2022年4月27日水曜日

『神仏分離』圭室 文雄 著

神仏分離の背景と経緯を丁寧に描く本。

私は、明治政府は何のために神仏分離政策を行ったのだろうか、という疑問から本書を手に取った。しかしながらその説明は簡潔で、「神仏分離政策の目的の最大のものは、日本における国家公認の宗教を江戸時代の仏教から神道に転換させることであった(p.14)」というのがほとんど全てである。

それはそうであるにしても、これは神仏分離と直接には繋がらない。なにしろ明治政府が神道を国教に据える前に神仏分離は行われているのだし、神道を国教にするためだけであれば、神仏分離は必須ではなかったように見える。江戸時代は神仏習合だったと言われるが、それでも神道と仏教は別個に存在していたからだ。こうした点は本書では深入りしない。それよりも、神仏分離政策に先行した水戸藩を中心としたいくつかの神仏分離・廃仏毀釈の事例紹介を行うことで、神仏分離の背景や各地での経緯を描写することに主眼があるようだ。

水戸藩では寛文6年(1666)という早い段階で、藩主水戸光圀が神仏分離を行った。なおこれについても、何のために行われたものか本書には書いていない。光圀は、まず寺社・神社に「開基帳」という由緒書きを提出させて実態調査し、好ましくない寺院を破却するよう命じた。好ましくない寺院とは、(1)祈祷・葬祭ともに行わない寺院、(2)祈祷ばかり行い、葬祭を本意としない寺院、(3)葬祭を行わないのに宗門人別帳に請印している寺院、(4)檀家のない寺院、(5)年貢地に建立されている寺院、(6)専従の僧侶がいない寺院、である。

光圀は、一定の檀家を持って葬祭を本務とし、 住職がいる立派な寺院が少数あればよい、という合理主義的な考えで寺院整理を行っており、大寺院はむしろ保護している。とはいえ2377か寺のうち約半数1098か寺が処分されてしまった。本書では実際にどのような寺院が破却されたのかが詳細に分析されている。

光圀は並行して、神社の整理も行った。その内容は(1)仏教的なご神体を神道的なものに改める、(2)神社の管理を神主にさせる、(3)八幡社の全廃(神仏習合的なため)、(4)一村一社制の実現、の4点である。これらは大きな反対運動なく短期間に実施された。それは、寺院から神社への僧侶の転身があったためではないかと推測している。民衆のレベルから言えば、これまでのお寺のお坊さんが還俗し神官となって、引き続き願いを聞き入れてくれるならば、さほどの大変革には感じなかったのだろう、ということだ。

なお同時期の岡山藩でも、藩主池田光政の肝煎りで半数を超える寺院が突然破却されている。これは日蓮宗・真言宗の寺院破却にポイントがあり、特に日蓮宗不施不受派への弾圧が背景にあるものとみられる。全国的に見て、岡山周辺に不施不受派寺院が集中していたのだ。池田光政は、祈祷などは無意味だとする合理主義的な考えで廃仏政策を行っているが、神主に変わった僧侶がやはり仏教的な活動を続けたケースは多く、それが民衆の求めているものでもあった。

話は戻って、水戸藩では、幕末の天保期に再び寺社改正が行われた。今度は後期水戸学の排仏思想——仏教を信じるものは愚民で、僧侶は破戒し堕落しており、本地垂迹は邪説である、という思想——に基づいた運動であった。廃仏論を展開したのは水戸の彰考館に属する学者グループで、彼らは正確な史料に基づいて仏教への批判を繰り広げたが、その根本は、仏教や僧侶は生産活動に役に立たない、というやはり合理主義的なものであった。

この寺社改正では、(1)無住や小坊など管理不行届の寺を中心とした寺院整理、(2)撞鐘徴集、(3)神社の唯一神道化、(4)氏子帳の採用、が行われた。

ここで注目すべきなのは、(3)と(4)で、神仏分離政策を一歩進め、いわば神道国教化に手をつけていることである。 このため領内に勧請した東照宮の別当までも破却し、山王一実神道から唯一神道へ改変するという思い切った政策を行っている。また氏子帳の作成では、宗門人別帳と同じ機能を有し、神葬祭と紐付けた上、家系図的な役割までも負わせた。

また寺院に対するスタンスで光圀の場合と違うのは、本末関係の格式に関係なく大寺の整理にも手をつけたことである(例:時宗の神応寺、浄土宗の常福寺、天台宗の薬王院)。特に(2)は、大砲製造に必要だった金属を農民の負担なく確保する政策であったが、これを不服とする寺院はそれぞれ本山を通じて幕府に上訴。その結果、老中阿部正弘は水戸藩家老を呼び付け廃仏毀釈政策について問いただし、弘化元年(1844)、幕府は水戸藩主水徳川斉昭に謹慎を命じてこの運動は挫折を余儀なくされた。

明治維新が起こると、慶応4年、政府は神仏分離政策を実行した。神社を寺院から独立させ、神主の身分を確立し、神社から仏教的なものを取り除いて神仏習合を否定したのである。

この政策を主導したのは津和野藩の者たちだったが、津和野藩ではこれをうけて早速神仏分離・廃仏毀釈が行われた。藩主亀井茲監は政府の神祇事務局の担当者でもあり、津和野藩の動きは神仏分離政策の実行者たちの思惑を窺うことができる。

亀井は日本を「神の国」と見なし、仏教を外来のものとして排斥した。彼は(1)寺院の合併による寺院数の削減、(2)僧侶の還俗の奨励(還俗すれば扶持を与えたり、寺院の借金を棒引きするなどの特典を設けた)、(3)寺院修理や仏具購入の禁止、(4)法会の制限(多人数を集めての法会の禁止)、(5)お盆の時の棚経の禁止、といったことを行い、寺院の強制的な破却こそしなかったものの、寺院を実質的に経営不可能な状況に追い込んでいった。

松本藩では、藩主戸田光則が強烈な廃仏思想の持ち主で、強引な廃仏毀釈が行われた。彼は領民に葬儀を神葬祭とするよう指導し、寺から檀家を奪って廃寺にするよう進めた。しかし各宗派が本山を通じて抗議し、逆に各本山からの総攻撃に会って政府にも問題視され、明治4年11月に藩知事戸田光則は廃仏政策の責を問われて罷免された。

富山藩では、明治3年、大参事林太伸の手によって突然寺院整理が断行された。彼は各宗派1寺のみ残して他を全て廃寺にするという暴挙を計画する。これには明治政府も驚き、強引な廃寺をたしなめたが富山藩は計画を変えなかった。しかし明治4年7月の廃藩置県の混乱で廃寺政策も沙汰やみとなって、徐々に旧に復した。なぜ林太伸は明治政府にたしなめられながらも廃仏政策を強行しようとしたのか詳らかでない。

さらに本書では「著名神社の神仏分離」として、度会府が3ヶ月の間に4分の3もの寺院を廃寺にした伊勢神領、明治期の廃仏毀釈の嚆矢となり多くの文化財を破壊した日吉神社(滋賀県)、僧侶が自主的に全員還俗し春日神社の神官に転じた奈良の興福寺(しかも末寺107か寺を全て切り捨てた)の事例が紹介されている。

これらは神仏分離政策を受けて極端な廃仏毀釈が行われた事例であるが、本書では逆に廃仏思想が元来地域になく、政府の指示を受けて素直に神仏分離を行った事例も紹介しており、これが非常に参考になる。

日向国延岡地域では、神仏分離令を受けて領内の神社に対応を求め、慶応4年7月、その結果を調査した『神社書上帳』としてまとめた。そこでは「天皇と関係がある神社かどうか、ついで江戸幕府や藩主から保護をどの程度うけていたのか、さらには神仏分離政策の結果仏教的色彩が完全に追放されたかどうかなど(p.178)」が調査されている。その結果を概観してみれば、神社から仏教的要素を取り除く他、別当寺を廃止して僧侶を還俗させて神主とし、別当寺跡を神主の住居としたケースが多いようだ。これは「寺から神社へ姿をかえても、今までの伽藍があり、(中略)[今までの]僧侶が神主として宗教活動を続けている(p.181)」ということで、民衆にはさほど抵抗なく受け入れられたと考えられ、神仏分離政策が順調に進行したといえる。

相模国藤沢・鎌倉地域では、仏教は廃止されると理解し廃仏毀釈を行った江の島岩本院、僧侶が神社から手を引き村の神主にゆずることでスムーズに神仏分離が行われた羽島村と四ツ谷村、無住の阿弥陀堂が破却されるなど小堂の廃仏を行った高谷村、諸堂宇を悉く破壊した鶴岡八幡宮、無檀・無住の寺など村の小祠を残らず処分してしまった鎌倉郡の例がケーススタディとして紹介される。近傍の地域でも、神仏分離が何を意味するかの理解がまちまちで様々な対応があったことがわかって興味深い。

三河国(愛知県)菊間藩では、少参事として赴任した服部純が平田学的思想に基づいて強制的な廃寺政策を断行した。これに対し、僧侶たちが「合寺・廃寺が決まったような話はおかしい」として反発。追って浄土真宗僧侶たちが鷲塚村庄屋宅に抗議書を提出したが役人側がつっぱねて長時間の激論となり、外に待ち受けていた者たちが乱入して役人側の一人を竹槍で斬殺してしまった。ここで集団は「ヤソ(キリスト教徒)が倒れた!」と叫んで暴動化した。これを「大浜騒動」という。

これを受け、服部純はほぼ全面的に廃寺政策を撤回し、僧侶や門徒に妥協の姿勢を示したが事件の首謀者となった僧侶や農民たちは斬首以下の厳しい処罰を受けた。

本書は最後に、神仏分離政策に続く神道国教化政策について簡単に概観している。明治政府は伊勢神宮を国家祭祀の頂点とし、村の鎮守をその下部機関と位置づけて民衆の信仰・宗教儀礼を改変していった。また神仏分離によって密教系の僧侶・山伏・行人・巫女などが神主に転身したケースが多かったが、彼らが神武天皇祭典の祭祀を受け持つなど村落の神道の担い手となっており、現世利益の祈祷が国家神道に吸収されていったことが指摘されている。

冒頭に述べたように、本書には「なぜ明治政府は神仏分離を行ったのか」という明確な説明はない。しかし本書を通読してみると、それは当時の人も分かっていなかったということは明白だ。というのは、神仏分離令を受けて、ある場所では政府にたしなめられつつも強引な廃仏毀釈が起こり、ある場所では政府の指示に従った粛々とした神仏分離が行われた、というようにその解釈や対応がまちまちだったからである。当時の政策担当者たちが、神仏分離令の意図を自分なりに解釈していたということは、裏を返せば正統的な解釈などどこにも存在していなかったということになる。

もちろん、明治政府はそれなりの政策目的をもって神仏分離令を発したに違いない。しかしその目的が曖昧であり、少なくとも全国的には周知されず、政府の中でも共通認識を形成できていなかったことは間違いないようだ。

各地の神仏分離・廃仏毀釈運動の推移から明治政府の神仏分離政策の核心を窺う良書。

【関連書籍の読書メモ】

『神々の明治維新—神仏分離と廃仏毀釈』安丸 良夫 著https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/05/blog-post_2.html
明治初年の神仏分離政策を中心とした、明治政府の神祇行政史。「国家神道」まで繋がる明治初年の宗教的激動を、わかりやすくしかも深く学べる名著。

『廃仏毀釈—寺院・仏像破壊の真実』畑中 章宏 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/07/blog-post_11.html
各地の廃仏毀釈の事例を述べる本。廃仏毀釈の事例集として分かりやすい。

『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』鵜飼 秀徳 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/03/blog-post_3.html
全国の廃仏毀釈運動について述べる本。全国の廃仏毀釈の動向を大雑把につかめる。

『廃仏毀釈百年―虐げられつづけた仏たち』佐伯 恵達 著https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/01/blog-post_11.html
宮崎で行われた廃仏毀釈についてまとめた本。廃仏毀釈や神道の見方はやや一面的なところはあるが、仏教側への考証は緻密で、地元に関する情報が豊富な真摯に書かれた本。



0 件のコメント:

コメントを投稿