2022年5月8日日曜日

『日本の近世7 身分と格式』朝尾直弘 編

江戸時代の身分について考察する論文集。

江戸時代は身分社会だった。これは「階級社会」とはちょっと違う。もちろん身分には上下関係もあった。しかし社会がヒエラルキー的に構成されていたとイメージしてはいけない。そうではなく、社会が「身分」によってモザイク状に切り分けられていたと考えた方がいい。武士は威張ってはいたが、武士の領域から踏み出すことはできなかった。穢多や非人は虐げられてだけいたのではなく、自らの権利が侵された場合には堂々と奉行所に申し出たのである。

しかし江戸時代の身分が何だったのか、実はまだよく分かっていない。それどころか、ほとんど分かっていないと言ってもよい。本書には、様々な事例から「江戸時代の身分とは何か?」を考察した論文が収録されている。

1 近世の身分とその変容(朝尾直弘):身分とその表象としての格式の概説。士農工商というが、農工商の順での序列はなかった。身分制度は政治権力が設定したことで創出された、というような単純なものではない。「中世の身分が尊卑の観念を基軸にしていたのと異なり、近世のこの身分は社会的な機能分担(p.28)」の観念に基づいている。

中世の支配は主従制を基軸とする人の支配であったが、近世の支配は領域支配的であった。そしてその社会の構成員は、自らメンバーを選んだ。町人として町人に認められたものが町人であり、百姓として百姓に認められたものが百姓であった。18世紀以降、そのような認知の関係を金銭を媒介として制度化したのが「株」である。近世社会のいたるところに「株」があった。こうして「株」の売買によって身分が変わる現象が生じ、「身分が物権化した(p.40)」。

2 近世的身分制度の成立(横田冬彦):元々、私はこの論文を読みたくて本書を手に取った。「「戸籍制度」こそ、中世の身分制が持たなかったものであり、近世の身分制を近世的制度たらしめている第一の特質(p.42)」として、近世の「戸籍制度」が概説される。それは(1)慶長期の夫役(ぶやく)動員のための戸口調査(「人掃令」)、(2)慶長〜寛永末年のキリシタン禁圧のための宗旨人別改め、(3)寛永〜寛文期の夫役動員と宗旨人別改めが融合したもの、である。

(1) 人掃令では、村単位で1冊、家一軒ごとの記載で家族構成も調べられた。しかし未成年や女性については名前が載っていない。あくまで夫役動員が目的であったので、その対象外に関心がなかったのだ。人々は出家とか病気・負傷だとかにして夫役を逃れようとしたが、これはその村がどれだけの夫役を負担できるかを調査することが目的であり、そのものは徴発の台帳ではなかった。

(2) 幕府は当初はキリシタン名簿を作り、さらに転宗者名簿を作ったが、寛永期にキリシタン改めを大きく転換し、全ての民衆に町・村単位でキリシタンではないという起請文を出させることにした。特に寛永12年(1635)の改めは全国的なもので、キリシタンへ立ち返らないことを「デウス」に誓う「南蛮起請」も登場した。寛永14年が島原の乱。寛永末年までには改めの毎年実施が命じられるようになり、全住民の毎年登録という宗旨改め制度が成立した。この特徴は、信仰という個人の思想の調査であったため女子や子どもまで対象としたこと、思想は変わりうるものであるから毎年実施したこと、身分に関わらない全住民の悉皆調査であること、一方で住民を地域に緊縛するものではなく移動を許容する制度であったことである。

(3)寛永末年頃は、幕府の農政の転換期でもあった。寛永の飢饉などによる農村の疲弊を受け夫役徴発の軽減化が図られ、百姓を動かす現夫役ではなく石高に応じた米や銀による代納に変わった。またこうしたことを背景に、幕府は寛永21年(1644)に「家数人数万改帳」を作成し、夫役の負担にどのくらい耐えられるかを調査した。しかしその調査項目は宗旨人別改めと重なっていたため、それ自身は家屋・家畜調査なども含めた社会調査の性格を強く持つようになった。享保6年(1721)の全国人口調査令はその延長線上に位置づけられる。

また、幕府は大名に「大名宗旨証文」を毎年提出させ、それに併せて「切支丹宗門改人数目録」を提出させた。そこでは領地の全人口が家中・百姓・城下町人・えた・非人などに分類して示された。ここで、百姓は村の帳に登録された者であり、町人は町の帳に登録された者であったが、賤民は別帳とされたのも注目される。この「戸籍制度」による身分制度は、<武士ー平人ー賤民>というものだった。

本編は非常に参考になるものだが、僧侶という身分についてほとんど言及がないのが少し物足りなかった。<武士ー平人ー賤民>において僧侶はどう位置づけられるのか。そもそも僧侶は宗旨人別帳に記載されていたのか。より詳しく知りたい。

3 職人と職人集団(笹本正治):職人とは古くは特別な技能を持つ人一般を指したが、近世には技術者の意味合いに変化した。本編では、大工と鋳物師(いもじ)について取り上げ、技術者たちがどう自らを組織化し、職人の身分(権益)を確立しようとしたかが述べられる。近世当初では職人は身分であったが、例えば百姓が実際には大工で生計を立てるなど次第に身分と職業は乖離していった。であればこそ、本業の職人は自らの営業権を確立するためにも、広い範囲で職人を組織化し、領主や公家などの権威を借りて、正規の職人としての権益を守ろうとしたのだった。「近世に天皇制を支えていた一つの力として職人組織があったことは疑いない(p.122)」。

4 近世の障害者と身分制度(加藤康昭):本稿は本書中の白眉である。近世において障害者はどのような身分だったか? 領主は、農業経営をなしえない者を排除するため、人畜改めで障害者を把捉した。そのために障害者の記録が今に残されることになった。近世社会で障害者の多くがどういった扱いを受けていたのかは謎が多いが、盲人については史料がたくさん残っている。盲人は盲僧となる道があった。盲僧は、盲僧寺に所属し、頭の下で組織され、定期的に檀家を回って琵琶を断じてお経を読む、呪術的宗教者である。ただし都市部では呪術性を払拭して芸能者となり法師体を残しつつ「座頭」と呼ばれるようになった。

なお、本筋とは逸れるが座頭に関して非常に興味深い事例が紹介されている。元禄9年(1696)、岡山藩で座頭の慶作が暴行される事件が起こり、奉行へ訴え出た。慶作の身元を吟味してみると、藩には無届けで座頭に弟子入りしており、人別帳ではまだ仁三郎となっていることが判明し、この手続きが問題視された。座頭側では、頭を剃り名を改め、施物も受けているので座頭であると申し立てたが、藩側では出家や座頭など百姓を抜けるには郡奉行に願い出て藩の許可を受ける必要があるとし、結局慶作は追放になった。この事件で興味深いのは2点。(1)座頭になるには改名を要したが、その名前は僧名ではなく俗名であること、(2)出家・座頭になるには藩の許可を要したこと、である。特に(2)は、おそらく藩の方では本当に目が見えないのか吟味したのであろう。なお人別帳では、「座頭・瞽女は一般村民とは別に、出家・社人・山伏、その他諸芸人・被差別民などとともに最後に書き出されるのが普通(p.150)」だった。

琵琶法師たちは僧侶というよりは芸能民として自らを組織化し、座ができあがった。そして幕府によって「当道式目」が定められ、それに対応する形で惣検校を頂点とする全国組織ができあがった。この組織は73もの階級があり、官位は実態としては金で買われた。俗に「検校千両」と言われ、最高位の検校になるためには合計で約千両必要だった。しかし高位の盲官を得れば、役職に伴う収入もまた大きかったし、惣検校ともなれば将軍のお目見えが許されるなど身分的には高位の武士に相当した。しかし次第に官位の魅力は低下し、座頭金というサラ金のような高利貸しが座頭の間で流行るようになった。官位を買うための蓄財を原資に座頭が金貸しを始めたのだ。一方社会の方でも盲人に施しを与える余裕がなくなっていった。

明治政府は、障害者についても配当・勧進を禁止し、全国民統一戸籍を編成する過程で「盲人仲間を含む近世の諸仲間・諸身分の撤廃を行った(p.177)」。さらに明治4年11月には盲人の官職が廃止された。盲官廃止令によって解散した盲僧仲間は明治9年に天台宗の宗派として再組織されたが徐々に分散し、明治30年代に鍼・按摩を軸とした全国組織へと再結集していった。

5 武士の身分と格式(笠谷和比古):大名の間の身分・格式、大名の家臣の身分・格式の概説。本編はなんとなく分かっているつもりの親藩・譜代・外様の違い、国持大名、城持大名とは何か、朝廷官位と武士の身分、江戸城殿席といったことがまとまった非常に参考になる内容。特に徳川幕府の年始の賀式が身分をはっきりと表象する場だったということが興味深かった。またそれらは非常に複雑であり、「当時の社会の人々の間でも知悉しえないものであった(p.208)」が、身分・格式は完全に固定されていたわけではなかったので、大名や武士たちはそれが少しでも上昇するよう腐心していた。家格の維持のためには幕府にたてつくことも厭わなかった南部家の事例は、武士にとって格式とは何かを象徴しており印象的だった。

6 下層民の世界(塚田 洋):えただからと言って一方的に差別され、収奪されるというわけではない。えたも己の権益が侵された場合は、堂々と奉行所へ訴え出た。えたという「身分」は下には置かれていたが、その権益は保護されるべきものだと見なされていたのである。同様に様々な下層民が利害集団としてあった。その一例として「目明かし」が取り上げられている。これは身分というよりは職業だが、その他下層民の職も利害集団化しており「木戸番」の交替事例は興味深い。「権助」という木戸番が、45両でその職と道具(=つまり株)を後任に譲った例では、同時に権助という名前まで譲っているのが面白い。名前までが役職化するのである。また家守(マンション管理人+町の運営を委託された存在)の事例で、元来はそれが家持(不動産の持ち主)が任命するものであったのが、任免権が弱体化したためか、家守の役が物権化していく様子は、近世の「役の体系」の一端を垣間見るものである。

7 意識のなかの身分制(間瀬久美子):職人や下層民は自らの権益を確保するため、「由緒書」を偽造した。そうしなければ寛永以降は諸役免許が得られなかったのである。特に被差別下層民はその由緒を天皇や朝廷と関連づけていた。また木地師が白川家を、鋳物師が下級公家の真継(まつぎ)家を戴いたように、公家の権威を借りることは、財源を欲していた公家の思惑とも合致していたため盛んになった。既に戦国期に「職人受領」(職人に「加賀守」のような名前を与えること)があったが、近世では私称が多くなったため幕府は近衛家の求めに応じてこれを取り締まった。しかし勅許受領は少ないままで、公家からの私的な許しを得た半ば違法の職人受領が多かった。受領名を許す公家の方に金銭的メリットがあったからに他ならない。本編では、さらに雛人形を飾る風習の大衆化を述べ、公家文化が幅広い層に浸透したことが述べられる。松平定信が朝廷を模した「古今雛」(原題の雛人形の原型となったもの)を弾圧したのが興味深かった。

8 「かわた」身分とは何か(畑中敏之):「かわた」とは穢多身分のことであるが、河内国の「かわた村」には、百姓を遙かに凌ぐ富豪がおり、しかもその数は少なくなかった。さらに18世紀後半から19世紀、百姓村では飢饉等で人口停滞・減少が続いていたのに、かわた村では自然増によって大幅に人口増加した。それには、村の経済が雪踏製造という土地に依存しないものを基軸としていたことが背景にあった。かわた村は大坂の問屋(平人)と全く対等に価格交渉しており、しかも「この交渉のために(中略)大坂市中にて長期間逗留している(p.320)」。ということはそれを可能にする経済力のみならず、彼らを平人とともに逗留させる宿があったことを示す。さらに、平人からかわた村の住人に(「人別送り証文」で)移籍したものもいる。貧困の中で差別に逼塞していたというイメージとは違うのである。しかし彼ら自身、「自分たちは穢多ではない。百姓だ」と主張していたが、やはり「かわた」として認識されていた。しかも、もはや実際に被差別・貧困といった実態がなくなっていても、「なおそのような”実態”をもつ「かわた」身分として認識されていた(p.344)」のである。被差別階級の身分観を覆す論考。

9 移動する身分(高埜利彦):富士山の登攀口にある須走(すばしり)村の御師と百姓の対立を描く。須走村は富士山噴火のため農業が潰滅し、富士山信仰の参詣客の収入をあてにするようになった。そして多くの百姓が実際には御師(参詣客を導く役目)と変わらない実態を持ちながら、御師14名が連名により誓約を交わし、御師身分を固定することにした。これは百姓を御師の仕事から閉め出すことを意味していたので、百姓と対立した。18世紀中頃には、吉田家から木綿手繦(ゆうだすき)を掛ける許状をもらい、神職身分としての性格を強めていった。吉田家では全国の神社を統括する立場を確立したい思惑から、身分的に不安定だった御師を積極的に取り込んだのである。本編では、「身分」というものが創出される一例が示されている。

本書は、全体として江戸時代の身分とはいかなるものであったかがボンヤリと浮かび上がってくるものとなっている。江戸時代の身分は、<武士ー平人ー賤民>という大きなヒエラルキーの他は上下関係としては捉えられていなかった、というのは確かのようだ。しかも武士は支配階級として上にはあったが、それにしても絶対に服従しなくてはならないというようなものではない。職人や下層民は利害団体を組織し、それを「座」とか「株」のような形で表現した。そしてそれが金銭によってやりとりされるようになり、身分が物権化して一種の流動性を獲得するのである。またそれに一役買っていたのが朝廷権威であったというのが興味深い。

ところが近代の身分は、こうした在り方とは異質なものである。近代の身分は、「四民平等」を掲げながら、江戸時代よりも身分を「上下関係」として表象したもののように思えて仕方がない。ではどうして身分の在り方は近世と近代で変わってしまったのだろうか? 本書にはもちろんその答えは書かれていないが、非常に大きな問題提起を投げかけられた気がする。

近世の身分について多角的に検討した充実した好著。

 

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