「聖」とは、寺院から半独立した下級宗教者で、遊行回国しながら勧進や商売を行って生きていた。本書では聖の特徴として、隠遁・苦行・遊行・呪術・世俗・集団・勧進・唱導という8つが挙げられている。高野聖とは、高野山に拠点を持っていた聖のことである。
ただし本書には、高野聖とは何か、という定義が明確には述べられていない。その特徴をまとめれば次のとおりである。
(1)多くは「別所」と呼ばれる修行のための別院に拠点を持った。往生院谷や蓮華谷、清浄心院谷といった谷ごとに集団を作っていた。(2)高野聖は民衆を相手に活動した。諸国を回って高野山への納骨を勧め、お骨を高野山に収める代わりにその費用をもらって生活していた。(3)密教一筋というよりは念仏聖であり、特に室町以降は時宗聖であった。
私にとって意外だったのは(3)で、高野山といえば真言密教というイメージがあったが、中世の高野山は念仏の山だったのである。そして高野聖たちが念仏しつつ納骨を勧めたからこそ、高野山が日本総菩提所となった。まさに霊場としての高野山をつくったのは高野聖たちだった。
しかし、高野聖たちは僧侶としての身分は低かったために普通の寺院からは蔑まれ、また高尚な教学の世界からも遠かった。よって高野聖は歴史に埋もれ忘れられてしまった。本書は、高野山を作った高野聖たちを再評価するものである。
とはいえ、高野聖が泉鏡花の『高野聖』に描かれたような道心堅固な者ばかりだったかというとそうでもない。半僧半俗の高野聖たちは時に悪行も働き、妻帯していたり、またそもそも教学の学識がないものも多かった。
しかしそういうありがたくない聖では民衆から評価されない。寺院を離れて生きた聖は、寺院から供給(くきゅう)を受けられず、勧進や商売を営まなくては生活ができないため、人々からの支持は重要だった。そのため苦行(例えば十穀断ち)や呪術(病気を治したり招福攘災の祈願)を行った。そして民衆には難しい教学は理解できなかったためか、いきおい念仏に傾いていった。特に、一人ひとりの念仏が合わさり相乗効果によって何倍もの功徳になるという「融通念仏」の考えが出てくると、高野聖はこれを積極的に活用したとみられる。
では民衆の方は高野聖の念仏に何を期待したか。もちろん往生も願ったのだろうが、それは滅罪と鎮魂の呪術であったのではないか、というのが著者の考えだ。
それでは高野聖はどうして興ったか。その起源は承仕(じょうし)や夏衆(げしゅう)と呼ばれる階級にある。高野山の寺院で教学や修行を行う僧侶たちも、当然生活をしていかなくてはならないが、その生活面・物質面を担ったのが承仕・夏衆であった。この中から行人(雑役に従事した下級の僧、山岳信仰と苦行と呪術を担った)と聖が分化していくのである。
最初の高野聖が誰なのか、はっきりとはわからない。ただ高野聖の成立にあたり重要なことは、高野山に念仏信仰が入っていったということである。高野山は山中他界の霊場であったことから浄土とみなされ、「高野浄土」の思想が形成されていった。高野山本来の密教からは念仏は異端であり、それを担ったのが高野聖であった。つまり高野山が念仏化することによって生まれたのが高野聖であるといえる。
祈親上人定誉は、もともとは興福寺の僧で高野聖ではないがその原型を作った。正暦の大火(994年)後、無住となってしまった高野山再建のために諸国を勧進し、また配下の勧進聖を都鄙に遊行させて30年かけて諸堂を造営した。しかし彼の高野山での地位は下級の客僧のままであった。
小田原聖教懐は、初期高野聖集団を形作った。彼は延久の末年(1073年)頃、小田原(今の当尾(京都府木津川市))の興福寺の念仏別所から高野山に上った。その時すでに70歳だったので往生のために高野山に入ったのかもしれないが、93歳まで生きた。その20年以上の念仏の活動の中で「別所聖人」と呼ばれる聖集団ができていき、白河上皇の御幸の際にはその代表者30人が「三十口(さんじゅっく)聖人」に補任(ぶにん)された。彼らには高い権威と料米が与えられた。
覚鑁は、真言宗的な念仏思想を確立した。覚鑁は、強大な勢力に成長していた高野聖集団の一員となるため阿波上人と言われた浄心房青蓮のところに身を寄せ、教理研究の場としての伝法院、念仏堂としての密厳院を建てた。この落慶法要には鳥羽上皇が臨席し、七所の荘園を寄進したが、これがかえって金剛峯寺を刺激して、覚鑁と金剛峯寺には武力抗争が勃発、結局覚鑁は高野山を追われた(錐鑽(きりもみ)の乱)。
覚鑁退去後も伝法院と密厳院は残ったので、この二院を中止として高野山の念仏信仰はより盛んになっていった。そして高野聖たちは金剛峯寺に対して権力と結託して対抗し、呪術によって病気を治したり、文芸や学芸の知識を高めていった。勧進を行う上で、そうしたものが有効だったからである。
平安末期の高野聖は「小田原教懐系の別所聖と伝法院・密厳院系の理論家たちに二分でき(p.123)」、「学侶をはるかにしのぐ勢力になっていた(同)」。戦乱の時代であり、戦いに敗れた武士や主人を失った従者が高野聖に合流していった。鎌倉武士で高野聖になった(と見られる)ものには、熊谷直実、葛山五郎景倫、佐々木高綱、足利義兼(鑁阿)などがいる。
また西行もその一人であった。彼は勧進僧となって遊行し、特に貴種との繋がりを利用して大口募財を行った。彼が取り組んだ勧進には、元興時極楽坊、蓮華乗院などがあり、重源の東大寺再興勧進にも参加した。
俊乗房重源と明遍僧都が高野山に入山してから、高野山は専修念仏一色となるとともに納骨が全国に広まり、高野聖の全盛期を迎えた。本書ではこの頃を中期高野聖と呼んでいる。
重源は請負師的な起業家精神で東大寺再興勧進を遂行した。本書には室生山舎利盗難事件という、後白河法皇とグルになった自作自演的な盗難や、頼朝のさらなる支援を引き出すため敢えて逐電した事件などが記述されるが、そうした事件を見るにつけ、目的のためには手段を選ばない老獪な人物であったことが窺える。しかし彼はガメツく利益を求めはしたが自分自身は無一物で勧進で得た全ては莫大な量の作善に散じた。
なお勧進においては、寺院から出てきたという証明書となる「勧進帳」を持ち、大師像の入った笈(おい)を宗教的シンボルとして負う必要があった。寺院から離れ庶民に交わるからこそ、そういうものが必要だったのである。また金品ではなく木材など現物による寄附の場合は、東大寺の札さえあれば村人の無料の奉仕で村から村へ国から国へと運ばれて奈良に着いたという。
明遍は、しばしば「高野聖の祖」と言われる。中期高野聖には蓮花谷聖・萱堂聖・千手院聖があったが、このうち蓮花谷別所を創始したのが明遍である。重源も蓮花谷聖の一人であった。明遍は名門の生まれであったが東大寺で得度し、家柄からは当然座主・別当にのぼるべき身なのにも関わらず高野山に入り、専修念仏の生活をした。法然に帰依したといい、法然の滅後その遺骨を生涯頸にかけていた。明遍は家柄の高貴さから高野聖の偶像になり、明遍系の念仏が高野山にこだまするようになった。また蓮花谷聖たちは高野山への納骨を一般化した。
萱堂聖の祖が法燈国師、心地覚心である。彼は臨済宗法燈派の開祖でもある。彼自身は高野聖ではなかあったが、晩年に帰依した弟子に自分と同じ「覚心」の諱を与え高野山に上り萱原で念仏せよと命じた。以来、萱堂聖の頭目は代々心地覚心の分身として「覚心上人」を名乗った。なお一遍は法燈覚心の印可(悟ったことの証明)を得たという伝説がある(『法燈行状』)。法燈覚心の信仰は禅・密・念仏の混合であり、その真言(密)と念仏を受けたのが萱堂聖であった。また普化宗の祖梵論字(ぼろんじ)を宋から連れてきたのも法燈覚心だという(『虚鐸伝記』)。
法燈覚心の死後、萱堂聖は時宗化して遊行廻国・勧進唱導・念仏賦算をするようになった。萱堂聖は唱導の文学と芸能に特色があり、高声念仏と鉦叩念仏の他に踊り念仏も行った。鎌倉になるとこれに狂言も加わった。
千手院聖は3つの集団の中で最も遅く成立し、後期高野聖を代表するものである。千手院の開創は不明だが、ともかくここを中心に鎌倉時代末から南北朝期に時宗聖が集まってきた。そして千手院聖が次第に高野聖の他の集団を吸収して、室町時代には全て時宗聖となった。こうして高野聖はかつての苦行と隠遁を捨て、「遊行と勧進と世俗生活に没頭(p.245)」。時宗聖たちは踊り念仏を行い、また幅広い芸能(和歌・連歌・能楽・田楽・狂言・茶道・作庭等)の担い手になった。同時に、「時宗寺院は風呂や料理や旅宿を経営して遊興の場と化するような卑俗化がおこり(p.246)」高野山の評判を貶めたが、彼らが高野山の宿坊制度を完備していく役割も果たしたようだ。
大永元年(1521)、高野山が全山焼亡(じょうもう)すると、その再建のために阿本・阿純の勧進聖が勅許を得て43年にわたる勧進活動を始めた。彼ら自身は穀断木喰の苦行僧であったが、有象無象の聖が再興勧進に参画したことで高野聖の評判はよくなかった。さらにただでさえ時宗は高野山の伝統からは異端だったので排斥された。
そして高野聖の質が低下し、また生活が困難になったことで、さらに高野聖は世俗化していった。結果として商聖(あきないひじり)化、定着化、悪僧化が起こった。高野聖は勧進に際して、経帷子(引導袈裟)を配って(実質的には販売して)いた。引導袈裟とは、これを着て死ねば往生できるという、お経が印刷された紙製の袈裟である。また弘法大師の旧御衣の切れ端も売っていたようだ。こうしたことからか、高野聖は結果的に呉服屋になっていった。
定着化については、洛中洛外図などの絵図に描かれた高野聖の笈が次第に形式化していくことによって判断できる。悪僧化については、例えば盗み出した仏像を寺院に売りつけるなどスキャンダルが多くなり、室町末には高野山へ上らない高野聖も出てきた。こうしたことは中世人の遊行僧に対するホスピタリティがだんだん冷たくなってきた結果でもあった。聖が「宿を借ろう」と呼びかければすぐに誰かが泊めてくれる、という状況ではなくなってきたのである。むしろ「宿借り聖」とバカにされた。
このようにして高野聖は徐々に弱体化していったが、廃絶の決定的な契機となったのが信長の高野聖成敗事件であった。信長は畿内近国徘徊の高野聖1383人を捉えて処刑したのである。これは高野山行人が足軽たちを殺したことがきっかけだったが、「高野聖が関所通行御免を悪用して隠密をはたらいたためともいわれている(p.268)」。
さらに高野山では、行人、学侶、聖(時宗聖)による三つ巴の勢力争いがあった。豊臣政権下では学侶の勢力が強くなったが、徳川政権では時宗聖が勢いを盛り返し、聖たちは大徳寺以下三十六道場を学侶方・行人方と同じ屋形造りにし、破風に狐格子を打った(大徳寺は高野聖の本寺で諸国聖方触頭をつとめていた)。慶長11年(1606)、これに怒った行人方は大徳寺を襲撃。この争いは幕府に持ち込まれ、家康は「全高野聖は時宗を改めて真言に帰入し、四度加行(けぎょう)、最略灌頂を受けるよう命令(p.22)」した。こうして高野聖は僅かな例外を除いてその歴史を閉じたのである。
なお、高野山に帰ることができなくなった高野聖たちは、「願人坊主」などとして最下級宗教者として生きたようだ。
本書を読みながら疑問だったのが、高野聖はなぜ時宗化したのか、ということだ。聖は「自活」する必要があったから、当時流行のムーブメントである時宗を取り入れただけにすぎないのかもしれないが、高野山という器は時宗とどう接続したのか。高野山と時宗のいいとこ取りをしたのが高野聖だったのだろうか。それとも真言密教には時宗と接続する必然性があったのだろうか。
もう一つの疑問は、高野聖に終止符を打った家康の裁断である。なぜ徳川の菩提寺である大徳寺を襲撃した行人方ではなく、逆に襲撃された聖方を処罰したのか。しかも江戸幕府は遊行に便宜を図るなど時宗を保護していたのに、高野聖を時宗から除いて真言に帰入させたのはなぜか。本書には詳らかでないが、高野聖は徳川が保護の対象としていた時宗とは少し異質な部分があったためなのかもしれない。
本書は浩瀚なものであるが、それでも高野聖の複雑な世界を概観するに留まっているため、細かい所ではいろいろと疑問も湧いた。また元が学術論文ではないために、出典が最小限で注もないのはやや物足りない。しかしそういう点もあるにせよ、忘れられた高野聖の世界を甦らせた功績は大きい。
高野聖を語る上で必読の名著。
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