2024年2月11日日曜日

『日本葬制史』勝田 至 編

日本の葬制史の概説。

日本人は死体をどう処理してきたか。本書は、その背景に「日本的」思惟があったという考えを脇に置いて、客観的な葬制の歴史を述べたものである。

ただし、私自身は葬制の背後にある思想に興味がある。本書の冒頭にも他界観についての説明があり、日本人が考える死者の行く先の考え方を次のようにまとめている。(1)消滅する。(2)この世とは隔たった別世界に行く。黄泉の国、地獄・極楽など。(3)輪廻転生する。死者は前世のことは忘れる。(4)目には見えないがこの世界のどこかにいく。

ではこれらの考え方と葬制とはどう関連しているか。それは簡単ではないが、「葬送・墓制の変遷の背後にあるのは結局は社会の変化(p.9)」であって、思想の変化はその一部にすぎず全面的な影響はなかった(と本書にはっきり書いているわけではないがそう判断できる)。

原始社会~古墳時代(西澤 明、若林 邦彦、山田 邦和)

縄文時代前期後半(約6000年前)から継続的な墓地が作られるようになった。土坑墓・石棺墓・配石墓・廃屋墓などがある。屈葬が多いが伸展葬もある。副葬品はないことが多い。後期以降には再葬など二次葬が見られ(再葬土器棺墓など)、洗骨の可能性もある。墓の立地は、集落を取り囲んでいる墓がある一方で散発的な墓もある。

弥生時代になると東日本には再葬墓が顕著になり、配石墓での土葬→掘り起こし・焼骨→骨壺への納入・埋納などのプロセスがみられる(弥生再葬制)。墓制は多様で列島規模の共通性は低く、前時代からの墓制の他、方形周溝墓・円形周溝墓・四隅突出型墳丘墓などがある。方形周溝墓は当初から集団墓・共同墓地として形成された。おそらく親族集団の集団墓だったと思われる。弥生時代後期になると鉄製品などが副葬品にみられるようになる。そして岡山県倉敷市の楯築墳丘墓など、古墳につながる要素を持つ墳墓が現れる。

3世紀後半~7世紀前半までを古墳時代という。古墳時代を特徴づけるのは「古墳」であるが、これを古墳時代特有のものとすることに著者は否定的で、古墳を「特定の個人の埋葬を主目的として造られた、高い墳丘を外部主体とした墓のうち、継続的な祭祀が断絶したもの」と定義している(つまり古墳時代に造られたものに限定しない)。なお、ここで「特定の個人」としているのが、弥生時代の方形周溝墓との著しい違いになる。

古墳時代といえば前方後円墳であるが、これは奈良の箸墓古墳(全長280メートル)の築造がメルクマールになる。前方後円墳は、吉備(岡山)でその祖型が現れ、大和に入って整えられて誕生した。箸墓古墳こそ、それまでの初期古墳の特徴を集大成し、新しい要素を付け加えて古墳の定式を作り上げた最初の巨大古墳だった。副葬品には銅鏡が目立ち、全国の主要な前期古墳にはほとんどといっていいほど三角縁神獣鏡が副葬されている。なお石室は竪穴式で、埋葬後は二度と開けることを想定していない。

前期古墳は、形態、円筒埴輪列、竪穴式石室、割竹形木棺、副葬品などの面できわめて高い共通性を有している。古墳時代中期に入ると前方後円墳は極限まで巨大化する。ここでも吉備に巨大古墳が築造されているのは興味深い。しかし古墳時代後期前半には逆に規模が縮小する。これは何を意味するのか。継体朝の成立と関係しているのかもしれないが不明である。なお古墳時代後期後半には再び古墳の規模が大きくなる。北部九州では古墳時代中期初頭に横穴式が現れたがこれは大きな広がりは持たず、後期前半に近畿地方で現れた「畿内式横穴石室」はみるみるうちに日本列島各地に広がった。これは追葬を予定した小集団の埋葬施設である。ここでも、須恵器を副葬品にすることや家形石棺など全国的に極めて整った斉一性が見られ、築造方法・葬送祭祀など全てが定式化されていたことが窺える。これは、ヤマト政権が服属した人々にマニュアルを与えていたことによるのかもしれない。

さらに古墳時代には、巨大古墳でない、直径十数メートル程度の小規模古墳の密集「群衆墳」が大量につくられた。これもヤマト政権との関連のようである。特に6世紀後半は全国でおびただしい数の古墳が造られ続けていた。古墳時代の終焉は群衆墳の衰退を画期とするという考え方もある。6世紀後半に前方後円墳は終末を迎え、天皇陵としては敏達天皇陵が最後とする説が有力である。

古代(山田 邦和、勝田 至)

6世紀後半から7世紀前半にかけて、大王陵は前方後円墳から方墳、八角墳に変化し、改葬が一般的となった。用明天皇、推古天皇、舒明天皇はいったん葬られて、後に別の場所に改葬されている。大化2年(646)、孝徳天皇は詔を発した。前半は「大化薄葬令」後半は「旧俗廃止令」と呼ばれる。『日本書紀』には後世の作為も多いが、孝徳朝の大規模な政治改革は大筋において史実と考えられている。「大化薄葬令」では身分に応じた墓の制度を定め、殯(もがり)、副葬品としての宝物の納入、諸儀礼にあたっての自傷行為の全面的な禁止された。古墳の実例を見る限りこれが厳密に守られた様子はないが、古墳の縮小を促したことは事実のようだ。

元明天皇は崩御にあたり、薄葬とすること、火葬して改葬はしないこと、陵は自然の地形を利用し人工的なマウンドを造らないこと(山丘形陵墓)、常緑樹と陵碑だけを陵のしるしとすることなどを遺詔している。古墳時代のような巨大な墳墓から決別したのである。

続いて、天平宝字元年(757)の養老律令には「喪葬令」が含まれている。ここでは服喪の在り方が規定されるとともに、(新たに)墓を造営する資格のある者を三位以上の貴族等の高位の人に限った。ここでは墳墓の作り方の規定はない。すでに大きな墳墓を造るものがいなくなっていたからだ。

文武天皇4年(700)、僧道昭が火葬に付されたのを皮切りに、火葬が瞬く間に全国に広がった。天皇としては持統天皇が最初に火葬された。骨の埋葬には骨蔵器が使用されるなど気が遣われている。太安万侶の墓は当時の墓が残存している貴重な例である。また、奈良時代には墓誌の納入が行われた。律令によれば墓碑も立てることとなっていたが実際には少ない。

9世紀、淳和天皇と嵯峨天皇は徹底した薄葬の理想を述べている。淳和天皇は散骨を希望し、嵯峨天皇は墳丘も樹も植えず、地面を平らにして草が生えるにまかせ、祭祀も不要だと述べた。現代の墓不要論にも通じる考え方である。しかし彼らの理想は当時の社会にとってあまりにもラディカルで、それが潮流となることはなかった。

平安時代初期の陵墓で注目されるのは、陵墓のそばに菩提を弔うための寺院(陵寺)が建立されたことで、本格的な陵寺は嘉祥3年(850)の仁明天皇の深草山陵に始まる。平安時代の陵墓は仏教寺院との関係を深め、火葬跡地に菩提樹院という御堂が建立され、遺骨と肖像がおさめられるという「堂塔式陵墓」へと変わっていった。

一方、民衆の方はというと、鴨川には髑髏が散乱し、鳥部野では死体遺棄に近い鳥葬が行われていた。鳥部野は「流動的な大量の人口を抱えていた平安京ならではの葬送空間だった(p.117)」。逆に京内に墓を造ることは「喪葬令」で禁止されていた。鳥葬にはそれを肯定する思想があったのかもしれないが不明である。

地方では、10世紀後半から畿内で見られる屋敷墓が注目される。11世紀後半には河内や摂津などの農村にも広がり、12世紀には中国・四国・九州、そして東日本へと広がっていった。この時代は貴族にも墓参の習慣はなかったが、屋敷墓は明らかに継続的な祭祀を前提とする。ただし、現行民俗の屋敷墓がこの時代のものと連続したものかどうかは不明である。

天皇や貴族については、火葬されることが多かった。そして火葬は、当初は僧侶が担っていたと思われる。

なお、火葬は一時は全国に広がったものの、平安中期頃には地方でも火葬は減り、12世紀に再び復活した。その際には、遁世僧が死体の焼却に携わったようである。これが後世の三昧聖に繋がってゆくと思われる。

平安時代中期までは、墓標は未発達だった。仏教教理では輪廻転生するので、永続的に現世に「霊」が留まるという観念がなかったことがその理由かもしれない。墓に石塔を建てた初見とされるのは、元三大師良源の遺告で石卒塔婆を建てるよう指示したものである(972年)。これが中世には石塔に戒名や没年月日を刻むものが増加し、石塔が墓塔となっていく。

中世(勝田 至)

古代には墓自体が少なく、墓は散発的にしか作られなかったが、12世紀中頃には蓮台野など共同墓地が形成された。死者が永く墓に留まるという観念がそこにはあったかもしれない。共同墓地は、寺僧墓地に一般の被葬者も受け入れたり、好適な場所を経塚によって結界されたりしたことで成立した。多くの人が「墓に葬られたい」という意識になっていたことは明白である。こうして膨大な墓地が造営され、中世後期には風葬も次第に減少した。

院政期から鎌倉期には年忌供養が行われるようになり、三回忌、七回忌、十三回忌、三十三回忌と次第に年忌が増えていった。十三回忌と三十三回忌が普及するのは南北朝期である。また鎌倉時代には盂蘭盆などの行事としての墓参が行われるようになった。鎌倉では歳末に魂が訪れるとも考えられたようである。

11世紀頃から霊場に火葬骨を納める習慣が起こり、12世紀には高野山への納骨が始まっている。五輪塔にも納骨のための穴があった。

葬儀については、その実務の多くが僧に一任されていた。鎌倉時代以後の貴族の葬送では、僧が今の葬儀社や火葬場の役割を担っていたのである。葬儀を担ったのは律宗と時宗が多く、律宗寺院の「斎戒衆」は葬儀を担当したと思われ、律宗寺院が真言宗の門跡寺院の葬式寺になっている事例が確認出来る。真言宗では葬儀はしておらず、葬儀は律宗に委任していたことになる。一方時宗では火葬場を運営していた。戦国時代の三昧聖は律宗や時宗の僧から発生するのかもしれない。三昧聖とは火葬に携わった下級の(賤しいとみなされた)宗教者で、田畑のない寄る辺ない人々が務め、畿内では14世紀末~15世紀初頭に寺院から独立して存在するようになった。

禅宗は、早くから葬儀に関与しており、大寺院はそれぞれ専属の火葬場を持っていた。律宗や時宗が部分的な関与しかできなかったのに比べ、禅宗では葬儀の儀式や葬具が整備され、「武士の葬儀の引導・供養から実作業まで一貫して担当できる垂直統合的な体制(p.156)」が整えられていた。

平安貴族の葬儀は、夜に行われていた。人目を憚ったのかもしれない。しかし中世後期では禅宗が豪華な葬儀を発達させ、昼に行って多くの見物人を集めるようになり、豪華な葬儀は人々の憧れの的になった。浄土真宗や日蓮宗も、禅宗ほどではないが葬儀や墓に携わっている。

これらの宗派に比べると顕密寺院は葬儀にあまり関与していない。「中世後期の人々の多くは特にどの宗派でなければならないと思っていたわけではない(p.161)」ので、利用可能な宗派で葬儀をしていたのかもしれない。16世紀後半から17世紀前半には、日本各地で大量に寺院が開創されているが、これは幕府に寺壇関係が強制される前に、葬送需要の高まりがあったことを示唆している。

中世においては、死に伴って多様な供養が考案された。五輪塔、宝篋印塔、板碑といった石造供養塔が12世紀後半から13世紀にかけて続々と現れた。ただし石仏と墓の関係ははっきりしておらず、これらは供養塔ではあったが必ずしも墓塔・墓標ではなかった。

近世(木下 光生)

近世の叙述は他の章と毛色が違う。近世葬送史は面白くないと思われてきたが、先入観が邪魔していたのではないか、とのことで「近世葬送史を面白くとらえたい」という著者の意気込みがすごい。ただ、「近世葬送史は面白くない」ということ自体、一般の人は共有していない感覚と思うので、やや内輪向けの書き方であると思った。

それはともかく、近世葬送史の面白さはその多様性にあると著者はいう。そこからあえて全国に共通する性格を抽出するのではなく、多様性そのものを見つめたいというのが著者の主張の主旨である。

近世の葬儀を特徴づけるのは葬送行列である。17世紀半ばの大坂では、町奉行所が規制をかけるほど人に見せびらかすような華美な葬式・葬送行列が行われた。これにはもちろん、経費面で施主の負担になったが、人々は借金してでも華美な行列を整えようとした。これは都市下層民や村でも一緒である。醒めた人は、そういった葬式を死者のためでなく家のために行う形式的なものだと批判しているほどだ。

葬式の華美化は家格誇示の一環として起こったと思われるが、社会の側からも「あなたの家ならばこれぐらいの葬儀はしてしかるべきだ」との圧力もあったようだ。本書では葬儀の華美化にあたっての思想の変化は書かれていないが、私自身はそこに思想・他界観の変化も読み取ることが可能ではないかと思った。

しかし、華美で大規模な葬儀を死後数日間の間に準備し実行することは難しい。そこで葬具業者が活躍した。近世の葬儀は共同体が助け合って行うものだったという通説とは逆に、葬具業者なくして近世の葬儀はできなかった。これは町だけでなく村でも同様だ。葬具業は「儲かる仕事」でもあった。「葬送の商品化があってこそ、「伝統的」な葬送儀礼は成り立ち得た(p.200)」。

近代以前は庶民は土葬であった、とよく言われるが、これも多様だ。実際には土葬と火葬は複雑に入り混じっていた。大坂ではほぼ火葬だった。これは墓地が足りなかったから…と合点しそうになるが、江戸では同じく墓地は足りなかったのに土葬が多かった。

江戸では、どこに誰が葬られているのかわからない「墓標なき墓地の光景(西木浩一)」が広がっていた。それは江戸に大量に存在していた、都市下層民(日雇い、小規模町人)の墓だった。彼らの墓は容易に無縁化し、そうなれば檀那寺は遺骨を掘り起こして処分(あばき捨て)してしまった。現代の無縁仏の問題と同じようなことが江戸にも起こっていたのだ。一方大坂では、そうした方策をとるかわりに、人々は費用のかかる火葬を無理にでも選択していたと考えられる。

火葬はただ埋めるだけの土葬に比べると、燃料がいるので費用がかかる。村でもお金がある人は火葬していたという場合もある。つまり宗教的な理由ではなく、経済的な理由で土葬・火葬が選択された地域があった。といっても、代々火葬をする家でも土葬を選択する人もいて、経済的な理由だけに還元することはできない。

なお、江戸時代には寺壇制度により葬式をする寺院は決まっていたが、そこには他宗派の僧侶が招かれることも多かった。寺壇制度が形式的であるために、かえって宗派にこだわらない態度があったのかもしれない(生まれた時から決まっている宗派に強く帰属意識を持たない場合がある)。

江戸時代の埋火葬を担ったのは、三昧聖や賤民、百姓や町人、寺院関係者、それらの組み合わせ、という4パターンがあった。これらはどこの村ではこうだ、と決まっているのではなく、多様な選択肢として存在していたと考えられる。死穢観念などと直結させることはできない。

近世には、庶民に至るまで墓石を建てることが普通になった。近年、墓地での墓石の悉皆調査が行われ、いろいろなことがわかってきた。墓石の造立は、18世紀初頭にピークがあってその後減少、そして20世紀前半から増加するという傾向があるが、どうしてこういう波があるのかはいまだ不明である。

墓石の形態は、18世紀前半までは地域差が甚だしいが、18世紀後半以降になると徐々に全国的な斉一性が強まって櫛形墓石が一般化し、その櫛形が頭部平面の角柱へと変化する、といった流れがある(谷川章雄)。しかし、なぜこうした変化が生じたのかはやはり不明である。

そこに刻まれる戒名は、18世紀前半には院号など戒名の格式が明確化し、それが家の格差と対応していく。18世紀後半には「先祖代々」「先祖累代」などの文言が現れて微量ながらも増え始め、墓石に家意識が投影され始める。院号居士や大姉など上位の戒名を持たない家では夫婦や兄弟姉妹などをまとめて一基の墓標に祀ることが行われた。しかし戒名は階層だけではとらえられない。「戒名の種類には消長があり、しかもその消長の仕方に全国共通の法則性などなく(p.234)」、「信士・信女より下位に位置すると考えられてきた禅定門・禅定尼が、実は信士・信女に取ってかわって主役に躍り出(同)」るなど、「戒名の種類を安易に家格・階層・身分差の問題に直結させて議論することは差し控えるべき(同)」である。

特に下層民では、抽象的な「先祖」に対する供養などではなく、特定人物への追憶主義的供養が中心であったと思われる(西木浩一)。

近世後期には、火葬場や墓地が迷惑施設扱いされたり、三昧聖への賤視が高まってその存在価値が疑われるようにもなった。人々の墓地や死に対する意識が変わりつつあったのだろう。

近現代(山田 慎也)

明治政府は神道国教化を進め、自葬を禁止し神官に関与させた。それまで基本的に葬儀に関与していなかった神官に葬儀を行わせたのは大きな変化だった。また、短い間だけだったが火葬も禁止した。規制の契機は公衆衛生上の問題だったが仏教への蔑視も伴ってわずか2週間ほどで禁止が決定された。もちろんこれは混乱をもたらし、東京では旧朱引内での埋葬も禁止されていたからさらに混乱した。ただし、火葬禁止は全国で厳密に守られたわけではない。

明治期の葬儀では、葬送行列(自宅から葬儀式を行う場所(通常は寺院)までの移動)が最も重視された。人が死亡すると、近隣に死を知らせ、親戚知人に連絡した。通夜は夜を徹して行われ、鳴り物が入り酒や料理をとりながら賑やかに行われた。賑やかなのが現在と全く違う。自宅から出棺するときに参列者が集まり葬送行列をなした。葬儀後は高級な菓子折り等が配布された。葬式が終わると親族の男性と陸尺(ろくしゃく)の人足だけが柩とともに火葬場に向かい、翌日親族が収骨し寺院に向かった。

こうした葬儀は、特に葬送行列の華美さを競い、徐々に肥大化した。明治中期には葬具業者と人足請負業が合体して、葬儀全体を取り仕切る「葬儀社」が誕生したことで肥大化に拍車がかかった。また引き物も足りなくなると恥ずかしいとされ、また高級なものであったので引き物をあてにする貧民がやってきて「おとむらいかせぎ」が行われた(引き物を転売してお金に換えた)。こうなると葬儀は虚飾であるという批判も起こり、葬儀の合理化が叫ばれるようになった。大正期には葬列を廃止した葬儀が行われるようになった。また交通機関の発達から路上での葬列の進行が難しくなり、また長い距離を歩く習慣がなくなったことなどから葬列は縮小された。そして都市部では霊柩車が登場した。

さらに葬儀の在り方が見直され「告別式」が登場した。告別式の最初の例は中江兆民である。中江兆民は無神論・唯物論の立場から葬式を不要としたが、何もやらないわけにいかなかった親族や友人が告別式を行ったのである。その後、理学博士・工学博士・検事など伝統的な葬式に懐疑的だった高学歴の人が告別式を行うようになった。ただし当初は非宗教的なものとして始まったが、徐々に宗教的要素が復活し、葬儀より洗練した儀礼と受け取られるようになっていった。

葬儀において新しく付け加えられた要素に「弔辞」がある。特に戦死者については戦功が顕彰された。葬儀には死者を顕彰する性格が与えられたのだ。

明治政府は、神葬祭用の墓地がなかったために青山墓地や雑司ヶ谷墓地などいくつかの公営墓地を設け、その管理は神社の神職が行った。ただし、明治政府の墓地政策は宗教との分離に傾いていった。そして明治17年、「墓地及埋葬取締規則」が出て墓地令が集約された。これは「人間の死をとりあえず宗教から切り離し、国家行政の管理下においたもの(p.279、森謙二)」で、「清浄な地」を無税として墓地に指定し、そこに葬らなくてはならないという規定である。これは、神官の葬儀への関与の禁止、教導職の廃止、自葬の解禁などといった流れに位置づけられる。

また、人の死亡は医師による診断を要するとし、埋火葬には区戸長が発行する許認証が必要となった。国家が人の死を管理するようになったのである。こうしたことから墓地は個別の設置ではなく共同墓地が推進され、多摩墓地のような公園墓地が開設された。墓地は公共施設になったのである。

昭和に入ると、祭壇の段の数と葬具によって葬儀のランクが表されるようになり、東京の問屋業者によって「棺かくし」のような新たな祭壇道具が開発されることで、祭壇が次第に聖殿化していった。また、それとは別に遺影が重視されるようになった。

葬儀業は産業として確立し、全国組織も形成された。それで葬儀の標準化が進み、瀬戸では骨壺が大量生産されて全国で使われた。また伝染病対策から火葬も普及し、1990年代にはほとんどが火葬に付されるようになった。火葬の普及によって、骨葬、つまり火葬後に葬儀式をする地域も戦後増えた。今でも東北では骨葬が一般的だという。

戦後、家制度が廃止され、また葬儀を担ってきた共同体の互助機能が後退、祖先祭祀に対する人々の考え方も変わった。少子化や独身世帯の増加から継承者の必要としない葬法が求めらるようになり、合葬墓、散骨、樹木葬などが現れた。1990年代には葬儀が小規模化し、「密葬」が増加した(この用語の持つイメージがよくなかったので、今では「家族葬」という)。さらに葬儀自体を行わない(火葬だけする)「直葬」も一定の割合を占めるようになっている。単身者が死をどのように迎えるのかも問題となっており、今は葬儀をめぐる模索期である。

***

本書は全体として、先行研究が端正にまとめられ、読みやすくかつ情報量が多い。特に古代の記載が大変参考になった。本書は思想史ではないので、人の死に対する考え方の変遷が体系的に述べられているわけではないが、葬送の歴史を通観すると、それがそこはかとなく見える気がした。

原始社会はよくわからないので措くとして、それを私なりにまとめると、冒頭に述べた4類型でいえば、まず古墳時代は「(4)目には見えないがこの世界のどこかにいく」だったようだ。そして古代には仏教の教理が真面目に受け取られ「(3)輪廻転生する。死者は前世のことは忘れる」が中心となったようだ。嵯峨天皇が極端な薄葬を求めたのは、仏教教理との関連だったように思われる。中世になると、仏教教理の浸透によって「(2)この世とは隔たった別世界に行く」が優勢になる。この考えでは、死者の霊が長く墓に留まるわけではないので墓塔を建立する意味は薄い。にもかかわらず中世では多様な墓石塔が考案されて広まったのが面白い。人々は教理に基づいて行動するわけではないのである。近世は中世の延長として理解されるが、近現代につながる要素が散見されるのが面白い。近代の葬送は必ずしも明治政府の恣意的な規制によって生まれたものだとは言い切れない。そして現代には「(1)消滅する」が多くなってきているようである。魂などはないとするなら、墓の必要性は低く、少なくとも宗教的な意味は皆無となる。しかし死体はどうにかして処理はしなくてはならない。墓を造らないとしても、葬儀がなくなることはあり得ない。未来の日本人はどういう葬儀を行うのか、考えさせられた。

葬送史をまとめることで、死への考え方の変遷まで垣間見える労作。

【関連書籍の読書メモ】
『死者たちの中世』勝田 至 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/blog-post_9.html
中世、多くの死者が墓地に葬られるようになる背景を説き明かす本。思想面は手薄だが、中世の葬送観について総合的に理解できる良書。

『中世の葬送・墓制—石塔を造立すること』水藤 真 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/blog-post_4.html
中世の葬式がどうであったか検証する本。葬儀事例を数多く紹介することで中世の葬送を知る真面目な本。

『葬式仏教の誕生—中世の仏教革命』松尾 剛次 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/09/blog-post.html
仏教が葬式を担うようになった変化を描く。葬式仏教の成立を広い視野でコンパクトにまとめた良書。

『墓石が語る江戸時代—大名・庶民の墓事情』関根 達人 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/12/blog-post_31.html
墓石によって江戸時代の社会を考察する本。墓石を通じて社会を見る視点が独特な本。

★Amazonページ
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