2024年11月12日火曜日

『先祖の話』柳田 國男 著(柳田國男全集13)

日本人の最も大きな信仰が先祖崇拝だったことを述べる本。

本書は、日本人の信仰を考察する際に必ず参照されるといっても過言ではない。その結論は「解説」で新谷尚紀が端正に要約している。曰く「人は死ねば子や孫たちの供養や祀りをうけてやがて祖霊へと昇華し、故郷の村里をのぞむ山の高みに宿って子や孫たちの家の繁盛を見守り、盆や正月など時をかぎってはその家に招かれて食事をともにし交流しあう存在となる。生と死の二つの世界の往来は比較的自由であり、季節を定めて去来する正月の神や田の神なども実はみんな子や孫の幸福を願う祖霊であった(p.734)」。

こうして書いてみると平凡なようだが、それまでの日本人は六道輪廻の仏教理論とか平田国学といったものしかあの世の理論を持っておらず、この一見平凡に見える理論は、柳田が収集した膨大な民俗資料から帰納してまとめられた、初めて文章化された「平凡な日本人が抱いていた信仰・あの世観」なのである。

柳田はこの本を、昭和20年、空襲警報が鳴り響く中で執筆した。このような本を戦争中の切迫した状況で執筆するとは驚きだが、そこには、特に戦死したものをどうやって祀るかという問題意識と、家の断絶への危惧があった。ここが出発点となったことは柳田の限界というか時代の制約であった。しかし、国家神道が最も国民生活を支配した時期に書かれたにもかかわらず、本書は国家神道の影響が慎重に排除されており、ほとんど時代を感じさせない普遍的な価値がある。なにしろ、幸か不幸か、戦争中は柳田の学問が最も充実した時期にあたっており、しかも柳田はこの著作に渾身の力を込めたのである。ちなみに執筆期間はたったの2か月だという。

本書は(というよりも柳田の著作のほとんどがそうであるが)、随筆とも論考ともつかない文体で書かれており、芋ずる式に考察が進んでいく。それははっきりとした結論を積み重ねるのではなくて、いわば飛び石のように様々な事例をまたいで進んでいく方法であり、ここにその論理を要約することは難しいが、できるだけ要点を抽出してみたい。(以下、メモの部分は柳田ではなく「著者」に統一した。)

まず、そもそも「先祖」とはだれか。例えば、藤原家は遡れば藤原鎌足の血筋となるが、鎌足を先祖としては祀らない。先祖とは遺伝的な祖先であるばかりでなく、他でもないその家の始祖となる人物でなくてはならない。言い換えれば、他の家では始祖として祀らない人物がその家の祀るべき先祖なのである。だから分家は本家の始祖は祀らない。本家の始祖を祀るということは、本家の特権なのである。

ところで、平民の間での重要な祭りは正月と盆である。では正月はどんな神様を迎える祭りであるのか。それは、一軒一軒に訪れる神として観念された。であれば歳神様は一国を統べる大神であったはずはない。一方で盆は先祖の霊を迎えるものである。この二つは、日ごろはどこか遠くにいる存在が、決まった日に訪れるという共通した構造を持ち、一方は神事、一方は仏事であるが構造上の一致は偶然とは思われない。そして一軒一軒を訪れ、それぞれの家ごとに幸福を与えてくれる神は、先祖の以外には考えられない。歳神様は先祖の霊ではないかというのが著者の推測である。

ではなぜ正月に先祖の霊を祀るか。正月と盆は一年をほぼ二分する季節の分かれ目であり、暦という生活を支配するものの象徴であったからであろう。先祖の霊を祀るならばその先祖の年忌(命日)に祭りをすればいいような話であるが、もちろん命日などわからない先祖は多く、また命日に祀ることにすると、「命日に祀る先祖」と「命日に祀らない先祖」という区別を生じることとなる。もちろん家の始祖からの先祖全ての命日で祭りをするということは可能であるが、時代を経るにつれて煩瑣になっていく。よって、個別の先祖を祀るのではなくて、死後一定の時間がすぎたら、それは「先祖」 の「みたま」というものにまとめてしまうということが合理的だったに違いない。そうして、個別的でない「先祖」の概念が形作られ、歳神様と習合してしまったのだろう。なお、正月の16日が先祖を拝む日となっている地方は多い。

ところで、日本では田の神は山の神が下ってきたものとされる。そして稲の生育を見守った後で冬には山に帰っていく。これは日本全体に普遍的に見られる観念である。しかも面白いことに、漠然と春に来て冬に去るのではなく、特定の日に迎えて、特定の日に送るという民俗行事があり、気候の違いにもかかわらずその日が全国でかなり共通している。ここにも祖先の霊を祀るのと同じ構造がある。

盆は仏教行事ではあるが、それは元来の仏教にあったものではない。そもそも、死んだら輪廻するというのが仏教の考えなのに、なぜ毎年その霊が帰ってきて供養を求めるのか、仏教教理では説明ができない。しからば盆とはいったい何なのか。これが「盂蘭盆」の省略とは信じがたいと著者はいう。

ここで著者は「盆」をその古訓から考察する。「盆」の古代での訓は「ホカイ」であったのではないかと推測される。そして「祀」の訓も「ホガル・マツル・イノル」であったという。では「マツリ」と「ホカイ」は同じものであったか。著者はその用法を検証し、「マツリ」は祀る者と祀られる者の関係で成立するのに対し、「ホカイ」はその周囲に「不特定の参加者」を持つものであったと考える。乞食が『倭名鈔』で「ホカイビト」とあるのもその意味がある可能性がある。

しからば「盆(ホカイ)」とは何か。著者は、素焼きの土器であったろうという。つまり盆とは、供物を素焼きの容器に入れて奉げる祭りであったことになる。「その字がはからずも盂蘭盆会の中にもあるところから、これが大いに行われたものあろうと私は想像している(p.116)」。ただしこの説の弱点は、盆は中世以前には「瓫」の文字を使っていることで、「瓫」の字が「ホカイ」と訓じた例はまだ見つかっていない。

なお「盆」は、『和名抄』には「缶(保度岐=ホトキ)」とあり、『字鏡』にも「盆」を「保止支=ホトギ」と訓じている。こうしたことから著者は「死者を無差別に皆ホトケというようになったのは、本来はホトキという器物に食饌を入れて祭る霊ということで、すなわち中世民間の盆の行事から始まったのではないか(p.118)」という。

むかしの日本人は外来語の「仏(ブツ)」に「ほとけ」の訓を与えたが、では「ほとけ」という和語はもともと何を表していたのか。これは著者に指摘されるまで私も考えたことのない問題だった。著者の推測をもう一度繰り返すと、(1)素焼きの器に食饌を入れて祖霊を祀る行事があり、その器を「ホトキ」といい、そうすることを動詞化して「ホカフ」、それが名詞化して「ホカイ」となった。(2)「ホトキ」によって祀られる霊が「ホトケ」であった。(3)それが仏と習合して、仏を「ホトケ」と呼ぶようになった、ということである。

ただし、この仮説は「仏」を「ほとけ」と訓じたことのわかる古い事例を集めて検証してみなくてはならないが、本書では推測に留まり、コーパス的な調査はなされていない。

先祖を祀る方法は、第1に墓、第2に盆棚、第3に仏壇、第4に神棚、第5に村の氏神がある。墓は永続的なものではなく、盆棚や仏壇も一応三十三回忌を以て「弔いあげ」として供養を終わりにする場合が多い。そうして抽象的な祖霊となったものを神棚に祀るという構造になっているのではないか。では「氏神」はどうなのか。個々の家に祀ったものと重複しているのではないか。この「氏神」に対する著者の説明はなんだか歯切れが悪い(正直、よくわからない)。氏神を祀ることが国家的政策だったからかもしれない。

ともかく、墓に埋葬した時点では「荒忌の穢れ」があるが、それが仏壇、神棚、氏神と進むにつれて清浄になってゆくということはいえるようである。

では、死んだ魂はどのような世界へいくのか。日本神話には「黄泉の国」があり、また仏教には六道輪廻がある。黄泉の国は現世と別にあるものであり、六道輪廻でも魂は生まれ変わったり地獄に落ちたりして、ともかく魂は個性を保ったまま現世にとどまっていることはない。しかし日本人は、先祖の霊がさほど遠くないところにとどまっていて、子孫の生活を見守っていると考えていたらしい。そして六道説などと妥協するために、魂は実は「魂魄(こんぱく)」の2つがあって、「魂」は冥途に行くが「魄」は現世に留まるなどと無理に考えたものもあったのである。

では「あの世」はどこにあるか。この問題は、黄泉の国や六道輪廻の理論のためにかえって閑却され続け、平田篤胤が考究するまで誰も考えてこなかった「新しい問題」だという。著者は様々な事例から「あの世」を抽出して考察しているが、第1に「霊は(国に)留まって遠くは行かぬと思ったこと(p.166)」と第2に「顕幽二界の交通が繁く、単に春秋の定期の祭りだけでなしに(中略)招き招かれることがさまで困難でないように思っていたこと(同)」をその特徴を挙げている。

であれば、そこは具体的にどこなのか。どうやら日本人は、そういう魂がふわふわとそのあたりに漂っているとは考えていなかったらしい。しかしそれがどこなのか、はっきりと表明されたことはついぞなかった。ここで著者は4月8日の大祭に注目する。「『神社大観』や『明治神社誌料』の類を読んでみると、旧暦四月八日を大祭の日としていた神社は、郷社以上にも相応に数が多(p.172)」い。また、4月8日に山登りをする習慣がそれとは別にある。それは別の行事ではあるが、そこに共通の何かがあったのではないか。

ここで著者は「賽(さい)の川原」に注目する。「さいの川原」は、川下ではなくなぜか山中に存在し、「地獄谷」のような地名も存在する。また、かつての常民は死者を山に葬っていたと思われる。とすれば、「さいの川原」はそういう墓所の名残ではないのか。つまり日本人は、「あの世」を漠然と山にあるものと観念していたのではないかというのが著者の推測である。

最後に著者は、日本人が最後の一念を重視する傾向、小さな子供が死んだ場合は生まれ変わりがあると思っていたこと、魂の若がえりの問題などに触れて擱筆している。

冒頭に述べたように、本書は日本人の信仰を考察する際に必ず参照されるが、今ではやや批判的に触れられることが多い。このメモを読んだだけでも、その理由はわかると思う。第1に、日本人の信仰の多くが祖先祭祀に還元しうると著者は述べるが、その扱いが恣意的である。例えば祖霊である山の神もあるかもしれないが、自然信仰の山の神もたくさんあるだろう。第2に、日本全国でそれほどまでに家の構造が強固だったとは思われない。例えば私の住む南九州では、明治になるまで「氏神」など祀っていなかったようだし、百姓には公式には名字もなかったから家の観念が強固だったとは思えない。第3に、本書は膨大な民俗事例が引かれているが、歴史の史料は比較的参照されない。著者は民俗学は歴史の学問だと考えていたのだが、歴史が手薄なのだ。

このように、本書は随筆とも論考ともつかない体裁とも相まって批判は容易だ。しかし、だからといって本書の価値が低いということはもちろんない。著者自身も本書の脇が甘いことは十分に認識しながら、将来への課題としてまとめたものなのである。では、その後日本人の他界観が柳田國男以上に分析考究されたことがあったか。私はこういう分野を比較的読書しているが、未だ本書以上の論考は著されていないように思う。

日本人のあの世観を初めて文章化した名著中の名著。

★Amazonページ
https://amzn.to/4fowgHu

0 件のコメント:

コメントを投稿