2022年3月28日月曜日

『日本陰陽道史話』村上 修一 著

日本史における陰陽道の話題をわかりやすく語る本。

陰陽道とは、中国由来の天体と人間の運命を関連づける考えや「易」、五行説や宿曜道(インドから伝わった天体と運命に関する仏教理論)が習合して生まれた暦製作と呪術の体系である。

ただし、本書では陰陽道は中国で生まれたとしているが、本書の記載を注意深く読んでも陰陽道そのものが中国で生まれたとはいえないように思った。中国由来の材料を日本風にアレンジして律令国家に位置づけたのが陰陽道ということのようだ。

陰陽道は日本において政治理念に取り入れられ、天武天皇は「陰陽寮」という官制と「占星台(天文観測所)」を設けた。さらに奈良朝初期の養老律令では陰陽寮が中務省に位置づけられ、頭(かみ)以下、陰陽師、陰陽博士、暦博士、天文博士、漏刻博士(水時計の管理)など89名の陣容が整えられた。

なおこのモデルとなった唐の官制では暦と天文は太史局という部局が担っており、日本ではこれに比べ卜占に比重があったことが明瞭である。

事実、奈良期では陰陽道は祥瑞と災異を弁別することに明け暮れ、些細な祥瑞で年号が改められるなど陰陽寮は国家の迷信機関だった観がある。平安朝になると祥瑞改元がなくなり、社会の混乱を象徴してか災異を理由に年号が改まるようになった。その後も色々な事情から今から見れば不合理な改元が繰り返され、特に後白河天皇の改元癖は甚しかった。それらの改元は陰陽道思想によるものばかりではないが、元号に選ばれる文字については吉凶が重要になることから、儒教とともに陰陽道も重んじられたのである。

陰陽道は儒教や仏教と組み合わさり、日本人の宗教観の一角を形作った。平安中期以降、賀茂・安倍両氏が進出してからは泰山府君祭が流行、さらにそれをいっそう物々しくした天曹地府祭など大量の祭りが考案され実行された。

また浄土思想に刺激されたユートピアへの憧れが神仙郷への関心を呼び、陰陽道的な神仙思想も惹起した。

律令国家の弛緩に従って、陰陽家たちは国家の事業に携わるよりも公家たちの私的な活動に対する奉仕へと傾いていった。吉凶の占いや病気の平癒祈願、そして物忌みや方違えの指導といったことを盛んにするようになった。ところが天皇や公家たちは些細な吉凶を気にして自ら様々な禁忌を生み出し、陰陽師はむしろそれに振り回されていた面もある。

公家では、優れた才智を持っているのがかえって災いし、各種の典籍から吉凶や予兆を読み取って独自に陰陽道的な解釈を行い、身を亡ぼすものさえ現れた。運命を卜占によって知ることができると考え、現実を見誤ってしまったためである。そういう人物の代表としては、周易を研究した藤原頼長とその師の藤原通憲がいる。頼長は保元の乱で崇徳上皇側で死に、通憲は平治の乱で自滅した。彼らは天変(天体の異常な動き)や中国の故事から導かれた吉凶を信じすぎた結果、現場を無視した判断をして破滅したのである。

こうした世相を反映し、『平家物語』には、仏教的な宿業の世界観とあわせて陰陽道的な世界観が横溢しており、予兆思想と運命の思想は『平家物語』の基軸ともなっている。

また、陰陽道の理論は修験道の教義や儀礼の形成に大きな影響を及ぼすことで、陰陽道は修験道形成の背景となった。そして修験者たちは、その活動を通じて陰陽道の日本化に寄与した。

一方、密教では「宿曜道」が陰陽道と似た星辰信仰やそれに基づく呪術を行っていた。特に天体や星への信仰を仏教にもたらした意義は大きく、二十八宿信仰と北辰(北極星)信仰、北斗七星信仰などは特徴的であり、それらの信仰に基づいた星曼陀羅も製作された。さらに宿曜道では、個人の運命を天体の動きから導く、今の星占い的な「禄命師」が生まれた。

また祇園社の牛頭天王は密教・宿曜道・陰陽道が影響しあってできた星宿神であり、宿曜道の中心的な神格となった。このような牛頭天王信仰と習合した宿曜道の流布に与ったのが14世紀に製作された『簠簋(ほき)内伝』という安倍晴明に仮託された宿曜書である。こうして宿曜道は陰陽道の影響を受けつつ、日本化していったといえる。

鎌倉時代になると、有職故実と前例踏襲に支配された公家の社会とはずいぶん様子が変わったが、吉凶や予兆、祈祷といったものは武士たちも意外と気にしていた。平安朝末期からの明日をも知れぬ社会の中で、験を担ぐことや戦の際に神威を借りることが有効だったためであろう。特に源実朝は公家的な将軍であったため、百怪祭、三万六千神祭など平安朝以上の陰陽道的祭りを行った。

実朝暗殺の以後も将軍家の陰陽道的ムードは変わらず、北条義時の娘が男子を産んだ際には百カ日の泰山府君祭が営まれた。このように長期間の泰山府君祭は平安朝でも例がなかった。さらに承久の乱前後では陰陽道が一層活用され、百日の天曽地府祭、属星祭、三万六千神祭を始め、各種の陰陽道的な祭りが平安朝以上の規模と頻度で乱発されたのである。こういうことから、鎌倉時代の陰陽師は御家人の武士と対等に扱われるほど勢力があった。

なお幕府ではこの頃、羅睺・計都の二星への信仰が高まっており、安貞2年(1228)、珍瑜が羅睺星供を行っているのをはじめとし、嘉禎元年(1235)、幕府は薬師像千体と羅睺星神像と計都神像などを造立している他、寛元3年(1245)明年の日蝕のため陰陽師広資らが羅睺星祭を催し、また建長3年(1251)には執権時頼が室御産御祈りに羅睺・計都像の造立供養を行っている。どうやらこの頃、羅睺・計都のみならず星辰に関する信仰(北斗七星の祭り、二十八宿神、十二神など)が流行したらしい。ただしこれら羅睺・計都両星の神像は今日には一切伝わっていない。

これら鎌倉時代の陰陽道的祭りを『吾妻鏡』から抜き出してみると48種にも上り、分類すれば(1)病気平癒等の身体に対しての祈願祭、(2)星宿信仰に関する天変地変の祈願祭、(3)建物の安全祈願祭、(4)祓いに関しての神祇の作法に近いもの、となる。このうち(1)(2)が特に多く、個人的な祈願に用いられることが多いことと、(2)の星宿の祭りは平安朝以上に盛んであったことが特徴である。これは宿曜道の浸透が背景にあるものとみられる。

室町時代になると、義満・義持・義教の頃までは幕府にも財政的な余裕があり陰陽師たちに公的な場での活躍の機会があったものの、応仁の乱以降になると幕府の衰えによって陰陽師たちは次第に困窮するようになった。

暦の製作を担ってきた賀茂(勘解由小路)氏は本流が断絶、土御門氏も秀吉に対して奉仕していたことが裏目になり追放され、事実上、平安朝以来の宮廷陰陽師は壊滅した。追って土御門久脩(ひさなが)は京都に戻って出仕することを徳川家康に許され、所領も与えられたものの、陰陽道書など拠るべき典籍が失われておりかつての陰陽道を復活させることは不可能であった。

それでも土御門久脩の子孫は代々陰陽頭に任じられ、天和3年(1683)には諸国陰陽道支配を土御門氏に仰せつける霊元天皇の綸旨が下り、これにより土御門氏は全国の陰陽師を統括し免許を与える権限を握った。江戸期の土御門氏は、歴代天皇ごとに一代一度の天曽地府祭を執行している。

ところで、「全国の陰陽師を統括」ということは、陰陽師が民衆的なものとして全国に存在していたことを示唆するが、民間的陰陽師の多くは「声聞師(しょうもじ)」として活動していた。これは元は下級法師が金鼓打ちを依頼したことから始まったらしいが、山伏の形態をして運勢占いや芸能を行う下層民である。

このように、公家文化の残滓ともいえる陰陽道は公家の凋落とともに次第に失われた。しかし、鎌倉時代に平安朝以上に陰陽道的祭りが挙行されたように、必ずしもそれは公家の専有物ではなく、日本文化にかなりの程度組み込まれた。むしろ現代でも、「日や姓名や建築・造作・婚姻などに関して吉凶・卜占・禁忌を意識する現代日本人の生活習慣の中(p.253)」に陰陽道思想は確かに生き残っているのである。

本書は、著者の陰陽道研究の総括である『日本陰陽道史総説』に基づいて行われた、朝日カルチャーセンターにおける講座の文字起こしを元に書き下ろしたものである。そのような性質から、出典が明らかにされない、話題が飛び飛びである(特に時代が行ったり来たりするところ)といった点は不便に感じたが、全体的には平易で読みやすくよくまとまっている。

ただし、江戸時代以降の陰陽師の歴史についてはほとんど記載がなく、古代・中世が話の中心なのはやむを得ないこととはいえ少し物足りなかった。

日本における陰陽道の存在感に改めて光を当てる良書。

【関連書籍の読書メモ】
『密教占星術—宿曜道とインド占星術』矢野 道雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/11/blog-post.html
密教占星術「宿曜道」の理論を解明する本。宿曜道を理解する上での必読書。


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