2024年11月2日土曜日

『島津氏——鎌倉時代から続く名門のしたたかな戦略』新名 一仁・徳永 和喜 著

ポイントを押さえた島津氏の歴史。

本書は、帯では「専門家による「島津氏」通史の決定版」と銘打っているが、「はじめに」にも「あとがき」にも、本書が通史であるとは一言も書いていない。「はじめに」では、「長期にわたる同じ一族による支配の維持、政権との距離感、敗北後の危機回避など、七百年におよぶ島津氏の九州南部支配からは、現代においても学ぶべき点が多々あるのではないか。そうした観点から本書をお読みいただき(後略)(p.5)」とあるので、通史的に島津氏の支配の特質について述べることが目的ではあるが、通史そのものではないと理解できる。

本書では、島津氏の歴史を当主の治世を区切りとして記述している。章のタイトルも「第一章 島津忠久の治世——元暦二年(1185)〜嘉禄三年(1227)」などとなっている。

これを年表風に簡略化すると次のようになる(だいたい50年を1行として適宜間を入れた)。

┃第1章 島津忠久(1185〜1227)


┃第2章 島津貞久・氏久(1318〜1387)
┃第3章 島津元久・久豊(1387〜1425)
┃第4章 島津忠国・立久(1425〜1474)

┃第5章 島津忠良・貴久(1527〜1566)
┃第6章 島津義久・義弘(1566〜1599)
┃第7章 島津家久(1601〜1638)
┃第8章 島津光久(1638〜1687)


┃第9章 島津重豪(1755〜1787)

┃第10章 島津斉彬(1851〜1858)
┃第11章 島津久光(1858〜1869)

これを見ると、鎌倉時代後期と江戸時代中期の間が大きく、本書が通史ではないことは明らかだ。

なぜこんなことをくだくだしく書いているかというと、私は最初、本書を「通史」だと思って読み始めて途中で違和感を抱き、よく確認してみると著者たちはこれを通史であるとは言っていないことに気づき納得したからである。

なお、はっきりと明示されていないが、前半1〜6章は新名一仁が、後半7〜11章は徳永和喜が執筆しているようだ。以下前半と後半に分けてメモする。

前半は、鎌倉時代後期を欠いているとはいえ、通史といって差し支えない。それは、島津氏が薩隅日の三か国の守護として南九州を統治する過程を述べたものであり、またその後(義久・義弘の時代)は、その版図が九州全域にまで広がっていく次第を説明している。

初代の島津忠久は、近衛家の下家司(しもけいし)を独占的に継承していた惟宗家の出で、頼朝の御家人になると元暦2年(1185)に島津荘下司職に任じられた。その翌年には「島津荘地頭」と呼ばれており、やがて島津荘目代、押領使となって薩摩・大隅両国の「家人奉行人」に任じられ、後に日向国も兼務したようだ。これは後の守護のことらしいが、ここに薩隅日三か国支配の原型が見られる。

ただしその後「比企の乱」のため、島津荘の所職や守護職は剥奪された。追って忠久は「和田義盛の乱」で軍功を上げ薩摩方地頭職に任じられたものの(守護職にも復帰したとみられる)、大隅・日向の守護職は鎌倉幕府滅亡まで北条氏が相伝した。なお、この時代の守護職は、後のように領域的支配権は持っていない。

島津氏が再び薩隅日三か国の守護職を手に入れるのは約130年後で、島津貞久が鎌倉幕府滅亡の際に足利方についた軍功による。しかしこの時期の守護職もまだ領域的支配権はないので、領内には島津氏と敵対する在地勢力がたくさんあった。日本は南北朝時代へ突入し、南九州でも複雑な対立の構図となった。島津氏としては特に大隅の肝付兼重への対策が重要だった。

ちなみにこの時代(14世紀後半)、貞久は鎮西管領の斯波氏経に対し「島津氏は薩隅日三か国の支配権を領有している」と強く主張しているのが興味深い。次代の島津氏久は志布志での中国交易を重視し、志布志の宝満寺・大慈寺を庇護した。ここに島津氏の交易重視政策が形成された。同時に、倭寇もこの頃盛んになってくる。九州南部は倭寇の拠点の一つだった。中国との貿易を目指す幕府にとって倭寇の存在は迷惑であったが、そのために倭寇対策が政策課題となり、島津氏が貿易のキーとなっていくのが面白い。

九州探題今川了俊との抗争に勝利した島津氏は、薩隅日三か国の実効支配を幕府に認めさせ、氏久を祖とする奥州家が三か国の守護職を兼帯した。氏久を継いだのが子の元久(母は伊集院忠国の娘)。なお応永元年(1394)、石屋真梁(伊集院忠国の子)を開山として福昌寺が創建され、島津氏の菩提寺となった。奥州家は伊集院氏と深い関係にあった。

実子の男子が出家していた元久は、妹と伊集院頼久の間に生まれた初犬千代丸に家督を譲ることとしており一門も了承していたが、元久の異母弟久豊はこれに異を唱え、伊集院氏から元久の位牌を奪って守護所鹿児島を占拠し、また福昌寺を保護した。伊集院氏との抗争の後、久豊が権力を確立して足利義持から三か国の守護職に任じられた。こうして奥州家が守護職を相伝し「三州太守」と表現されるようになった。

久豊の長男、忠国の時代は、山東(宮崎県西都市)の伊東氏との関係が大きな政策課題となった。忠国の母は伊東祐安の娘だったが、伊東氏と対立するようになったのである。そうした状況で伊集院煕久が反島津方国人を糾合し一揆を起こした(国一揆)。忠国はこれを制圧できず和睦。伊東氏とも和睦していた。これを不服としたグループは忠国の弟持久を擁立し、忠国を隠居させた。持久は福昌寺で父久豊の十三回忌法要を行って家督相続を確かなものにしたかに見えたが、ここで「大覚寺義昭事件」が起こる。

ことの次第はこうである。足利義教の弟・義昭が京都から出奔。これが後南朝勢力と結ぶことを恐れた幕府はこれを探索したが見つからなかった。そんな中で義昭が義教追討の檄文を忠国方の樺山孝久(のりひさ)に発したため、樺山は幕府に通報。このため幕府は忠国に対して義昭追討を命じたのである。忠国は末吉に隠居中だったが、自派の武将に命じ嘉吉元年(1441)、日向国櫛間院の永徳寺を包囲させ義昭は切腹。これで幕府の信任を得た忠国は返り咲いた。一方、持久は北薩と南薩を治める薩州家を創始した。

一方、忠国の治世は安定せず、これに不安を覚えた嫡子立久と重臣は忠国を強制的に隠居させた。立久はアメとムチで経営を行い、伊東氏とも和睦して領国内を安定させた。この際に、相州家豊州家も創出され、「有力御一家・国衆を相互にけん制する体制(p.74)」が作られた。

一方、忠国の三男久逸(ひさやす)が、断絶した系統を養子となって引き継いだのが伊作家。伊作家は伊東氏との合戦に敗れ、また久逸の子善久が奴僕に殺害されて風前の灯となったが、その妻常盤が相州家の島津運久(ゆきひさ)に再嫁し、それによって善久の子忠良が伊作家・相州家を相続した。一方で、奥州家は忠昌が自害、その後嫡男の早世が二人続くなどして弱体化し、反島津勢力が蜂起した。

そうした状況を利用して、忠良は奥州家(島津忠兼=勝久)に自身の子虎寿丸(後の貴久)を養嗣子とすることを受け入れさせた。これは事実上のクーデターであった。薩州家の島津実久はそれを認めず、自らが「三州太守」を継承したと標榜してクーデターを仕返したが、忠良・貴久は薩州家を打倒。荒廃していた福昌寺の寺領を安堵し、「三州太守」として認められた。こうして貴久は奥州家当主として地位を確立させた。貴久はさらに在地勢力を次々と下して薩摩統一を実現した。

貴久の子供が、有名な島津四兄弟(義久義弘・歳久・家久)であり、義久・義弘の時代に島津氏は最強となった。彼らは大隅と日向を統一して、ここに「三州統一」が成し遂げられた。彼らの目標はあくまでも「三州統一」であったが、九州六か国の守護職と九州探題であった大友宗麟とのパワーバランスから、肥後の国衆から救援を求められ、また島津氏の重臣たちも外征に積極的だったため、北部九州に侵攻していくこととなった。特に龍造寺隆信を圧倒的少数で撃破した(沖田畷の戦い)ことで九州で島津一強となり、残すは大友氏との対決となったが、このタイミングで豊臣秀吉が九州へ征伐へ動いたため、島津氏はやむなく降服した。秀吉は、義久に薩摩国、義弘に大隅国、義弘の子の久保に日向国真幸院を安堵している。

秀吉は明らかに義弘を当主として扱ったが、義久を主君とする家臣団もおり、島津氏は分裂気味になった。さらに太閤検地では多くの家臣が減封となり不満が高まった。そんな中で独り勝ち状態だったのが伊集院幸侃(忠棟)であるが、義久の子忠恒(のちの家久)は伊集院幸侃を突如惨殺、追って子の伊集院忠真とその一族も誅殺した。なお、義弘は実際には家督は継承していないが、後の島津氏の公式見解では義久-義弘-忠恒と家督が継承されたことになっている。

ここからは後半である。前半とは打って変わって通史風の記述はなくなり、著者(徳永)の重視する事項を詳しく述べていくスタイルになる。島津家久と続く光久の時代については、交易の記述がほとんどである。

薩摩藩は琉球国を通じて南蛮(東南アジア)・中国と交易を行っていた。それは近世初期では自由貿易を志向しており、近畿の貿易商人にも支えられていた。この交易は薩摩藩を繁栄させ、島津領内では中国人が多く居住していた。もちろん島津氏自身も貿易を行い、島津氏は最大級の朱印船貿易家であった。また島津氏が取得した貿易の権利を民間に譲渡した場合もあり、これについて本書では「大迫文書」からその実態を考察している。

家久は慶長14年(1609)に琉球侵攻を行い、琉球国を属国にした。これは琉球の貿易権を薩摩藩の管理下に置くことが目的であった。琉球は中国の冊封体制に組み込まれながら、同時に薩摩藩にも隷属するという二重の支配を受けた。そのおかげで、薩摩藩は琉球の朝貢貿易を通じて中国の物品を入手することができたのである。

それは逆に言えば、中国への輸出品を入手する必要があったということだ。薩摩藩にとってこれは大きな負担でもあり、その費用を取り戻すためにも琉球口交易は必要だった。農地に恵まれない薩摩藩にとって琉球口交易は重要な財源でもあったが、その負担もまた大きかった。続く光久の時代も琉球口交易の確立に絞って記述されている。

ここから時代が一気に飛んで島津重豪の時代となる。重豪の時代には、薩摩藩の膨大な借金の整理が重要な政策課題となった。そんために抜擢されたのが調所広郷である。調所は様々な改革を行って借財の整理・減免・返済を行ったが、本書では特に琉球口交易の拡大が焦点となっている。

次の島津斉彬の時代では、斉彬の世界観とそれに基づく近代化政策が触れられる。特に西洋通事の養成の中で、唐通事の石塚崔高が紹介されているのは目を引いた。薩摩藩では蘭学から英学へ路線変更するが、そこで上野景範が比較的詳しく紹介される。上野景範は独断で上海に渡航して西洋にいこうとした人物である。本来脱藩の罪に問われるべきところ、彼は逆に薩摩藩開成所の句読師に抜擢されている。

島津久光の時代については、幕末史を足早にまとめ、その頃の薩摩藩の財政を支えた「琉球通宝」などの通貨鋳造事業について述べている。なお、通貨鋳造事業は「琉球通宝」は幕府から許可を得ているので「偽金」ではないが、「天保通宝」は許可を得ているのか得ていないのか定かでない(記録も関係者の証言も曖昧)。なお、ここでは幕府から鋳造許可を得た日付がどうであるのかなど、かなり細かい議論があり、この辺りは全く通史的ではない。

なお、著者には『偽金づくりと明治維新』(新人物往来社、2010)という前著があるが、不思議なことにこの本は本書では参照されていない(参考文献に挙げられていない)。もしかしたら旧説を改める意図があるのかもしれない。

本書は、前半と後半では良くも悪くも調子がだいぶ違う。私は前半は通史として読み、後半は薩摩藩論として受け取った。だが後半は、薩摩藩論だとしても特定事項に記述が偏っていることは否めず、わかったようなわからないような感じである。

一方前半は、島津氏が薩隅日三か国を統一する次第が端正にまとめられており、頭の整理に非常に役立つ。著者(新名一仁)はこれまで、戦国島津に関する本や論文を多数著しており、本書によってそれらの著作を俯瞰することができると思う。

前半を読んで改めて思ったことは次の3点である。

(1)島津氏にとって「三州太守」すなわち薩隅日三か国を統治するというのがアイデンティティとなっていた。大隅の肝付氏や、川内川流域の渋谷一族など、島津氏と対抗する勢力がなかったわけではないが、そうした「支配者としてのアイデンティティ」を持っていたのは島津氏だけだった。

(2)伊集院氏と島津氏の関係が興味深い。島津氏は多くの庶流・分家を持っていたが、中でも伊集院氏とは独特な関係があったように思われる。島津氏の菩提寺である福昌寺は実質的に伊集院氏が創建しており、伊集院氏の初犬千代丸は島津家の家督を狙える位置にあった(これは伊集院氏による乗っ取りのようにも見える)。そして戦国末には、伊集院幸侃は豊臣支配の矛盾を押しつけられる形で斬殺されるのである。伊集院氏から南九州・島津氏の歴史を見るとどうなるのか、興味が湧いた。

(3)福昌寺が、島津氏の家督継承に大きな役割を演じているらしい。歴代の島津家当主にとって、福昌寺の寺領を安堵し、またそこで先祖の法要を行うことが大きな意味があったように見受けられる。福昌寺は荒廃していた時期もあるので、常にそうであったとは限らないが、家督継承の正統性や権力基盤が弱い時期に担ぎ出されたのが福昌寺だった。菩提寺を正統性の源泉としていたのは他の戦国武将たちでも同じなのか、それとも島津氏の特質なのか、どちらなのだろうか。

 

【関連書籍の読書メモ】
『日向国山東河南の攻防—室町時代の伊東氏と島津氏』新名 一仁 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/07/blog-post_11.html
鎌倉から室町までの日向国山東河南の歴史について、島津氏と伊東氏の関係を軸に語る本。

『中世薩摩の雄 渋谷氏(新薩摩学シリーズ8)』小島 摩文 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/06/8.html
中世の渋谷氏に関する論文集。「第2章 南北朝・室町期における渋谷一族と島津氏」(新名一仁)は渋谷氏との関係を軸として南北朝・室町期の島津氏の歴史を述べている。

『「不屈の両殿」島津義久・義弘—関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』新名 一仁 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/12/blog-post_20.html
島津義久・義弘を中心とした歴史書。戦国末の薩摩の歴史書としては、現時点で最良唯一の平易な良書。

『海洋国家薩摩』徳永 和喜 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/04/blog-post.html
鎖国体制の中でも薩摩が東アジア世界と繋がっていたことを述べる。薩摩の海洋・貿易政策を考えるために参考になる本。

★Amazonページ
https://amzn.to/40u0qVm


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