歴史人口学という学問がある。簡単に言うと、過去の人口を推計する学問である。人口は社会を表す最も基礎的なデータであるが、残された史料からの推計はなかなか骨が折れる(というかほとんどの時代で正確な推計は難しい)。 本書は、歴史人口学によって過去の日本人口の推移を述べるものである。
日本の人口増加には4つの波(増加の時期)があった。第1は縄文時代、第2は弥生時代から始まる波、第3は14〜15世紀に始まる波、第4に19世紀に始まり現代まで続く波である。この波=人口増加は、「一つの文明から新しい文明への過渡期(p.22)」を示している。
しかし重要なことは、この波やその間の人口停滞期にあっても、日本の人口は各地で増減をしており、決して一様に増えたり減ったりしたのではないということだ。
縄文時代では、前期には人口増加し、後期には人口が著しく減少する。だがその内容を見てみると、前期に増加したのは東日本が中心で、後期に著しい減少を見せたのも東日本。一方、西日本は後期にも減少した地域はないのである。これらの総計で全体のトレンドが決まっているのである。東日本での人口増加はクリなどの堅果類に支えられたものであったが、後期の寒冷化によって打撃を受けた。一方、元来照葉樹林帯で堅果類が少なかった西日本では、イモ・豆・雑穀などの焼畑農業の受容によって徐々に人口が増加したのである。
各種の推計に拠れば、弥生〜奈良には人口増加する。この時、西日本の人口比重が著しく高まった。この人口増加は、言うまでもなく稲の栽培によってもたらされたが、意外なことに4〜7世紀は古墳寒冷期と呼ばれる低温期にあたっていた。この人口増は10世紀には成長が鈍化して停滞した。しかし東日本では相変わらず増加が続いて、再び東日本が西日本人口をしのいだ。なお8世紀初期の人口増加に歯止めをかけたのは天然痘の流行だったと考えられる(ファリス)。
律令時代には戸籍がつくられ、初めての人口調査が行われた。また課税台帳も残っているため古代の人口はかなり正確に求められる…と思うのは早計で、完全な史料がないだけにやはり推計は難しいが、鎌田元一の推計よると、平安時代の全国人口は451万人である。しかし水田に依存しない集団の人口はこれには含まれない。
11〜12世紀は気候が温暖になり植物の生育に好ましい気候となる。「国風文化の成立期が、温和な10世紀、高温湿潤の11世紀であったことは無関係ではないだろう(p.67)」。だが11世紀からの数世紀は全国的な人口調査が行われていない空白期にあたる。再び人口調査が行われたのは、江戸時代の1721年であった。
そのため、第3の波の具体的な様相はよくわからない。本書では第3の波の開始についてはほとんど触れていない。
代わりに詳細に述べられるのが、その最終局面である江戸時代初期=17世紀の人口増加である。江戸時代には、戸籍のような役割を持つ宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)が作成されたので、多くのことがわかるのである。それによれば、17世紀の人口増加は、世帯規模と世帯構造の大きな変化を伴っていた。
すなわち、世帯規模が縮小し、それまで世帯を構成していた隷属農民が少なくなった。これは、小農経営を基盤に据えた豊臣秀吉・徳川家康の政策の影響もあるが、荘園制の後退や貨幣経済の進展でそれぞれが利潤を求めて行動した結果という側面が大きい。ともかく有配偶律が低い隷属農民が減り、未婚のオジ・オバがいなくなったことで、生涯独身率の低い「皆婚社会」になったのである。さらには15〜17世紀の衣食住全般の生活水準向上によって死亡率も改善した。
18世紀には人口停滞期に入る。なぜ18世紀の人口は停滞したのか。従前、重い貢租を課された農民の間で堕胎・間引きが行われたことや、度重なる飢饉と流行病がその原因とされてきたが本当なのか。しかし地域別の人口増減を見ると、西日本ではむしろ人口増加している地域も多い。特に四国や南九州、山陰・山陽などは人口増加率が大きい。これらが幕末に活躍する雄藩の立地地域であることは偶然ではないのだろう。つまり、いろいろな地域のプラス・マイナスの総計で見かけ上人口が停滞しているように見えるといえなくもない。
しかしながら、日本全体を平均すれば人口は停滞していたのも間違いない。その原因は何か。第1に、都市に人口が集積したことがある。都市は高い死亡率と低い出生率によって、人口減の要因を作った。都市は「一種の蟻地獄」だった。第2に、堕胎や間引きなど人口が増加しないようにする方策が確かに行われていた。では農民が貧しかったというのは事実なのか。
ここで本書では、宗門人別改帳からわかる江戸時代のライフヒストリーを分析している。これはなかなか面白く、例えば下層農民の女子は結婚が遅かった(出稼ぎ・奉公人をするため)などというのは示唆的である。また江戸時代は離婚が多く、5年以下で結婚が終了(死亡も含む)した夫婦が4分の1もいた(信濃国湯沢村の場合)。そして俗に「貧乏人の子だくさん」というが、江戸時代は逆で、土地を多く所有する家ほど出生数が多かった。
しかし江戸時代が総じて多産だったのは本当で、それは死産や乳幼児の死亡率が高かったからである。なお女性の産褥死も多かったので、平均寿命は女性の方が短かった。こうした様々な要因から導かれる、人口維持をはかるのに必要な夫婦あたりの出生数は、4人強となる。これは簡単そうに見えるが、全ての人間が結婚し子どもをもうけるわけではないので完結家族の出生数はもっと多く、人口維持は簡単ではなかった。そして先述の通り下層農民では女子の結婚も遅く出生数が少ないので、結果として地主層における人口増大、それ以外の層での人口減少となった。
死亡率については、飢饉の年などの異常な年では高かったが、いつでも高いというわけではなかった。季節で見ると旧暦5月を中心に春から夏にかけて死亡の山があった。これは夏季の食中毒と、食物の端境期だったためである。痘瘡や麻疹の流行も死亡率を高め、特に幕末には流行が集中した(痘瘡(1838〜39)、麻疹(36〜37)、風疹(35、36)、流行性感冒(31、32)など)。特に安政(1858)のコレラの流行は、江戸の住民の4分の1が死亡するほどの大危機だった。
こうした中、農民の堕胎や間引きはどうして行われたか。実は間引きは下層武士のあいだでさえ行われており、貧窮は真の原因ではなかった。その家族構成を分析してみると、それは将来の生活水準の維持・向上を目的として行われたらしいことがわかったのである。
第4の波については、工業化の結果ではなくその半世紀ほど前の幕末から始まっていた。それは化政期にあたっていたが、その人口増加のメカニズムは、楽観的な将来予測が広まったことにあるという。そして明治時代になると、生活の向上による出生率の増加と堕胎・間引きの減少によって人口増加した。しかし1920年代には人口の近代化が始まり、郡部でも出生率が低下するとともに都市部の死亡率が下がった。1960年代には低死亡率・低出生率の社会となった。
こうして、女性が長い出産・育児の期間から解放されたことは革命的な意義がある。江戸時代の夫婦は子どもを産み育てることに人生の多くが費やされ、老後と呼べる期間はほぼなかったのであるが、今は逆に子どもを育てた後が非常に長くなった。寿命が延びたことは好ましいが、親の面倒を見る期間が長くなったことは負担も増やしている。
本書は終章として「日本人口の二十一世紀」と題し、人口と文明システムについて述べている。著者は4度の人口の波を4回の文明システムの転換を示していると考える。そして歴史人口学の視点から現代の社会を見て、少子化や人口減少は必ずしも悲観的なものではなく、近代日本の新しい人口学的システムが形成されつつあると前向きに捉えている。ただしこの章の内容は、21世紀がほぼ4分の1を過ぎた今、やや楽観的すぎたように感じられる。
なお、私が本書を手に取ったのは、8世紀から10世紀の人口動態(特に飢饉や疫病による人口減)に興味があったからなのだが、その時代はちょうど何も書いていない空白の時期だったので少し残念だった。しかし全体としては面白く平易で、内容は興味深かった。
江戸時代を中心として、日本の人口の増加と停滞を概説した良書。
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