2023年3月21日火曜日

『葬式と檀家』圭室 文雄 著

檀家制度がいかにして生まれ、それが何をもたらしたか述べる本。

日本人の多くが仏教的葬儀を行うようになったのは300〜350年前くらいからにすぎない。では何をきっかけに仏教的葬儀が行われるようになったのか。

その大きな契機となったのがキリシタン対策であった。慶長18年(1613)、幕府は伴天連追放令を出し、キリシタンを厳重に調査・改宗させるよう全国に迫った。本書ではこれに対する事例として小倉藩の動きが紹介されている。小倉藩の細川忠興・忠利親子はかつてはキリシタン布教に極めて好意的であったが、伴天連追放令以降は弾圧に乗り出した。小倉藩では慶長19年に「宗門改め(切支丹改め)」を行い、キリシタンが発覚した場合は改宗させ、改宗した証拠に「転び証文(転切支丹改請文(ころびきりしたんあらためうけぶみ))」を出させた。これは本人だけでなく、村民(保証人)、村役人、檀那寺にも責任を持たせた文書で、これが寺請証文の原点である。

寺請証文は、キリスト教徒の摘発と、それを改宗させた証拠として作成される文書であったが、これが10〜20年後の寛永年間(1623〜43)になると日本人全員に作成されるものとなる。これは全国一斉につくられるようになったのではなく地域差があり、本書では早い時期に作成が進んだ京都の例が紹介される。京都では、キリシタン以外の庶民に対して寺請証文が作成された初見は寛永12年(1635)である(幕府が天領で寺請証文の提出を命じたのも寛永12年)。なぜキリシタン以外の住民にも寺請証文をつくらせたのかというと、キリシタンの根絶が目的であった。

なお寺請証文の作成にあたり、勧進など遍歴する宗教者を警戒するよう領主が命じているのが気になった。例えば熊本藩では、諸勧進僧・虚無僧・簓摺・乞食・病者等が村の外から入ってきた場合は「念を入れてあい改め書類を作成すべし」、としている。

寛永14年(1637)には、島原の乱が起こる。これは領主の苛烈な農民支配への反抗が理由であったが、その首謀者はキリシタンが中心となっており、各地で代官だけでなく僧侶を殺し寺院を焼き払うなど、既存宗教への攻撃が行われた。島原の乱の戦後処理では幕府は乱に参加したものだけでなく、領主にも非常に厳しい処罰を行った。

そして島原の乱を契機として、「寺請制度をいちだんと強化するとともに、人心の完全な把握のため、宗門人別帳(戸籍)の村ごとの作成、さらには五人組組織の形成にともなう五人組帳の作成など、村落内部においてきめ細かく民衆の把握につとめることを目指した(p.60)」。これにあわせて高額な報奨金をともなうキリシタン密告の制度も設けている(後述)。

寛文15年(1638)、幕府はまず天領に案文を明示し、日本人全員がそれにならって寺請証文を作成するよう命じた。これはキリシタンであるという疑いがかけられた場合、菩提寺(葬式をする寺)の住職が申し開きをしなくてはならないということを意味する。しかしその時点で、日本人全員に菩提寺が定まっていたわけでもなく、また日本人全員を受け入れられる寺があったわけでもなかった。このため僧侶を定住させたり、季節的に使っていた堂宇を寺に昇格させるなど、寺を急いでつくる動きが見られた。

また寺側としても、戸籍調査が住職の手に委ねられたことによって、「幕府の権威を背景に檀家制度を形成させていく絶好の機会(p.65)」が訪れた。

ところでそれから時代を少し遡った元和元年(1615)、幕府は「寺院法度」を出して仏教教団の統制を行っている。これには各宗を本山を頂点とする組織化の原理が組み込まれており、各宗本山は末寺の把握に努めた。さらに寛永8年(1631)には新寺建立禁止令を出している。そして寛永9〜10年に「寺院本末帳」を提出させ、教団の固定化を図った。この帳面に登載されていることが寺請寺院になるための条件であった。

大本山の大僧正は将軍が任命、将軍の推薦により紫衣と勅賜号が贈られるなど幕府は本山の権威を認めるとともに、江戸等に本山直轄の「触頭寺院」を置かせて幕府との窓口寺院を定め教団を幕府の支配機構に組み込んだ。すなわち、仏教教団は幕府の統治機構の一翼を担う代わりに統制も受けた。そして、この仕組みに最も適合的で、教線を拡大させたのが一向宗である。

その理由として、一向宗では妻帯が許されて血縁によって財産が相続されていったことが挙げられているが、 葬祭に特化した教義にもその一因を見ることができよう(臨済宗妙心寺派・曹洞宗も葬祭を軸としていたので発展した)。その理由はともかく、一向宗が慶長6年〜元禄13年(1601〜1700)の50年間に教団を急拡大させたのは事実である。

では、そういった情勢の中で地方寺院はどのような状態に置かれていたか。本書では熊本城下の一向宗(西本願寺系)寺院の様子が描かれている。地方寺院は、本山に「寺」として認められ(紙寺号:末寺名を付けてもらう)、「木仏」を下付され、また「親鸞絵像」や「蓮如絵像」などを本山から下付される必要があった。もちろんこうしたものは無料でもらったのではなく、かなり高額の謝礼をともなっていた。しかし寺請寺として認められなければ寺の存立意味が薄まるため、檀家から金を集めて本山に上納したのである。これを本山から見れば、寺請制度を背景にして、金を集めるビジネスをしていたということになる。

事実「江戸時代を通じて東・西本願寺には多くの絵師・書家・彫刻家が寄生していた(p.90)」が、その背景には「絵伝・木仏・歴代上人絵像などを注文生産していた(同)」ことがある。末寺からの注文に応じて製造する仕組みができあがっていたのだ。

なお東本願寺では西本願寺よりもさらに収奪が甚だしかった。東本願寺では多くのアイテム(モノだけでなく、寺格や僧侶の継ぎ目(相続)にともなうものも含む)を用意し、それを末寺に競わせるような形で集めさせた。寺院経営が檀家の信仰心を置き去りにしたものであったことは明らかである。

一方、幕府の「寺院法度」などの仏教統制策を受け、寛文年間に廃仏毀釈を行った大名が3人いた。岡山藩主池田光政、会津藩主保科正之、水戸藩主徳川光圀である。本書ではこのうち最も徹底した政策を実施した岡山藩について紹介している。そこで注目されるのが、池田光政は藩内の半数以上の寺院を整理するとともに、寺請ではなく「神道請」を強力に推進したことである(領民の98%が神道請になった)。しかし葬式が神道式になったのではなく、儒葬祭だったのも同様に注目したい。彼は神社の合祀を進めるなど神社整理も強行した。

では、池田光政が廃仏政策を行ったのはなぜか。それは、大飢饉で領民が苦しんでいる中でも僧侶たちが華美な生活を続け、農民を苦しめ、藩政に協力しなかったからであった。光政は強引に仏教から神道へ改宗させたのでもない。むしろ彼の政策は合理主義に基づくもので、葬式の簡素化を認めるなど、いわば「無駄を省く」理念によって行われた。光政は、僧侶は堕落し、寺院は領民からの支持を失っていたという。光政によれば「出家は役に立たず、地獄・極楽などわけもないことをいう」のだ。

そして光政のもう一つのターゲットが、日蓮宗不施不受派への弾圧であった。備前国周辺は不施不受派の一大拠点だったのである。

しかしもちろんこの動きに仏教各派は反発し、特に天台宗寺院が寛永寺に上訴して輪王寺宮を動かしたことを光政は窮地に陥れた。光政の廃仏政策は挫折し、貞享4年(1687)には寺請制度に戻った。

では、岡山藩では肝心のキリシタン対策はどうであったか。幕府は寛永17年(1640)に宗門改役を置き、キリシタン弾圧の総司令部的な役割を果たしたが、この指導の下で岡山藩でもキリシタン弾圧が行われた。特にその手段となったのが密告制度である。一度密告されると、キリシタンから改宗したといっても、キリスト教を信仰した証拠がなくても拷問され、摘発された人は牢死するか、長い間獄舎に閉じ込められた。寺の住職が身分保障しなければ、人はいつでもそういう境遇に落ちたのである。

しかしそうした厳しい弾圧によっても、信仰を捨てない人がいた。そこで幕府は貞享4年、キリシタン本人のみならず、親類・縁者を「類族」として戸籍(切支丹類族戸籍)を別に作成するという政策を打ち出した。類族は継続的な監視の対象となり、しかも死んでも一般の墓に葬られることはなく、墓石を作り戒名が彫り込まれること自体が無かったようである。そして類族は文字通りネズミ算式に増えるので、かなり大量の人が類族扱いされて差別を受けた。

そしてこの「切支丹類族戸籍」は、元禄元年(1688)に全国の大名が提出してから、キリシタンとして摘発される人がいなくなった後も、明治4年の壬申戸籍によって廃止されるまで基本台帳として活用された。

他方、普通の戸籍である「宗門人別帳」の方はどうであったかというと、こちらは「切支丹類族戸籍」より50年前の寛永15年(1638)に寺請証文が日本人全員に義務づけられた時に、これを村・町単位でまとめて台帳にしたことで始まった。全国的に帳面が仕立てられたのが万治3年(1660)〜寛文9年(1669)、幕府がその書式を統一したのが寛文11年(1671)であった。なお、この間の寛文4年(1664)に全国の大名に対して「宗門改役(宗門奉行・寺社奉行などとも)」の設置を命じている。 

「宗門人別帳」は幕府で全て集めるのではなく、幕府へは村単位の一紙手形(総数を記したもの)だけが提出された。これは戸籍であるから調査は一軒単位であり、形式的には毎年作成された(朱書きで修正するなどもあった)。またこれは寺院が作ったのではなくて村役人が作った。寺院は「宗門人別帳」に対応する寺請証文を作成し、その寺請証文をまとめて村役人に提出した。よって寺院によって檀家として認められなければ戸籍に掲載されなかったというわけである。

この体制の中では、寺の方に問題があって離壇しようとしても、ほとんど不可能であった。本書には、住職の不義密通を理由に檀家が離壇しようとした件や、熊本藩の宗門奉行が曹洞宗から日蓮宗へ転宗しようとした件が紹介されているが、どちらのケースでも離壇は認められなかった(後者では認められなかっただけでなく、役儀を取り上げられ蟄居も命ぜられた)。幕法では離壇が禁止されていたのではないが、菩提寺の反発によって離壇が不可能だったのである。それだけ菩提寺が力を持っていたということだ。

ちなみに寺請制度を鞏固なものにするために寺院側で偽作されたのが「宗門檀那請合之掟」である(『徳川禁令考』にも所収された巧妙な偽法)。そこでは、檀那寺の言うことを聞かない檀家の身分は寺の一存で落とす(宗門人別改帳に載せない)ことができるとされている。「檀家は寺の要求する檀那役をよろこんで負担し、仏恩の報謝のため僧侶には多額の不施をし、死去したときはすべて僧侶の言分通りに事を運ぶ(p.188)」のが義務だった。寺は強大な宗判権を背景に檀家から収奪したのである。

一方で、金次第で院号や道号、立派な戒名を付けてもらえるようになると、生前の身分を超えて高い位階の戒名が濫発されるようになった。幕府はこれを問題視し、天保2年(1831)には、百姓・町人に院号・居士号を禁止し、墓塔も台石を含めて4尺までに規制している。宗教が金次第になったことは一面では堕落であるが、それによって既存の秩序をはみ出す庶民が生まれていることは興味深い。

本書は全体として、いわゆる「近世仏教堕落史観」に立って記述され、現今の「寺離れ」もやむなしとする論調である。しかしながら、本書に提出された事例は限られたもので、やや一斑を見て全豹を卜すきらいがないとはいえない。例えば離壇はほぼ不可能だったされているが、結構簡単に転宗している藩もある。また「宗門人別改帳」も、全国統一書式は一応示されていたが、帳面自体を提出したのではないからその作成作業における檀那寺の関与も諸藩で違ったらしい。封建体制はよくも悪くも分権の体制であるから実態は複雑であり、本書は少し単純化しているように感じた。

また、江戸時代は庶民がお墓を建てられるようになった時代である。「墓を建てさせられる」「葬儀をやらされる」という(現代と似た)面もあったかもしれないが、墓については葬祭と違って義務づけられたものではなく、本人や遺族の希望によって建立されていたと見られる。にも関わらず江戸時代には前時代と比べて圧倒的に多くの墓が残されている。これは、庶民が仏教式に葬られ、供養されることを望んでいた証拠と見なさざるを得ない。檀那寺は一方的に檀家を収奪していたのではなく、やはり庶民の側も仏教を欲していたのである。

そうした部分、つまり民衆が檀家制度の中でどのような宗教生活を送ったのかは、本書では例外的な事例(離壇しようとしたなど)を除いて述べられていない。圧倒的多数の普通の人々が、寺請制度の中でどのように信仰していたか、そこが本書ではよくわからない点である。

ただし、そうした不足は、現在の檀家制度の淵源を要領よく記述した本書の価値を減じるものではない。本書はあくまで制度史の枠組みで記述されたものだということだ。

近世の檀家制度成立をわかりやすくまとめた良書。

【関連書籍の読書メモ】
『江戸幕府の宗教統制(日本人の行動と思想 16)』圭室 文雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/05/16.html
江戸時代の仏教への統制についてはこちらがよりまとまっていて、詳細でもある。内容は重なっている点も多いが、キリシタン対策については『葬式と檀家』が詳しい。



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