2024年1月5日金曜日

『修験道史入門』時枝 務・長谷川 賢二・林 淳 編

修験道史の研究状況を整理した本。

修験道史は、仏教に比べ非常に人気のない研究分野である。修験道とは何か、といった基本的な事項すらも、十分にわかっているとは言いがたい。しかし近年、若手による新しい視点の研究も出てきた。そこでこれまでの研究状況を整理して見通しをよくし、修験道史研究がより盛んになることを期待して編まれたのが本書である。

第Ⅰ部 修験道史研究の基礎

「第1章 修験道研究の前夜」(林 淳)では、「修験道」が客体化されるまでの経緯を述べる。

近世の修験道は、大まかには本山派(=聖護院門跡を戴く)と当山派(=醍醐寺三宝院門跡を戴く)があるが、本章は当山派の動向をキーにして「修験道」が現代にどう生き残ったか、あるいは再構成されたかを述べている。醍醐寺は古義真言宗の寺院であるが、近世においては新義真言宗の寺院も醍醐寺・仁和寺・大覚寺などの古義寺院において「事相の法流」を相承する必要があった。要するに、新義寺院は古義寺院の傍流として位置づけられ、本末関係に緊張を孕んでいた。それが明治政府の神仏分離政策と管長制などで表面化する。

明治20年(1887)、醍醐寺が寺法を制定し、新義寺院に一寺あたり20円の寄附を募ったことがきっかけで新義寺院が反発。明治27年、醍醐寺末の新義寺院がまとめて智山派(真義真言宗、智積院末)に転派した。しかしこれに異を唱えたのが同じく新義真言宗の豊山派(長谷寺末)。智山派も豊山派も、醍醐寺に報奨金(裏金?)を渡していたというスキャンダルがあり事態が昏迷(=醍醐寺離加末事件)。結果、ほとんどの醍醐寺末の新義寺院が智山派・豊山派に転派してしまい、醍醐寺末に残ったのは僅か160ヵ寺ほどであった。

こうして結果的に、醍醐寺では残った修験者が最大の経済基盤になってフォーカスが当たり、明治34年に醍醐寺に「修験部」が創設、後に「恵印部」となり、「本当山派の修験者が、醍醐寺の山内のなかで格上げされて、事相を相承される立場となった(p.16)」。

そして修験者側でも、この流れに棹さした。円覚寺の住職だった海浦義観らは明治41年に雑誌『神変』を創刊。大正11年創刊の『修験研究』にも関わった。これらの雑誌によって醍醐寺派の寺院の間で情報共有が可能になり、教学・儀軌の書物が収集・公開された。また中野達慧(本願寺派)の『日本大蔵経』に「修験道章疏」が採録されたことも追い風になった。こうして海浦らによって大乗仏教に修験道が位置づけられていった。

こうした状況に、明治時代末からの神社・寺院の整理(いわゆる神社合祀問題)が意外な面から影響を与えた。醍醐寺の恵印部でもこれを受けて寺院整理を進めた。修験寺院の場合、世襲的に相続されてきた小寺院が多かったためか、大正8年、恵印部寺院768ヵ寺が真言本宗へ編入された。こうして醍醐寺に最後に残ったのは、俗人の修験者であった「一世僧(寺院を持たぬ修験者)」であった。「修験道を活性化させたのは、この一世層の活躍だった(p.25)」。

彼らの活躍が柳田国男(『修験研究』の購読者だった)の民俗学や、宗教民族学の先駆者である宇野圓空に注目され、修験道こそが「民族化された仏教」であると発見され、修験道研究が進んでいくのである。

本章はたいへん興味深い視点を提供している。はっきりとそう書いているわけではないが、近代の修験道を担ったのは、傍流中の傍流だった。彼らが遡及的に「修験道」を形成したという視点に立てば、そこにある種のバイアスがなかったとは言い切れない。修験道は古代から継承されたものではなく、近代になってから創造されたものだという側面がありそうだ。

「第2章 修験道研究の歩み」(長谷川 賢二)では、修験道研究の歴史を概観している。修験道研究にとって画期的な業績だったのは和歌森太郎の『修験道史研究』(1943)で、史料の博捜の上に立つ実証的な修験道史が初めて編まれた。戦後は堀一郎や高瀬重雄、村山修一が修験道史に取り組み、神仙思想や陰陽道といった思想的要素が修験道史に取り入れられた。

民俗学の立場からは、五来重が庶民信仰研究の一環として修験道史を研究。五来は修験道を原始宗教として称揚した(が、その立場は現在では一般的ではない)。宮本袈裟雄も民衆宗教の観点から「里修験」に注目して『里修験の研究』(1984)をまとめた。

また、『山岳宗教史研究叢書』(第1期、第2期)がまとめられるとともに、宮家準編『修験道辞典』が刊行された。特に宮家準は修験道研究を集成・集約化して、膨大な著作をまとめた。その見解では「修験道は、日本古来の山岳信仰を基礎とし、シャーマニズム・仏教・道教・神道などの影響をもとに平安時代後期にできあがった宗教体系(p.43)」とまとめられる。

ちなみに、戦後歴史学においては黒田俊雄の顕密体制論は修験道史研究にも大きな影響を及ぼした。黒田は顕密仏教のあり方の一つとして修験道を捉え、修験道への新たな視角をもたらした。

それまでの研究は古代から中世がメインであったが、近世・近代の修験道の研究の端緒を開いたのが高埜利彦『近世日本の国家権力と宗教』(1989)である。しかし近世の修験道史はままだまだ未開拓な部分が大きい。

「第3章 修験道史料と研究方法」(時枝 務)では、修験道史研究に用いることができる各種史料について述べている。しかし具体的な史料への整理までは至らず、著者自身「おもに史料の種類と性格の概要を述べるに留まった」としている。

第Ⅱ部 修験道史研究の諸問題

「第4章 修験道の成立」(徳永 誓子)では、修験道の成立について再考を催している。修験道は7世紀末に生存したとされる役小角(えんのおづの)を始祖とするが、これはとうてい史実ではありえない。『日本霊異記』の記載でも小角が修験道なる一宗派を開いたとは書いていない。通説では修験道が成立したのは平安時代とされるが、「修験道」という言葉が使われるのは、平安時代から数世紀後である。「修験道」をどう定義するかも、その成立を考える上では重要である。

五来重は、修験道に原始性を見出していたため、それを古来から続くものと考え、平安期にいわゆる「修験道」が成立したと考えたが、それを組織編成へと向かう形骸化の時代だと捉えた。

宮家準は、修験道を「諸霊山で修行して験を修め、それを用いて呪術的活動をする宗教」と定義してその成立を中世初期とした。これは、大峯・葛城・熊野など中央霊山の伝承をまとめた『諸山縁起』の成立によるものである。

五来と宮家の立場は異なるが、彼らに共通するのは修験道を「日本固有の宗教」と位置づけ、そこに国家から捨象された民衆的なるものを見出している点である。

ここで著者は、顕密体制論から考える修験道の見解を表明している。「修験」の初出は『日本三代実録』貞観10年7月9日条。山岳修行で得られる験力を指す言葉だった。これに「道」が付くのは13世紀。この「修験道」の成立は13世紀末〜14世紀である。それは顕密仏教の一分野であり、「顕密仏教の内部で自身の独自性を強調されるために確立された概念だと考えられる(p.87)」。

そもそも、古代中世において山伏(この言葉は本章において定義されずに使われている)のみで構成される寺社は多くなく、むしろ学侶や衆徒などと称される者が経営の主体を担っていたとみられる。また多くの山伏は密教僧・顕教僧としても活動していた。さらに特定の山岳を冠する「○○修験」といった存在があったのかどうか。例えば「熊野修験」などというが、非常に曖昧な概念である。このような根本的な概念への疑問を呈したのち、著者は「極言すれば、修験道とは庶民信仰と言われるものの上層を覆っているのではないだろうか(p.91)」と述べている。第5章の主張と細かい点で齟齬はあるが、エキサイティングな論考である。

「第5章 山伏集団の形成と諸相」(長谷川 賢二)では、山伏という存在について顕密仏教の立場から論じている。

まず、山伏は「山林修行を専業とする聖を、次第に限定的にとらえて(p.96)」いうようになった語であるとする。これは修験者とどう違うか。

顕密仏教では、寺院は哲理を究明する「学侶」、僧に仕える身分である「堂衆(どうしゅ)」、世俗的実務を担った「行人(ぎょうにん)」、という、大まかに3階層で形成されていた(名称は寺院によって異なり、役割分担も様々)。大学に譬えれば、学侶=教授、堂衆=講師・技術者、行人=事務職員とでもなるだろうか。言うまでもなく、学侶が寺院の上位を形成していたが、学侶たる顕密僧(正式に得度・受戒し、国家から認められた僧侶)も修験の修行を行っていた。

一方、興福寺や東大寺の堂衆が「山伏」としての活動を行っていた。僧侶社会においては山伏は傍流的存在であり、社会的地位が低かった。というより、寺院社会の主流である学侶クラスへの対抗的な意図を持って「山伏」という概念が形成されたのかもしれない。つまり、中世後期に、堂衆・行人クラスの寺院下層部が、霊山等での修行を先導するという寺院外の行動に活躍の場を見出し、自らを「山伏」と規定して集団化していったと考えられる。その背景には鎌倉時代後期の戒律復興運動や遁世僧集団の形成といった趨勢もあった。

こうしたことから、「山伏の結合組織には、宗派や本末関係を超えたネットワーク(p.106)」があり、当山派・本山派のような修験道組織に収斂しきれない可能性があったといえる。

「第6章 本山派」(近藤 祐介)では、修験道本山派の成立と展開を述べる。

本山派とは、「聖護院門跡および聖護院門跡を本山(棟梁)とする山伏身分集団によって形成される組織(p.109)」としている。

まず、中世後期に山伏集団に自律的な集団形成の動きがあった。14世紀末には、熊野三山検校による熊野三山の支配が展開。そして熊野三山検校職は聖護院の再興をきっかけに聖護院門跡が相承するようになった。熊野本宮・那智大社の実質的な運営を担っていたと考えられる諸職は聖護院門跡が任命している。15世紀からは聖護院門下として熊野三山奉行職を担った若王子と乗々院による熊野先達職補任が行われ、16世紀後半になるとその支配が直接聖護院門跡に移行した。

和歌森太郎は15世紀に本山派が成立したとしたが、15世紀には聖護院は若王子・乗々院に支配を委ねており、熊野先達(在地山伏)との関わりは間接的である。室町期の聖護院門跡の活動は熊野三山領などの荘園や公武祈祷における供料で支えられていたと考えられ、全国の山伏を編成しようとする動機も乏しい。 

ところが16世紀初頭、聖護院門跡は5年間だけ熊野三山検校職を失った。これにより熊野三山領の荘園の領有まで否定されてしまう。この経済的打撃を受け、聖護院門跡道増は熊野先達のみならず各地の山伏を編成し、彼らの身分と宗教活動を保証する代わりに役銭を納入させることにした。結果、若王子を廃して聖護院門跡が各地の山伏に直接令旨を発給する体制になった。

では山伏の側が役銭の納入に応じたのはなぜか。例えば関東では、鎌倉公方護持僧として幕府の庇護を受けた月輪院が「関八州」の山伏組織を率いていた。ところが鎌倉幕府が崩壊して状況は一変。また山伏の側でも、15世紀末頃から祈祷活動や祭祀などを村落へ定着して行うようになっていく。このような状況を受け、新たな宗教的上位権威である聖護院門跡が必要とされたのである。というのは、戦国期には自身の獲得した「霊場」や檀那をめぐる山伏同士の競合関係が生じ、紛争が発生していたからだ。

そして山伏側では、この状況を利用して勢力を拡大しようと目論む者が現れ、聖護院門跡と結びついた不動院(幸手)・玉瀧坊(小田原)によって関東の山伏が統括された。領域的に檀那・同行(末端山伏)の支配を認める「年行事職」へ補任される体制が登場し、本山派が成立した。

豊臣政権では聖護院門跡は大仏住持(方広寺別当)を務めるなど重んじられており、在地山伏編成は豊臣政権の後ろ盾で行われた可能性もある。しかし江戸幕府が成立すると、金襴地袈裟の補任権をめぐり聖護院門跡と醍醐寺三宝院門跡の間で相論が起こって本山派と当山派の対立が激化。慶長18年に修験道法度が出て、本山派・当山派がともに別格とされ、本山派による山伏の一円編成が否定された。そこには聖護院門跡を弱体化させる政策的意図があったと考えられる。

しかし、ともかく修験道本山の地位が公認されたことで山伏の組織化が進み、門跡ー院家ー先達ー年行事ー同行、といった寺格からなる上下統属関係(本末体制)や触頭制度が整備され、17〜18世紀には山伏の身分集団化が進展した。

そのような中、17世紀半ばに、他宗との相論で山伏による葬祭活動が禁止された(祭道公事)のは注意を引く。また元禄期には、期限付きながらも入峰修行の不参が容認されるなど、組織統制が後退。その背景には同行たちの経済的困窮がある。近世後期には村落住人からの加持祈祷などの依頼が減少したのか、行人たちには上洛や修行・補任にかかる諸費用がまかなえなくなっていた。そして明治政府による修験道廃止令によって本山派は解体された。

「第7章 当山派」(関口 真規子)では、当山派の歴史を通史的に述べる。

当山派とは、「聖宝を流祖と仰ぎつつ、吉野大峰での苦行(斗藪)に勤め、17世紀初頭から京都の醍醐寺三宝院門跡を棟梁と仰(p.131)」いだ修験集団である。

しかし、三宝院門跡による修験支配を受ける前のプレ当山派は、主に興福寺堂衆によって統率されていたと考えられており、本章では関口真規子の整理に従って、「特定の棟梁を戴かず先達衆の自治で組織を運営した当山派を「当山」方、三宝院門跡を棟梁に据えて本山派と比肩してからの当山派を「当山」派として区別(p.132)」している。(ちょっとわかりづらい用語である。)

さて、中世の興福寺では、戒律復興の流れから堂衆たちが山林抖擻を務めるようになったが、それには「当行(とうぎょう)」と「入峯」の2形態があった。「当行とは、南都諸大寺に近接する春日山で夏と冬の年に二回行われる斗藪(p.134)」で、樒を切り出す作業であった。入峯とは、大峯での花供・逆峯修行で、堂衆の最上位である堂司への昇進に不可欠な行である。しかし南北朝期には当行・入峯の意義は弱体化し形骸化した。一方、「堂衆に率いられて入峯を勤めた集団は、所属寺院の本末関係や寺格よりも入峯度数の多寡を最重要視するように(同)」なって、堂衆から独立した修験者集団となった。これが「当山」方である。

だが、「当山」の語は1465年の史料に見いだせるものの、「当山」方成立の正確な時期は不明である。「当山」方は先達衆と呼ばれる集団によって運営され、これは大和国を中心に畿内・紀伊・伊勢に分布する寺院に属する修験者からなった。 彼らは師資関係を「袈裟筋」と呼び、毎年7月6日から行われる逆峯の折りに臈次(年次)に従って順次昇進し、役職を上り詰めたら「前官」として「当山」方から退いた。なんだか官僚制を思わせるシステムである。なお同じ寺院(真言宗が多かった)に止住する修験者が先達職を継承することで先達衆が維持されていたが、宗派との関連は自明ではなく、「当山派すなわち真言系修験者集団」といえるのかどうか議論は尽くされていない。

彼らは先達衆の自律的な運営によって成長したが、「先達衆寺院」である内山永久寺の院主上乗院を仰いで入峯することもあった。しかし「第6章 本山派」で述べたように、聖護院門跡は、修験者の身分と宗教活動を保証する代わりに役銭を納入させようとした。「関東真言宗」と称する寺院の集団は「註連祓」の執行をする際に聖護院門跡から役銭を課されたのを不服として徳川方へ訴え、訴訟の中で三宝院門跡の擁護を仰いで、「註連祓は真言宗として行うものなのだから他宗の聖護院に役銭を納めるのは理不尽だ」として認められた。

三宝院門跡は、中世の聖宝が山林修行を行って開山したとされるが、門跡の義演は聖宝以来断絶していた入峯を遂げる意志を示して「当山」方の修験者との関係は急速に進展。慶長7年に金襴地袈裟着用の許可を「当山」方修験者へ与えることで、「当山」派棟梁となっていった。なお義演はこの時点では入峯の経験がなかったが、聖宝の正嫡であったことが正統性を担保したとみられ、徳川家康から修験道法度によって当山派が認められたことを「再興」と記している。

こうした経緯から、「当山」派は真言宗の性格を強く持ったが、真言宗の本末関係が「当山」派形成にどのような役割を果たしたかは不明である。先達衆は棟梁を仰ぎつつも、自治体制の維持を図っていた。

寛文8年(1668)、三宝院門跡高賢は幕府の許可を得たうえで、同門跡として初めて入峯し、「当山」派の棟梁としての立場(修験道之管領)を確立した。また教義の側面でも整備が勧められ、聖宝を祖とする「恵印流」が創設された。なお三宝院は修験道支配の実務を鳳閣寺を仰せつけ、鳳閣寺と正先達衆による二元支配となった。正先達衆は、「幕末に至るまで袈裟筋を維持しながら、衆として補任状を発し、棟梁とは異なる系統の「当山」派管理をおこなった(p.149)」。

「第8章 羽黒派」(高橋 充)では、羽黒派の歴史と研究状況をまとめている。羽黒派とは出羽三山を主要な活動の舞台にする修験道の一派である。出羽三山は、一般的には月山・湯殿山・羽黒山を意味する。

11世紀末までに出羽三山への山岳信仰に仏教的な意味づけが与えられ、12世紀~16世紀末には初期出羽三山(羽黒山・月山・葉山)が成立し山岳修行が行われたが、まだこの頃は三山を統括する組織は存在しなかった。17世紀初めごろまでに新出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)が確立。これは湯殿山寂光寺の主導であったようだ。さらに江戸時代になると、修験道法度によって本山派・当山派のどちらかに所属しなければならなくなったことで羽黒山と湯殿山が対立。寛永・寛文の相論で湯殿山が分離し、湯殿山は真言宗、羽黒山が寛永寺末となって分離した。

本章では羽黒山をめぐる美術史・考古学・建築史・歴史地理学などがまとめられているが、本メモでは割愛する。ただ、羽黒山の鏡ヶ池から発見された大量の銅鏡については興味深い。

「第9章 彦山派」(櫻井 成昭)では英彦山をめぐる修験道の歴史と研究が概観されている。彦山派は、福岡と大分県の県境にある英彦山を中心とした修験道の一派である。なお英彦山は霊元天皇により享保14年(1729)に英の字を冠することを許されて「英彦山」となっており、その以前は「彦山」である。

彦山で山林修行をする宗教勢力が出現したのは古く、嘉保8年(1094)に「彦山大衆」による蜂起が起きている。彦山は宇佐八幡宮とその神宮寺である弥勒寺と結びつき、天台宗の影響もあったようだ。12世紀には宇佐八幡宮・国東六郷山・求菩提山・彦山など北部九州の山岳霊場にネットワークがあったらしい。そして12世紀には彦山に如意宝珠が所在したという縁起が語れるが、これは王権との結びつきも窺わせ、養和元年(1182)には、後白河院が新熊野社を建立したことに伴って、彦山が同社に編入された(!)。

なぜ新熊野社に編入されたのかは詳らかでないが、これにより宇佐八幡宮から独立し、一つの「荘園」として成立したとみられる。中世になると、元弘3年(1333)に、後伏見天皇の第6皇子である助有法親王が「彦山座主」になった。これは以後世襲座主となる。彦山は天皇家と結びつき、一種の門跡を戴いたことになる。

16世紀には阿吸坊即傳による印信(師資相承の証)が作成されて彦山流として一派を名乗るようになった。江戸時代の彦山は「衆徒方(仏事を担う)」「行者方(修験行事を担う)」「惣方(神事を担う)」の3つの集団で構成されていた。修験道法度への対応では、本山派・当山派のいずれへの所属も拒否し、寛永寺(天台宗山門派)などの助けにより、元禄元年(1696)に、本山派・当山派のいずれからも干渉されない別山として認められた。「江戸時代、彦山は多くの坊を有し、宝永7年(1710)には山内の人口は3000人をこしたという(p.186)」。

「第10章 里修験の活動と組織」(久保 康顕)では、里修験について概説している。里修験とは、祈祷やまじないなどの呪術的活動を行いながら村の一員として定住して活動した修験者のことを指す研究上の用語・概念である。この概念は、民俗学者の宮本袈裟雄『里修験の研究』で提唱された。

そのような概念が必要となったのは、それまでの近世の修験道への軽視があった。特に山林修行をすることもなく、村で迷信的呪術活動に従事する修験者は、堕落した存在とみなされ、研究するまでもないと思われていた。しかし宮本はそうした修験者が広範な宗教活動をしていたことに注意を促したのである。これにより、宮家準は修験道の真実の姿は、「末端修験者の呪術的宗教活動にこそ求められるべき(p.192)」と里修験を評価した。

とはいえ、里修験の実態は、未だによくわかっていない。まず、彼らはどのような組織の中で位置づけられたか。近世の修験者は本山派か当山派に所属したが、近世初期には「両派間における里修験の帰属をめぐる争いが顕在化(p.193)」したばかりでなく、しばしば吉田家との間にも起こっていた。里修験は呪術活動の傍ら、地域の小祠や鎮守などの管理・祭祀を担っていたからだ。里修験を修験者と見なすか、神職と見なすかは当時の人にとっても自明ではなかった。吉田家は神事や神楽を勤めているなら吉田家から許状を取得するべきだと主張していた。

一方、本山派と当山派には支配の形態に違いがあった。本山派は「霞支配」といい、領域的に組織化されており、先達や年行事と末端修験の間に師弟関係や教学伝授は必須ではなかった。一方当山派は、「袈裟筋支配」といい、師弟関係に基づいた支配であった(実際に師弟であったのではなく、便宜的な関係だったかもしれない)。しかしいずれにしても、身分は農民で、宗門人別改では一般仏教寺院の檀家として登載された。つまり身分は俗人であり、修験寺院所属でもなかった。里修験はとらえどころがない。

著者は里修験の存在そのものに対し、「しかし実際には定着の様相を示す明確な史料は見当たらず、実証されていないのが実情(p.204)」と述べ、陰陽師などを含む「種々の民間宗教者が、霞という枠組によって修験者へと追い込まれていった可能性を否定できない(同)」と意味深なことを述べている。

つまり、そもそも里修験という概念自体、後世の附会かもしれないのだ。私自身、里修験は山林修行をしていないのに、その験力の源泉は何だったのだろうかと疑問が湧いた。里修験は、修験者と呼べるのかどうか、先入観にとらわれずに検証していくことが必要である。

最後に、本書では「必読文献案内20選」として、修験道研究の基盤となる本が案内されているがここでは割愛する。

備忘

通常の読書メモの場合はここで終わるが、私自身の備忘のため、以下では修験道の歴史について理解したことを、スケッチしてみたいと思う。なお「修験道」という用語は、ここでは「現代の修験道に連なる思想・集団」という広義の意味で使う。

まず、修験道のことの起こりは、古代末期から中世の顕密仏教の在り方にある。顕密仏教(南都六宗+密教)では、寺院内の立場は出身の家格とリンクし、貴族でなければ学侶として出世できない仕組みになっていた。堂衆や行人は得度する機会を得ることも簡単ではなく、行人→堂衆→学侶と昇進が可能なシステムではなかった。

ところで、戦乱や飢饉・疫病に対していくら顕密僧が祈祷してもその効果はなく、それどころか治承4年(1181)、東大寺や興福寺が焼け落ちるという南都焼討が起こった。こうしたことから顕密仏教の無力が露呈し、仏教の改革が必要だと感じた人々によって戒律復興運動や鎌倉新仏教の動きが起こってきた。そのような中で寺院内での出世が望めない堂衆や行人は、戒律や修行の重視という趨勢を捉え、山林修行という寺院外の活動に生きがいを見出したに違いない。これが修験道修行の始まりだったとみられる。

つまり彼らにとっての修験道とは、一種の業務外活動であったのではないだろうか。今でいえばサークル活動や組合活動、副業にあたるものだろう。当山派が年次と入峯回数によって昇進していくシステムを整えたことは、彼らが「本業」で昇進が望めなかったことの裏返しのように思える。そして修験道が、宗派や本末関係とは別のネットワークを持っていたこともそれが本業以外の活動であったことを示唆する。

ただし、当山派においては、当行や入峯が南都寺院の活動として位置付けられており(本書第7章)、業務外活動とはいえない。堂衆たちは、あくまで自身のキャリアに箔をつけるために修験道の修行をしたような形跡がある。しかし堂衆たちに率いられた行人などのクラスにとっては、どうせ昇進できない寺院での仕事に勤しむよりも、山林修行の方をメインに据えた方が有利だと感じたのではないだろうか。当時の山林修行は多くの人にとって魅力があり、その先達(山岳ガイド+儀礼指導のような存在)となれば収入が見込めたと考えられるからである。

しかしながら、そうした活動が業務外活動だったとすると、雇用者(寺院)から快く思われないのは当然である。何しろ、入峯修行にはかなりの日数を要したに違いない。休暇のような制度があったとも思えるが、山林修行がメインになってくると寺院を退職せざるを得ないであろう。こうして山林修行者がフリーランス化して、「山伏」が生まれたのだと思う。

とはいえ、フリーランスの生活が厳しいのは今も昔も同じである。よって、顕密仏教とつかず離れずで山伏をしていた者も相当数いると思われる。例えば「関東真言宗」と呼ばれる存在はそういうものだろう。そして彼らは、山林修行の権利や職務を保護してくれる存在を頼るようになり、次第に上位権力が形成されていった。労働組合運動が、全国組織へ接続していくようなものだ。

そうして行きついたのが門跡という近世における最上位権力であったと言える。すなわち、聖護院門跡や醍醐寺三宝院門跡が、それぞれの山伏の宗派とは微妙なずれを抱えながらも庇護者となった背景には、今でいえば本社ー子会社のような関係ではなく、労働組合ー県連合会ー連合のように、社外の関係に基づく力学があったのであろう。ここまでが15世紀ごろまでの話である。

そして近世権力によって、全ての山伏が全国組織に統括されていくことになる。そのきっかけは聖護院と三宝院の勢力争いだったと思われるが(というのは、修験道法度は寺院法度よりもだいぶ早く出されている)、戦国時代までの曖昧な状況から一転して、強固な身分制が形成されていく中で、フリーランス山伏たちが身分的に安定した状態を必要としたという事情もあったと思われる。

ここで一つ疑問なのは、「修験寺院」という存在である。本書ではこの用語は定義されずに使われているが、修験寺院とはいったい何なのか。例えば出羽三山には羽黒山寂光寺があったが、近世以前は真言宗であったといい、後に天台宗になった。また彦山の山頂には霊仙寺があり、これは天台宗だった。つまり修験宗という宗派の寺院はなく、真言宗や天台宗の寺院を便宜的に「修験寺院」と見なしているように思われる。

山林修行を中心とした活動が行われている寺院でも、真言・天台の枠組みの中で存在しているのである。そもそも「修験道」なる「宗教」が近世以前にあったということ自体が疑わしい。修験道は、仏教の枠組みの中での「あり方」の一つだったと考える方がよいように思う。あるいは、現代の組合活動のように、本業とは異なるレイヤーの存在だとみなした方がよいのか。

明治政府の神仏分離政策では、唐突に「修験宗廃止令」が出されているが、これ以前に「修験宗」があったのか、なかったのか。むしろここが「修験道」の出発点で、遡及的に「修験道」という「宗教」が発見されたのではないか。本書を読んだだけでは、そのあたりは詳らかでない。しかし、「修験道は自明のものでない」という刺激的な観点を本書は提示している。

私は10年以上前に、和歌森太郎『修験道史研究』、宮家準『修験道』を読んでいるが、その時は疑いもしなかったことが本書では次々と問題提起され、顕密仏教からの視点で描く修験道史は全く新鮮で蒙を啓かれる思いであった。

修験道の研究と歴史を批判的に総合した本。

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