2024年1月26日金曜日

『神武天皇の歴史学』外池 昇 著

神武天皇が近世・近代にどう扱われたかを述べる本。

本書のタイトルは「神武天皇の歴史学」であるが、神話のなかの存在である神武天皇の「歴史学」とは何か。それは、近世・近代に神武天皇がどう扱われたのか、つまり神武天皇をめぐる歴史を叙述するというものである。

その中心は、陵墓の扱いである。神武天皇陵は、近世まではどこにあるのかもわからず、簡単に言えば放っておかれていた。そもそも神武天皇は神話の登場人物なのだから陵墓が存在すること自体が不自然だが、近世には多くの人が天皇陵の研究を始め、特に神武天皇陵については政治的な課題ともなって考証が進められた。

そうした考証の中で、神武天皇陵の候補は3つ形成された。第1に、幕府が元禄時代に修陵事業を行った際に神武天皇陵として整備した「塚山」である。第2に、本居宣長、竹口栄斎、蒲生君平らが主張した「加志(または「カシフ」)」または「丸山」である。彼らは「塚山」が『古事記』の記述に合わないことなどから、幕府の説を退けた。国学者らの一致した共通見解がこの「加志・丸山」説であった。そして第3に、「神武田(ミサンザイ)」である。ここには、神武田(シムタ)、そしてミサンザイ(ミササギ=陵の転か)という意味深な地名が残されていた。

水戸藩主の徳川斉昭は、こうした状況を受け、さらなる修陵事業を進める建白を行った。その建白の中では、現に神武天皇陵として扱われている「塚山」は眼中になく、神武田の方を本当の神武天皇陵として整備したいという意向が明白だった。しかし斉昭は安政の大獄で失脚して政治の表舞台から去り、その意向が実行に移されることはなかった。ただし一説によれば、後述する宇都宮藩の間瀬和三郎らに修陵事業の引継ぎを持ち掛けたともいう。

奈良奉行だった川路聖謨(としあきら)は、奈良奉行在勤中の日記『寧府紀事』に山陵のことを書き留めた。その日記では、神武田には、そこの草を刈り取って牛馬に与えると神罰が下るという地元の伝承があることを述べるとともに、宣長説(丸山説)を批判した。彼は神武田が真の神武天皇陵なのではないかと考えつつも、幕府の人間として「塚山」を神武天皇陵として扱わないわけにはいかず、「塚山」との併存状態を是認していた。

実際、幕府が神武天皇陵としていたのは「塚山」だったが、この頃は「神武田」の方が事実上の神武天皇陵として扱われる場面が出てきていた。

孝明天皇も、嘉永6年(1853)、明らかに神武天皇陵の「神武田」への変更を念頭に置きつつ、神武天皇陵での祭祀の意向があることを武家側に伝えていた。この「孝明天皇の意思の発露を神武天皇陵をめぐるひとつの画期(p.90)」だと本書は見ている。

幕府はこれに機敏に対応したのではないが、なにもしないわけにもいかず、奈良奉行所は神武天皇陵の調査を行った。それを担当したのが奈良奉行所与力の中条良蔵であり、その報告書が『御陵幷帝陵内歟与御沙汰之場所奉見伺書附』(以下「書附」)である。私は神武天皇陵をめぐる治定の動向は概略的に知っていたが、この中条良蔵の登場には驚いた。彼は、国学者でもなく幕府の要人でもない。だが、現地調査と文献調査によってそれまでの神武天皇陵説を検証し、特に本居宣長や蒲生君平、そして北浦貞政『打墨縄 大和国之部』などで主張された「丸山」説を強く否定し、「書附」において「神武田」を神武天皇陵とすることを確定させた。これが安政2年(1855)のことである。しかし幕府としてはこの報告書に基づいて速やかに「塚山」から「神武田」に変更したのではない。

これが変更されたのは、いわゆる「文久の修陵」によってである。これは「書附」から7年半後の文久2年(1862)閏8月に行われたもので、宇都宮藩の建白に基づいて行われた歴代天皇陵の修陵事業である。間瀬和三郎がこの事業のプロジェクトリーダーだった。ここで、これまで政治課題だった神武天皇陵だけでなく、歴代天皇陵に対象が拡大した。その意味は詳らかでないが、「この「建白」は、幕末期における歴代の天皇陵をめぐる動向における極めて大きな転換点(p.126)」となった。

「文久の修陵」で陵墓の位置を考証したのが谷森善臣で、彼はやはり本居宣長らの「丸山」説を強く批判し、「神武田」を本命視した。本書にそう書いているわけではないが、大御所の宣長説を批判することに当時の人は意欲的だったのかもしれないという気がする。その他、蒲生君平、竹口栄斎、北浦貞政などの説も「学者はこういう風に見ているがとるに足りない」といった態度である。にもかかわらず、事務的に「塚山」→「神武田」に変更したのではなく、一応「神武田」と「丸山」の二説を孝明天皇に上申し、孝明天皇に「神武田」と勅諚を下してもらったのは示唆的だ。この際、「神武田」が確実に選ばれるように「丸山」には不利な論説が示されていたのは言うまでもない。これは、「丸山」のことを無視しえなかったことを逆説的に示しているのである。

このようにして朝幕の神武天皇陵の公式見解は「神武田」へ変更され、立派な陵墓にしつらえられていくのである。

しかし、国学者たちの「丸山」説は根強い人気があった。文人として著名な富岡鉄斎は平田篤胤の門人大国隆正に国学を学び、蒲生君平の墓に詣でたこともある人物であるが、津久井清影(平塚瓢斎)との書簡のやりとりで「丸山」説への傾倒を深め、「神武田」説を採る大沢清臣の著書『畝傍山東北陵諸説弁』に批判的な書き込みをしている。書き込みは明治12以降に行われているが、明治維新から12年たっても「丸山」説がくすぶっていたことがわかる。

また、白野夏雲は、鹿児島では『麑海魚譜』を著した人間として知られているが、彼も鹿児島県に奉職している明治18年に『神武天皇御陵考』を出版し、「神武田」説を批判した。彼は『日本書紀』『古事記』に基づいて谷森善臣の説を全否定し、「このままでは真の神武天皇陵がわからなくなる」と危惧した。彼は畝傍山全山が神武天皇陵であると考えていた。そして明治18年の段階でも世の中では「神武田」説への疑いがあったと述べている。

なお、天皇陵に注目したお雇い外国人もおり、英国のウィリアム=ゴーランドと米国のロマイン=ヒッチコックの見解が紹介されている。特にヒッチコックが、政府によって天皇陵が原型をとどめないほどに整備されていることは、文化財保護の観点から遺憾なことであるとしているのは新鮮だった。

本書の後半は陵墓以外の話題になる。まずは、勤王家の奥野陣七について。私はこの人物も全く知らなかったが、大変興味深い。奥野はいわゆる勤王の志士で、明治9年には鹿児島で西郷や大山綱良にも懇切にされたという。しかし彼はいわば「乗り遅れた側」で、同じ志士仲間が栄達する一方で不遇を託っていた。そんな中で陵墓や古蹟に関心が向き、『皇朝歴代史』など本を出版。さらに明治22年に畝傍橿原教会を設立して、神武天皇を祀る橿原神宮での活動を中心に敬神の活動を行っていくのである。

その活動の中で奥野は『神武天皇御記』を出版し、その中で「丸山」説を「先哲大人等」の考えとして好意的に扱っている。明治28年の段階でも「丸山」説はまだ命脈を保っていた。なお橿原神宮が創建されたのは明治23年だが、この創建にも奥野は民側としてかかわっていた。そして畝傍橿原教会は橿原神宮の祭典や行事に積極的に協力し、外郭的な立場から橿原神宮への信仰を喧伝していった。しかし教会が橿原神宮のお札「神符」の頒布利権を手に入れようとしたことなどから神宮と教会の間はギクシャクし始め、やがて橿原神宮は畝傍橿原教会とその関連団体の認可取り消しを求め、明治36年に取り消された。要するに奥野陣七は、公的なものとなっていた橿原神宮を、一民間人の立場で私物化するようなところがあったようだ。

終章では、神武天皇の即位紀年日である紀元節が、戦後「建国記念の日」として復活されたことを述べている。紀元節は即位日を新暦に換算して定められたが、その日程が不可解に変転しており、なぜか今でも法律(国民の祝日に関する法律)ではなく、政令で定まっている。戦後、これは「建国記念の日」として鞍替えされが、報道を見るだけでもこれには賛否両論があった。神武天皇は神話の存在であるが、現代に無関係なわけではない。

本書は全体として、神武天皇陵が治定される経緯については非常に詳しく、またわかりやすい。類書では簡潔に述べるような部分を丁寧に追っているので、意外な発見が多かった。そして改めて思ったのが、異論がありながらも「神武田」説が採用されたのはなぜなのか、ということである。大雑把に言えば、「丸山」説は国学者たちが『日本書紀』『古事記』の記載に基づいて主張し、「神武田」説は行政関係者が地名や伝承に基づいて主張した。なぜ彼らの方法論には違いがあったのか、それはなんらかの思想の違いに基づいていたのだろうか。

なお本筋ではないが、学者でもなんでもないのに神武天皇陵の位置を考察した中条良蔵や、一民間人の立場から橿原神宮にまつわる教会を設立した奥野陣七など、この時代には世の中の趨勢を捉えて名を挙げる無名人が出てくるのがとても面白かった。このような無名人物の名前が残っているということだけでも、急に神話や古蹟、神社・神道が注目されてくる時代の空気を感じることができる。

神武天皇陵の考証過程検証の決定版。

【関連書籍の読書メモ】
『天皇陵の近代史』外池 昇 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/08/blog-post.html
「天皇陵」がどのように形成されたかを述べる本。天皇陵をめぐる諸問題について見通しよく語る良書。

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