本書は「江戸幕府の宗教統制」というタイトルではあるが、実際には、幕府の宗教統制政策の論述は全体の半分程度で、その政策に応じて社会や仏教の在り方がどのように変わっていったのかがテーマとなっている。
「I 寺院法度」は、本書中で最も参考になった。江戸幕府は成立当初の慶長6年(1601)に高野山に法度を出したのを嚆矢とし、諸寺院に、追って諸宗に法度を出して行く。概ね、真言宗・天台宗両諸寺→臨済宗(五山十刹・大徳寺・妙心寺)→曹洞宗(永平寺・総持寺)→浄土宗の順である。「浄土宗西山派諸法度」が出たのが元和元年(1615)である。なお天台宗法度は崇徳院天海、臨済宗は金地院崇伝の意向が反映されている。
日蓮宗・浄土真宗・時宗については、この段階では法度が出ていない。本書では民衆的な信仰があり慎重に考えたためではないかとしているが、結局どのような法度が出されたのか、出されなかったのか曖昧である(おそらく出ていないのだろう)。
それらの法度については、別々に出してはいても内容は似ている。関東と関西ではやや異なるが、第1に学問の奨励(特に学問のある僧侶が住持となるべきこと)、第2に戒律の護持、第3に本山の規定、第4に服装や規律の規定が盛り込まれた。第1・第2点目は仏教の振興を図ったものだが、問題は第3点目。この点が関東と関西で異なった部分で、関西の諸寺院には本山という言葉さえなかった。しかし元和元年7月の「真言宗法度」で全国規模の本末関係を明確に打ち出し、江戸幕府の本格的仏教支配の体制が明らかになった。
江戸幕府はなぜ本末関係を樹立しようとしたのか。それは、本山を通じて仏教勢力を封建的体制に取り込むためであった。中世においては寺院は、幕府・公家(朝廷)と並ぶ第3の勢力であった。家康が腐心したのは、これを幕府の下に統括することであり、そのために本山に有利な法度を定めて末寺を掌握させたのである。
「II 寺請制度」では、幕府が寺院を行政機構にどう組み入れていったかが概説される。
幕府は寛永9〜10年(1632〜33)、各宗に「本末帳」を作らせた。末寺のリストである。現存するものは、浄土真宗が全く欠けていること、天台宗も一部であること、西国は極めて大雑把であることなどから、寛永の「本末帳」は不完全なものであったことが明白である。しかし、後々までこの「寛永本末帳」が本末関係の最も正統なものとされた。なお元禄5年(1692)には浄土真宗も本末帳を作成した。
ちなみに、これらに先立つ寛永8年(1631)に、幕府は新建寺院の建立を禁止している(これが全国なのか幕府直轄領のみなのか不明だが追って全国に出したと見られる)。幕府はこれ以前にあった寺を「古跡」、それ以降のものを「新地」とはっきり区別した。そして以後、原則的には古跡寺院しか存在を許さなくなったのである。これと「本末帳」とを併せて考えると、幕府は寛永期において寺院を固定化する明白な意図を持っていたと思われる。
寛永12年(1635)には、寺社奉行が設置された。その職務は寺社および寺社領に関する行政裁判を司ることであり、他に僧尼・神官・楽人・検校・連歌師・陰陽師・碁将棋所等を監督することも職務だった。楽人・連歌師・碁将棋所等の監督が入っているのが興味深い。
寛永14年(1637)には、島原の乱が起こる。これは農民一揆であったがキリスト教が反封建的理念として取り入れられたため、幕府は御用学者をしてこれを「純粋な宗教一揆と規定させ、それを阻止するという名目で、キリシタン禁制をし(p.60)」た。
また、日蓮宗不施不受派は権力の言いなりにはならなかったため、寛文5年(1665)、違法な信仰として弾圧した。ところが備前・美作・越後・佐渡については不施不受派の寺はその信仰を捨てず、非合法宗教として存続した。悲田宗(不施不受派の一派)も邪義として排斥された。
寺請制度は、全ての人間に檀那寺を定めさせ、檀那寺にその人間がキリシタンでないことを証明させるもので、寛永12年(1635)頃に全国一斉に実施されるようになった。寺ではこの頃に過去帳も作るようになる。そして、寛文初期(1660年代)には、全国の農村で「宗門人別帳」が作成されるようになり、寛文11年(1671)、幕府は「宗門改の儀に付御代官達」を出し、「宗門人別帳」は全国的に統一された同一形式のものとなった。
なお寺請証文は(おそらく寺ごとに)領主が集め、キリシタン改めをしたが、「宗門人別帳」は一村ごとに作成されている。ここに行政面での転換が窺われる。 「宗門人別帳」も当初はキリシタンや不施不受派・悲田宗の弾圧が念頭に置かれていたが徐々に行政的なもの、戸籍としての役割に変化していった。
そして寺院は、こうした行政事務の一端を担うことになった。幕府は諸法度によって本山を通じ寺院を統制した一方で、檀家寺の権益を保護して行政機構に組み入れたのである。庶民の側から見ると、生まれた時から決まっている檀那寺に法要や葬式のたびに収奪されることとなり、自然と信仰心は衰えていった。
「III 寺院整理」は、寛文期(1661〜72)に行われた保科正之の会津藩、池田光政の岡山藩、徳川光圀の水戸藩で行われた寺院整理が取り上げられる。
その前提として、幕府では寛文5年(1665)に「諸宗寺院法度」という、全ての宗派に適用される一括法が登場していた。この法度では、住持の資格・本末制度・檀家制度・徒党禁止・寺院修理の制限・寺領売買の禁止・僧侶の衣鉢服装・金銀をもって後住の契約をすることの禁止、女人の寺中宿泊の禁止等が定められている。これは元和までの法度に比べ総括的かつ寺院統制の強い姿勢が示されている。この法度が出た背景には、幕府のブレーンだった金地院崇伝(臨済宗)が寛永10年(1633)に死去し、林羅山(儒者)が登用されたことがあると考えられる。
元和までの法度は、「幕藩体制の宗教としての仏教の品位をいかに高めるか(p.92)」も考慮されていたが、寛文頃には「幕藩体制を強化するために仏教の理念とその経済力をいかに弱めるかに問題が移っていった(同)」。
そして、元和までの法度では本山を強化していたのに、今度は末寺・檀家の方を保護する政策へと変化した。また幕府は、寺請制度の弊害(檀家の存在が寺の既得権になったこと)を認め、農民保護へと舵を切った。
さらに、この法度とは別だが、同年、僧侶等が俗家に仏壇を設けること(つまり寺でないところを寺のようにしつらえること)、僧侶が寺以外で法談することや信者と集会することを厳しく禁じていることも注目される。
3藩の寺院整理については、著者の『神仏分離』でも触れられるものなのでメモは割愛するが、ごく簡単に紹介されている会津藩の事例が興味深かった。会津藩では幕府の宗教統制の枠からはみ出さず、新寺建設の禁止(新築寺院の破却)、住持の長く絶えた寺の再興の禁止、悪行の僧侶の追放など、いわば消極的な手法によって順調に寺院整理を行った。かなり強引に寺院整理をした岡山藩・水戸藩とは大きく違っている。
「IV 排仏論」では、1660年代から展開された仏教・寺院・僧侶への批判が紹介される。それらは主に、輪廻や須弥山、地獄極楽のような仏教理論を否定することと、寺院や僧侶が堕落していること、そして仏教が庶民を経済的に収奪していることの批判である。
藤原惺窩、林羅山、中江藤樹の排仏論が簡単に触れられ、本書では熊沢了介(蕃山)を最初の実践的排仏論者としてその主張を詳しく紹介している。「実践的」というのは、彼は岡山藩池田光政に仕えており、その理論が岡山藩の寺院整理に具体化したからである。
熊沢蕃山の主張は、(1)寺請制度・檀家制度の廃止、(2) 寺院建築の抑制、(3)寺領の縮小、(4)寄進の制限、(5)新建の禁止、などである。
これに対し、仏教側では一応反論を試みたものの、「儒者とわたり合って仏教防衛の論陣をはる僧侶は、ほとんど見出すことができなかった(p.151)」。そんな中で精力的な抗争を続けたのが道海潮音である。彼は聖徳太子の書として『旧事本紀大成経』(全72巻)を偽作した。この本の中で、潮音は仏教に都合のいいように歴史を書き換え、神仏儒の宥和を説くとともに、葬祭については仏教が行うのが当然と主張した。
しかし、この本が偽作であることは儒者たちに見抜かれ、版木は破棄されて潮音らは処罰された。ただし潮音の処罰は50日間の謹慎であり、それほど重くない。「依然仏教勢力が力をもちつづけていることが明白(p.176)」である。
「V 葬祭から祈祷へ」では、これまでの仏教を巡る幕政や言説に対応し、寺院側がどう対応・変化していったのかが述べられる。
まず、本末制度は幕府からもたらされたものであったため、最初から全ての寺院が上下関係で結ばれていたものではなかった。そこで、寺院間での上下争いが起こった。その事例として江の島の岩本院らの場合が紹介される。
岩本院は肉食妻帯で歴代の住職は血縁関係、上之坊は山の上にあって肉食妻帯せず、下之坊は漁師町にあって肉食妻帯。これら三か寺の本末関係が確立していなかったので、寛永・寛文・延宝・宝永期に争論が起こった。その内容は省くが、岩本院が江の島の支配権を確立し、上之坊・下之坊を末寺に編成したのである。この争いには、たくさんの参詣者がある江の島の弁財天信仰に伴う利権争いがあった。お札やお守りの利潤や旅宿業・御師の活動など、経済的な争いの側面が大きかったである。
ところでこの争論は、その都度寺社奉行で裁断されたのであるが、力関係による慣行の固定化や由緒書、朱印状といったものが重視されて岩本院が勝利した。その際、岩本院が肉食妻帯で、上之坊が戒律護持していたことは何ら争論に影響を与えていないように見える(上之坊はこの点を突いていたにもかかわらず)。それどころか血縁相続であったことは岩本院の発展に寄与したようにも見受けられる。幕府のいう戒律護持はどの程度本気だったのか疑問である。
次に檀家制度については、相模国足利郡千津嶋村の事例が紹介される。相模国全体では曹洞宗・古義真言宗・臨済宗の寺が数の上では圧倒的であり(計99か寺)、一向宗は僅か三か寺しかなく、この村には一向宗の寺は存在していなかった。ところが宗門人別帳を調べてみると、この村の一向宗の割合は過半数を超えていた。これは何を意味しているか。
第1に、幕府の宗教統制によって新寺の建立が禁止されたため、新興の一向宗は寺院数が実態より低く抑えられていたこと。第2に、檀家制度は葬祭を行う寺を定めるものであったため、祈祷中心の密教よりも一向宗にとって有利であり、一向宗躍進の要因となったのではないかと考えられることである。この2点については本書にははっきり述べていないが私はそう読み取った。
また檀家制度の詳細を見るため、千津嶋村の宗門人別帳の経年的な変化が記述されている。寛文・延宝期には一戸単位であったが必ずしも家族全員が同宗派ではなく、それが次第に戸主の宗派に統一されていく。天明期には五人組単位で記載され、また宗派も五人組の構成員全てが等しくなっている。なお「この五人組同宗派という政策によって、日蓮宗はすべて整理される結果(p.213)」となった。この村では日蓮宗は個人の信仰によって担われていたからである。
このようにして、個人の信仰から家の信仰へ、そして五人組によるものへと整理され、檀家制度が形式化していったのである。また宗門人別帳も初期には詳細なものだったが、やがて大雑把なものとなっていった。
こうして檀家関係が冷え切ったものとなると、庶民の素朴な願いを受け止められる存在ではなくなってくる。そういう願いを聞き入れたのが、小規模な庵を構えて庶民のささやかな現世利益を祈った「祈祷寺」である。先述のように、幕府は寛永8年以降には新寺を建立することを禁じていたのであるが、こうした小規模な「祈祷寺」は事実上寛永8年以降にも作られた。しかし実態としては庶民の信仰を集めながら、非合法的な存在であったためかそれらはほとんど葬祭檀家を持っておらず、祈祷檀家しかなかった。またそれらは寛文・延宝期には、村落における小規模な神社と積極的に結びついて別当寺となっていくのである。この点は頗る興味深い。
しかし幕府は仏教をあくまでも葬祭の宗教とし、遅くとも享保15年(1730)までには祈祷を否定した。その理由の一つとして鎮守の祈祷権を吉田神道に委ねる意図があったとしているが、これにどのような意図があったのかは詳らかでない。
ともかく幕府の思惑とは裏腹に、民衆の宗教は祈祷中心へと傾いていったのである。こうして「幕末から明治期にでてくる新興宗教あるいは国家神道は、いずれもこの祈祷を出発点とし、基盤として、祈祷信仰をもつ民衆をいかに組織していくか(p.243)」が眼目となった。
本書は最後に幕府の宗教政策によって寺院や僧侶が堕落した様子を描いているが、これは少し一面的な記述だと思った。どんな世界も堕落した部分があり、特に大組織のトップは堕落しやすいのは世の常である。そうした事例を少数引いてみたところで、仏教界全体が堕落していたかどうかは分からない。
このことも含め、本書は全体として辻善之助『日本仏教史 近世編』の影響が大きく、同書の枠組みを使って、事例を補足し、分かりやすく述べたものという感じがする。よって仏教の堕落史観などはやや古びており、幕府の宗教統制の全体像を述べるものでもなく、かなり恣意的に法度を選択して取り上げているように見受けられた。
とはいえ、幕府の宗教統制についてこのようにまとめてもらったことは有り難く、特に巻末にある「近世宗教史略年表」は非常に参考になった。というより、年表には本文に書かれていない様々な幕府の統制が掲載されており、特に江戸後期については年表頼みである。
江戸時代の仏教を幕府の政策から概観する良書。
【関連書籍の読書メモ】
『神仏分離』圭室 文雄 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/04/blog-post_27.html
神仏分離の背景と経緯を丁寧に描く本。各地の神仏分離・廃仏毀釈運動の推移から明治政府の神仏分離政策の核心を窺う良書。
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