2025年4月30日水曜日

『後白河院――王の歌』五味 文彦 著

後白河院の生涯とその時代を述べる本。

本書の副題には「王の歌」とある。これは『梁塵秘抄』の歌を表す。いうまでもなく『梁塵秘抄』とは後白河院が編纂した、今様(いまよう)という歌の集成だ(『口伝集』という今様論を含む)。

先日、私は『梁塵秘抄』をざっとではあるが通覧した。そこに表現されていたのは、同時代の勅撰和歌集などとは全く違う世界だった。当時の和歌が、本歌取りや序詞や、さまざまな隠喩を織り交ぜた、難解で不自由(だからこそ面白くもある)なものであるのに比べ、『梁塵秘抄』の今様は、直截的かつ説明的で、しきたりに捉われない新鮮な自由さがある。

本書の主人公後白河院は、若いころから今様に熱中し、遂に『梁塵秘抄』を編纂するに至るのだが、今様のこの独特な調べを知ると、俄然後白河院に興味が出て来た。今様は明らかに当時の貴族文化とは違う、あえて言えば武士的な雰囲気の文芸なのである。後白河院のセンスは異様なのだ。

異様なのはセンスだけではない。彼の人生そのものが通常の尺度では評価しがたい。無責任な動きが多く暗主ともされるが、後白河院についての数多くの本が出版されており、間違いなく人気がある。本書は、そんな後白河院の生涯について、『梁塵秘抄』を横軸にして語るものである(ただし以降のメモでは、本書に縦横に引用された『梁塵秘抄』の歌は一切割愛した)。

後の後白河こと雅仁は、皇位継承があまり期待できない立場であった。長兄の崇徳が天皇になっていたので、本来なら出家していてもおかしくなかった。だが藤原通憲(後の信西、雅仁の乳母の夫。当時の姓は高階)は後白河に期待してあえて出家させなかったと見られる。ともかく天皇になれる見込みは薄かったので、雅仁は帝王学を学ぶこともなく、今様に熱中した。「声を破る事は三箇度」に及んだという。どうやら今様は詠唱の芸術らしい(和歌を詠んで声を破った話は聞かない)。

ちなみに若いころの雅仁の今様の師匠は「かね」という神崎の遊女であった。皇子が遊女を師匠にするとは異様だが、当時の貴族たちは様々な芸能をたしなんでおり、芸事に入れ込んだのは雅仁だけではなかった。特に「花園の左大臣」こと源有仁は、後三条天皇の孫にあたり、父の皇位継承が果たせず源氏姓を与えられ風雅の世界に生きた人で、「百大夫」と呼ばれる芸能にたけた人たちがその邸宅に出入りした。雅仁はこの源有仁に大きな影響を受けたらしい。どことなくキャリアパスのモデルだと感じていたのかもしれない。

しかし思わぬ方向に事態は動く。崇徳天皇は退位させられ、藤原得子(美福門院)と鳥羽院の間に生まれた近衛天皇が皇位を継いたのだ。そして得子は雅仁の子の守仁を養子にした。そして近衛天皇が跡継ぎを儲けないまま17歳で亡くなると、白羽の矢が立ったのが守仁である。美福門院は、せめて自らの養子を天皇にしたかったのだ。こうして、守仁の父である雅仁が中継ぎとして天皇になり、守仁が皇太子となった。「父を差し置いて子を帝位につけるのはよろしくないとの信西らの意見が容れられた(p.36)」からだ。

鳥羽院が死去して政治的空白が生まれると、主導権を取ったのは信西だった。保元の乱では、後白河天皇は主体的に動いたのではないが、「この乱を通じて、天皇であることの意味を強く自覚し、武者の姿を間近に見て、武力のあり方をよく学んだ(p.40)」と著者は考える。保元の乱は後白河天皇側、つまり信西の勝利に終わり、信西は天皇を前面に押し立てて、様々な改革を実行した(保元新制)。特に荘園整理のための記録所の設置、大内裏の復興・行事の再興は重要である。信西は後白河を暗愚と見ていたが、一度聴いたら忘れない抜群の記憶力には一目置いていた。

後白河天皇は次々と仏教行事を内裏で行い、出家前から袈裟を着ていた(『愚管抄』)。彼は即位後は今様を謡わなくなっていたらしいが、「乙前」という遊女を師匠にして今様を再開し、また様々な芸能の人々を召すようになった。これは、政治をないがしろにして遊んでいたというよりは、むしろ芸を通じて人々を収攬する意図ではないかと著者は推測している。

美福門院は守仁の即位を信西に迫り、二条天皇として即位。結果、後白河は上皇となってより自由にふるまうことができるようになった。そんな中、院の近臣として目立ったのが藤原信頼である。彼は院の男色の相手だったらしい。そして信西と信頼の対立が軸になって平治の乱が起こった。信西は追い詰められて自殺、信頼が勝利したかに見えたが諸勢力は彼を認めず、結局孤立して討たれた。こうして上皇は、平治の乱で二人の近臣を共に亡くしたのである。

一方、平治の乱の恩賞によって一躍力をつけたのが平家一門。特に平清盛は後白河院を経済的に後援して地位を不動のものとした。ところで、この時期に院は御所を造営したが、そこで永暦元年(1160)に日吉社と熊野社を勧請して御所の鎮守(新熊野社、新日吉社)としたのは注目される。本書では簡単に書いているが後白河の独特な思想を感じる。この勧請の直後、美福門院が死去。後援者を失った二条は後白河と対立するようになり、この二人の間を「アナタコナタ(『愚管抄』)」に調整した清盛が主導権を握るようになる。一方、後白河は清盛の妻の妹滋子を寵愛し皇子を儲けた。後白河としてはこの皇子に期待するのが当然だ。この動きに危機を覚えた二条天皇は院政を停止し、清盛を味方につけて後白河を排除した。

失意の後白河は蓮華王院の造営に邁進。院政は停止されていたが、院庁がなくなったわけではなく、蓮華王院を核に後白河は所領を集積させた。蓮華王院には内外の宝物が集められて国王のコレクションの意味を担うようになった。一方の二条は体調を崩し、子に譲位(→六条天皇)して、「天皇の未来を平家一門に託した(p.75)」。二条はその一月後に死去したが、「この葬儀に出席したのは、公卿九人と殿上人少々ほどであったという(同)」。栄枯盛衰が甚だしい。

こうして後白河院政が復活。滋子との子の憲仁が皇太子に立てられ、清盛が東宮大夫になった。東宮を平氏が支える体制である。清盛が後白河院政を経済的に支えたのは言うまでもない。さらに後白河は清盛を太政大臣に任じたが、清盛はわずか3か月後に辞職して長子の重盛に地位を譲ることを示した。「平氏は直接に国政の運営に参加しようとはしなかった(p.82)」。このような状況の中で清盛が急病に倒れて出家。六条天皇を退位させて憲仁が即位した(高倉天皇)。

『梁塵秘抄』が編まれたのはこの頃である。後白河は今様を和歌と並ぶ芸術へと昇格させたかったらしい。そして後白河は神仏からの守護を得る望みを今様に託し、「神仏の意思を直接聞くためにも今様が必要と考えた(p.88)」。そして後白河は出家した(→法皇)。ただし院政には大きな変更はない。なお後白河と清盛は同時に東大寺で受戒している。

清盛の娘徳子が法皇の猶子となって高倉天皇に入内。清盛はかつての摂関家のような立場になった。得意の絶頂にあった清盛は、福原で法皇を迎えて大規模な千僧供養を行った。千人も持経の僧を集めるのは大変なことだったという。

承安2年(1172)ごろからは、法皇を中心にした芸能の催しが広く行われ始める。芸能を通じて院と近くなっていったものは多い。法皇は暗君らしく(⁉)政治からは遠かったが、この芸能を通じた近臣たちが、しだいに反平氏の動きをとるようになっていくのは歴史の面白さである。とはいえ、後白河は(上皇としては)前代未聞の厳島参詣をするなど、この段階では清盛と二人三脚のつもりでいる。なおこの頃、『年中行事絵巻』が製作された。これは本書には詳らかではないが後白河法皇が中心となって編纂したものだ。法皇は、伝統を保存し、そして復興させようという意思があったと思われる。承安4年(1174)の相撲(すまい)の節会の復興もその一環である。ただ、法皇は伝統主義者ではなかった。これも面白いところである。

さらに承安5年(1175)、蓮華王院の鎮守として惣社がつくられた。これは二十二社のうちの伊勢神宮を除く二十一社と、熱田社(尾張)・伊津岐神社(安芸)・日前(ひのくま)・国懸(くにかかす)(紀伊)・気比社(越前)をあわせた25社の神を勧請したものである。列島の神々によって王権を守護する体制を作ろうとしたのであろう。なお、この勧請にあたっては、各社に本地の画像を描かせて注進させた。本地の明らかでない社では鏡が用いられた。蓮華王院が王権の中心になったのだ。

安元2年(1176)、建春門院(滋子)が35歳で亡くなった。なお遺体は蓮華王院の東に作られた法華三昧堂の下に石の辛櫃で埋葬された。建春門院は平氏と院の間をとりもってきたから、その死は政情を不安定化させた。高倉天皇にはまだ子がなかったし、平氏に対抗する勢力が育ってきていた。ここで立て続けに起こったのが山門の強訴・京都の大火・鹿ケ谷事件である。ようやく徳子が高倉天皇の子を生むと、清盛は天皇の外戚へ一歩近づき法皇とも融和ムードになったものの、息子と娘(重盛と盛子)が続いて死去。そして重盛の知行国越前が院近臣に与えられた。この措置に清盛は激怒。数千人の大軍を擁して上洛し院の邸宅に迫ったのである。こうしてあえなく院政が停止された。院近臣は大量に解官、あるいは斬首・配流され、後白河は幽閉された。

こうして「これを契機に武士が積極的に政治に介入する道が開かれ(p.152)」た。ところが清盛は、大量の知行国を平氏一門の手に納めるとさっさと福原に戻った。そして清盛は高倉天皇を譲位させ、幼い安徳天皇を即位させた。ついに天皇の外祖父になったのである。このような中で以仁王の乱が起こったがすぐさま鎮圧。さらに清盛は福原遷都を断行した。やりたい放題である。このあたりで反平氏の動きははっきりとしてきた。東国では頼朝が活動し、南都の勢力が胎動していた。そこで清盛は東大寺などを維盛に命じて焼き討ちしたのである。

治承5年(1181)、清盛は亡くなった。後事を託されたのは宗盛。清盛は「追善の仏事を毎日行う必要はない」と遺言しているが、これは清盛の宗教観が窺えて興味深い。そして、高倉天皇はすでに亡くなっていたので後白河院政が再び開始された。法皇は法住寺御所に戻ると、南都復興に着手した。この頃が養和の飢饉。3度目の院政を敷いた法皇は、東大寺再建のほか藤原俊成に勅撰和歌集の編纂を命じるなど、意欲的に「政治」に取り組んでいる。

このような中で、木曽義仲が挙兵すると法皇は密かに比叡山へ登った。掌中の玉を失った平氏は天皇を奉じて西海へ下るほかなかった。法皇は比叡山に逃れるだけで平氏を都から追いやったのである。そして朝廷が天皇を失ったため、法皇は神器なしで新帝を立てた。これが後鳥羽天皇である。

法皇は、頼朝を反平氏の勲功ありと認めていたが、法皇の立場で頼朝を見るとその動きは不気味だ。例えば清盛は、院に取り入って朝廷を牛耳ることで立場を固めた。だが頼朝は明らかに院に取り入ろうとも、官職を得ようともしていない。違うルールで動いている感じなのだ。自分の土俵で勝負しているといってもいい。一方、木曽義仲は、かつての平氏と同じやり口だった。義仲は武力によって朝廷を牛耳り、征東大将軍にも任じられ頼朝を打つ構えだったが、義経に敗北し討ち死にした。こうして武士の棟梁は頼朝に一本化された。頼朝はその勲功賞も朝廷に任せず、自らが行った。頼朝は独自の権力を率いている意識が明確だったのである。一方、義経は検非違使に任官されたり内裏への昇殿を許されるなど、院近臣の道を歩んでいた。法皇にとっては御しやすい相手である。頼朝が義経を粛清せねばならなかったのは当然のように見える。

義経は暗殺されかけたため、法皇に3度も院御所に参り、頼朝追討の勅許を認めさせた。2度しぶったのは、頼朝追討がリスキーだと法皇もわかっていたのだろう。だが3度目に認めたのが暗主たるゆえんかもしれない(笑)。当然、頼朝配下のものが宣旨一枚で動くはずもなく、この宣旨は空手形になり、逆に義経は追い詰められ、義経追捕の院宣が出された。この朝令暮改ぶりを「世間の天変、朝務の軽忽」と兼実は批判している。頼朝の前に院近臣も恐れをなし、頼朝の守護地頭の設置を認めざるを得なかった。

続いて頼朝は朝廷改革に着手した。法皇の専制から衆議に基づくものに変更するものである。朝廷から距離を置いていた頼朝が、朝廷の事情を踏まえた的確な改革を指示したのがまた不気味だ。ちなみに、この改革のおかげでようやく摂関になったのが九条兼実である。

そして武家は、朝廷を守護するものと位置付けられ、その代わり東国の支配権が認められた。本書は武士論ではないので頼朝の論理に深入りしていないが、これが「落としどころ」というものだったのであろう。ただし、頼朝が東大寺再建に莫大な寄進をしていることは、朝幕は並び立つものであるという認識であったことを示唆している。熊野御幸に倣って箱根・伊豆両権現への二所詣を開始したり、石清水八幡の放生会に倣って鶴岡八幡宮で放生会を始めたりしたのも、意図的に朝廷を模倣している。しかし形式的には武家は朝廷の下に位置づけられていた。

一方、義経は奥州に逃れて密かに藤原秀衡の下に保護されていたらしい。頼朝にとってこれを断つことは必須だ。義経の存在もさることながら、奥州藤原氏がいる以上、頼朝の東国の支配権は完全でないからだ。秀衡の没後、それを継いだ泰衡にゆさぶりをかけた結果、義経は自害。泰衡は義経の首を送ってきたにもかかわらず、頼朝は院からの追討宣旨を待つことなく泰衡を攻めた。ここで宣旨を待たないのがいかにも頼朝である。奥州合戦は大義名分なき戦いなのだ。結局、宣旨が届いたのは泰衡の殺害後であった。

文治5年(1189)、頼朝は満を持して上洛した。法皇とその取次役だった丹後局には大量の贈り物をし、千騎もの行列で六波羅の邸宅に入った。法皇は蓮華王院の宝物を見せようとしたが頼朝が丁重に断っているのが面白い。法皇の支配に服さないことの意思表示である。王のコレクションが政治的にどのような意味を持っていたかを如実に示すエピソードだ。法皇は頼朝に「貴族なら誰しもが喜ぶ右近衛大将に任じた(p.218)」が、頼朝はこれを一応受けたもののすぐに職を辞退してもいる。

建久3年(1192)、法皇は66歳の生涯を終え、法住寺殿の法華堂に葬られた。兼実が「仏教の徳に帰依すること、殆ど梁の武帝より甚し」と述べるように仏教への帰依は深く、それは『梁塵秘抄』の仏教歌にも窺える。また熊野詣の頻繁さも特筆すべきものである。院近臣の立場から法皇の治世の意義を語った『六代勝事記』では、「御賀・御逆修・高野詣・御登山、勝地・名所、叡覧をきはめ、験仏霊社臨幸を尽くし、四明には大乗戒をうけ、三井には密教をならひ、東大寺は聖武製草の跡をとめて、金銅の霊像は御手を下して開眼し給ふ(p.237)」と述べている。ここに描かれるのは、法皇の極めて行動的な姿である。また法皇は一身阿闍梨となって、伝法灌頂も受けている。勧進活動を保護したのも重要だ。仏教を保護したばかりでなく、自ら実践し、また各地へ足を運んだのが後白河法皇であった。

本書では、後白河は暗君とも賢君とも言っていない。軽挙妄動が目立つのは確かだが、「芸能を中心とした政治」という新たな政治形態をもたらした面もある。頼朝を御しきれなかったこと、すなわち武家政権を許したことは大きな失態のようにも見えるが、時の上皇が誰であっても、頼朝はとても朝廷の太刀打ちできる相手ではなかったかもしれない(武力以上に不気味な存在と感じた)。

後白河法皇の視点から鎌倉幕府の始まりを見る視点が独特な本。

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