2024年1月28日日曜日

『寺社焼き討ち―狙われた聖域・神々・本尊』稙田 誠 著

寺社焼き討ちの論理を探る本。

中世は宗教の時代である。人々は神仏を実体のあるものとして認識し、生活全般が宗教によって規定されていた。しかしそんな中でも、寺社はしばしば焼き討ちされた。なぜ篤く信奉していたはずの寺社を焼き討ちするなどということができたのか。それは信仰心の衰微の表れなのだろうか? 本書は、寺社焼き討ちなどを行った人々の心理を繙き、その宗教観を分析している。

寺社焼き討ちは、まずは寺社同士の抗争から始まった。律令国家の弛緩により、それまで国家から庇護を受けていた寺社は自活を求められるようになり、荘園領主として、あるいは民間への布教による収入によって経済を成り立たせる必要に迫られた。そこで寺社同士の勢力争いが起こり、11世紀中頃から寺社勢力同士の焼き討ちが頻発するようになった。

その嚆矢となったのが延暦寺と園城寺の抗争、いわゆる山門派と寺門派の争いである。長久3年(1042)、承保元年(1074)に延暦寺が園城寺の伽藍の一部を焼いたのが早い例であるが、永保元年(1081)における一連の両寺の焼き討ちが大規模なもので注目される。園城寺はわずか4か月の間に2度も焼かれた。その後、園城寺は14世紀前半までの間に10度も(!)焼き討ちにされた。 いうまでもなく、延暦寺と園城寺は同じ天台宗寺院である。他宗派との抗争というより、同宗派の抗争によって寺社焼き討ちが行われたことは、寺社焼き討ちが不信心によるものではなかったことを示唆している。

平氏の南都焼き討ちも著名である。治承4年(1180)の暮れ、平清盛の五男、重衡(しげひら)は興福寺や東大寺を焼き討ちした。南都寺院が他勢力と結びついて京都を攻めるのを回避するための先制攻撃だった。焼き討ちになったのは結果的なものだったという説もあるが、著者は意図的に寺院を焼いたと考える。

このほか、怪異が起こったために村人がやむなく堂舎を焼いたり、佐々木道誉が寺院との些細ないざこざから妙法院を焼き討ちにした例、応仁の乱で東軍(細川勝元)の陣となってほぼ全焼した相国寺の例(相国寺合戦)が紹介されている。織田信長の延暦寺焼き討ちについては、徹底して破壊したとされる従来の説が疑問視され、比叡山山頂では根本中堂と大講堂のみに焼亡の跡がみられるという発掘調査結果が紹介されている。ここでのポイントは、寺社の付属施設を焼くのではなく、その中核施設である中堂(本堂)がターゲットになっているということだ。

先述の永保元年の延暦寺による園城寺の焼き討ちでも、『古事談』によれば、天台座主が「僧房ばかり焼いたところでどうしようもない!」と述べ、僧たちに金堂や経蔵などを焼かせた話が出てくる。つまり寺社焼き討ちは無差別的な放火とは違い、寺社の中核を破壊することに意味があった。それは、寺社の中核である本尊や経典に価値が置かれていたことを逆説的に示している。

では、こうした焼き討ちを行ったものは、神や仏を恐れなかったのだろうか? 当時の言説を見てみると、寺社焼き討ちは大悪であり、焼いたものは神罰仏罰を蒙るという認識は当然あった。『平家物語』によれば、南都焼き討ちを行った平重衡は、その罪の重さから報いを受けることは必定でありどしたらよいのか、と法然に涙ながらに語ったという。これが史実そのままであるかどうかはともかく、少なくとも寺社焼き討ちは重罪で、行った当人にとっても葛藤の種になっていたに違いないという当時の人の認識は事実である。『玉葉』(九条兼実の日記)でも、重衡が神罰を蒙ることなく無事に帰洛できたことを不審に思ったとの記載がある。神罰仏罰を人々はリアルなものだと感じていた。そして実際に、神罰仏罰が下ったという事例を、人々はしばしば見てもいた(現代から見れば、それは偶然に過ぎないとしても)。

寺社焼き討ちを行いつつ、どうやってその神罰仏罰を避けることができるのか、それが中世人たちの切実な思いだったに違いない。本書では「寺社焼き討ちの正当化の方便」が4つに分類されており、それは(1)仏にすがる、(2)経供養などの儀式を行う、(3)特定の文言を唱える、(4)「これこれしかじかだから問題ない」という理屈を信じる、とある。

このうち、(1)と(2)については、焼き討ちの罪は認めつつも、それを仏法にすがることで無効化しようとするものである。法然は重衡に念仏によって往生できると説いているが、これは重罪を犯したものにとっては福音だっただろう。

(3)は、一種の呪文によって罪を無効化するもの。代表的には「罪業もとより所有なし、妄想(もうぞう)顚倒より起こる。心性源清ければ、衆生すなわち仏なり」というものだ。「もとより、罪業に固有の実体はなく空である、心は本来清いもので、生きとし生けるものは仏である」というような意味である(本書での説明を簡略化した)。つまり、寺社焼き討ちをした罪も実体はない、という一種の開き直りであり、罪を認める(1)(2)とはちょっと違っている。これは天台本学思想に基づいており、高度な教理による屁理屈である。

(4)には、例えば「焼いたお堂は後で再建すればよい」、「仏に敵対する心を持って焼くわけではないので罪にならない」、「この八幡は主君が信仰している八幡とは別だから大丈夫」、「あいつが大丈夫だから自分も大丈夫だ」といった理屈がある。最後の理屈は、信長は仏教を弾圧しているのに仏罰を蒙っていない、だから大丈夫だ、といったようなものであるが、まだ仏罰を蒙っていないだけなのかもしれないので、その場しのぎ的だ。なお個人的に気になったのは2番目の「敵対した心がなければ罪にならない」だ。そんなわけないだろと思うが、著者によれば「中世では身と心を分けて物事を理解しようとする思想の流れがあった(p.113)」として説明されている。つまり人間の内面を重視する発想があったらしい。しかしこの点については参考文献が一切掲げられておらず詳しくは不明である。

そのほか、「焼き討ちされたのは寺の自業自得だ」とか、「本尊がなければ問題ない」といった自己に都合がよすぎる理屈が紹介されている。この(4)は、焼き討ちの罪を認めるのではなく、いろいろ理由をつけて罪にならないとするものであるが、(3)と違って高度な教理は関係なく、単なる自己正当化理論が多い。しかし、こういうものであっても、中世人は寺社焼き討ちにあたって正当化を図る必要を感じた、ということは、その宗教観を表しているともいえる。

次に、本書は焼き討ち以外に目を転じる。概念整理をすると次のようになる。まず一番広い概念として「神仏超克」がある。これは、神仏と敵対せざるをえなくなった人間が、これを克服しようとする行為言動である。そこには、「寺社焼き討ち」のほか「神仏冒涜」「墓の破壊など」(本書では扱われていない)が含まれる。

そして「神仏冒涜」には、神仏を脅すなどして無理にでも祈願を叶えさせようとする「神仏恫喝」、神仏を攻撃したり、その存在価値を否定する行為言動「神仏唾棄」で構成される。以上をまとめると次のようになる。(※個人的には、神仏唾棄と寺社焼き討ちは概念的に重なっているような気もした。なおこれらは著者による用語のようである。)

神仏超克┬寺社焼き討ち
    ├墓の破壊など   
    └神仏冒涜┬神仏恫喝
         └神仏唾棄

「神社恫喝」の例として、曽我兄弟の仇討で、兄弟が箱根権現に「祈願が叶えられないのであれば、この場で私を殺してください」と願ったことが挙げられる。これなどは「むしろ権現を恫喝しているとさえ読める(p.136)」。さらに兄弟は三島明神には「(祈願が叶わなかったら)ここの宝殿の中に参り籠って腹を切り、五臓を掴み出して御戸帳に投げつけますよ。そして御社に火を掛けて焼き払い、もともとここには神などいなかったのだと世に暴露するぞ!」とまで述べている。現代にはありえない祈願の仕方である。

また法然に帰依した熊谷直実は「阿弥陀様、私を上品上生に迎えることができないとなると、弥陀の本願が破れたことになりませんか?」と阿弥陀如来を論難している。こうした神仏への接し方は、神仏を実体として、さらには人間と対等なやりとり・駆け引きができる存在として扱っていたことの裏返しであり、もっといえば神仏との契約関係を前提としているようにも見える。「私は正当な祈願をしているのだから、それを聞き入れない神仏が悪い」とでもいうような理屈も、現代ではありえない。

次に「神仏唾棄」については、「仏像に危害を加える・破壊するといった行為、あるいは神仏に暴言を投げつけその存在価値を否定する言動がこれにあたる(p.148)」が、これは廃仏毀釈とどう違うか。

例えば専修念仏を信じる人々は、念仏以外は無価値であるとして、地蔵の仏像をないがしろにした。法然や親鸞はこうした行き過ぎた行為を戒めているが、念仏のみによって救われるなら地蔵など無価値というのは論理的に筋が通っている。

キリシタン大名の大村純忠は、受洗後に軍神の摩利支天の像を破壊して十字架を立てた。しかし彼は仏教と決別したのではなく、受洗後に出家し(!?)、真言密教や観音・伊勢信仰に傾倒している。フロイス書簡によると「(摩利支天は)幾度私を欺いたことか」と純忠は摩利支天を恨んでいたという。

「神仏唾棄」が可能となった方便は(1)自分を裏切った(約束を破った)神仏は唾棄してもよい、(2)力のない神仏は唾棄してもよい、というものだったという。つまり廃仏毀釈が仏教に対する無差別的な破壊行為であるのに比べ、神仏唾棄の場合は、神仏一般に対する崇敬はそのままに、特定の神仏が自分に不利な結果をもたらしたことに対する報復として行われていることになる。ただし(2)の場合の、専修念仏の徒が地蔵をないがしろにする行為などは廃仏毀釈に近い部分を感じる。

織田信長は、父信秀が瀕死になった時、僧侶に祈祷を行わせたにもかかわらず、回復するであろうとの僧侶たちの言葉とは逆に父が死去したのを受けて、虚偽を述べたとして僧侶たちを殺した。信長は従来のイメージとは違い、神仏を恐れなかったのではなく、むしろ本件も神仏を実体とみなしての報復行為であったと考えられる。

豊臣秀吉は、つくりかけの東山大仏が地震によって倒壊したのを受け、すぐさま大仏を破却した。彼は大仏の代わりに善光寺如来を迎えたが、「倒壊したのは大仏の力が弱かったせいだ」との工学を無視した理屈を持っていたようだ。これは信長の例とあわせて、神仏そのものを否定したのではないが、織豊時代において人間本位の考えが強くなっていることが感じられる。

通説では、宗教・神仏の影響力の低下は、おおむね14世紀の南北朝時代から始まり、戦国時代を経て近世へと時代が移り変わる過程でより顕著になったとされる。しかし神社焼き討ちや神仏冒涜が中世前期から行われていることを考えると、南北朝時代以降に神仏の扱いが顕著に軽くなっているとはいえず、「決定的といえるほど宗教・神仏の力が凋落したとまでは考えにくい(p.176)」。中世人は「真剣に信じていたからこそ、本気で怒り、焼き討ちや破壊に多大なエネルギーを投じた(p.177)」。著者は近世に平和な時代が訪れたことが神仏の影響力低下に大きかったとみている。

とはいえ本書を読みながら、私は人々の微妙な考え方の移り変わりも感じた。中世前期では人々は神罰仏罰を恐れ、それを無効化するための手段や、「きっと自分は罰を受けないはずだ」との自己正当化の理屈を考えた。ところが中世後期には、大村純忠が加護がなかった摩利支天像を破壊したように、神仏と人間を対等なものと見なした行動がみられるようになる。神仏本位から人間本位の考えへと軸足が移っているような気がするのは私だけだろうか。

本書は、神仏冒涜や寺社焼き討ちという、人々が神仏に敵対するというマニアックなテーマを扱っており、大変価値が高い。しかもマニアックであるにもかかわらず、一般向けに平易に書かれており読みやすい。私自身の興味としては、中世における宗教観の一面を知りたくて本書を手に取った。中世の人は、神仏を実体として認識していたからこそ、現代ではありえないようなやり方で神仏に対峙した。神仏に報復するという考えは、中世人の神仏観を象徴するものかもしれない。

なお、本書は著者の論文集『中世の寺社焼き討ちと神仏冒涜』を土台に新しい知見などを盛り込んで書き下ろしたもの、とのことである。

寺社焼き討ちを通じて中世人の宗教観を探る良書。

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