江戸時代の旅といえば、宿場と伝馬、関所、伊勢参りといったことがすぐに思い当たるが、それぞれの具体的な姿となるとよくわからないことが多い。本書は、そうした江戸の旅の様々をトピック毎に概説するものである。
宿場・伝馬とは、幕府の許可に基づく(=「伝馬朱印」を持つ)公用者の移動のために、宿泊および交通(馬の徴発)を無料又は低価で行うことができるようにした制度である。
宿場には35〜50頭の馬を置き、それに応じた人足も置くように定められていた。宿場はこれを公用者に無料で使わせる代わり、馬1頭あたり30〜40坪の地子(地租)が免除されていたのである。しかし公用の移動が少ない時はよくても、次第に街道の往来が激しくなると伝馬は宿場にとって負担になっていった。
公用移動の代表である参勤交代は軍旅の建前であり、宿泊場所を「本陣」と言った。本陣は宿場における最高の身分であり苗字帯刀が許されていた。こちらも宿泊自体は無料だったが、物品のレンタルや仕出しなどは支払いが受けられた。そして大勢の家臣が宿場に宿泊するのは宿場全体にとってよい稼ぎになったようである。ちなみに宿泊料は人間より馬の方が2倍高かった。人間の方は自炊が基本だったが、馬の飼い葉は宿場が準備したからであろう(なお本書には書いていないが、江戸時代の馬は乗るものではなく荷物を運ぶのに使う)。
とはいえ、宿場としては公用による無料利用が増えると経営がやっていけない。そこで飯盛女(めしもりおんな)が盛んになった。幕府は宿場に遊女を置くことを禁止したが、宿場では給仕をさせる体で飯盛女を置き、性的なサービスを行わせたのである。それが宿場の経営の柱となり、逆に客を宿泊させなくなるという本末顚倒な事態も生じた。飯盛女の客は旅行客ではなく近所の名主がメインだったからである。
江戸時代の旅といえば「伊勢参り」である。伊勢参りを勧め、全国各地に檀家を持って「旅行案内」をしたのが御師(おし)と呼ばれる存在だ。彼ら自身も定期的に地方を行脚して神宮大麻を配り、伊勢参りを勧めた。そして実際に檀家がやってくると自らの家を宿坊として参詣者を泊めたので、旅籠としての利益も大きかった。享保9年(1724)には伊勢に850軒もの宿坊があったという。
ところで、全国各地から伊勢参りに来る旅行者たちに対し、室町幕府は多くの関所を設けて参詣者から関銭を徴収した。伊勢国だけでも120ヶ所も関所があった。関所間の平均距離が260メートルだったというから驚く。さらに乱立する地方豪族も別個に関所を設けていた。これらの関所を一気に廃止したのは織田信長で、これによって参詣者は激増したと考えられる。
また60年毎の遷宮の時には伊勢参りは「おかげ参り」となり、また「おかげ踊り」となって一揆の様相すら帯びた。狂乱した民衆に対しては関所も手が出せず、通行手形を持たない者の通行も黙認した。
また奉公先などに黙って伊勢参りに出かける「ぬけ参り」も横行。奉公先も天照大神への参詣のためとなればこれを呼び戻すことはできず、むしろ無事戻ってくれば祝ってやらねばならなかった。また関所も寛大だったという(ぬけ参りは当然通行手形など持っていなかった)。こうして抜け参りをしたのは、女や子どもも多く、3分の1以上が6〜16歳(数え年)の子どもであった。
江戸時代には遊興の旅というのは認められなかった一方で、宗教的な旅(伊勢参り、金比羅参り、西国巡礼など)にはかなり寛容であった。実際には信心などあまりなくても、宗教的な目的ということにすれば旅が可能になった。無一文で出発しても善根宿に留まり、喜捨を得て旅を続けることができたのである。そうした扶助が受けられたからこそ、子どもの「ぬけ参り」が可能になったのだろう。無一文で伊勢参りに出発して、帰ってきたときにはかなりの蓄えができていた、という例まであるそうだ。なお江戸から片道12日の伊勢参りには、往復で4両(30〜50万円)かかった計算だ。
また、江戸時代後期になると、学者と武芸者の養成のため、各藩は武者修行の旅人を派遣するようになった。こうした者たちのための文武宿が各地で用意された。この他、もちろん芸人は旅から旅に渡り歩いたし、商人たちも商売のための旅を盛んにしていた。
そうした各種の旅の規制となったのが「関所」である。江戸幕府は全国53箇所に関所を設けた。全国といっても東は利根川・江戸川の水系、西は浜名湖から伊那谷のラインの内側が大半で、その他は近江三ヶ所と越後にあっただけである。「なかでも幕府が重きを置いたのが東海道の箱根と新居(浜名湖西岸)、中山道の碓氷、木曽福島の関所だった(p.124)」。
関所が厳重にチェックしたのが「入鉄砲と出女」。「入鉄砲」は新居の関所で、「出女」は箱根の関所で厳しかった。なぜ「出女」に厳しかったか。それは人質の意味合いがあった大名の家族を江戸から出さないためであった。女性が関所を通過するためには町奉行や代官からの証文をもらい、それを幕府あるいは藩の御留守居役に提出して署名してもらう必要があったのである。そして関所通過の際は証文通りの女であるか確認され、人見女(ひとみおんな)によって、間違いなく女であるか、時には裸にまでされてチェックされた。
だから関所を通ろうとする女性自体が少なかったのだが、高貴な女性(つまり大名の妻や娘など)の場合は、人見女は乗り物の戸を少し開けて形式的に覗くだけでチェックは甘かった。このことを考えると、幕府としては高貴な女性が庶民の女に化けて通行することを警戒していたのかもしれない。
ちなみに逆に上方から江戸に入る場合は、男女ともに手形がなくても通行が可能だった(治安維持を考えると不思議だ)。江戸から上方へ向かう場合も、必ず手形が必要かというとそうでもなく、「直参の旗本や御家人、御三家の家臣、家来に槍を持たせた大身の武士、また能、狂言師、芝居者、芸人、僧侶、御師、虚無僧、くぐつ師等は、それぞれの芸を披露するなり、職業を証明するものがあれば比較的自由に通行できた(p.128)」。
江戸時代の旅で苦労したものといえば川越え。当時の川には橋がほとんど架かっていなかったからである。旅人は水量に応じた料金を払って川越人足に背負ってもらい(あるいは輿に乗って)、橋のない川を渡った。参勤交代では十万石の大名で川越えに30〜40両かかった。渡し船がある場所もあったが、例えば大井川では地元民たちが渡し船に反対して実現しなかった。川越えは絶対に必要なものであるだけに地元にとってよい稼ぎだったからである。
江戸時代に旅が盛んになってきたのは、商業の発達により庶民の懐に余裕が出てきたこと、街道の往来が安全になり宿場の整備が進んだこと、「幕府の政策上、信心のための旅行がほとんど自由に開放されていたこと(p.148)」、そして旅行ガイドたる道中案内書や各地の名所図会が普及したことが挙げられる。八隅蘆菴『旅行用心集』などは現在でも通用する旅の心得が書かれている。
そして旅の増加に伴い紀行文も氾濫した。例えば、林道春『丙辰紀行』、貝原益軒『和州巡覧記』、古河古松軒『西遊雑記』『東遊雑記』、高山彦九郎『北行日記』、大田蜀山人『壬戌紀行』などなどだ。
ちなみに、旅行に必要な費用(路銀)はどうやって持ち歩いたか。当時の通貨は全て硬貨である。だから大金を持つことは安全性のみならず重量の面でも不便だった。そこで出発地の両替屋で手形に変えてもらい、行く先々でこれを現金化した。手形には通し番号がついていて、判がなければ現金化できなかったから盗賊も手をつけることができなかった。…と本書にはあるが、行く先で現金化するための金融システムがどうなっていたのか興味が湧いた。両替屋のネットワークがあったのだろうか。江戸時代に今のトラベラーズ・チェックとほぼ同じ仕組みがあったのにはビックリである。
本書は最後に明治以降の旅の変化について短くまとめている。ただしこれは本書のテーマからはやや蛇足に感じた。
著者はテレビ・ラジオの仕事を経て電通に入った人物で、その傍ら趣味で執筆を行い、定年退職後には執筆に専念したという。本書は退職後の第一作だと思われる。学者ではないためか、制度面や政策面については扱いが粗略であるが、平易で読みやすく、江戸の旅がどんなものであったのかを手際よくまとめている。
江戸の旅の実態をわかりやすく知れる良書。
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