2024年1月14日日曜日

『神仏習合』義江 彰夫 著

神仏習合現象を社会の動きから述べる本。

本書は、神仏習合を「神祇信仰と仏教が複雑なかたちで結合し、独特な信仰の複合体を築いたもの(p.6)」と定義し、「神仏習合を通して日本人の精神世界の豊かな歩みを、社会構造と有機的にリンクさせながら描きなおす試み(p.7)」として書かれたものである。

冒頭で述べられる平将門の事例は象徴的だ。神がかりした巫女が自分は八幡大菩薩の使者だと名乗り、「八幡は将門に位を授け、その位記を書くのは菅原道真の霊だ」と託宣した。反乱軍にお墨付きを与える役割を負わされたのが八幡と道真だったわけである。どうしてこんなことが起こったのかを解明するのが本書の視点の一つである。

著者の描く神仏習合史の始まりは、まずは通説に則っている。第1に神宮寺の建立、第2に怨霊の登場だ(付け加えるなら八幡神の登場も通説であろうが、本書での扱いは軽い)。

どうしてこのようなことが起こったか、著者は次のように推測する。

第1の神宮寺の建立について。古代国家はまず神祇信仰を通じて全国の豪族を糾合しようとし、例えば幣帛班給(重要な神事にあたり、全国の神社の祝部を神祇官に集めて幣帛を配る制度)のような制度をつくったが、やがて幣帛班給は特に遠方の神社(とそれを擁する豪族)から忌避されるようになり行き詰まった。また、豪族たちは私営田領主としての性格を強め、土地の私有を正当化する理論を求めていた。

こうした状況を考えると、地方に建立された神宮寺は土地の私有を正当化する方策の一つだったと考えられ、またそれが中央政府に認められたのは、神祇を通じた統治に限界を感じていた政府が、仏教を通じた統治へという政策に転換したことを意味しているのではないかというのだ。

第2の怨霊の登場については、それが基本的に反王権のシンボルであったと見る。怨霊は政治的敗者の霊がなるものだったから、反王権的性格があったのは間違いない。特に菅原道真こと北野天神はそれら怨霊の親玉になり、政府への批判の性格を鮮明にした。そして民衆は怨霊に恐怖した…のではなく、一種のフェスのように怨霊にかこつけて盛大な祭りを挙行した。怨霊に恐怖していたのは政権側だけだったのである。もちろん反政府の神である怨霊が野放しになっていては政府としては都合が悪い。そこでこれを政府側に取り込もうとする努力が行われる。合同の慰霊祭、菅原道真への位階の追贈、社殿の造営といったことが行われ、遂に怨霊は逆に国家守護という真逆の性格へと転換するのである。

神仏習合の第3は、ケガレ忌避観念の肥大化と浄土信仰の日本化が挙げられている。ここは通説とはずれていて、著者のオリジナリティを感じる部分である。ケガレと浄土信仰は平安時代中期からの神祇信仰を考える上で非常に重要な観点であり、ここで神仏習合との関係が検証されているのは慧眼だと感じた。

しかしながら、その考察は、全体的に当を得たものとは感じられなかった。例えば、著者は「ケガレ忌避観念の肥大化は、日本の中に根をおろしはじめた仏教に伍しうる日本の王権の固有の祭祀観念の樹立を意味(p.149)」するというが、果たしてそうか。要するに仏教の理論に対抗するためにケガレ理論が必要となった、という理屈だが、仏教の理論に対抗する意味もないし、またケガレ理論が仏教の理論と対抗していたことを示す史料も見当たらない。残念ながら根拠薄弱な観念論と言わざるを得ないと思う。

また、浄土信仰については、人々の他界観に大きな影響を与えたことは確かだが、神仏習合との関連はあまり明確に述べられていない。

そして第4に本地垂迹説の登場である。著者は本地垂迹説を「中世日本紀」と関連させて述べる。「中世日本紀」とは、『日本書紀』等の神話を仏教の理論を取り込んで再構築した言説群であるが、記紀神話のストーリーを仏教的・密教的に読み替えるにあたって重要な役割を果たしたのが本地垂迹説である。神の本体は仏だ、とすることにより、自由自在な神話の読み替えと作り替えが可能になったのだ。

そして本地垂迹説は、仏の方が神の世界に侵入して、神は仏の化現であると自らを位置づけるものである、として「決定的に神身離脱や神宮寺化の動きとは異なっていた(p.169)」とみる。ここは、それまでの神仏習合の発展形として本地垂迹説を位置づける言説が多い中、鋭い指摘と感じる。しかしここでも全体として、あまり根拠が提示されずに著者の思想が展開されており、正直なところ思いつきの域を出ないと感じた。

本書は全体として、神仏習合理論としては完成度が低いと言わざるを得ない。著者の一貫した視点は、社会の下部構造(生産活動や社会の成り立ち)から、上部構造である思想を説明しようというものであるが、短絡的に下部構造と上部構造を繋げているきらいがある。著者の文章はまるで快刀乱麻を切るように社会の変動から思想の変化を解き明かしているが、かえって眉唾であると感じるのだ。

なお本書は、岩波書店新書編集部から、著者の専門である「対自然関係史で一冊書いては」との誘いを受けたことをきっかけにして成ったものだそうだ(あとがき)。それは専門的すぎるからとテーマが神仏習合になったようだが、ややおざなりなものになったのは否めない。

独自の視点は面白いが、全体的には思いつき感が否めない神仏習合論。

【関連書籍の読書メモ】
『神仏習合』逵 日出典 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/08/blog-post_17.html
神仏習合の概略的な説明。奈良時代までの習合現象の説明はそれなりにあるが、それ以降は簡略すぎ、神仏習合を日本独自の優れたものとする誤解が残念な本。

『本地垂迹』村山 修一 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/12/blog-post_31.html
本地垂迹を中心として神仏習合について述べる本。本地垂迹説についての扱いは小さいが、神仏習合理論について豊富な事例で学べる本。

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