2023年3月14日火曜日

『吉田神道の四百年—神と葵の近世史』井上 智勝 著

神道で有名な吉田家の近世史。

足利義満、豊臣秀吉、徳川家光といった天下人といえども、神祇に関することは直接手を下せず吉田家に依頼する必要があった。また徳川家康のブレーンの一人だった金地院崇伝は「神ならば吉田存ずべき儀」「吉田は神つかひにて」と述べ吉田家を重用した。武家政権は自ら宗教行為を行う部局を置かなかったから、民間の宗教一家である吉田家に頼ったのだ。

ではその吉田家とは何者であったか。本書は吉田家が生きてきた時代を振り返り、それを平易に述べたものである。なお本書は同著者の専門書『近世の神社と朝廷権威』が元になっているが、内容はかなり組み替えられている模様である。

まず前提として、吉田家は伝統的に高位の神道家だったのではない。吉田家は吉田神社の神職を世襲しており、歴史はあったが一神職の家系に過ぎなかった。その吉田家を「神つかい」にしたのが吉田兼俱(かねとも)である。彼は応仁の乱で被害をうけた吉田神社の復興を目論見、自邸内にあった「日本最上神祇斎場」こと「斎場所」を文明16年(1484)、吉田山に移設する。これは日本の全ての神を祀る神社の総本社だという。

これは名称からしてハッタリ的だが、兼俱は後土御門天皇からここが「神国第一之霊場」であるとのお墨付きを得た。さらに兼俱は、この全ての神を祀る「神様の百貨店(p.28)」に伊勢神宮の神が飛んできた(飛神明)と主張。伊勢神宮までも包摂した。伊勢側はこれに猛抗議し、兼俱を「神敵」と呼んだ。

古代律令制では、神祇行政と祭祀を行う「神祇官」という官庁があった。神祇官の長官(神祇伯)を世襲したのは白川家であったが、吉田家は「神祇管領長上」という「神祇伯と対等な席を占める(p.32)」役職を務めていた。応仁の乱で神祇官は焼失していたものの、兼俱は引き続き「神祇管領長上」を名乗り、あたかも神祇官の正式な長官のようにみせかけていた。

理論面でも、兼俱は「元本宗源神道」を喧伝した。「元本宗源神道」は神仏習合理論を否定した神道の純粋理論(唯一神道)である。それまでの神祇理論では神が仏教の従属的立場にあったが、それを否定したのは「日本思想史上のコペルニクス的転回(p.36)」であった。

こうして兼俱が吉田神社(と吉田山に設けられた斎場所)という装置と、元本宗源神道の理論をつくり、さらに「神祇管領長上」の権威を復活させたことで吉田家は日本一の神道ビジネス宗家となっていく。

神道ビジネスの商材となったのが「鎮札」や「宗源宣旨」、「神道裁許状」といったアイテムである。

このうち「鎮札」とは一種のお札で、例えば神木の伐採とか神社の土地の開発などによって、予想される神の怒り(祟り)を鎮めるもの。戦国時代以降、神への畏れが弱まり、かといって祟りも心配だった人々は、吉田の「鎮札」を求めた。社会の世俗化が却って吉田家を必要とした。

「宗源宣旨」とは、吉田家が与える神階の許状である。「正一位稲荷大明神」の「正一位」が神階にあたる。 神階の授与は本来は天皇により、「宣旨」とは天皇の発給する文書であるが、吉田家は「宗源宣旨」として神階の授与を行った。これは朝廷から正式な許可を得て行っていたのではないが、少なくとも霊元天皇はその効力を認めていた。

「神道裁許状」とは、装束の許可を中心として、祭礼日の変更、鳥獣の食用許可など、神職が必要とする様々な許可を与える書状である。これは兼俱没後に現れた。

この 「鎮札」「宗源宣旨」「神道裁許状」が揃ったのが兼俱の孫の兼右の頃で、これを使って兼右は神道の宗家としての吉田家を大成させた。

さらに兼右を継いだ兼見は、鋭敏な政治感覚で吉田家をさらに発展させる。彼は織田信長に取り入って吉田家を堂上公家に格上げさせた。さらに豊臣政権にも接近。天正18年(1590)、吉田家は神祇官「八神殿」を吉田山斎場所内に再興することを後陽成天皇から承認される。「八神殿」とは本来神祇官の中にあった天皇を守護する八柱の神霊を祀るものであったが、これが一神社の施設に過ぎない「斎場所」に再建された。こうして「斎場所」は「神祇官代」となって神祇官の代替施設と見なされていった。

また兼見は、死去した秀吉を「豊国大明神」にし、それを祭る「豊国社」を建立するという一連の過程をプロデュースした。兼見の孫の兼従(かねより)に豊国社の専属社家「萩原家」を興させ、さらに同社神宮寺の別当になったのが、兼見の実弟神竜院梵舜である。

この豊国社は、次に権力を握った家康によって縮小移転され、荒廃させられる。萩原兼従も失職。しかし家康は吉田家を必要とした。秀吉と同じように、死後、神となりたいという希望があったからだ。家康の死後に行われた家康を神として祭るための会議には、家康のブレーン金地院崇伝、天海(天台宗)に加え神竜院梵舜が参加した。

ところが会議では、天海の意見が通り、天台宗の山王一実神道の理論によって家康は「東照大権現」として祭られることとなった。吉田家の敗北だった。

ところで、萩原兼従には吉川惟足(これたり)という弟子がいた。彼は江戸の商人だったが商売よりも学問に励み、めきめきと頭角を現した。ちょうどその時、兼従は吉田家の人々と対立しており、年頃の奥義継承者がおらず困っていた。吉田家の奥義は一子相伝で伝えられていたから、高齢になっていた兼従が奥義を伝えずに死ねば吉田神道が断絶する。そこでひとまず惟足に吉田神道最高奥義「神籬磐境伝」が伝授された。吉田家と血縁のない、一民間人に最高奥義が伝授されたのは歴史の悪戯であろう。

吉田家の一門は当然にこの伝授に反発したが、惟足は各地に身分の高い弟子があり政治力が高く一門の人々も彼を排除できなかった。家康の十男徳川頼宣(和歌山藩主)や家光の異母弟の保科正之(会津藩主)は彼について神道を学んだ。こうした門人がいると、惟足がさらに重んじられるのも無理はない。彼は吉田家の継承者・兼連(かねつら)をもり立て、豊国社の復興にも力を尽くした。そして寛文12年、兼連に一応の奥義の伝授も行った。こうして吉田家は吉川惟足のおかげで厳しい時代を乗り切ることができた。

そしてもう一つ、惟足は保科正之を通じ、吉田家を飛躍的に発展させる働きをしていた。それが寛文5年(1665)、江戸幕府が制定した「諸社禰宜神主法度(神社御条目)」にあった一文である。そこでは、社人の装束について「吉田の許状をもってこれを着すべし」とされていた。吉田家の「神道裁許状」が、幕府によって公認されたのだ。

保科正之は、諸社禰宜神主法度によって吉田家を中核とした神道界の秩序化を企図したと考えられる。吉田家はもちろんこれを最大限に活用した。この法令の後には、「神道裁許状」の発給数が文字通り桁違いに増えた。

その背景には、各地の神社を管理する人々からの需要もあった。各地で神社の代表をめぐる争いがあり、人々は自分の地位を確保してくれる権威を欲しがったからだ。吉田家が神社にとっての、寺院の本山のような立場(本所と呼ばれた)になり、吉田家は「地域を越えた絶対的・超越的な中心(p.144)」として機能した。そして、吉田家に祭祀権を認めてもらったのは、必ずしも名家に限らない。むしろ「既存の権威や秩序を打ち破り、あるいは新しい歩みを踏み出そうとする新時代の担い手たちに、吉田家のような新たな権威が渇仰され(p.149)」た。

なお1600年代の中頃から寛文年代までには、各地で神社の正統の確立を目指す運動が起こっている。

例えば、家康の九男徳川義直(名古屋藩主、保科正之の叔父にあたる)は、神社の正統(式内社と有名神社、その祭神)をまとめた『神祇宝典』を編纂。保科正之は、会津藩で正統でない神社を取り壊し、正統な神社(式内社など)を再建する整理を寺院整理とともに行った。水戸光圀も神社から仏教的なものを排除し、(神仏習合的である)八幡宮を破却する廃仏政策を行った。讃岐藩主・松平頼重(光圀の兄)は領内の神社整理を行い、由緒の調査を行った。岡山藩主・池田光政も神社の統廃合を進めた。こうした動きの背景には、神社の由緒や歴史に注目し、それを「あるべき姿」に戻そうとする趨勢が感じられる。そしてそれらの動きを顧問的な立場で支えたのが吉田家であった。

なお保科正之は、死後(寛文12年(1672))、自らの希望で「神」として祭られた。「土津(はにつ)」という霊社号は惟足が与えたものだった。その葬送は一切仏僧が関与しない、唯一神道の方式で挙行された。

こうして吉田家は、「諸社禰宜神主法度」と高い身分の弟子、各地の神道政策への後援などで盤石の地位を占めた。そしてその神道ビジネスは吉田家に莫大な収入をもたらした。しかしこうなると他の公家は面白くない。よって鷹司房輔は神道ビジネスが吉田家の独占になっている状態に風穴を開けるべく、法度の解釈に疑義を呈した。「諸社禰宜神主法度」では官位の執奏が吉田家に限るとは明確に書いていなかったことに目を付け、官位の執奏は他の公家も可能であると訴え、京都所司代に認めさせた。吉田家の独占は、他の公家には何のメリットもなかったのだから、他の公家もこれに同調した。

また吉田家の独占が崩れたことは、各地の神職にとってもチャンスだった。吉田家と結んで権威を手に入れた者がいたということは、そのために追い落とされた者もいたからである。そういう別の権威を欲したものの駆け込み寺になったのが白川家であった。白川家は18世紀の初めに、神学者臼井雅胤による改革があり、神道説や行法を整備して「伯家神道」とよばれる大系を整備した。この臼井雅胤の兄接伝は吉田家に破門されて冷や飯を食わされた側だった。

そして吉田家に強烈な異議申し立てが行われる。名古屋東照宮の神主吉見幸和は、綿密な考証によって吉田家の聖典『神道五部書』が偽書であることを暴いた。さらに吉田家に恨みを抱いていた伊勢神宮の権禰宜の子、出口延経は『弁卜抄』を著す。『弁卜抄』では、(1)吉田家の系図は捏造されたもの、(2)吉田家は神祇官の長官ではなく下級技術吏員、(3)神祇管領長上の職は吉田家の創作、(4)吉田家の綸旨・院宣はニセモノ、(5)斎場所の由緒は嘘、(6)宗源宣旨は神に位を授ける正規の文書ではない、ということが信頼できる文献に基づいて論証されていた。『弁卜抄』は公刊はされなかったが吉田家の正統性に大きな打撃を与えた。また吉見幸和は『弁卜抄』に心酔し、それを漢字仮名交じりのわかりやすい文にした『増益弁卜抄俗解』を著した。

なおその背景には、徳川義直の『神祇宝典』以来の、「尾張名古屋の古代学」と呼ばれる実証的な学風が名古屋にあったことがあるという。

また朝廷の側からも吉田家の専横は都合が悪くなってきた。朝廷復古を目指すためには、吉田家が神道の唯一の権威であっては困る。反吉田家活動の中心は一条兼香・道香親子であった。道香は吉田山を「神祇官代」としては認めず、かつて八神殿にまつられていたというご神体を白川家に渡し、その邸内に八神殿を再興させた。

復古派の桜町天皇は元文3年(1738)、官位制度改革を行い官位の乱発を抑制。また寛延3年(1750)には一条兼香は桜町天皇の遺志として神職の任官を全て停止した。これはあまりに急進的であると幕府が反対して立ち消えになったが、兼香は吉田家による神職官位の乱発的な奏請を批判し、その根拠の提出を求めた。当然にそのような根拠はなかったため、神位宗源宣旨は元文5年(1740)以降連続してゼロになった。寛保3年(1743)には神位の獲得には必ず天皇の裁可が必要とされ、ここに吉田家の宗源宣旨はその存在意義を喪失した。

こうして吉田家の宗源宣旨が衰退した結果、新しい神階ビジネスが登場。例えば伏見稲荷社の「正一位稲荷大明神」ビジネス。これは諸国に祭神の分霊を勧請することで成り立った。また白川家も吉田家に代わって地位向上を目指していった。専業神職でない神社を管理する一般人(宮座・下級宗教者)を通信教育のような仕組みで門人にすることで支配下に取り込んでいった。当初は専門神職のみを相手にしていた吉田家も、これに対抗して一般人を取り込むようになり、吉田家と白川家の門人獲得競争が行われていった。

こうして、神職や神社に関わる一般人が吉田家や白川家を通じて朝廷と直接結びついていった。それは神社が朝廷・天皇の権威と直結し、天皇を中心とする神話の大系に組み込まれていったことを意味した。近世を通じ、元来は地域性豊かだった神社の祭神や由緒が中央の神話に基づくものに変更されるなど、神社の画一化が行われたのである。

本書は全体として、語り口が柔らかく平易であり、かなり専門的な話である吉田家の歴史を一般にもわかりやすく述べている。資料の引用が全て意訳によっていて、特に関西弁(京都弁?)の口語調なのは面白い。しかし話としての面白さを優先しているために、記述が編年的でなく時代が行ったり来たりしているのは少しややこしい。 

また吉田神道の教義内容の説明はほとんどなく、『神道五部書』なども説明されないのは物足りなかった。とはいえ、吉田兼俱からの吉田家の発展、江戸時代後期の白川家との競争など、時代ごとに焦点をしぼってクリアに吉田家の歴史を描いているのは有り難い。

ただし、本書はあくまで近世史であるために、吉田家が明治維新でどうなったのかは簡略的な説明しかない。私自身としてはここが一番興味があるところである。幕末には吉田家は平田国学と接近し、矢野玄道をその学頭に招くなど平田国学を取り込むような動きをみせるのだが、それについても本書には何も記載がなかった。このあたりのことは別途調べてみたいと思う。

平易かつ面白く吉田家の歴史的意義を理解できる良書。

 

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