その諸集団が公的認知を得て身分を形成し、新しい身分が複雑大量に存在したことで収拾がつかなくなって身分が形無しになっていったという見方。本章はこの2つの見方を接続するような形で身分制の解体を述べている。

まず、近世には身分と御用(職能・職分)が次第に分離していった。これは、御用を申し付ける集団が身分上昇を求めた結果、名字帯刀などの権利を得ることで、幕府としても身分と職能・職分は別物だという整理にならざるをえなかったからである。そして、身分と分離されたことで、こんどは職分が身分化するようになってくる。

例えば、ある種の職分にある者たち(例として下金買・屑金吹が挙げられている)は、支配系列を町人ではなく金座附にするよう求め認められた。「支配」とは、(本章には述べられないが)町奉行とか寺社奉行とか、私領主といった、要するに領域的支配権を持った者たちであるが、彼らは職分を盾に町奉行の支配を離れて、金座―勘定所支配系列に入ったのである。こういうことは多くの職分で発生した。だがこれは、町が身分的共同体であることをやめたわけではなく、むしろ町が身分的共同体であるという前提があったからこそ、その支配から脱したのである。

職分と身分が分離していったことは、当然、同じ業種に身分の異なる者(例えば町人と武士)が従事するということも多くなってくる。そして職分が身分化したということは、従前の身分が無意味化していったということでもある。このあたりが非常にややこしい。そもそも身分とは何なのか。身分は職分と結びついて成立した概念であったが、身分が職分と分離した結果、身分集団の固有の政治的性格が弱まり、身分が階梯序列という意味合いになっていくのである。

職分と身分の分離を象徴するのが、慶応4年、エタ・非人を統括する弾左衛門に対して縦隊取建の功を賞して「身分平人」としたことだ。弾座衛門はエタ・非人だからこそ、その身分集団を統括していたはずなのだが、身分集団を統括する、という職分に対して「平人」とする処置がとられた。このように、幕末における身分をめぐる状況はななり複雑なものになっていた。

明治維新後、政府はむしろ身分政策については揺り戻しの方向になる。明治元年に百姓地・町人地の所持は百姓・町人に限るという措置を行い、また東京では武士地・町人地を峻別するなど土地の身分的性格を再び明確にした。そして同年11月には京都府士籍法・卒籍法・社寺籍法の全国適用によって身分の確定と再編を進めた。しかしながら、武士身分を戸籍によって把握することは非常に難しかった。町人地に混在していた脱藩士や無籍者もいたし、支配の系列がいろいろだったからだ。そこで政府は武士地・町人地・社寺地の区別なく府下を取締六大区四七小区に区分して(元来は府兵制の区)、明治2年11月、この区を基に士族籍・卒籍を編成することにした。支配ごとではなくて、属地的に再編成するための「新しい身分」が士族・卒であったということになる。

また明治2年8月公布の東京府戸籍編成法は、弾左衛門傘下のエタ・非人以外の多様な周縁的身分(梓神子、町医師、検校、勾当、角力など)を市籍に統合し、結果としてエタ・非人(賤民)が峻別されることになった。市籍は、多様な人々を属地的かつ戸主を基準にして編成するものであり、従来の擬制的な「家」「店」を単位とする把握とは違った原理に基づいていた。そしてその形式主義が貫徹された結果、男性尊属中心主義が確立していった。

さらに明治4年には戸籍法が公布。これは住居地編成主義によって、全ての人を属地主義によって把握するもので、戸籍編成原理としては従前の身分はなくなった。住居地編成主義は治安維持を目的として採用されたものであることは疑いがない。つまり身分を否定する目的はなく、むしろ行政は身分制(少なくともそれまでの社会の仕組み)の存続を前提としていた。しかし「属地主義による住民把握」と「身分組織に依存する行政」は非効率的で、「一ツノ人民ニ二ツノ触頭」という状態に陥り、東京府は士卒・寺社触頭廃止を弁官に上申した。明治4年12月、「政府と東京府は、武士地・町地・寺社地の区別を撤廃して空間の身分的性格を否定し(p.160)」身分制が解体していったのである。身分制の解体の主眼は国民国家創出のために四民平等を進めた、というような話ではないのである。

6 移行期の民衆運動」(久留島 浩)では、百姓一揆の変質を述べる。百姓一揆は無秩序な暴動ではなく、村役人によって組織され一定の決まりに則った民衆運動である。また広域における合法的嘆願運動である国訴は近世の民間社会の到達点である。こうしたものが天保期から変質し、一揆の作法からの逸脱行為が目立つようになってくる。村はそうした逸脱行為を懸念し、それまでの一揆の作法を改めて自覚するようになるとともに、逸脱層である青年たちを村に改めて取り込もうとした。地誌の編纂は村の自覚を促すものとして機能したという。維新後は、国家に対決しつつも下からの国民形成に寄与した自由民権運動によって民主主義的思想は回収されていった。

7 文化の大衆化」(神田 由築)は、近世の大衆芸能の変質について述べる。特に家元制をとらなかった浄瑠璃を題材として、興行を成立させる「場」と浄瑠璃の業界団体(因(ちなみ)講)、素人とプロ、侠客との関係など、様々な面から検証している。しかし私は芸能については疎いため、あまり理解できなかった。ただし、芸能関係では親子ではなく師匠―弟子という文脈が重要だったことや(身分制と違う点)、近世的な芸能は素人も参画したものであったが、近代には文化の「消費者」としての大衆が現れてきたという指摘にはハッとさせられた。

8 産業の伝統と革新」(谷本 雅之)は、産業の近代化について述べる。産業の近代化というと、工業制手工業の発達、すなわち資本と労働の集積が想起されるが、日本の近世では、生産設備の大規模化や高度化を伴わない産業の近代化があった。本章では綿織物産業を例にとり、様々な面の展開を述べている。それを約すれば、農家の副業を主体とした労働を問屋制が統合し、流通面での組織化が図られたこと、決済手段が現金取引から信用決済に移行し、金融の発達を催したこと、また輸入綿糸が活用されたことにより、問屋制家内工業が成立したのだという(これを「在来型経済発展」といっている)。器械製糸工場によってアメリカ向け輸出品が作られた工場制工業化の流れもあった(長野県諏訪郡の例)が、維新後も「在来型経済発展」は、民間経済の枢要な部分を占め続けた。

9 蝦夷地・琉球の「近代」」(岩崎 奈緒子)は、近世においては体制外にあった蝦夷地・琉球が国内に取り込まれた過程を述べている。蝦夷地の場合は、それが取り込まれたのは明らかにロシアの脅威への対抗措置であった。蝦夷地警衛が実現するのが寛政11年である。これから松前藩への復領(警備費用の負担が大きかったため)、そして幕末の再直轄へと変化する。そして再直轄後には、明確に開拓の方向性が打ち出された。一方、琉球の場合は清との関係があってより複雑だ。幕府や薩摩藩は琉球へも外圧が来ていることに危機感を抱いたが、表向きには琉球は清に服属していたために現状を積極的に変更することはなかった。ところがアヘン戦争などで清の国力に対する疑義が生まれると、琉球は日本に従属しているとする立場へと転換し、維新後、台湾出兵を契機に日本の琉球支配を認めさせた。

10 明治維新論」(羽賀 祥二)では、明治維新の経過を理念的に捉えなおしている。特に「大政奉還、版籍奉還、藩政奉還(武器・兵員・城郭の奉還)、家禄奉還と続く、奉還運動を通じて天皇を元首とする主権国家は創出されていった(p.325)」ことを述べている。本論はいわゆる大所高所からの議論、といったものでここに要約することができないが、私が注目していた2つの史料が取り上げられていたのでメモしておく。一つは幕末に陸軍総裁の松平乗謨(のりかた)の「病夫譫語」(版籍奉還と酷似した主張)、もう一つは民部省の杉浦譲が立案した「戸籍法原稿」で、戸籍法の理念が復古思想によって基づいて主張されているものである。

本書は全体として、専門的に勉強した人に向けて書かれており、初学者には向かない。上述したように私は芸能に疎いため、「7 文化の大衆化」については結局どういうことだったのかよくわからなかった。他の項目も理解には粗密があり、正直なところ精読していない論文もある。しかしながら、要するに本書は「明治維新での急進的な改革がそれほどの軋轢を生まずに遂行できたのは何故なのか」を近世に溯って示したものなのである。

それは、既に近世には社会の様々な面で地殻変動ともいうべき変化が起こっていたからなのである。それは概ね天保期を境にしていた。近世幕藩体制の基礎となるシステム、身分、流通、商業、対外関係などが、各主体によるそれなりに合理的な判断によって徐々に変容させられ、結果として社会がそれまで通りには動かないようなものに変化してしまった。だからこそ人々は明治維新後の急展開の改革に対応することができたのである。その意味で、近代は近世に始まっている、とはっきりということができる。

近世後期から維新期の近代化を社会基盤から説明する専門書。

★Amazonページ
https://amzn.to/47ROL2L

2023年9月26日火曜日

『神と仏—民俗宗教の諸相—(日本民俗文化体系4)』宮田 登 編

神と仏をめぐる民俗文化の考察。

日本人の宗教観は、神(神祇信仰)と仏(仏教)の間で揺れ動いてきた。そしてその背景には、土着の民俗信仰があった。本書は神と仏を軸にして日本人の宗教観を考察する論考集である。

序章 神と仏―民俗宗教の基本的理解」(宮田 登)では、仏教受容の歴史を概観し、神仏習合を「神と仏の緊張関係」としている。そして民俗信仰や習俗に仏事が接近し、それを理論づけたりしてきた一方で、神祇信仰の方は民俗的なものに対して冷淡だった、と指摘している。もちろん神事は仏事も遠ざけており、12世紀に普及した呪法「神事札」は神事に僧尼を遠ざける呪法であったが、日ごろ召し使っている尼や入道はこれを憚らないなどという都合の良い注釈があったのが面白い。神と仏の間には、曖昧な領域が横たわっていた。

さらに、高取正男の「神仏隔離」を援用しつつ、死穢を忌んだのは国家の側で民衆は気にしていなかったことに触れ、一方で穢気の解除(祓え)の方法については、陰陽道との習合の結果、複雑化・多様化していったとする。「神道的な禊ぎをうまく用いつつ、形代や撫物の祓えの具を合理的に組み合わせた方法を陰陽師たちが導入(p.46)」したのである。陰陽道は神祇信仰にかなり大きな影響を与えているようだ。しかもそれは、自然発生的というよりは、支配者層の強烈な作為によるものであり、それがイデオロギーとしての神道を形成した。一方、民衆のカミガミは「淫祠」とされ、正統なものではないと位置づけられつつも存続していくことになる。

第1章 シャーマンの世界」(佐々木宏幹・山下欣一)では、まず世界のシャーマニズムを概観し、そのうえで日本のシャーマニズムの特色を述べている。シャーマニズムとはトランスや神がかりを伴うものだけでなくいろいろなグラデーションがある。日本の民俗信仰はそのような多様なシャーマニズムを内包しており、8~9世紀初頭には「託(くる)い」を役割とする卜者が重要な位置を占めていたという。この頃、神からの「託宣」が頻繁に出たことはその証左である。しかしながら、民俗的なシャーマニズムは神にも仏にも取り込まれていない領域が大きい。もちろん修験道を中心に、激しい修行によって神仏を感得するというような思想はあったが、それは神道でも仏教でも中心的なものではなかった。

さらに本章では、女性が中心になっている南島のシャーマン(ユタ、ノロなど)について述べている。それらは血縁や本人の生まれながらの資質が重要視されていることが興味深い。

第2章 女性司祭の伝統」(上井久義)では、古代の神事には女性の役割が大きかったことを述べる。例えば神の託宣をするのは女性であり、巫女は神事の中心的な存在であった。これは卑弥呼までさかのぼれる伝統なのかもしれない。

ところで、巫女が未婚の、あるいは婚姻を禁止された女性であったということは興味深い。しかしながら巫女が婚姻を貫くことはその継承に問題をはらむ。その点で斎王(いつきのひめみこ)は伊勢神宮で物忌みし祀りを担当した未婚の皇女であるが、これは未婚の期間を利用した幾分か合理的な方法である。

古代社会において高い地位を誇った女性司祭であるが、国家は男性司祭を正統として、女性はその補佐役として位置付けて行った。これは、託宣の重要性が低下していったことが背景にあるのかもしれない。しかし各地の民俗には、女性が受け持つ様々な神事が残されている。

第3章 仏教の民間受容」(伊藤唯真)では、仏教が受容される歴史を振り返り、どういう点が人々に訴えたのか述べている。神と仏は似ているが、様々な対照的な性格を持っていた。仏教は「他国神」「異国神」として受け取られたが、それは地域を超えた普遍神であったという指摘が面白い。また、神は遊幸し、仏は常在する、などというのもそういう違いの一つである。

第4章 神社と神道」(中牧弘允)では、神道の形成が批判的に検討される。日本人は神と仏をごちゃまぜにしているように見えて、実は両者を峻別してきた。そして仏教に対して意識的に神道は構成されたが、その思想的内実はなんだったか。それを著者は宗教的土着主義だという。そして神道が構成されるにあたり、「官の神」(延喜式神名帳にある国家に祀られる神)「野の神」(自然発生的な信仰や情念に導かれて祀られた神)の対立もそこには孕んでいた。

国家は、神祇官の設置や国家祭祀によって神々を再編成し、その頂点にある天皇の権威を高めた一方で、「野の神」は抑制した。有名な「常世の虫」の禁止や「夜刀の神」の殺害は、祀るべき神と祀るべからざる神を国家の方が決めていたことを示唆する。

やがて神祇祭祀は、道教や陰陽道の影響、禁忌意識や吉凶の理論が付加され、やがて神仏習合が進んでいった。ただし伊勢神宮は神仏習合の流れに逆らい、仏教を穢れたものとして扱った(仏教を表す言葉を忌詞(いみことば)にするなど)。また称徳朝の頃に出来た伊勢神宮寺は、徐々に遠ざけられ廃絶した。

鎌倉時代になると伊勢神道の「神道五部書」など、神道は仏教と思想的に対決するようになった。それらは道家や儒家の思想、特に陰陽五行説に拠って仏教と対抗したが、やはり神道の思想は多くが借り物であった。しかしながら意外なことに、著者は先述の通りその思想内容を土着主義だという。つまり、理論的には借り物だったが、内容は「しきたりの重視」とか「歴史」を尊ぶものだったということかもしれない(本章には詳らかでない)。ともかく、「「蕃神」「官の神」「野の神」、もしくは外来宗教、民族宗教、民俗宗教の鼎立こそ、普遍主義の蹂躙やシンクレティズムの進行を阻止してきた三極構造なのである(p.274)」。

第5章 民衆の宗教」(西垣晴次)では、記録に明らかでない民衆宗教の実態を、様々な傍証から推測している。例えば、神社を表す「社」には「ヤシロ」と「モリ」の2つの訓があるが、これは「モリ」から、建物を前提とした「ヤシロ(屋代)」への過程を物語るものであろう。また「モリ」は、森全体を神聖視していたのが、そのうちの一本を選ぶことで神木の信仰になっていったに違いない。この際注意すべき事は、それが「この木を切ると祟る」という、恐ろしい力から始まっていることである。

また、古くは水田よりも雑穀の方が民衆の主食だったと思われるのに、神事が米に関わることばかりで、雑穀にかかわる儀礼があまり見られないのは謎である。

民間には巫覡が多く活動し、権力の方もそれを無視できないほどであった。国家の側は民間の巫覡を詐巫(さふ)として批判したが、それは律令国家の側に取り込んだ真の巫覡がいたことを示している。どうやら詐巫の方は病気を治したり口寄せをする巫覡で、真の巫覡は神社に所属して託宣を得るタイプの巫覡であるようだ。国家は律令制の下で地方官社への奉幣制度を通じて地方官社の祭祀を中央のそれに組み込み、ひいてはその巫覡たちを国家に従属するものとして取り扱った節がある。

御霊会も初めは民間で行われたもので、それを国家が取り入れたのは民衆の宗教を体制のうちに取り込もうとする意図があった。しかしなんでも国家が取り込んだのではなく、御霊会に附属して行われた神の意志をうかがうための馳射(ちしゃ)、相撲(すまい)、騎射、競馬といったものは公の方には取り入れられなかった。

やがて律令国家の弛緩とともに国家祭祀の体系が解体されて、一宮、二宮制という国ごとの祭祀へと再編成される趨勢の中、民間では小祠を辻に建てることが流行。これを国家は「淫祠」として禁圧した。何を祀るべきか、祀らざるべきかを決めていたのはあくまでも国家であった。

第6章 魔と妖怪」(小松和彦)では、柳田国男以来の妖怪の概念を再検討し、「魔」と「妖怪」について述べている。本編は本書中の白眉である。柳田は神の零落したものが妖怪だとしたが、著者は「祀られていない超自然的存在」とみる。そして妖怪となることで祀られ、神となることを求めているのだという。これを宮田登は「祀り上げ祀り棄ての構造」と表現している。神→妖怪→神→妖怪、というこの可変性が「妖怪」を把握する重要なポイントだそうだ。

またしばしば妖怪は退治されるが、その後祀り上げられることも多い。退治するだけでは十分ではなく、その後に祀られるのが日本人の霊に対する観念を表しているようだ。

近世には「幽霊」が急激に変質する。それまでの幽霊は、メッセージを伝えるために生前の姿で出現していた。しかし近世には『東海道四谷怪談』のような幽霊芝居や絵画の影響で、幽霊は棺に納めた死人の姿で出現するようになり、また足がなかったり顔や体が異様に描かれるようになった。さらに恨みと幽霊が深く結合(恨みをもって死んだものが幽霊化する)した。

人が「魔」や「妖怪」または「幽霊」になる場合、西洋の場合は悪魔に魅入られるといった要因によるが、日本の場合は、自分自身の内面に生じた邪悪な感情(嫉妬、恨み、憎しみ)が度を超したときに自ずから変化するというのが著しい特徴である。

そして、そういう場合に行われるのが呪詛である。平安時代には貴賤を問わず禁呪道系・道教系の呪術・邪術、「厭魅」とか「蠱毒」といったものに魅了された。しかし度重なる弾圧によりそうしたものは姿を消し、呪禁師たちは姿を消したものの、陰陽道がそうした呪術の代わりを担うようになった。また修験者もそうしたものの一部を担ったし、民間では「憑きもの筋」の家は動物霊を使って不思議なわざを行った。民俗宗教の世界では、超自然に働きかける方法が多種多様に考案された。

ところが意外なことに、沖縄を例外として、「異界について想像力を働かせておらず、異界描写はきわめて乏しい(p.404)」。近世には妖怪が厖大に作り出され、描かれたが、彼らは日常の中の異界(つまり便所とか橋とか)におり、いわゆる「異界」にはいなかった。妖怪が流行したのは絵師たちに拠る部分もあったが、にしてもなぜ妖怪がクローズアップされたのか考えなくてはならない。「真に問題になるのは、「魔」や「妖怪」を必要としている「我々」のほうなのではないだろうか(p.412)」。

第7章 自然と呪術」(宮田 登・小野重朗)では、超自然に対する働きかけの全体像を述べている。呪(まじな)いと神仏への祈願はどういう関係だろうか。弘法大師が悪魔(磐梯山の神)を調伏したのは本当に仏教の領域のことなのか。民間には厖大な呪いがあり、それは神祇信仰や仏教、陰陽道の影響を受けているが、特に陰陽道の影響は大きく、「民俗としてある各地の唱えごとや呪文は、いずれも陰陽道に淵源を持つ(p.427)」。だが未だに陰陽道と日本の呪いとの関係の考察は十分でない。(以上、宮田。以下は小野による)

呪術は神の信仰を母体としていない。むしろ現実的合理的な知識から発した生活技術に基づいたものだと考えられる。例えば、奄美大島ではカネサル(庚申)の日にシマガタメ牛を殺し、その肉を食べるとともに牛の足を木に吊り下げた。これは何の意味があるか。この日は山の神が降りてくる日とされており、その日に栄養のあるものを食べて、しかも食べたことをわかるようにして、山の神の侵入を断念させたものと考えられる。ところがこの合理的な考えが忘れられ、「牛の骨の臭気でカネサルの神を追っ払う」というようになると、呪術らしい気配をまとっていった。「呪術本来の古い形は科学的な生活の技術であった(p.436)」が「それが非科学的、俗信的な方向に変遷する傾向を持っている(同)」のである。

川の神とか水の精霊の祭が、12月1日とか6月1日であるのも、鮮明で忘れない日を決めておいたことがあるのだろう。本章では水の神への畏れの習俗・敵対の呪術が、太鼓踊りという歓待の呪術へと転換した例を取り上げている。さらに虫送り、疱瘡勧進(病気送り)などが悪神への歓待の例として触れられる。ここで我が大浦町の疱瘡踊りが比較的詳細に記述されているのは面白い。疱瘡は言うまでもなく天然痘だが、疱瘡踊りでは疱瘡団子という団子を食べる。疱瘡対策のために栄養のある団子を食べるという知恵が、疱瘡神をもてなして早く次の村へ行ってほしいという踊りに発展し、そのために伊勢神を勧請する…というように、合理的思考から呪術へ、さらに信仰へ、という展開が見られる。

一方、竜神信仰を母体にしていると考えられる綱引き(十五夜綱の引き回し)が、やがて信仰が欠落し、綱の物理的な力で厄災をさえぎる「道切り」という呪術になった例もある。こちらは信仰から呪術へ、である。知恵、呪術、信仰は一方方向ではなく、様々に転換するようだ。さらに、呪術は「複雑な心意を伴う呪術から、簡単な呪術へ、さらに卜占へ、という変遷(p.460)」もあった。

本書は全体として、大変エキサイティングである。各編に論旨の重複がやや多いところがあるが、様々な角度から神と仏を見直しており、類書にない深みがあるように感じた。最も蒙を啓かれたことは、日本には、神と仏ではなく、それに民俗宗教を加えた三極構造があったということだ。

ただ、「民俗宗教」の用語は少し違和感がある。例えば、疱瘡踊りは概念的には「民俗宗教」の一部なのかもしれない。しかし「宗教」行事として行われていたわけではない。疱瘡を避けるための実用的な技術として行われていたのだ。「虫送り」(田んぼの除虫をするための習俗)も、田んぼから虫を取り除きたいという切実な必要に駆られて行われたもので、宗教的な意味を感じて行われていたのではない。同様に、本書に引かれる厖大な民俗的行事・習俗などは、全てが民衆の具体的な必要に応じて行われた「生活の技術」の一部であった。

ただし、「生活の技術」としての本来の意味が失われ、見せかけだけの合理的な説明が付加される(山の神を牛の骨の臭気で追っ払う、など)ことで、呪いに変化していくことは多かった、ということは言える。とはいえ、それが宗教・信仰であったかというとそうとはいえない。十五夜行事は呪い的な意味が大きいが、そのものは宗教とか信仰の一環とは見なせないだろう(現代においても行われているのだから)。このように、「民俗宗教」の中には普通の意味で「宗教」とされるものとは異質な要素がたくさん含まれている。そして逆に、「宗教」に必要な要素(例えば教義)は必ずしも備えていない。少なくとも、それは精神世界の理論だったのではなく、物質世界の課題を解決するためのものだった。

であるから、「民俗宗教」というより「生活の技術」あるいは「民間科学」といった用語が適当であろう。そして、神道や仏教も、そうした技術なり科学なりの一つとして受容されたと思われる。もっと正確に言えば、民衆の「生活の技術」「民間科学」は神道や仏教により潤色され、より洗練されたり、より呪術的になったり、より普遍的な基盤を与えられたりした。鹿児島では虚空蔵菩薩が疱瘡除けに効果があるとされたのもその一例である。

戦後、多くの民俗行事などが消えていったが、それは宗教的な意味よりも、例えば疱瘡(天然痘)の効果的な予防法が確立したこととより深く関連しているのだろう。

神と仏をより広い視野から捉えた名著。

★Amazonページ
https://amzn.to/3OhoYKn

2023年9月20日水曜日

『小栗上野介—忘れられた悲劇の幕臣』村上 泰賢 著

小栗上野介の評伝。

小栗上野介忠順(こうずけのすけ・ただまさ)は幕末における幕臣で、西洋にならった重工業の発展の基礎をつくった人物である。しかし維新後、おそらくはその有能さが危険視され、官軍によってあっけなく殺されてしまった。

本書はまず幕府使節がアメリカへ旅発つ場面から始まる。日米修好通商条約の批准書を交換するための渡航であった。正使、副使、目付(=三使)にはそれぞれ9名ずつの随行者がいてそれだけで30人。小栗上野介は、この三使の一人の目付である。また、その外に従者や諸国の藩士もいて総勢77名。彼らは三使が十万石の格式で行列するための装備を積み、アメリカが派遣したボウハタン号(外輪蒸気帆走船)に乗り込んだ。これに随行したのが咸臨丸で、こちらには勝海舟や福沢諭吉、ジョン万次郎が乗っていた。

この航海は、ボウハタン号はアメリカ人が運行していたのは当然として、咸臨丸の方も日本人は全く役に立たず、アメリカ人水兵たちによって運行されたというのが面白い。最初、日本人はアメリカ水兵たちの同乗に不満で「便乗させてやる」という気でいたそうだが、日本人は船酔いになっていた上、共同で事に当たるという習慣がなく(身分の違うものが同じ仕事を協力して行うという観念がなかった)、船の操縦は全く出来なかった。そんな中、ジョン万次郎だけがまともに働けたそうだ。

ボウハタン号の方も暴風雨の中を進み、日本人たちはずぶ濡れで船酔いになり、すぐにでもどこかへ上陸したくなった。彼らは、異国船打払令で上陸を拒んでいたことが、いかに非人道的なことであったかを身を以て知った。そして難渋している日本人を気遣うアメリカ人水兵の人間性に触れ、「攘夷」の気持ちはなくなっていったに違いない。そして、日本人たちは途中でアメリカ人水夫の葬式に提督以下が参加し、深い悲しみの真情を露わにているのを見て、上下の別なく情を通わせていることに感銘を受けている。こうして「次第にアメリカ人を「形式的な礼儀よりも真情でつながる人々」と理解(p.65)」するようになった。

ボウハタン号は、サンフランシスコにつき(咸臨丸はここで引き返した。何のための随行だったのかよくわからない)、パナマへ移動、パナマ鉄道を通って大西洋側に出て、ロアノウク号で海路ワシントンへ上陸した。そしてワシントンで一行は盛大な歓迎を受ける。日本人を一目見るため、4000キロも離れたところから人々が見物に来たという。それほどの歓迎を受けたのは、(1)物珍しかった、(2)日本の使節が大人数だった、(3)諸外国に先駆けて日本と条約を結んだという優越感がアメリカにあった、ためではないかという。ホイットマンの「われわれのところへ、/この時遂に東洋がやってきたのだ」という詩の一節は、その感興を伝えている。

彼らは7階建てのホテルに案内され、水洗便所など文明そのものの施設設備に驚愕した。

批准書の交換では、アメリカはまず日本式にやらせてから、再び西洋式で行っている。日本文化を尊重しているのだ。条約の内容はともかく、当時のアメリカは日本を一方的に下に見ていたわけではないことは明白である。なおこの頃は、アメリカは南北戦争前で心の余裕があった時期である。日本がこの頃にアメリカを訪問したことは運が良かった。

一行はさらに、ワシントン海軍造船所を視察。ここは船に関するあらゆるものを製造する総合工場で、日本では鍛冶屋が何日もかかって切るような鉄を豆腐のように切っていた。一行は「鉄の国」の力をまざまざと見せつけられたのである。この視察が後の横須賀造船所に繋がる。

さらにニューヨークでは市始まって以来ともいわれる大歓待を受けた。そして彼らは政府造幣局を訪ね、日米金貨の分析実験を行い、日本とアメリカの通貨交換レートに不当な差があることを認めさせた。小栗はこの試験を忍耐強くかつ科学的な態度で求めたが、その態度と知性はアメリカ人からも賞讃された。ただし、通貨交換レートの変更については幕府・ハリスともに事前に相談していなかったので、勘定組頭の森田清行がアメリカ政府と交渉を行うことを強硬に反対。結局、追って改鋳によって通貨交換レートは調整された。

そしてニューヨークを後に使節団は帰国の途に就いた。この際にアフリカ回りで日本へ帰ったので、結果的に彼らは世界一周した初めての日本人になった。この時にアフリカで奴隷を見て衝撃を受ける。彼らには友好的だった白人が、黒人奴隷には動物以下に接していることに「文明」の裏面を見たのである。

こうして彼らは帰国。しかしその頃攘夷の嵐が吹き荒れており、アメリカ船に乗った彼らは一切歓迎されることなく、アメリカでの見聞を語ることさえ憚られた。そのような中にあって、小栗はアメリカの進んだ文明を範とすべきと敢然と主張したのである。

小栗は外遊の経験から外国奉行に就任するが、上司の意見と対立して更迭される。しかし小栗は外国の事情に通じて経済面に明るく、しかも能吏であったために、「勘定奉行(勝手方)、江戸町奉行、歩兵奉行、陸軍奉行、軍艦奉行、海軍奉行……と、幕府の要職に就いては、上司の慣例前例に縛られた意見と衝突すると辞任し、また再任されることをくりかえし(p.115)」た。

そんな中での小栗の大きな功績は、横須賀造船所を造ったことである。幕府には、船は外国から買えばよい、造船所の建設には金がかかりすぎる、という意見もあったが、小栗は造る技術がなければ十分な修理もできないのだからどうしても造船所を造るべき、として老中にせまり決定させた。「いずれ売り出す(政権を譲り渡す)としても、土蔵付き売家の栄誉が残るだろう」と言った逸話は有名である。

造船所の建設はアメリカに協力を頼みたかったが、アメリカは南北戦争でそれどころではないためフランスに技術支援を依頼。なお小栗は造船所決定にあたり反対派の機先を制して軍艦奉行を辞任。日本側の責任者はフランス語がわかる小栗の盟友、栗本鋤雲に任し、小栗は実務家として携わった。そして造船所建設のため来日したのがフランスのヴェルニーである。彼はまだ29歳であったが有能で誠意に満ち、最初は若すぎて訝しんだ日本人たちも彼を信用して事業を進めた。

なお造船所は維新後、慶応4年閏4月1日に明治政府に引き継がれる。明治政府は支払いを苦労しつつその建設を進め、明治4年に第1号ドックが完成。国内外の船舶修理が意外な高収入となって当初の見込よりもかなり収支はよかったようだ。

この他小栗が手がけたのは、滝川野大砲製造所(水利に苦労し、完成はしたが稼働したかは不明)、横浜のフランス語学校の設立(幕府がフランス式陸軍を導入したことに伴うもの)が挙げられる。これらも維新後は明治政府が接収し、特にフランス語学校は中央幼年学校となって陸軍の首脳を輩出することになる。

また慶応3年には、日本初の株式会社「兵庫商社」の設立を提議した。これは大坂の商人に組合を作らせ、西洋との貿易を共同して行わせようとしたものである。それまで彼らは個別に取引をしていたため、安く買いたたかれ、また高く買わされていた。幕府は商人たちに商社の設立を命じたものの、幕府解散や経営の不慣れなどにより、うまくいかないうちに解散している。

時期は前後するが、勘定奉行として携わったのが「築地ホテル」の開業。この際も民間資本による株式会社の手法で資金を集めて建設させた。このホテルは、いわゆる安政五ヶ国条約によって宿泊施設を設けることが約束されていたことに対応するものである。これを小栗は今で言うPFIのような形で建設したのである。これは外国人には評判が良かったが、幕府倒壊などで経営はうまくいかず、完成後3年半で「銀座の大火事」によって消失した。

この他、小栗はガス灯設置や郵便制度、鉄道の建設といったことを提案している。彼はアメリカで見聞した「人・モノ・情報の流通の正確・安全・迅速・簡易・大量化が、いずれも近代国家に欠かせない社会基盤と見て、制度の導入設立を提案していた(p.183)」のである。

小栗は、幕府倒壊直前に勘定陸軍両奉行を解任された。主戦論を唱えていた小栗が、慶喜の煮え切らない態度に諫言したことが原因のようだ。彼は知行地の上州上田権田村に移住し、「前朝の頑民」となって一生を終わろうとした。彼は帰農して教育に携わろうと考え、「いずれこの谷から太政大臣(首相)を出してみせる」と決意した。実際、養嗣子又一は横浜仏語伝習所の最初の伝習生でフランス語に堪能、用人塚本真彦は数学、英語に明るく、荒川祐蔵と佐藤藤七も小栗とともに世界一周した若者であった。権田村には世界一周した人物が小栗もあわせて4人いたのである。

ところがここで事件が起こる。打ち壊し運動の矛先が小栗に向いたのだ。暴徒と化した2千人が小栗のもとに向かった。しかし彼は、暴徒たちに統制がとれていないことを見て取り反撃に出て、暴徒を追っ払った。その後暴徒を排出した四ヶ村は詫びを入れている。

しかし新政府はこれを「逆謀が判然とした」として小栗の捕縛を三藩に命じた。ところがそのような事実はないから、三藩の使者は小栗邸で丁寧な対応を受けて戻ってきた。これに東山道軍の軍監原保太郎(長州)と豊永貫一郎(土佐)は激怒。三藩の兵を引き連れて権田へ討ち入って小栗を捕縛し、取り調べもなく斬首した。小栗は幕府側の人物で戦わずして斬られた、ただひとりの人物である。

大隈重信の「明治の近代化はほとんど小栗上野介の構想の模倣に過ぎない」 、東郷平八郎の「日本海海戦の勝利は、小栗さんが横須賀造船所を造っておいてくれたおかげ」、という言葉があるように、小栗忠順は明治時代の「文明開化」を先取りしていた。しかしながら、それが十全に実現せず、幕府が彼の構想を実現できなかったのもまた事実である。そこに幕府の限界があったともいえる。

なお小栗は幼少期より安積艮斎(あさか・ごんさい)に学び、温かい指導の下で現実主義の思想を育んでいた。特に年配の結城啓之助と自由闊達な議論を戦わせたことは大きな影響を与えたようだ。しかし同年輩の上流武家の息子らから、頑固な理屈屋、天狗、狂人とまでよばれていたことは、彼のありようを知れて興味深い。相当な変わり者だったのは間違いない。

本書は全体として、平易で読みやすく、小栗上野介忠順の重要性を余すところなく伝えている。彼は新政府からは逆賊扱いであったために顕彰が長い間なされず、地元に「罪なくして斬らる」の石碑を建てた時でさえ、「天皇陛下の軍隊が罪の無いものを斬るはずがない」と難癖を付けられたほどである。維新史において、彼は表舞台にいなかったためによく知られているとは言いがたいが、「早すぎた文明開化」を主導した幕臣としてもっと取り上げられてもよいように思った。

文明開化を先駆けた幕臣を描く良書。

★Amazonページ
https://amzn.to/3UgFjTo

2023年9月7日木曜日

『桓武天皇—決断する君主』瀧浪 貞子 著

桓武天皇の皇統意識を考究する本。

本書はまず、桓武天皇即位までの皇統と政治的状況を詳述する。壬申の乱で勝利したのが大海人皇子こと天武天皇(弟)で、敗者が天智天皇(兄)の太子・大友皇子であるが、ここで皇統は天智系から天武系に移っていた。

持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙、淳仁、称徳(重祚)と、続く天皇は全て天武の血筋である。

ところが桓武天皇は、天智の子孫である。天武系とは血縁がない。ここで天皇の皇統が、天武系から天智系に戻ったのである…とされてきた。しかし著者は、桓武天皇はあくまで天武系として自らの血統を意識していた、と述べる。

その淵源は、天智の子の施基皇子(大友の兄弟)である。天武は自らの子4人だけでなく施基、川島という天智の子2人まで含めた6人を天武と皇后鸕野の子どもとして扱うと盟約したのである。これには、天智から政権を簒奪したことを正当化する意味(天智の子どもも自分を認めている、という形)と、贖罪の意味があったと著者はいう。施基は6人中では最も長生きしたので、最後の「天武の皇子」として立場が重くなっていった。

とはいえ、天武直系ではなかったから、天皇には遠い立場だった。ところが孝謙/称徳天皇には跡継ぎがいなかったため、施基の子の白壁王に白羽の矢が立った。白壁王が聖武天皇の娘(井上内親王)をキサキの一人に迎えていたことも有利に働いた。なお白壁王の擁立を推進したのは藤原永手であるらしい。こうして白壁王は光仁天皇として即位。なお光仁は父の施基に天皇号を追尊している。

次の天皇は、光仁と井上皇后の子・他戸親王であるのが自然だった。後に桓武天皇として即位する山部王は、光仁の別のキサキ高野新笠の子で、天皇の子どもではあるが皇統からは一段遠い立場である。しかも高野新笠は渡来系であったから、なおさら山部が即位する可能性はなかったのである。山部は天皇を支える事務官僚であった。

ところが、井上皇后は光仁天皇を呪詛したとして皇后の地位を剥奪される。そしてそれに連動して他戸皇太子(すでに立太子していた)が廃されたのである。それによって山部親王が突如として立太子した。これに前後して藤原良継と藤原百川がそれぞれの娘を山部に娶らせていることを鑑みると、山部の擁立は良継・百川兄弟の仕業であったことは間違いない。彼らは衰微していた藤原式家の挽回を狙い、敢えて即位の可能性のない山部を担ぎ出して、傀儡化することを計画したらしい。(なお百川は山部の即位前に死去した。)

こうして山部=桓武天皇が誕生した。そしてこの即位の翌日、早良親王が皇太子に立てられた。これは異例のことであった。皇位継承問題の混乱が続いたことを憂慮した桓武が、これ以上の政治的策動を避けるために早良の立太子を急いだのかもしれない(これが前例となり、平安時代には即位と同時に皇太子を定めるようになった)。

早良親王は桓武の弟で、幼くして仏道を志し11歳で出家、光仁の即位で親王禅師と呼ばれたが、立太子に際して還俗した。早良をわざわざ還俗させてまで立太子したのは、自らの血統を補強する意味合いと、親王禅師早良が仏教界に人脈を持ち人望があったためと考えられる。

桓武天皇が行った二大事業は、遷都と蝦夷征伐である。桓武は奇計により即位したことから、「強固な国家体制を新たに創出する以外に道はな(p.81)」く、その一つが遷都であったと著者は位置づける。遷都は「政治的パフォーマンス」だったとの見方である。また、棄都の大義名分は「歴代遷宮の慣習・伝統(p.85)」だったのではないかと著者は推測している。なお平城京では生活廃棄物の処理ができていなかったといった問題も指摘されている。一般的には遷都は南都六宗との決別が理由とされるが、著者はそれについてはほとんど触れていない(p.93に「重要な目的の一つ」とあるのみ)。

遷都事業は、藤原種継と和気清麻呂の働きによって実現し、特に種継が事実上のプロジェクトマネージャーだったようである。種継は長岡を視察して場所を決定、造長岡宮使に任命され、造営を開始した。そのわずか5ヶ月後、延暦3年11月、桓武は遷都を断行する。延暦3年が甲子革令の年にあたっており、11月1日が19年に一度の「朔旦冬至」という縁起の良い日だったからという。

工事を推進した種継は桓武の第一の寵臣になったが、翌延暦4年に暗殺される。捜査の結果、大伴家持・継人らが早良親王と示し合わせて種継を殺害し、早良を擁立しようと企てたものとされた。逮捕者の多くは春宮坊職員や造東大寺司の役人であった。しかしこの事件は不思議である。早良と桓武の間はギクシャクしていたと考えられているが、早良は既に皇太子であり、即位のために種継を暗殺する理由はないのである。著者はそう述べていないが、やはり桓武自身が、自身の嫡子安殿親王の立太子を実現するために早良を抹殺したと考える方が自然だと思う。

桓武は『続日本紀』の編纂にあたり早良の関係記事を削除していることも、自身が手を下したことの傍証であろう(その後、種継の子孫が記事を挿入し、嵯峨天皇が再削除した)。 早良は食を断って自死したとされるが、これも慫慂されたもののようだ。なお早良の廃太子は、天智天皇陵、光仁天皇陵、聖武天皇陵に奉告されている(山陵奉拝は桓武にとって重要な意味を持っていたらしい)。これは桓武の皇統意識を考える上で興味深い。天武系の意識が遠ざかって天智系が強調されるともに、聖武の存在が重要となっていた。

こうして、早良の抹殺を受け、安殿親王が立太子された(12歳)。この2週間前に桓武は交野で「効天祭祀(効祀)」を行っている。これは中国の皇帝が夏至・冬至に行う天神を祭る儀式である。日本では桓武が二度、文徳天皇が一度の3例しかない(3例とも代拝)。ここで桓武は天神(昊天上帝)とともに光仁天皇を神として祭った。なぜ桓武は効祀を行ったのか、著者はいろいろと推測しているが、安殿親王の立太子の正統性を確立する方策であった、という以上のことは不明である。

一方、長岡京の工事は種継亡き後も佐伯今毛人がついで遂行されたが、今毛人が高齢のため退いた頃から造都事業は狂い始めた。桓武も工事に積極的に関与するようになったものの、設計の甘さから工事が行き詰まった。どうやら測量がちゃんと行われていなかったらしい。さらに桓武が新造内裏「東宮」に移る前後より、相次いで不幸や異変が起こり、皇太子安殿が病気になった。これが陰陽師により早良の祟りであるとされ、桓武はすぐに淡路島に勅使を派遣して霊を慰めた。著者によれば、陰陽師が早良の祟りであると占ったこと、それを公表し手厚く霊を祀り陳謝したことは桓武の「演出」だったという。

祟りとの関連は不明だが、その半年後、長岡京は放棄される。理由はどうあれ、桓武にとっては手痛い失敗であった。こうして平安京への遷都が改めて実施されることになった。この際、賀茂大神や伊勢神宮、各山陵に遷都を奉告しているが、ここで聖武天皇陵が除外されているのが注目される。「皇統に代わってこのミウチ意識が桓武の拠り所になって(p.167)」いったと著者はいうが、これは素直に考えれば聖武路線からの転換を意味しているのではないか。

平安京の造営事業は、長岡京以上の大規模なものとなり、人びとの負担も大きかった。延暦13年(794)に遷都はしたものの、造営事業は道半ばであった。桓武は「徳政相論」という造営の可否を問う討議を家臣に行わさせ、その議論を踏まえて造営事業の停止を決断した。これは桓武の勇断を示すものとなったという。

なお桓武天皇には数多くのキサキがおり、結果として後宮が急速に発展し、城内にも位置づけられた。キサキたちはのちに「女御」と「更衣」に整理されてゆく。

この他、桓武天皇が力を入れた事業としては、先述のようにまず蝦夷征伐がある。なかなか戦果を上げられない軍に対し、桓武は口を極めて罵倒した。山陵に征夷を奉告しているのも興味深い。そして坂上田村麻呂を征夷使、ついで征夷大将軍に抜擢して大きな成果を上げた。著者によれば「造都と軍事」は政治的パフォーマンスとして結びついていたという。

次に遣唐使の派遣。桓武は、光仁天皇以来25年ぶりに遣唐使を派遣した。この際、別離の宴を全て中国式で行ったというのが面白い。また、出発スケジュールの混乱によって本来乗船の予定ではなかった空海が最澄とともに渡唐することになったのも面白い歴史の悪戯である。

次に法典の編纂・整備。養老律令を改定した「刪定律令」24条、「刪定令格」45条、国司の交替の法令集である「延暦交替式」などがある。また『続日本紀』の編纂においては、先述の通り早良の記述を天皇自身が削除するなど特異な経緯を持ち、自身の治政を書かせたのも六国史では『続日本紀』のみである。

本書は全体として、政局の記述が大部分を占め、社会情勢の説明や後世への影響といったものはほとんど書かれていない。桓武天皇は多くのキサキを持ち、子どもが多かったのでそこから「桓武平氏」が生まれたが、こういうことも不思議と本書では触れていない。また、長岡京への遷都、平安京への遷都もあくまでも政治的パフォーマンス、政局の結果としており、他の理由も書いてはいるものの、教科書以上に簡易な記述である。

このように政局の記述に大きなウエイトを割いたのは、通説の桓武天皇像を打破するためであるようだ。通説では桓武天皇は、(1)天智の血統であり、(2)早良親王の怨霊に怯えていた、とされる。うち(1)については、桓武はむしろ天武の血統を自覚していた、とする著者の論考は説得的である。また著者は、晩年の桓武は聖武へ回帰しつつあったとしているが、これも状況証拠的とはいえ首肯できる見解である。

一方、(2)については、著者の主張は「怨霊対策はたくさんやっているが、それは怨霊を恐れたためではなく、自らの正統性を高めるための政治的手腕であった」とまとめられる。だが、所詮桓武の内面を知るすべはなく、怨霊を恐れていたかどうかはわからないとする他ない。そして、度重なる怨霊対策(早良親王に崇道天皇号を追号、墓を山陵とする、山陵へ僧や陰陽師の派遣、淡路国へ常隆寺を建立、崇道天皇の命日を国忌に、崇道天皇陵の大和国への改葬、冥福を祈った一切経の書写、諸国分寺の僧に春秋二季の読経を命じた)が行われたのは事実であり、「怨霊に気を遣っていた」のは間違いない。

また、著者はたびたび「桓武は決して仏教そのものを否定したのではない。桓武が忌避したのは政治に介入した奈良仏教、都市仏教である(p.188)」というようなことを述べている。例えば早良親王=崇道天皇の霊を慰めるために淡路国に常隆寺を建立するなど「仏教そのものを否定したのではない」というのは理解できる。しかしこの時代には奈良仏教・都市仏教以外はかなり脆弱である。地方寺院はあったがやはり奈良仏教が中心であった。桓武が仏教の9割以上を忌避しているのは確かだ。

実際、平安京の造営にあたっては、南都六宗の平安京への移転を認めず、洛中には東寺・西寺のみしか許さなかった。それどころか、平安京への寺院建立自体が見られないことを見ると「桓武が忌避したのは政治に介入した奈良仏教、都市仏教である」との主張も若干怪しい。また、南都六宗は、平安京の近隣(城外)への移転も行っていない。これは不思議なことである。南都六宗は、やろうと思えば城外へは移転できたはずなのに、なぜしなかったのか。

そもそも、桓武天皇が(長岡京や)平安京へ遷都しようとしたのは、南都六宗の仏教勢力の力が強くなりすぎ、それと決別するためであった…と通説では言われるが、では南都六宗の勢力を抑えて遷都を敢行できた、その政治的な力の源泉はどこにあったのだろう。

本書によれば、それは敵対勢力の粛清によるものであった、ということなのかもしれない。早良親王の排除はその典型であるが、そもそも桓武天皇自身が藤原式家の策動によって擁立された天皇であり、いわば「政局に乗るのがうまい」というのが、桓武の政治的な力だったのかもしれないと思う。

なお、桓武は亡くなる2ヶ月前に勅を下し、「災害を除去して福をもたらすには仏教がもっとも優れている、朕は仏教を盛んにして人びとに利益をもたらしたいと述べている(p.263)」。これは、最澄が天台宗に年分度者を要請したことに応えた中にある言葉であるが、やはりそれまでは「仏教を盛んに」してはいなかった、という自覚があったのかもしれない。やや政策の転換を感じさせる意味深な言葉である。

ところで、著者はずいぶん桓武に共感・感情移入しながら本書を執筆しており、例えば「桓武の一途な思いが伝わってこよう(p.218)」、「征討を「板東の安危」と捉える桓武の並々ならぬ決意に、身震いがする(p.212)」、「早良に対する桓武の心情には、兄弟への睦まじさが秘められていたように思われる(p.259)」、といった調子で、特に後半に行くほど桓武への共感・感情移入が多くなる。歴史を考察する場合は、ある程度その対象から距離を置き、事実から冷徹に論理を導き出さねばならない。その点で、本書はやや危なっかしいところがあるように思う。素人がこのように批評するのは僭越であるが、率直な感想である。

また、『桓武天皇』をタイトルにした新書にしては、著者の関心事項の考証が長大で、桓武天皇の事績を端正にまとめたものとは言えない。これは専門書での出版が適切だったのではないか。だが、これは著者ではなく編集者の責任かもしれない。

桓武天皇を政局から見直して通説を打破しようとした本。

★Amazonページ
https://amzn.to/3Umm7TY

2023年9月2日土曜日

『古代寺院の成立と展開』岡本 東三 著

古代寺院の建立を概説する本。

本書は、仏教の導入や古代寺院の建立について、政治的な文脈から述べるものである。欽明朝において仏教は私的な信仰から政治的イデオロギーに転化していき、在来の自然神とは違った役割を負うようになった。

蘇我氏と物部氏の戦いの後、勝った馬子が飛鳥寺を、厩戸皇子が四天王寺を建立したことで、それは「政治的モニュメント」「政治的デモンストレーション」となった。国家が仏教を受容することは東アジアの国際秩序を共有するという「ヤマト政権の「古代化」あるいは「文明開化」を意味(p.8)」したのである。

そして古墳は、寺院造営に置き換わる。つまり寺院は国家的なモニュメントとしての役割を帯びたのだった(「古墳から寺院へ」)。その後も古墳は作られるが、前方後円墳体制は終わる。仏教が古墳という葬送装置を駆逐したことは副次的な影響ではあったが、その後の仏教の歴史を鑑みると興味深い。

当初、寺院は貴族の邸宅の一部に仏像を安置するような形態(捨宅寺院)であったが、ついに飛鳥には伽藍が建立される(飛鳥寺)。それはまさに文明を象徴し、また蘇我氏専制体制を象徴するものであった。642年、「僧正・僧都・法頭」と呼ばれる僧官制の原形となる統制機関が飛鳥寺に置かれ、飛鳥寺は国家的・公的な寺院となった。

本書では飛鳥寺の造営過程について触れ、それが未熟な技術ではなく、完成された技術を導入する形で行われたことを述べ、また瓦の文様を概観し、寺院建築がどのような経路でどう伝播していったかを簡単にまとめている。また7世紀中期の地方寺院については山田寺式軒瓦が関与しているとし、孝徳朝の評制施行の地域再編に伴う在地の動向として捉えられている。

しからば地方豪族はなぜ寺院を造立したか。それは国家の場合と同じく、「「古墳」にかわる新しい在地の支配秩序・支配原理の確立は必須で(中略)、祖霊追善と現世利益の普遍性をもった仏教に求め(p.61)」たからである。

他方、川原寺式の瓦も全国に広がっていったが、それは壬申の乱に対する地方豪族への論功行賞から寺院建立が始まったとする学説が紹介される(八賀晋の説)。さらに法隆寺西院伽藍について詳しく紹介し、法隆寺式軒瓦の全国分布について述べている。

天武朝になると、国家仏教体制の基盤が整えられる。673年僧官制の改革、677年大官大寺の整備、680年諸寺への食封(じきふ)の停止(←意味深)が打ち出され、685年「家毎に、仏舎(ほとけのおおとの)を作りて[…]礼拝供養せよ」という詔が発布された。この時期にはおそらくはこれに呼応して郡ごとに地方寺院が作られた。

さらに国家仏教の総仕上げとして「僧尼令」が制定され、仏教は国家祭祀となった。ところで藤原京には紀寺・本薬師寺・大官大寺の3つがあったが、都に紀氏の氏寺があったのが謎だということだ(氏寺ではなかったのか?)。

都が平城京に移ると、さながら仏教都市の様相を呈し、後に南都六宗と呼ばれる諸寺院が出来上がった。しかし郡司や豪族層は、仏教があつく保護されていることを逆手に取り、所領や財産を寺に移して保全する行動をとり始めた。財産保全のために寺が乱立したのである。こうした弊害を是正するため、得度・受戒のシステムを整備するとともに、713年には諸寺の田記の誤りを修正させ、寺田対策として716年に「寺院併合令」を発した。また721年には按擦使や大宰府に命じて併合令の徹底化を図っている。これは一定の成果をあげ、735年に併合令は終結している。

741年には国家仏教政策が転換し、地方に国分寺・国分尼寺の造営を命じた。が、督促令まで出したにもかかわらず国分寺は完成せず、しかも各国でつくられた国分寺は国家統制が十分になされず千差万別なものとなった。そして仏教は国家主義的な色彩を帯びてはいたが、次第に民衆にも受容され、墾田永年私財法の発布以降は、村落内寺院がどんどんつくられるようになるのである。

本書は全体として、仏教の置かれた政治的状況が要領よくまとめられており、古代仏教については教科書レベルの知識しか無かった私にとっては蒙を啓かれる思いだった。ただし、ある程度知識がある人を対象にしているのか、簡潔すぎる記述が却って謎を深める結果になった部分もある。例えば上にメモしたように、政府は680年に諸寺への食封を停止しているが、これは寺院保護の趨勢とは逆のようで気になった。

ともかく、仏教は日本へは政治的なものとして伝わり、政治的な存在として発展した。地方豪族層や民衆も、それを(少なくとも当初は)政治的なものとして受け取ったということになる。しかしそれは、仏教が皮相的にしか理解されていなかった、ということにはならない。例えば政治的というならば、古墳も政治的な産物であったが、古墳は日本在来の思想によってつくられていたに違いない。そして古墳を寺院が駆逐したということは、政治的なモニュメントの交代以上のものがありそうである。古墳による死後の観念が、仏教による死後の観念に置き換わったということだからだ。この点はさらに詳しく知りたいところである。

古代寺院をキーワードに古代仏教の政治性を語る啓発的な本。

★Amazonページ
https://amzn.to/3vRE2bf

2023年9月1日金曜日

『神道とは何か—神と仏の日本史』伊藤 聡 著

神道の歴史を概観する本。

神道とは古代より連綿と受け継がれてきた神祇信仰ではない。今の神道は明治政府の神仏分離政策によって、いわば政策的に生み出されたものである。では元の神道はどうだったか。実は、いつ神道が生まれたのかということすらも、古代から近代(!)までいろいろとあり、定説はまだない。よって本書では、神道以前の神祇信仰から説き起こし、近世に至るまでの仏教を含めた信仰世界の歴史を概観することで神道の形成について述べている。

古代においては、カミやマツリという言葉、崇仏論争、神仏習合、法楽(神のための造寺造仏)、八幡神、本地垂迹説、陰陽道や修験道などについて簡単に整理している。神祇信仰そのものというよりは、紙幅のほとんどは仏教の動向について費やされており、意外と神祇官など神祇制度についての記述は簡略である。

また、道鏡失脚後に光仁天皇が神事から僧侶を遠ざけた平安時代の神仏隔離が取り上げられる。これは高取正男が『神道の成立』で提唱したもので、神道成立の画期とされている。

この趨勢の中で伊勢神宮でも神仏隔離が行われ、僧侶の参拝を禁止した。しかしながら、その理由はいまいち明瞭でない。しかも伊勢神宮の神官(祭主・大宮司・禰宜)には、退職後あるいは死の直前に出家しているものが多く、後の廃仏のような思想はなかったようだ。伊勢神宮の神官は、神と仏の間で苦労していた。

そういう中で、天照大神の本地は観音だとか、大日如来だとかいう説が登場する。観音説は伊勢神宮の内部から出てきており、大日如来説の初見は真言宗小野流の成尊の書『真言付法纂要抄』にある。後者の場合、仏教的には「粟散辺土」(延喜17年(917)の『聖徳太子伝暦』)とされる日本を、天照大神・天皇の存在によって「神国」と逆転させる密教化した神国思想が展開されており、明らかに仏教側が伊勢神宮にすり寄っている気配が感じられる。

東大寺の復興に尽力した重源の場合も、伊勢神宮(内宮・外宮)に大般若経をそれぞれ奉納するよう求め、これにより前例のない神宮法楽供養が行われている。行基信仰においても、彼が東大寺建立のために伊勢神宮に参って天照大神の示現を得たという説話が登場する。この頃、仏教勢力は伊勢神宮の存在にずいぶん頼っていたということは間違いない。

こうした動きに呼応してのことであろう。伊勢神宮周辺でも、後に「両部神道」を形成する教理書の一群が製作された。伊勢神宮の祭神・社殿・由緒等を仏教教理によって説明したのである。中でも重要なのは、志摩国吉津の仙宮院で撰述されたと考えられる『中臣祓訓解(なかとみのはらえくんげ)』である。これらの書では、伊勢神宮の内宮・外宮を胎蔵界・金剛界曼荼羅になぞらえ、社参自体を一種の灌頂作法と見なしている。

さらに鎌倉中期以降は仙宮院以外にも広がり、両部神道書がどんどん登場した。それらの中で後世に大きな影響を与えたのが後醍醐天皇に仮託された『麗気記』であり、「これは南北朝期以降、『日本書紀』と並ぶ中世神道の最も重要な聖典と見なされるようになった(p.96)」。

一方の伊勢神宮では、こうした動きと前後して外宮の渡会氏が「伊勢神道」を形作っていた。外宮が内宮と同格(さらには優越)であることを示すために構築された神道理論である。まず『造伊勢二所太神宮宝基本記』、次いで『倭姫命世記』、その後、文永・弘安頃までに『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『豊受皇太神御鎮座本紀』がなった。これを後に「神道五部書」という。これらでは、天照大神は天御中主神と同体とされ、また内外宮を胎金両界とするなど両部神道の理論が援用されている。しかしながら南北朝期には渡会氏は南朝につき、南朝の衰亡とともに力を失った。

南北朝期から室町期では、仏教側では神道書が伝授されることで次第に流派が形成された。細かい違いは省くが、三宝院流、三輪流、西大寺流、御流などが生まれ、中世末期には「神道に十二流あり」と言われている。御流では、天照大神が如意宝珠の垂迹だと考えていたことが面白い。これらは真言系が多いようで、比叡山(天台宗)の方では山王一実神道が生まれている。黒田俊雄は「神道は仏教の一部だった」としたが、それはこうした状況を述べたものだろう。

鎌倉新仏教では、(1)法然・親鸞は神祇不拝だったが、浄土宗ではだんだん神道説を導入した。(2)時衆は一遍が各地の神社をめぐっており、神祇信仰を全面的に受け入れた。(3)臨済宗では、台・密・禅兼修を基本としたことから神祇信仰と融和的で、特に円爾の聖一派では神宮との関係が深い。室町後期には吉田神道に学ぶものが出、近世神道の揺りかごになった。(4)曹洞宗は、瑩山紹瑾が本地垂迹思想を受け入れ、禅僧が在地の神々を化度・帰伏させていくという説話が生まれた。(5)日蓮宗では護法善神思想を受け入れ、三十番神信仰を導入した。三十番神信仰をめぐって吉田兼倶から論争を仕掛けられているのが面白い。つまり、鎌倉新仏教では浄土真宗を除き、神祇信仰と融和的だったのである。

こうした仏教と神祇信仰の融和により、どんどん新しい神格が追加されていった。本地垂迹説による実神・権神に加え法性神(本覚神)、蛇神(垂迹した神は蛇体と観念されたのが不思議)、神は心に宿るという観念、御霊信仰から発展した人神信仰(豊国大明神、東照大権現)、御法神、習合神(蔵王権現、牛頭天王、荒神)、外来の神(泰山府君、媽祖)、弁財天や鬼子母神などの女神信仰といったものである。「弁財天は宇賀神と同体」などとするような、神格をつなげる理論が盛んになる一方で、神格が整理されるのではなく、むしろ乱立する方向になっていったことが興味深い。

また、多種多様な神道(に関係ある)説も登場。天皇の世は百代をもって滅亡するという「百王思想」、『野馬台詩』や『聖徳太子未来記』といった予言書、そして『日本書紀』の再解釈ともいうべき「中世日本紀」(神話記述の総称である「日本紀」の名のもとに、多くの異説・異伝が付け加えられて成立した新たなテキスト群)が中世国家へと変質していく平安末から出来上がっていった(先述の「神道五部書」などもその一環)。

そういう動きによって出来上がっていったのが「中世神話」である。例えば、大日印文・第六天魔王をめぐる国土創生神話(第六天魔王が三種の神器を授けたとか!)など面白い。それらの神話は、以前からの神話の表面上の記述の背後にある別の意味を見出し、意味を重ね合わせることによって変奏したものであった。

中世神話の中で肥大化し、後世に大きな影響を与えたのが神功皇后の三韓征伐神話。これにより朝鮮蔑視が増幅された。『八幡愚童訓』で「新羅国の大王は日本国の犬」という言説が書かれたことは、後の秀吉の朝鮮出兵へ繋がっていく。

近世神道については、著者の専門である中世に比べだいぶ簡単な記述である。まず吉田兼倶の吉田神道の成立について述べる。それは吉田家の『日本書紀』研究を土台にしてはいたが、密教修法の模倣による祭祀儀礼の創出、捏造による古代からの権威の創出といったことが綯い交ぜになっていた。吉田神道は、独自の教義・経典・祭祀組織を持った、自立した神道を始めて形成した。

また、近世神道では「天道」の概念が重要となった。これは「思想の還俗」を象徴するものであるという。さらに鎌倉期以来の諸教一致思想が進む中で、易・道教(老子)・仏教(密教)・儒教が全て「神道」なのだと吉田兼倶は言っている。これは、神道が根本で、道教や仏教はそこから派生したものなのだ、という倒錯した立場である。しかし神仏儒三教一致思想は、石田梅岩や手島堵庵など心学でも盛んに言われるようになった。

さらに、儒家は神道を再解釈し「儒家神道」を生みだす。林羅山は『神道伝授』『本朝神社考』を著して理当地神道なる独自の神道を早くも生みだしていたが、やはり山崎闇斎の垂加神道の影響が大きかった。これは朱子学の「理」の概念を「神」に結びつけ、習合的理解ではなく、神道を倫理主義的に理解することによって生みだしたものである。

そして、神道は国学と接続していく。これは、基礎的文献の出版によって中世的な附会説が排斥されて、実証的研究が行われるようになったことを背景としていた。中世に生みだされた典籍が偽書として指弾され、神話や古典が批判的に見直されたのである。ところが平田篤胤以降、再びそこに宗教性が導入されていったのは皮肉である。

最後に、「神道」の成立について著者の見解がまとめられており、それを要約すれば、(1)仏教の本地垂迹説の影響を受け神を教理化した中世期が一つの画期であり、それは「神道」の読みが「ジンドウ」から「シントウ」へ変化したことでも根拠付けられる(マーク・テーウェンの説)が、(2)神仏分離・廃仏毀釈によって仏教と分離したことによって民族宗教としての神道が成立した、とまとめられる。

本書は全体として、著者の専門である中世期を中心に神祇信仰の変化を詳述するものであるが、神道成立の画期である近代はほとんど全く触れられず、近世についてもかなり概略的である。特に江戸幕府による神道統制について等閑に付したのはバランスが悪かったと思う。また、時代が行ったり来たりするのは頭の整理に苦労した。ただし中世については新書を超えるレベルの専門性があり、大変参考になる。

なお、神道説の随所に聖徳太子が出てくるのに興味が湧いた。太子信仰と神道の繋がりは本書にはまとまって書いてはいないが、神仏融和の象徴として聖徳太子が扱われていたのかもしれない。

中世神道を中心に、神道の多様な側面を描いた良書。

【関連書籍の読書メモ】
『神道の成立』高取 正男 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/07/blog-post_21.html
神道の成立過程を丹念に辿る本。神道成立前夜の動向を、細かい事実を積み重ねて究明した労作。

★Amazonページ
https://amzn.to/3vHVheP

2023年8月19日土曜日

『上野寛永寺 将軍家の葬儀』浦井 正明 著

寛永寺の実態を述べる本。

東叡山寛永寺は、徳川将軍家の祈願寺であり、4代家綱からは菩提寺ともなった。将軍家は政策的に寛永寺の権威を高め、仏教界の頂点においた。

しかし、明治維新が起こると旧幕勢力(彰義隊)がここを本拠地とし(一山の関係者は所払い=追放されていて不在となり、戻ってきたのは明治2年2月26日)、新政府軍がこれを討伐すると上野は火に包まれ、ほとんどの建物は灰燼に帰した。その後、上野は明治政府の象徴的な施設建設用地として使われ、上野公園や動物園、博物館、美術館など「近代国家日本」をアピールする文化風致地区になっていったのはよく知られている通りである。

本書は、寛永寺の在り方と、将軍家および一品法親王の葬儀の実態を資料に即して述べるものである。

寛永寺の本坊落成は寛永2年(1625)。寛永寺は、家康没後、秀忠が天海に上野の台地を寄進し、将軍家の祈願寺として建立された。増上寺(浄土宗)が将軍家の菩提寺であり、祈願寺としては浅草寺があったが、寛永寺はこれらの寺院とは隔絶した壮大なプランをもっていた。

それは、比叡山延暦寺を江戸に模倣するというものであった。天海はその山号を東の比叡山の意で「東叡山」と名付け、延暦寺にならって創建時の年号「寛永」をつけるため、わざわざ勅許を受けている。また立地も、たまたま江戸城の鬼門に近く、山麓には湖(不忍池)があるなど、地取りも比叡山と類似していた。

さらには、つぎつぎに造営された堂塔伽藍は、そのほとんどが比叡山とその周辺のものに倣っていた。また寛永寺の山主は、初代は天海、そして第2代は天海の弟子の公海が継いだが、比叡山が天台座主という門跡を戴いていたように、寛永寺には皇族から法親王を迎え、宗教界の頂点に君臨させた。これが第3代山主の守澄法親王(後水尾天皇の第三皇子※)である。彼は輪王寺の勅号を受け、以後歴代の上野の宮様は輪王寺宮一品法親王と呼ばれるようになった。また東叡山・日光山の山主と、多くの場合は天台座主も兼ねるので三山管領宮(かんりょうのみや)とも呼ばれる。

一品親王(宮)は非常に位が高く、江戸城に登城する際は、通常は将軍と宮にしか許されていない網代の溜塗の駕籠を江戸城表玄関にじかに乗りつけ、法要儀式に関わるときは江戸城中では上段の間で将軍と対座の待遇をうけた。要するに宮は将軍とほぼ対等だったのである(法要儀式以外は徳川御三家と同格)。そして将軍と宮の交流は、対等であるだけにかなり密接であった。

では将軍と寛永寺はどのような関係にあったか。これがなかなか面白い。寛永寺と増上寺への御成を「両山御成」というが、これは歴代将軍霊廟(と位牌所)への参拝で、年回ごとの法要と毎年の祥月命日に行われた。しかし意外なことに、将軍は一切葬儀にはかかわらず参列もしなかった。また正室や将軍生母へも、原則的にはその霊廟に参詣することはなかった。

これは死の穢れが将軍につくことを避けるためだったようだ。ということは、将軍は普通の家督相続者が持っていた祭祀権を、そっくり一品親王に委託していたということになる。また、将軍御成の場合も、「どの将軍霊廟に参詣するときでも、決して山門を潜って正面の根本中堂の方には向かわない(p.77)」というのも面白い。これは上野の東照宮の横を通ることを遠慮したからではないかと考えられるというが、やはり穢れ思想との関連が気になった。

一方、老中や若年寄たちは足しげく寛永寺に通う必要があった。それは、祥月命日以外の毎月の命日(月忌)には老中が将軍名代として歴代将軍霊廟に参拝したからである。将軍の代が増えるにつれ、祥月命日だけの将軍参拝はもちろんのこと、月忌参拝しなくてはならない老中・若年寄の負担は大きかった。著者は偶然としているが、寛永寺関係の7人の将軍(慶喜を除く)の命日が、8日が3人、20日が2人なのは気になるところだ。

なお、本書には将軍御成の跡固(あとがため=御成後の警護)を命じられた島原藩松平家の場合の段取り、手配などを細かく記しているがここでは略す。

このように、寛永寺は将軍家にとって特別な寺院であった。寛永寺には将軍家から次々と寺領が寄進され、寺域30万1870坪、主要な堂塔伽藍32~35、子院36坊、寺領1万1790石といった規模へ成長した。だいたい、享保の頃にこうした規模になったようだ。「幕末期における実質的な東叡山の収入は、3万5000石をも上回ったのではないか(p.70)」ということだ。

本書では、次に将軍家の葬儀(家綱、綱吉の場合)と、一品親王の葬儀(公弁法親王)の次第を詳しく述べているが、将軍家の葬儀のみについて気になったポイントのみ記す。

家綱の場合は、近習37名のうち31名が落髪しているが、これは殉死が禁じられていたためだ、というのが面白い。また、死後、寛永寺と幕府はそれぞれ一日三回の法要を続けていたというのにびっくりする。もちろん幕閣もある程度これに参列したので、とても政務を見られる状況ではなかったという(幕末の家茂の場合なんかはどうだったのだろうか)。

一方で、七日七日の法要を日程通りには一切やっていないのは謎である。葬儀が済んでから、初七日逮夜(前日の法要)、初七日、二七夜逮夜、二七夜…と連日法要を営み、1か月くらいで百ケ日法要まで圧縮してやっているのである。死んでからの日数と全く対応していないのが奇異である。なお百ケ日が済んでから、ようやく新将軍綱吉と一門の人々が霊廟に参詣する(当然、それまでは諸大名も参詣できない)。親族が中心となる普通の葬儀とは全く違うのである。

将軍の葬儀は、天皇のそれに倣って夜儀(やぎ)だったというのも面白い。霊廟の板塀や本堂からの道筋には全て白布が張られ、また敷かれていたというのも天皇家に習っているが、これは仏教的にはどのような教義に基づくものだったのだろうか。

なお将軍の死はすぐには公表されず、全ての段取りが整ってから公表されており、だいたい死後1か月くらいかかったようだ。その間は、もちろん段取りする人たちは将軍の死を知ってはいたが公には将軍は生きているものとして扱われた。(これがあったから命日の操作ができたし、また七日七日の法要を日程通りやらない理由だったように思われる。)

本書は全体として、儀礼・儀式のみならず、それを警護した武士や寛永寺を管理した武士などの様子も詳細に描いており、参考になる情報が満載である。また著者は寛永寺の執事長であるためそれらの情報は堅牢だ。しかし、葬儀を中心にしているため、寛永寺の全体像はわかりにくい。例えば、寛永寺は祈願寺でもあったが、どのような祈願が行われていたのか、といったことはもう少し知りたかった。

また、歴代将軍の墓所は、日光山(東照宮、輪王寺)、寛永寺、増上寺の3パターンがあるが、これはどのように使い分けられていたのかも興味がわいた。

江戸時代の宗教界の頂点であった寛永寺を葬儀を中心として描いた良書。

※第三皇子と本書にはあるが、調べてみると第六皇子のようだ。

★Amazonページ
https://amzn.to/47S2E0P