2023年3月25日土曜日

『将軍の生活』石井 良助 著

江戸時代の将軍と法令、行政などについての読み物。

著者の石井良助は法制史の泰斗。本シリーズは「時の法令」に連載したものを「江戸時代漫筆」「続江戸時代漫筆」などとして刊行されたものの復刊で、その最終刊にあたる(連載時期は昭和38〜40年)。

主な内容は、江戸時代の朝廷、朝幕の関係、将軍の生活、大奥と御台所、幕府の財政の変遷、天保の改革、公事方御定書、人別帳、村のこと、などとなっている。分量としては公事方御定書と人別帳が多い。

本書は一つのテーマでまとめられたものでなく、エッセイ風にいろいろな話題が出てくるので、以下気になったもののみメモする。

【江戸時代の宮廷】

  • 朝廷の石高はおよそ10万石だったが、天皇の日常費である3万21石6斗を差し引き、1万3000石を上野の輪王寺宮で取り、残りを宮家、五摂家、その他の朝臣に分配した。輪王寺宮の存在が意外である。
  • 摂家の中で一番家領が多いのが近衛家で2860余石。それでも生活に不足するので、子女を寺院に入れた。摂家の子女が入寺すると(摂家門跡)、年に50石なり100石なり摂家に相応の御手伝い(上納金)があった。 
  • 公家にはいろいろな家職があった。例えば久我家は盲人に官位を与えた。小森家は日本国中の医師の取り締まりで多額の収入があった。
  • 医師は「法体では御門を入れないので、付髷をして、冠を頂き、法橋なら六位の袍、法眼なら五位の袍をつけて天脈拝診に上が(p.28)」った。法体では御門を入れないという規制が不思議である。例えば正月には、7日間の「御修法(みしほ)」として、紫宸殿を仏壇として真言宗の僧侶によって玉体安穏の法事が行われたのだが、これはどうやっていたのか。
  • 五摂家から天皇にはいろいろなものを献上するが、献上したものはそっくりそのまま朝廷から返された。

 【将軍の生活】

  • 将軍が死去した際、御三家や譜代大名、諸番頭らは21日間、 外様大名は14日間、月代を剃ることが禁止された(喪に服すため)。意外である。
  • 幕府は殉死を禁止し、寛文年間に行われた宇都宮藩家臣の殉死では遺族に厳罰を処した。以後、殉死に変わって「薙髪」(頭髪の結び目から切ること)が行われるようになった。
  • 高級幕臣人事の発表は将軍自身の口から発表され、将軍は書付を見ずに申し渡した。
  • 毎月17日に行われた東照宮遺訓拝聴という儀式では、将軍は(家臣が読み上げる)遺訓を恭しく拝聴した。これを読む役人は尻込みしたという。
  • 林羅山の孫、林鳳岡は元禄4年(1691)に将軍綱吉の命によって束髪にした。それまで儒者は法体だったのが、このときから俗体になった
  • 将軍吉宗が紀州から連れてきたものの子孫が務めた「御庭番」は、スパイ活動をして民情を探った。

 【幕政】

  • 幕府は全般的に予算制度を設けたことはなかった。財政の計算をしていなかったのではないが、そのお金の使い方は今の会計学から見るととてもわかりにくいものだった。
  • 吉宗は、参勤交代による大名の江戸在府がそれまで1年であったのを半年にする代わり、高1万石につき百石ずつの米を幕府に収めさせる制度にしたことがある(享保7〜16年のみ)。

【公事方御定書】

  • 江戸時代前半には体系的な法典はなく、裁判は判例主義で行われた。そのため先例が重要となり、労帳の記録を分類編集した「御仕置裁許帳」が綱吉の頃に作られた。その一部を条文の形にしたのが「元禄御法式」。
  • 吉宗は法律好きで、評定所一座に犯罪と刑罰の分類を作成させた。これが「享保度法律類寄」であるが、これは当時行われている法を記したものであった。こうして法典編纂の機運が高まった。
  • 吉宗は評定所一座に「公事方御定書」の編纂を命じ、寛保2年(1741)に81通の法令を収めた上巻、刑罰を定めた下巻が完成。しかしこれは秘密法典だった。その下巻は三奉行(寺社・町・勘定奉行)以外には見ることを禁じていたからだ。犯罪と刑罰の組み合わせを秘密にしたのは、刑罰の威嚇的効果を狙ったと考えられている。
  • 御定書は秘密法典といっても、徐々にその内容を筆写するものが現れ、実際上秘密でなくなっていった。誤りの多い写本が流布して不都合があったので、天保12年(1841)に公刊されたのが『棠蔭秘鑑』である。
  • 「公事方御定書」は完成直後から改訂作業が行われた。それを担当したのが大岡越前守である。
  • 御定書編纂における立法者の意図を知るための資料集(コンメンタール)である『科条類典』は明和4年(1767)に完成。ただしこれも奉行だけが見られる秘密資料であった。『科条類典』の各条に、類例、裁許例、比例を加えたものが『徳川禁令考後集』である。

 【人別帳】

  • 天和3年(1683)に、人別帳によって町内の住人を改めて毎年町年寄方へ届け出すべしとされており、その目的は町内に「徒(いたずら)者」を置かないためだった。しかし江戸時代前半における人別帳の詳細は不明である。
  • 「徒者」とは、例えば借家人が家主に断らないで同居人を置き、人別帳には「出居衆(商売をするために江戸に出てきたもの)」としながら、商売もせずにフラフラしているような者である。
  • 人別帳は次のように作成する。(1)家主(家守)が、自分の差配する一筆ごとにそこの住民を書き上げ、各人に実印を押させ、毎年4月25日までに名主に提出する。なお女は通常実印を持っていないので印は押さない。(2)転入・転出は毎月調べて書き出し、翌月1日に名主に差し出す。これを4月〜翌3月分までまとめたのが「出人別帳」「入人別帳」。
  • 天保14年(1843)に、天保の改革の一環として人別改令が出された。これは農民の江戸への流入を規制するもの。その要点は次の通り。
    • 【町方】 (1)在方から新たに江戸の人別に加わることを厳重に禁止、(2)特別に必要のある者や職人、奉公の場合は、手続きに従って免許状などを取得すること(ビザ制度)、(3)町方の者が出家したり、神道家や陰陽師などになる場合は町役人から町奉行所へ申し出ること、(4)人別帳の作成手順の定め、その他転居や一時滞在の手続きなど。
    • 【在方】基本的には【町方】と同様だが、百姓が廻国修業や六十六部巡礼などに出る場合は、これまでは村役人または菩提寺から往来手形をもらえばよかったのが、村役人から代官、領主、地頭に願い出て、出稼者の振合で許状を受けるようにした。
    • 【大名・旗本】上記に対応したもの。出家を願い出たものは十分に吟味して許可を出すようにとしている。 
  • 本書には、このようにして決まった「人別帳」「仮人別帳」(一時滞在者用)の様式が掲載されている。

【江戸時代の村】

  • 年貢は村を単位に課税された。個人や一筆ごとの土地に課税されたのではないが、課税される土地は決まっており、検地によって「高」(玄米に換算された標準生産高)を付せられた土地を持っている者が「高持百姓」。村役人になるのは彼らの特権だった。
  • 田畑屋敷への課税を本途物成という。山・原野・池沼などにも若干の租税が課せられることがあり、それを小物成という。
  • 江戸時代前期には中地主が主体で小作人は少なかったが、後期になると少数の大地主と小作人とで形成されるようになった。 
  • 村には自治の機関である村役人(名主、組頭、百姓代)=村方三役があり、村寄合という総村民の集会があった。なお村は村民と独立した法人ではなく、村の財産は村民の財産であり、村の訴訟は村民の訴訟であった。村は村民の集合体と考えられていた。なお、明治以降になると村は法人となっていった。
  • 町方でも公役を負担したり、後にそれが銀納になったり、営業税にあたる冥加・運上などの租税負担があった。

本書は全体として、近世の行政システムを様々な面から述べるものとなっている。その構成は体系的なものではないので、本書を読めばこれがわかるというものではないが、専門的なテーマにしては語り口が柔らかく読みやすい。

個人的な興味としては人別帳と宗教関係のこと(例えば人別帳の作成に菩提寺はどう関与したか)を知りたかったが、意外と宗教関係についてはあっさりとした記述でよくわからなかった。

江戸時代の行政システムに関する専門的なのに気軽な読み物。

 

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