本書には、「権門体制」と「顕密体制」という二つの新しい見方を提示したという画期的な意義がある。そして本書は、中世の宗教を考察する上で避けて通れないものである。しかし私は、数年前に本書を手に取ったがなかなか読み進めることができなかった(が、今回は概ね面白く読めた)。当然だが、ある程度の前提知識を要する本である。
本書は11本の論文が収録されており、その中心は書下ろしの(!)第3部(全体で論文1つ)であり、第3部に到達するための準備が第1部と第2部という構成になっている。第1部が権門体制論、第3部が顕密体制論であって、第2部はそれを繋ぐものという構成である。
第1部
「I 中世の国家と天皇」では、権門体制論が提唱される。これは元々岩波講座『日本歴史』に書かれたものであるから、学会誌に掲載される論文とは少し違う、概説風の論文である。
著者は本稿について「貴族・武士を含めて全支配階級が農民その他人民を支配した諸々の機構を総体的に把握することを、目的としたい(p.5)」とする。本論文が発表された頃は、貴族が「古代的」で武士が「中世的」だという枠組で物事が見られていたが、著者はそうではなく、貴族も武士も封建領主として共通の土台に立っていたと見る。その共通の土台、機構が「権門体制」である。
古代の国家権力機構を「律令体制」、近世のそれを「幕藩体制」と呼ぶことができるとすれば、中世のそれをどう呼ぶべきか。一つの呼称は「荘園体制」であるが、それは経済制度の呼び方であって国家制度・機構の全体を表すものではない。そこで著者は「権門勢家が国政を支配する国家体制を指す概念として「権門体制」という語をあてることと(p.9)」した。なお「権門勢家(権門)」とは、「荘園の最高領主であって権威・勢力のゆえに国政上なんらかの力を持ち得た門閥家」(著者の説明を要約)である。
この定義から、院政を行う上皇や天皇もそれぞれ権門勢家といえるし、幕府を含めて武士の棟梁も権門勢家であった。荘園をめぐる権利関係は、結成と離合を繰り返し、徐々に権門が系列化した。そのうち雄なるものが成立して、諸政治勢力の中核となった。またそれらの権門は、それぞれに自己の門閥都市を独自に形成した。興福寺・東大寺・院政政権・平氏政権・鎌倉幕府などがそれにあたる。
こうした体制の画期となったのは院政期である。その国家機構は、令制に基づくものでななく権門の門閥的支配機関が中心だった。「院政は完全な意味での権門政治の最初の形態(p.21)」と言える。
「権門体制においては、国家権力機構の主要な部分は、諸々の権門に分掌されていた(p.23)」。現在の政治体制でも、国家の機構は当然さまざまに分掌されているが、ここでいう分掌の意味はそれとは異なる。それは、警察や軍事のような機構そのものだけでなく、その財源も含めて分割されていたのである。(こういう譬え方は本書でされているわけではないが)霞が関の各省庁が、財務省から予算配分を受けて働くのではなく、経産省は茨城を治め、文科省は群馬を治め…といったように各省庁が自治団体として財源とその徴収機構を持ち、国政の一部を担うのが権門体制と理解したらいいかもしれない。
このような状況で、天皇の権力はいかなるものであったか。著者は天皇を「政治的にはまったく無力であった(p.30)」という。だがそれは無用なものではなく、諸権門を超えて担うべき国家としての役割があり、「ありうべき支配体制の必要から(同)」存在したという。ここでさらに著者は、神国思想を取り上げ、それが「天皇の政治的地位の形式化・観念化(p.33)」に伴うものであったと示唆する。つまり天皇が諸権門を超越して存在していることと、それと同時に天皇が担うものが形骸化していったことの帰結として、「天皇はいわば「神国」の最高司祭者とさえ説かれるにいたる(同)」。それは荘園における主従制が、地代の徴収に収斂したことにより、領民と領主の心理的隔絶が大きくなり、天皇がその救済者として観念されたという事情もあるのかもしれない。
国家権力の機構が分掌されているということは、中央集権国家ではないのだから、それは「きわめて弱体・形式的で、非集権的であった(p.35)」。そこで建武新政では天皇中心国家へ組み替える試みが行われた。つまり権門体制の否定である。ただ、「建武政権は、権門体制を克服し切るだけの条件と方針(p.39)」とを備えていなかった。室町幕府は、鎌倉幕府を踏襲して権門体制を継続させたが、応仁の乱が起こると諸権門は天皇家も含めて権門たる実を失ってしまい、荘園制とともに終了した。
このように、権門体制は院政から応仁の乱までの国家権力の在り方を表す概念である。なお、本編の目的は権門体制の提唱よりも、それを前提として中世の天皇がいかなるものだったかを述べることにあったと思われるが、天皇についての考察は意外にもやや簡素である。
「II 鎌倉幕府論覚書」では、権門体制の見方で鎌倉幕府を位置づけている。
鎌倉幕府は国家と言えるか? と昔から議論されてきた。鎌倉幕府の支配地域は概ね東国に留まっていただけでなく、検断権や裁判権など国家機構の一部しか担っていなかった。何よりその時代も朝廷は存在したのであり、宣旨や除目などは朝廷が行っていた。こうした議論に対し、著者は「そもそも幕府は権門の一つと理解すべき」と、鎌倉幕府が国家と言えるか論に応えている。朝廷と幕府は二重政権として矛盾対立していたのではなく、「一つの安定的体制(p.53)」だったというのである。
公武の両者は、権門として対立しつつも相互補完的であった。そして、幕府が国政全般にわたる権力を行使する時には、つねに宣旨が出されていた。このように幕府には国家そのものとはいえない特質が認められる。「現実に国家として絶対にみとめられえないもの(=幕府)を国家として探求しはじめたところに、誤りがあった(p.61)」と著者はいう。そもそも、幕府は国家を樹立する気もなかったと著者は考える。そもそも幕府は、所領を維持するため、「その支配階級としての地位を国家権力機構によって保証されること(p.69)」を求めた。そのためには権門体制がもっとも好都合であった。すなわち、権門体制という基盤があったからこそ、鎌倉幕府という一見中途半端な政権が生まれた。しかし著者は幕府の意義を認めないというのではない。辺境の一地方の政権というのではなく、武家の棟梁として新しい権門を構成したところに幕府の意義がある。
また本稿には、こうした考察の副産物として、天皇の権威についての独特の見方が提示されている。各種の権門が併存しているために(著者は朝廷も権門の一つと見なす)、権門ごとのそれぞれの領域内で処理しきれない事象が存在する。幕府が全国的な指令を出すにあたって宣旨を求めたように、主従関係の外にある人々に何かを働きかける場合などだ。そんな時には天皇の権威が必要だった。つまり権門が独立しているからこそ、天皇でなくては処理できない領域が生まれるのである。権力の分散と分権の結果、かえって天皇が超越的権威として必要とされた。つまり天皇は国家権威のための権門として機能したのである。
「III 鎌倉時代の国家機構—薪・大住両荘の争乱を中心に」では、二つの荘園間の紛争を通じて鎌倉時代の荘園の実態と国家権力の在り方について述べる。
本稿の目的は「鎌倉時代の国家が(中略)全体としていかなる階級的性格のものであったか(p.73)」を考察することである。冒頭で公武の身分的秩序、農民との関係などが議論の俎上に挙げられ、荘園制について考えるために衆徒・神人についてケーススタディがなされる。題材となるのは、嘉禎元年(1235)から翌年にわたって山城国の薪・大住両荘の紛争である。紛争が起こったのは「関東御成敗式目」発布直後、北条泰時の執権期間という鎌倉武家政治の典型期である。
本稿ではこの紛争がかなり詳しく追及されるが、ここでは大略のみ記す。まず、薪は石清水八幡宮領で、大住は興福寺領であった。ただし、薪の方が興福寺に近く、大住は石清水八幡宮に近かった。そして大住の中に、石清水領の飛び地である橘薗という場所があった。こうしたやや複雑な関係が紛争の背景にある。紛争の内容は用水相論である。まずは水の用益権をめぐって、両荘で殺し合いが起こった。これは領主である石清水八幡宮と興福寺に持ち込まれ、興福寺側の衆徒が大挙して薪荘を攻めた。これに対し石清水は八幡の神輿を持ち出して朝廷に強訴せんとし、摂政九条道家はそれを慰撫するため石清水に因幡国を寄進することととした。ここで面白いのは、興福寺と石清水の用水相論であるにもかかわらず、それと全く無関係な朝廷が因幡国を寄進することで幕引きを図ろうとしたことだ。
「八幡や興福寺の上層部はどちらかといえば神人や衆徒の動きに振りまわされており、神人や衆徒が神威・寺威を主張してさまざまな要求を出すことに困惑(p.91)」していた。朝廷や上層部は事態の収拾を図っていたが、現場の人々は納得せず、紛争は3度繰り返された。3度目の紛争では、神人でも住人でもないもの同士が殺し合いをした(薪方が大住方を殺害)。彼らは何者だったのか? 著者は、後の「悪党」のような浮浪的存在であったと見る。彼らは地元住民にやとわれたというより、彼らが火に油を注いでいたのかもしれない。だが、百姓や神人(農村上層部)がそうした存在を抱きかかえたことも事実だ。
騒動は興福寺衆徒による強訴へと展開する。興福寺の衆徒たちはついに神木を平等院に遺棄して退散した。彼らが求めたのは石清水別当・権別当の配流と下手人の断罪である。興福寺内部では、ことを大きくすることに消極的な興福寺別当や氏長者のいうことを聞かず、祠官を衆徒が押さえつけていた。そして朝廷は彼らの要求を受け入れざるを得ず、因幡国の停止さえも裁許された。この衆徒は、僧侶というより、荘官職を持つ武士的なものであったことはもちろんだ。だが彼らは寺内の規式に従って衆議によって集団的に行動してもいた。つまり、彼らは形式的には興福寺の機構の一員であるが、私的な権益の確保のためにその機構を利用していた。皮肉なことに、それが「いわゆる「古代的」機構が緩慢にしか解体しない理由(p.112)」であった。
権門体制の内部で、このような衆徒はどう位置付けられるだろうか? 彼らはことを荒立てて氏長者・別当を追い込み、妥協を難しくすることで自らの存在を主張した。もちろん、究極的には氏長者・別当に従わざるをえなかったが、ある面では主導権を得たのである。しかしながらそれは権門という機構の弱体化が避けられないものであった。
なお、この騒動で最も苦しい立場に立たされたのは当事者でもなんでもない摂政九条道家であった。そもそも、荘園間の小さな争いに最高権力者が振り回されることが権門体制の一つの特質を表していた。どんな小さな争いであれ、権門間の利害の調停は、権門を超える権威=超権門としての天皇・朝廷しかできなかったのである。
石清水別当・権別当の配流、下手人の断罪、因幡国の停止で事件は落着したはずだったが、実は朝廷はこれを裁許しただけで実施する気はなかった(!)。衆徒はだまされたのである。これで収まる衆徒ではなかったが、興福寺内部での抗争(つまり内ゲバ)があり、問題は興福寺のガバナンス全体に及んできた。ここで幕府が積極的に事態の収拾に乗り出し、結局幕府は衆徒鎮圧のため大和国に守護を置き、衆徒の知行する荘園を没収して地頭を設置した。大和国は興福寺が治めており、そこには守護・地頭は設置されていなかったのであるが、「幕府のこの未曽有の強硬措置に、やがて衆徒は屈服を余儀なくされた(p.126)」。騒動が収まったのちに、幕府の守護・地頭は停止されたが、ここで幕府が超権門的な(=国家のような)ふるまいをしたのは注目される。
そもそも、幕府はこの騒動には何の利害もなかったのに、なぜわざわざ鎮圧したのか。著者は「まさに権門体制の国家権力の一部としての役割を果たしていたことを示すものではなかろうか(p.131)」と述べる。紛争の調停を指示する幕府の文書は常に「御教書」という私的文書であり、それが効力を持つには宣旨を必要とした。ということは、「幕府が独自の国家権力をなしていたのでなく、権門体制国家のなかの最有力な権門の一つにすぎなかったこと(p.134)」をも示すのである。
「IV 延暦寺衆徒と佐々木氏—鎌倉時代政治史の断章」では、延暦寺衆徒と佐々木氏との2つの紛争から権門体制の在り方について述べる。
本稿で取り上げられるのは、建久年間と嘉禎年間に起こった2つの紛争である。佐々木荘は延暦寺の千僧供備進の荘園であったが、建久年間の紛争はこれが未進であったことを発端として起こった。近江国守護でもあった佐々木定綱はその下司であった。衆徒側が未進を責めたものの、佐々木定綱の子はこれを撃退。これは義務を果たさなかった佐々木氏側に落ち度があった。興福寺衆徒はこれを強訴して訴えが認められ、定綱らは処分された。この過程において頼朝は定綱に同情的で、関東へ下向した叡山の使者を丁重にもてなし、定綱の減刑を求めて交渉した。なおこれが鎌倉幕府成立後のはじめての「僧兵」蜂起事件であった。
頼朝は、定綱の赦免後には近江国守護に復帰させ、本知行地を悉く返給した上加増して与えた。このように頼朝は定綱を保護していたのに、彼は終始その罪を認める態度をとらざるをえなかったところが面白い。この騒動を主導していたのは衆徒であったが、朝廷はもちろん延暦寺上層部もこうした騒動を好ましく思わず、ことを収めるように協議した。そして定綱の配流、その子の斬罪などの処分が行われた一方で、衆徒の方には何の処分もなかった。頼朝は私情を抑えて国家に忠実な態度を貫いたのである。
次の騒動は、嘉禎元年(1235)に起こった。佐々木高信(守護佐々木信綱の子)が、地頭として日吉社神人に所役を課したため、それを不服とする日吉社・延暦寺との闘争になったのである。この騒動で延暦寺座主尊性法親王が辞職。だが衆徒はこれも不服として神輿動座の挙に出た。朝廷は高信の処分を決定、一方幕府は双方の処分を求めた。衆徒としては幕府に反抗して騒動を拡大させたが、幕府は態度を緩めず、結果として双方が処罰されたものと思われる。このように幕府が衆徒に対して強く出ることができたのは、衆徒の側が一枚岩でなく、在地農民派・悪僧派・良識派(座主派)・武家加担派などに分裂していたという事情もあるが、先の建久年間の紛争とは政治的状況が違っていることも窺える。
例えば、この時には「公家・座主・幕府間において建久年間のときのように相互の意向を打診し協議する動きがほとんど窺われない(p.160)」。特に、朝廷は幕府の意向を確認せず、独自に裁断している。これは朝幕関係が悪くなっていたのではなくて「先例の確認があれば改めて相互に意向を打診する必要がないほどに、諸権門相互間の権限がかえって安定・定着の傾向をみせて(p.162)」いたためではないかと著者は考える。そして頼朝が佐々木定綱に温情を見せたような、個人的な(主従関係に基づく)配慮もない。諸権門間が一見相互の連絡折衝を欠いているように見える意味は、それぞれが国家において担うべき役割が明確化して、機械的な処理ができるようになっていたからではないのかというのである。
「V 建武政権の所領安堵政策—一同の法および徳政令の解釈を中心に」では、元弘元年(1333)に発布された「諸国一同安堵の宣旨(一同の法)」と翌年の徳政令について考察されるが、私は建武政権に疎く、正直あまり理解していない。よってメモは割愛する。
第2部
「VI 鎌倉仏教における一向専修と本地垂迹」では、一向専修と本地垂迹が基本的に対立関係にあったと述べる。
著者は一向専修を「多神観を前提としてそれを克服する論理の形式を意味する(p.192)」という。阿弥陀信仰は一神教的な性格が顕著であるが、しからばこれは本地垂迹の理論とはどういう関係になっていたのか。
民衆の間に広まっていた浄土教は、狂躁的・呪術的・群衆的なものだったと著者は考える。信仰の内容は雑然としていたが、教理の上では一向専修に整理されていった。
一方、本地垂迹説の方はどうか。『神道集』に収録された説話を見ると、東国の話の場合は「あからさまな付会が目立ち、しかも神々が説話の全面に出てしまって本地仏のことは申しわけ程度にしか記されていない(p.202)」。要するに本地垂迹の理論が形式的にしか適用されず、実際には神々を中心に見る意識があった。「『神道集』は最も大切な本地垂迹の原理について不可避的に矛盾に陥らざるを得なかった(p.205)」。そして本地垂迹は人間にまで適用された。人、神、仏が雑然と垂迹関係で結ばれ、「本地」の持つ意味が希薄になった。「つまり説話を吸収しようとしたために、神格と人格、神話と伝説(ないし歴史)とが縫合され、呪術と精霊とがそのまま宗教的に神秘化され(p.206)」た。仏教が持つ彼岸性が本地垂迹説によって後退したといえる。
このような前提の上で、著者は親鸞以降の一向専修と本地垂迹の関係を考え、特に異安心(異端)の教説に着目する。詳細は省くが、「本願誇り」などによって極端な思想が社会との軋轢を招くと、親鸞の後継者たちは神祇信仰と融和するような主張をするようになった。これは、専修念仏の教団が神祇信仰と徐々に妥協したことを示すとともに、親鸞の一向専修と本地垂迹には元来は原理的な対立があったことも示している。
ちなみに著者は本地垂迹へ大変厳しい評価を随所で下しており、例えば「本地垂迹の基本的な性格は、民衆のもつ奔放な願望としての没論理性を、思考を放棄する低俗な没論理性へ導くところの付会的な系譜論であり、もってあらゆる要素を支配秩序に組入れる荘園制反動勢力の論理であった(p.216)」という。要するに、民衆的な雑然とした伝説を都合よく支配者側の思想大系に組入れることができるのが本地垂迹の論理であったというのだ。
本地垂迹の説話に民衆世界を見るか、それとも支配者側の作為を見るかによってその評価は正反対なものになりそうである。
「VII 愚管抄と神皇正統記—中世の歴史観」では、『愚管抄』と『神皇正統記』に現れた歴史観について述べる。
本稿は意外なところから始まる。11世紀の初頭ごろから流行した、聖徳太子に仮託される「未来記」というものがある。これは僧徒らが制作した予言の書である。それは当初は仏教の将来について語るものだったが、やがて政治的な内容に発展した。「未来記は、結局一種の歴史叙述を形成した(p.223)」。また「軍記」は武士の武勇を記録するために書かれ、これも「中世全般をおおうに足る厖大な歴史叙述をのこし(p.224)」た。しかもそれは、無常とか世の変転を基調としながら、主体的に動く人間を描いていた。このように、未来記の予言的神秘主義の歴史観と、軍記の英雄叙事的な歴史観は、中世における対蹠的な関係を持っていた。
この関係は、慈円の『愚管抄』と『平家物語』の関係にも擬えられる。 慈円の目的は、「政治の「道理」を説くことにあった(p.228)」。その道理は、歴史の形而上学を思弁するようなものでなく、実証的な歴史の動きを記述することで浮かび上がるもので、その目的のため『愚管抄』のほとんどが仮名書きされたことも、日常語による歴史記述として画期的な意義がある。そこに書かれたことは、王法が次第に衰え、末法へおちくだるという苦難の歴史であった。そして慈円は、それは偶発的事件の連続ではなく宗教的法則の展開、すなわち必然であったとする。しかも彼のいう道理は、夢告による神秘的な霊感によって体得されたものであった。道理という合理的な響きとは裏腹に、その歴史観は宗教的なものなのである。
著者は次に北畠親房の『神皇正統記』を俎上に載せるが、その前に神国思想について考察する。「中世の神国思想は、中世社会における伝統・慣習・先例などを尊重する意識と密接な関係(p.238)」があり、宗教的・歴史的意識を基盤とするものである。そして重要なことは、神国思想を刺激したのは、禅と念仏が神国たることを無視していた(と批判者たちが見なした)ことで、旧仏教を擁護する概念としても神国思想が機能していたということである。
『神皇正統記』の目的は、「皇統が正理に基づいて伝えられたことをのべる(p.242)」もので、それはもちろん南朝の正統性を主張することに繋がっていた。このために好都合だったのが、「皇室中心的な神代紀を「神書」としてせんさくしていた(p.244)」伊勢神道であった。こうして北畠親房は、「新たな宗教的歴史叙述の形をつくり上げた(p.248)」。それは「教理(ドグマ)に照らして歴史を把握する(同)」ものであった。これは『愚管抄』の立場と似てはいるが、ドグマが固定的であるため歴史の動きが否定され、非歴史的となってしまった。
彼の皇統論は当時必ずしも大きな影響力を持ったとは言えないが、当時最大の精神的支柱であった思想「神国思想」に基づいた歴史であったたために、「封建社会が絶対主義に傾斜しはじめたとき、復活することとなった(p.251)」。
「VIII 中世国家と神国思想」では、神国思想とは何かを様々な観点から考究している。
未だ神国思想の「学問的把握への設計図さえ提示されていない(p.255)」と著者は言う。神国思想には政治的性格が濃厚であるが、その政治性は強調されすぎたきらいがある。むしろ「神国思想を日本の中世宗教史に位置づけて理解する(p.256)」方が適切ではないか。
まず、神国思想の基盤として、「神祇不拝」「諸神軽侮」など言われた一連の運動があった。専修念仏運動では阿弥陀仏への絶対的帰依から、神祇不拝が言われるようになった。法然や親鸞がみずから神祇不拝を説いていたかどうかは確かではないが、彼らが神祇崇拝を重視しなかったことは確かで、神祇不拝を助長した。教団への攻撃を避けるべく、真宗の指導者たちは神祇への軽侮を誡めていたが、それは専修念仏に神祇不拝の態度が内在していたことを示している。
しかしながら、社会全体としては神祇崇拝が当然だったのはいうまでもない。特に農村では領主制と神祇崇拝が結びついていた。
また神国思想では、「日本は神が護っている国だから、敵国に侵略されることがない」とされる。これは蒙古襲来以前から言われており、国土を神聖なものとみなす観念である。では実際に蒙古襲来の時に武士は神国思想を抱いていたか。どうやら「武士が神国の意識をもって合戦に臨んだとすべき資料は、存在しないといってよい(p.273)」。にもかかわらず「神風」は吹いた。これによって「神明の威徳」「神祇の冥助」は明らかだとされ、引いては天皇の権威が観念的に高まっていくのである。
神国思想は、本地垂迹説と相即する。それは現世を賛美するものだからである。一方、専修念仏は、現世を穢土として否定し、浄土を目指すのであるからこれと基本的に相反する。が、14世紀にはいって、覚如・存覚の時に神国思想と本地垂迹説が真宗に持ち込まれた。これでは一向専修の論理が「骨抜き(p.278)」になってしまう。それは、神祇不拝の激発を防止するためだったのではないか、というのが著者の考えだ。それに、真宗では現世の規範などはなんら宗教的に与えられていなかったから、「現世擁護の神は、かくて必然的に要求され(p.283)」た。これは「浄土教の盲点(同)」であった。
真宗ですら神国思想を承認したことは、この時代「神国思想がすべての宗派に不可避的な力でおおいかぶさっていた(p.279)」ことの証左である。それは社会の封建化に伴うものであった。現世擁護を基調とする神国思想は封建領主と封建イデオロギーにとって都合がよかった。それは、超越者によって領主を相対化するのではなく、現世の在り方そのものを承認する思想であった。
では神国というときの「神」は誰なのか。もちろん天照大神のような神は中心的存在であったが、民衆世界には雑多な神々が祀られており、仏教では位置づけられないそれらの雑多なものを整理するため、当時は権社・実社の区別が行われていた。 だが権実の枠組みも空論になりかけたころ、いわゆる神本仏迹説が起こった。そして『唯一神道名法集』では、「神は、(中略)もはや神話や呪術の神々ではなく、汎神論的な霊物でもなく、唯一最高の絶対的造化神に昇華するいきおいをしめ(p.291)」している。
一方、神国と浄土の関係はどうか。日本の国土が神々に守護された楽園なのだとすれば、後生に浄土を願う必要はないではないか。しかもその神々は、本地垂迹説によれば仏の化身であって、神国は仏国土でもあるのである。つまり、神国思想では「現世こそ浄土(p.299)」であった。神国思想は、浄土を否定するのではなく、現世を浄土として位置づけなおしたのである。
現世が神によって支配されるものだとすれば、人々はその支配にどう服すべきか。しかし神道には数々の禁忌はあっても教理や一貫した信条はない。「三種の神器」を持つ神の代理人である天皇の支配を受け入れる他ないのである。その非論理性に対し、神道書ではいつでも「神道のこと測り難し(p.303)」の言葉に逃避した。
神国思想を前提とすれば、その国家観念は極めて現状肯定的なものになる。慈円は神器の意味づけを通じて国家を密教の論理から把握し、本地垂迹説によって神と仏が無条件に接続されたことで、日本を仏教的=神道的な宗教国家として観念した。そして慈円は、国家の衰微や武家の世の到来を嘆きながらもそれを宗教的な「道理」として受け入れた。彼は「神国」とは言わなかったが、明らかに「神国思想と同内容の中世的国家観念(p.310)」を持っていた。
「我ガ朝ハ、神国也(頼朝)」は、当時の共通認識であるが、その神は元来は天皇ではなく、伊勢その他の諸社に祀られた神を示していた。しかし神国である以上、天皇は神格化されずにはおれない。特に幕府の伸長によって天皇が政治的実権を失ったこと、さらには神器が注目されることで、天皇は都合のよい宗教的権威として尊崇されることになった。
しかし神国思想は実態としては政治イデオロギーであるため、政治的な立場によって逆の結論が導き得る。典型的には南朝と北朝の対立がそれである。そして現世肯定的な思想は、農民の生活改善には何ら後ろ盾にならない。また一貫した教説を持たないことはその思想に多くの矛盾を内包した。しかしながら「本質的に対立する理論が成長して反抗運動を展開するまでの条件はなかった(p.323)」。
応仁の乱後、社会の在り方は大きく変わり、大名領国制へと転換したが、神国思想は存続した。「神国思想は一貫してつねに封建支配者の教説で(中略)かつて一度も民衆を解放する運動の合言葉にはなったことがない(p.327)」からだ。
これまでの説明で明らかな通り、著者は神国思想を思想としては全く評価しない。もちろん、神国思想は国家神道の淵源でもあったのだから、当時の雰囲気としても同様であっただろう。では思想として力がなかったのか、というとそうではなく、中世的な国家観念の核として機能したのが神国思想であり、当時の人が広く共有していたのが神国思想であった。だが著者は「神国思想は、みずからがなしくずしの不徹底な中世宗教であったばかりでなく、純粋な中世的宗教の発展を抑圧し、挫折させ、あるいは混濁させたのである(p.330)」とまでいう。
これを自分なりの言葉でいえば、国土の観念と宗教が一体化したことにより、本来は宗教が担うべき「聖なるもの」の観念を「国土」そのものが代替してしまった、ということになると思う。その意味で、神国思想は既存の宗教をある面で骨抜きにする論理だったのである。
「IX 一向一揆の政治理念—「仏法領」について」 では、仏法領に注目することで中世的宗教の在り方について考察している。
「仏法領」とは、蓮如の言葉に出てくる概念で、「仏法が支配する領域」といった意味である。それを著者は「世俗領主が所領・領国をめぐって争乱をつづけているなかにあって、かかる世俗的方法によらない信心者の集団の世界=「領」を意味するものであった(p.334)」としている。
蓮如の描く仏法領はユートピア的である。「世間には物も食すして寒かる者も多きに、食たきままに食て着たきままに物を着る事は聖人の御恩なり(p.338)」という。仏に全てを任せ、仏の絶対支配下の領域に入ることで、来世の浄土ではない「現世の仏世界」にゆけるという。これは、神国思想とパラレルなものであるように思われる。
来は来世での救済のみを企図していた親鸞の教団は、成長するに従って現世的な秩序を指向するようになった。そして親鸞は非僧非俗を標榜して戒律も守らなかったが、現世的な秩序のために事実上戒律が形成されていった。そしてその象徴が、現世での楽園であると同時に仏が支配する仏法領という観念なのである。
「X 中世の身分制と卑賤観念」では、中世の身分とはどのような観念であったかが検討される。
著者は中世の身分には4つの系列があったとする。第1には村落。ここでは「住人・村人」と流動的な層の「間人(もうと)」がある。第2には荘園・公領。「本家・領家・知行主・国主」「荘官・在庁・地頭」「本百姓・小百姓」「下人」などである。第3に権門の家産支配秩序。これには公家・武家・寺社などがそれぞれ身分秩序を定めていた。第4に国家体制に基づくもの。「帝王」「臣下」「諸大夫・官人」そして「平民」「奴婢」といったものである。
これらは別の系列をなしていたが、それをまとめると(1)王家・摂籙家、(2)司・侍、(3)百姓、(4)下人、(5)非人の5つに集約できる。これらが「身分」であるというのは、「「種」すなわち出生の別による「人間の品」(p.361)」と考えられたことによる。
では、先ほどの4系統に亘る多様な立場が、全て生まれながらの身分と固定化していたのかどうか。例えば寺社のそれは生まれながらの身分であるとは認められない。なぜなら僧侶の妻帯は戒律に違反していたからだ。しかしながら、社会的分業という意味では両者は同様に捉えられていた。
というわけで、例えば『普通唱導集』という史料では、職業・身分・階級関係などを2つの軸で四象限に分類している。それは「聖霊」と「芸能」という軸と「世間部」と「出世間部」という軸だ。例えば
聖霊の世間部:「天子」「主君」「養父」「子息」など
聖霊の出世間部:「僧正」「僧綱」「師範」「禅門」など
芸能の世間部:「武士」「歌人」「陰陽師」「巫女」「鍛冶」「瓦造」「博打」など
芸能の出世間部:「説経師」「律僧」「禅僧」「真言宗」など
である。
すなわち、尊卑の観念を考察するためには、「国家秩序に基づく身分(階級的身分)」と「社会的分業による身分(芸能的身分)」の2つを考える必要がある。そしてこの2つは多くの領域で重なって細かな身分を成立させたが、重ならない領域があった。つまり、芸能的身分のうち、「公事ではありえないもの」を担う人々で、「国家秩序に基づく身分」を持ち得なかったもの、がそれである。具体的には、商人・都市遊民・非人・乞食・遊女などである。ごく大雑把に言えば、体制内に位置づけられない人々がそれであった。
似て非なるものが「下人」である。彼らは特定の芸能を持たないが、主人に従属している存在であるから体制内の存在であることは明らかだ。「下人」が実態として「農奴」「奴婢」であったとしても、身分の上では非人などとは全然違うのである。
まずこのように身分の概念を整理してから、著者はこうした身分の特質を考察する。キーになるのが非人である。先述の通り非人は身分外の身分であるが、具体的にはどのような人々であったか。第1に、乞食や濫僧(乞食法師)などの貧者・廃疾者、第2に唱聞師・絵解き・傀儡子師など遊芸の人々(ただし、遊芸の人々は当時の史料では非人とされておらず狭義の非人ではない)、第3にキヨメ・河原者・ヱッタといわれた人たちである。
なお、高弁が「非人高弁」と自署したように、聖も体制から離脱した人たちであり、自覚的に非人と位置づけていたようである。「非人身分は、階級的な搾取関係を固定するために成立した身分ではない(p.385)」。とはいえ、全ての非人が体制から自由であったのでもなく(!)、散所非人や犬神人は、不浄な雑用のために使役されるべく支配秩序に組み込まれていた。キヨメなどもそうである。
日本の場合は、人種や種族に基づく差別はなかったのであるが、特定の芸能(死体の片付け、屠殺等)に基づく不浄視が種姓観念の確立に重要な役割を果たした。つまり、前世での宿業によって不浄な仕事をしなければならない境遇に陥ったのだ、という理解が、生まれながらの身分(種姓)観念の基盤となったという。
このような「中世の身分制は、ほぼ14世紀を境に異なった様相をみせはじめる(p.393)」。守護にしても国人層にしても、荘園制を否定はしなかったため、その支配のための身分秩序を否認することはなかったが、旧来の権門が退潮したことで階級的身分の枠組みが薄くなり、芸能的身分が濃厚になっていったのである。そして「惣」的結合が強固なものとなって村落共同体から外れた存在が賤視されるようになった。
さらに、非人集団を支配体制に組み入れる動きもあり(東寺の散所や大和の唱聞師)、元来は体制外の身分であった非人が、体制によって固定化され、差別が強化されていった。これは「個別人格支配による隷属関係でなく、中世にもましてはるかに徹底した総体的・階層的支配(p.397)」であり、「「穢多・非人」については、もはや社会的に自然発生的な体制外の存在などでは絶対になく、政策的に体制内に組み込まれ設定されそして固定された身分となったのである(同)」。
※本稿には「非人」の語義についてポルトガル人の辞書を参考に考察した「[付説]「七乞食」と芸能—ポルトガル人の日本語文典における部落史資料」が付されているがこれのメモは割愛する。
第3部
第3部は「XI 中世における顕密体制の展開」という書き下ろし論文のみで構成される。これは5つのパートに分かれており、本書の約5分の1を占めている。顕密体制とは「日本中世において正統的とみなされた宗教の独特のありかたを意味する概念(p.413)」であり、本稿は顕密体制の展開を見ることによって「日本中世の国家と宗教との関係の基本構造(同)」を考察することを目的としている。
「1 顕密体制の成立」では、顕密体制の成立過程について述べている。律令制古代国家の崩壊にともなって、国家とは何か、どうあるべきかという問いが為政者のみならず百姓にまで突きつけられた。
ここでは意外なことに、民衆の側の宗教意識が『日本霊異記』を題材にして読み解かれる。これは庶民の宗教的欲求をいくらか反映している。さらに9世紀の天台宗と真言宗にいたっては「豪民以下の地方庶民の要求に適合的であったことは確か(p.428)」である。そして彼らが喧伝した密教は、「全宗教の包摂あるいは統合(p.432)」を企図していた。日本人の宗教意識は密教を究極の原理として統合され、上は天皇から下は民衆までの需要に応えたのである。それは単なる呪術ではなく、「国土と人民とを鎮護する大乗仏教の理想(p.435)」にまで高められていた。
続く10世紀には浄土教が発達した。 「貴族層の耽美的な観想の念仏と庶民の呪術的・狂躁的な念仏(p.436)」は対蹠的なものであったが、これには共通の基盤があったと理解した方がよい。著者は貴族と庶民を対立的に捉えるのではなく、むしろ宗教観念において共通するものがあったと見なす(「観想の念仏についても庶民的呪術的な「郷里の念仏」との異質性において特色づけたのでは、反って全般の動向を的確に把握できないのでなかろうか(p.439)」)。
そして念仏を基軸にして体制外に飛び出した宗教者「聖」の盛行も、「密教によって統合された宗教思想の一種として念仏が成熟したことを意味する(p.440)」という。国家的な仏教と決別して民衆に念仏を説いた聖たちは、一見、国家的仏教へのアンチテーゼのように見えるが、そうではなく、国家外にも密教や念仏といった宗教概念が確立していた証左だというのである。
一方、顕教と密教は対立するかのように捉えられていたが、天台宗の主導的活躍により「顕密の一致・円融あるいは相互依存的な併存を最も妥当なものとみなす体制(p.442)」となった。それは教理的に整理されたというばかりでなく、民衆まで含めて国家全体で共有されたイデロギーとみなせるのである。これが著者のいう顕密体制である。
顕密体制では、「第一に、鎮魂呪術的基盤の上に密教による全宗教の統合が行われ、第二に、その上に各宗固有の教理や顕密融合についての種々の教説および各流派の密教的作法が成立し、第三に、そうした集団としての各宗(八宗)が世俗社会からその正当性を公認され一種の宗教的秩序を形成していた(p.445)」。
顕密体制が「正統的」というのは、国家によって承認されていたことはもちろんだが、それは国家権力によって承認されていたために「正統的」であったのではなく、民衆的基盤の上に正統的立場を獲得したというのが著者の考えのようである。
「2 王法と仏法—権門体制の宗教的特質」では、 王法と仏法の相依関係について述べる。
著者がその糸口とするのは、またしても意外なことに本地垂迹説である。「本地垂迹説が11-12世紀に急激に進展し新たな段階を劃したのは、以上のように荘園制支配の集中的な組織とそれを根幹とした政治・流通・通交・文化伝播などの諸交通形態の成立と密接な関係にあったものとみられる(p.452)」という。日本の各地にいる神々が本来は仏であるなら、地方—神—仏—国家というように、日本全体の国土をひとつの国家として統合することができる。
特に、権門勢家は実力(武力とか行政)よりも権威によって権門でありえたので、その権威は極めて観念的なものであった。そこに、権門体制において権門が宗教と結びつく蓋然性があった。そしてその頂点に位置する国家・天皇は、超権門的でなければならないために一層の権威性・宗教性が求められ、帝徳論や神器論によって神秘化された至高性が理論化された。
一方、鎌倉幕府は新興の権門であったために、伊勢・八幡など国家の宗廟神への崇敬の姿勢をはっきりと示し、「日本国総守護職」としての立場を顕揚した。
これらの事例からいえることは、朝廷や幕府は、それ自身が国家として不完全であったために、宗教的国家観念に寄生することで存在を補強したということだ。白河法皇が「王法は如来の付属に依て国王興隆す(p.464)」と述べるように、国家の究極の目的を「仏法流布」であると自ら規定することで国家の正当性を保証しえた。王法・仏法は相互に依存関係にあったが、「理念的・論理的には仏教が原理的な位置を占めてさえいた(p.465)」。
しかし、仏法の方は、国家とは違って一枚岩ではなく八宗や神祇信仰まで含めた「顕密主義」と表現すべき存在であった。よって唯一の正統的な宗教・教義が確立するということがなく、むしろ国王がもつ伝統的・宗教的権威が優越した。よって、仏教が原理的な位置を占めながら、「諸宗・諸寺院の貫主についての叙任権がいつも国王の側にあった(p.467)」のは一種の倒錯である。
「3 仏教革新運動—異端=改革運動の展開」では、 いわゆる鎌倉仏教を「異端=改革運動」と位置づける新しい見方を提示している。
従来、鎌倉仏教はあたかも当時の中心的な宗教運動であると見なされてきたのだが、著者は顕密主義こそが正統的地位にあり、それに対する改革運動こそが鎌倉仏教だったという。
その証拠に、仏教改革運動は「すべての段階でつねに、顕密主義と対峙しつつ展開した(p.480)」。彼らが挑む必要があったのが、正統的地位にある顕密仏教であり、それが攻撃目標となった。 彼らは密教の呪術性や現実肯定主義を克服し、個人の信仰と実践を重視した。そして顕密主義の総合性をなげうち、むしろもっとも時機相応の、もっともすぐれた(と彼らが考えた)方法を専修することで仏法本来の理想に立ち帰ろうとしたのである。
そしてその戦いは、王法と仏法が相依しているがゆえに、自然と国家権力と対決するものとなった。それは、民衆が国家によって一方的に支配されるのであなく、徐々に自立的な存在へと変貌していく中で、民衆の側の論理として成長していったのである。しかしながら、国家は異端=改革運動を弾圧はしたが、教義上の論争に介入したり、特定宗派を弾圧したりするということはしなかった。国家は、宗教を自らの管理下におこうという発想はなかったのである。
13世紀の後半になると、「顕密体制の体制的統制力は弛緩しはじめ(p.502)」、顕密仏教の内部も衆徒の横暴など頽廃の度を強めた。一方の異端=改革運動も、単純な反顕密主義ではなく、「正統=顕密主義との葛藤のなかではるかに複雑な経緯をたど(同)」った。様々な思想が入り乱れたのである。だが異端=改革運動の元来の性格から、それは「宗教改革」を指向するものであり、民衆的な抵抗運動と結びつく必然性があった。一向一揆によって「顕密体制が終末をつげる条件をつくったのも、ゆえなしとしない(p.503)」。
「4 中世の神国思想—国家意識と国際感覚」では、中世の神国思想が顕密主義に本来的な固有のものであったことを述べる。
平安末期から鎌倉中期にかけて「神祇についての人々の関心がなにか特別のたかまりをみせた(p.511)」。その理由を、著者は伊勢神道をケーススタディとして探っている。伊勢神道では心が一種の神であるとか(心神ハ則天地之本基)、神の基本的特性として「清浄」があるとか、あるいは正直の重視といったことを、儒家や五行説などを借りて主張した。そこには本覚思想の影響が濃厚である。つまり本覚思想が伊勢神宮に適用されたことで生まれたのが伊勢神道ではなかろうか。
仏教と神道は元来は別物であったが、顕密主義ではそれが一つに統合されていた。しかし神道の側が仏教理論を適用することで、神道の方がより根源的な位置にあるのだと主張するようになった。「要するに神道は天地未分の混沌=本源のものであり、仏法はその後の我相憍慢の猥りな心の段階のものだ(p.520)」というのである。ここで注意すべきは、神道は仏教から独立したがっていたというのではなく、神仏が統合された世界において、神の方がより上位にあるのだと主張したということだ。もちろん、伊勢では仏法を忌むとされ、神仏を峻別する儀礼は存在していたのであるが、それは人々にとって不可思議なことであり、当の伊勢の神官たちも仏法を否定しようとはしていなかったのである。
このような神道説の盛り上がりの中、国土そのものを神聖視する神国の観念が成長していった。面白いのは、仏教の異端=改革運動が展開する中で、並行的に神国思想が強調されるようになったことだ。つまり神国思想は、旧体制を維持するための、支配者にとって都合のよい政治的・宗教的イデオロギーであった。それは蒙古襲来によって盛んになったというより、体制の弛緩を押し止めるために支配の正統性を補強する必要があったことによる。「つまり、神国思想は、都鄙民衆の素朴な寿祝的な神祇崇拝を「天下太平、国家安穏」という国家と権力の鑽仰へと結集するあからさまな国家イデオロギー(p.538)」となって、密教に変わる立場を占めるようになるのである。すなわち、現状肯定の思想が本覚思想→神国思想として発展し、「封建支配の反動イデオロギーの切り札(同)」になったのであった。
「5 日本思想史における顕密主義—歴史的展望」では、顕密体制/顕密主義の終わりについて述べる。
先述の通り、顕密体制/顕密主義は国家体制と相依するものであったために、体制の変革によって終わりを告げる運命にあった。また顕密主義の内部においても、天台・真言宗の堕落、禅・律諸派の興隆、禅宗の発展などによる変化が起こっていた。最終的に顕密体制が崩壊することになったのは、一向一揆・法華一揆・きりしたん一揆などである。これらの農民一揆において、その理念として宗教が掲げられ、王法と宗教とは別次元のものだという発想で運動が展開したことが重要なのである。これは王法・仏法の相依という顕密主義を真っ向から否定するものであった。
またここで留意すべきなのは、一見、仏法を貶める見方をしていた唯一神道が顕密主義の枠を出るものではなかったということだ。
近世になると、幕藩権力はあきらかに宗教を統制下におき、また仏教との絶縁を主張する神道が創唱された。顕密主義/顕密体制は、名実ともに終了したのである。
私なりに顕密体制を一言でまとめると、「国家の前に、国家的宗教があった」ということになる。不完全な国家(権門体制)は、図らずも成長していた「国家的宗教」を取り込むことで国家であることを仮構したのである。
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本書は全体として、どう歴史を見るか? どういう枠組みで歴史を理解するか? ということに強くこだわっている。
権門体制論にしろ、顕密体制論にしろ、歴史への見方・把握の枠組みを大きく変更するものである。そしてその論理は非常に特徴的だ。例えば、ある史料を提示して「この史料は、従来の見方では解釈できない」として新たな見方を提示するのが普通の歴史学であろう。ところが著者は、論文の冒頭で「こういう見方で歴史を把握してみることにする」と宣言する。
そして、その見方によって旧知の事項を徐々に整理していく。新しい史料を発掘して歴史の新事実を明らかにするのではなくて、旧知の事項を新しい見方で整理することで生みだされたのが「黒田史学」であると感じた。
この方法論は必然的に、具体的な史料や細かい歴史的事実の記述へと向かいにくい。つまり、文明史論的な大づかみの論理が中心となる。だから一見、難解な一次史料にあたる場面が少ないから初学者にもとっつきやすく感じるのだが、実際には咀嚼するのが難しいのが本書である。なぜなら、「旧知の事項の整理の仕方」にこそ著者の独創性があるからである。私自身、このメモを書きながら、なんとかその独創性に肉薄しようとしたのだが、どこまでそれが理解できたのか心もとない。業界では最重要の歴史家でありながら、黒田俊雄が一般にはほとんど認知されていない理由が分かった気がする。
中世社会への見方を一変させた記念碑的論文集。
【関連書籍の読書メモ】
『日本の歴史 (8) 蒙古襲来』黒田 俊雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/09/8.html
蒙古襲来からの鎌倉幕府の滅亡までを描く。蒙古襲来を起点として鎌倉末期の諸相を描いた良書。神国思想についての記述があるが、本書は黒田が若いときの作品であるためその見方は少し異なる。
『王法と仏法—中世史の構図』黒田 俊雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/12/blog-post_10.html
仏教をキーにして中世社会を考察する論文集。やや専門的だが、今なお日本中世の社会の見方を再考させる力を持った論文集。
『寺社勢力—もう一つの中世社会』黒田 俊雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/09/blog-post_13.html
中世における寺社勢力の勃興と衰退を述べる。中世の申し子とも言える寺社勢力を通じて当時の社会の内実を考えさせる良書。
『日本中世の社会と仏教』平 雅行 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/01/blog-post_19.html
顕密仏教と浄土教を考える論文集。専修念仏教団と顕密仏教の関係を詳細に明らかにした労作。顕密体制論をさらに精緻化している。
★Amazonページ
https://amzn.to/3ZKy6wO
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