2024年1月12日金曜日

『覚鑁—内観の聖者・即身成仏の実現(構築された仏教思想)』白石 凌海 著

覚鑁(かくばん)の評伝。

覚鑁というと、空海や最澄、親鸞とか一遍のような、宗派の宗祖に比べると知名度はかなり低い。しかし、真義真言宗を開いた、いわゆる「宗祖」と呼ぶべき僧侶の一人である(といっても本人は新しい宗派を開創したとは考えていなかった)。

覚鑁の評価はなかなか定まらなかった。覚鑁には元禄3年(1690)に東山天皇より興教大師という大師号が贈られているが、実はこの前に2回も大師号が贈られかけ、頓挫しているのだ。

1回目は仁安2年(1167)、高野山内の協力が得られずに頓挫。そして2回目は天文9年(1540)、後奈良天皇より自性大師号が贈られたものの、延暦寺の衆徒の憤訴により召し返された。覚鑁は死後550年も経ってからようやく大師号に値すると認められたのである。

覚鑁は嘉保2年(1095)、肥前の国の豪族伊佐平次兼元を父として生まれ、8歳で仏道に目覚め、15歳で仁和寺成就院の寛助の弟子となった。ついで興福寺に留学。16歳で成就院に戻って出家し、正覚坊覚鑁という法名を授かった。覚鑁という名は、『大日経』と『金剛頂経』で説かれる大日如来の象徴「覚」と「鑁」による(両方梵字が宛てられている)。 なお覚鑁の一族は四人兄弟が共に出家しており、母も後に出家している。事実とすれば、なにかただならぬものを感じさせる一族である。

覚鑁は得度すると再び奈良に行き、東大寺で三論教学や華厳教学を学んだ。覚鑁はエリートコースを歩み修学に励んだのである。なぜ地方豪族の子に過ぎない覚鑁が破格の待遇を受けたのか。その背景には、伊佐氏が藤津荘を領有していて、それを覚鑁出家の料として成就院に寄進したことがあるのではないかという。

覚鑁は20歳で東大寺の戒壇院で具足戒を受け、正式な比丘となって高野山に入った。覚鑁は空海を強く追慕し憧れていた。高野山では阿波上人青蓮坊の庵に身を寄せた。青蓮坊という人物のことはよくわからないが、「たんなる念仏聖のひとりではない(p.47)」。そして翌年、隠岐上人明寂の最禅院に移った。さらに翌年、最禅院が火災に遭遇したため、大蓮坊長智の下へ移った。どうやら、覚鑁は既成教団よりも念仏聖に接近していたようだ。彼は20歳から46歳までの26年間を高野山で過ごした。

覚鑁は27歳の時、保安2年(1121)に仁和寺成就院において寛助より伝法灌頂を受法した。自ら仏になった証として行われる儀礼である。この若さで非職でありながら伝法灌頂を受けるのは異例のことだったらしい。

ところで覚鑁は、求聞持法を9回も厳修している。虚空蔵菩薩の真言を100万遍唱える難行である。いうまでもなく、虚空蔵求聞持法は空海が行って記憶力を強化させた逸話を持つ。記録に確かなのは8回目(28歳)と9回目(29歳)であるが、この時にかけられた願を見てみるとその内容に差があり、9回目のスケールが大きくなっている(一切経を書写、堂宇を建立など)。この時期に覚鑁の転機があったのかもしれない。さらに覚鑁は、千日の無言行も行っている。

30歳の時には重要な著作の一つとされる『心月輪秘釈』が著された。

やがて覚鑁は鳥羽上皇の知遇を得、大治5年(1130)、36歳の時に高野山に伝法院を建立し、春秋の伝法会(約200年中断していた)を復興させた。覚鑁は鳥羽上皇にさらなる堂宇の建立を奏請し、長承元年(1132)に道場となる大伝法院、そして覚鑁の住房となる密厳院も完成した。また上皇は大伝法院と密厳院へそれぞれ荘園を寄進している。大伝法院・密厳院は総数238名の大所帯になった。

ところで高野山は、この頃四分五裂していた。小野流・広沢流とか、十二流・三十六流などといろいろに呼ばれるが、大別すると仁和寺を中心とする洛西派と醍醐一山を中心とする洛東派に分かれていた。覚鑁は39歳の時、これらの諸流を編学する。覚鑁は東密だけでなく台密まで広く受法を求め、師を訪ね歩いた。これは師資相承を重視する真言宗には珍しい。

こうした中、長承3年(1134)、覚鑁は金剛峯寺・大伝法院両座主となった。それまでは金剛峯寺の座主は東寺長者が務めていたが、鳥羽上皇の後援によってこうした先例さえも変わったのである。これに東寺が反発しないわけがない。覚鑁の人事が年功序列ではない能力主義的なものであったことも反発を招いた。金剛峯寺と東寺は対立を深め、覚鑁は座主を兄弟子の真誉に譲ったが、後に座主は東寺方へ戻った。この中で覚鑁はまたしても無言行を行い、保延5年(1139)まで、それはおよそ5か年続いた。

ここで、伝説では「錐鑽(きりもみ)不動の逸話」で知られる事件が起こる(錐鑽の乱)。 金剛峯寺の衆徒が密厳院の覚鑁を襲ったが、密厳院に討ち入ってみれば壇上に同じ姿の不動明王が並んでいた。どちらかが覚鑁の化現であろうと衆徒は矢の根で不動明王の膝を刺したところ、果たしてどちらからも血が出たので退散した…という伝説である。伝説ではこの襲撃を受けたので覚鑁は高野山を去り根来に行った、ということになっている。しかしこの襲撃そのものが史実でないらしい。

では、襲撃はなかったのに、なぜ覚鑁は高野山を去ったのか。著者は「無抵抗の実践」だろうという。金剛峯寺と対立していた覚鑁は、無用な争いを避けるために自ら身を退いたのである。しかしちょっと不思議なのは、覚鑁が金剛峯寺座主に就いた時は、東寺と対立していたのだが、「錐鑽の乱」の頃には対立の相手が金剛峯寺となっていることだ。覚鑁はなぜ金剛峯寺と対立するようになったのか、その点は本書では詳らかでない。

ともかく、伝説では覚鑁は「七百余人を従えて」紀伊国の根来に移住した。根来でも覚鑁は伝法会、談論、著述などに精力的に取り組んでいる。しかし覚鑁は紀伊国から怨まれていたらしい。康治元年(1142)、日前(ひのくま)・国懸(くにかかす)両社の神人等が大伝法院領に入部濫妨。ついで「紀伊国の国司・国目代・在庁官人等、大伝法院領の官省符庄内」に乱入。さらに、「紀伊国衛の軍兵数百・人夫数千等」が伝法院領に乱入し、観音堂や僧坊等を焼いた。どうやら、覚鑁は紀伊国の国司以下の地方政府と深刻な対立を抱えていたらしい。国司や軍兵が攻めてくるというのは尋常でない。どうして紀伊国とこれほどの対立があったのだろうか。

鳥羽上皇はこうした動向にあっても覚鑁を後援したらしく、上述の濫妨の償いとして新たに大伝法院に荘園を寄進させたり、根来の堂(豊福寺・円明寺・大神宮寺)を院宣によって御願寺としている。そしてその翌年、康治2年(1143)、覚鑁は根来山円明寺の西廂において印明を結びつつ入滅した。49歳の生涯であった。

なお、根来の滞在は僅か3年に過ぎなかったが、この頃に覚鑁は大著『五輪九字明秘密釈』と『一期大要秘密集』を著している(後述)。

さて、覚鑁といえば、阿弥陀信仰と真言宗の融和ということが一般的にいわれるが、その思想はいかなるものであったか。

まず、覚鑁はたいへん修行をした僧侶だったといえる。特に求聞持法は先述のように9回も修しており『求聞持次第』も著し、また高野山の人々に「かならずこの求聞持法を行ずべし」と勧めた。また覚鑁の求聞持法は阿字観や月輪観という観想法に基づいており、外面的な修法・儀礼よりも心のあり方にフォーカスしている。

『真言三密修行問答』という著作によれば「もし、心に浄菩提心の実相を念ぜざれば、三業の所作みなこれ虚相不実にして、全く三密にあらず(p.125)」と述べる。逆に「もし人・心・浄菩提心の実相に安住する時は、諸の身業、諸の語業、諸の意業、みな三密を成ず(同)」という。何事も心次第だというのが覚鑁の考え方だ。

また覚鑁は『三界唯心釈』の冒頭で「三界所有の 一切の衆生と 一切の諸法とは 皆唯一心なり」とし、華厳経に曰くとして「三界は唯一心なり、心の外に別法なし、心、仏および衆生、この三、差別なし」と述べている(p.58)。仏は心、唯心論的なのである。

『阿字観義』では、「ア」といって生まれ、「ア」と悦び、「ア」と悲しみ、何事も「ア」というのだから、これが法性具徳の自然道理の種字だ、として「善悪諸法・器界国土・山河大地・沙石鳥類等の音声(おんじょう)に至るまで、みなこれア字法爾の陀羅尼なり(p.128)」という。この、万物の陀羅尼「ア」から、アミタ(阿弥陀)の法号に繋がり、西方浄土観と接続する。ただし、覚鑁自身は「密厳浄土」すなわちこの世のありのままの姿が浄土であるという観念を持っていたように思われる。

覚鑁の真作か議論がある『一期大要秘密集』では、往生の大要は臨終にあるとして、悪人でも臨終の際の儀軌を守れば必ず往生すると言っている。このあたりは、「全ては心次第」と考えていたらしき覚鑁の言としては違和感がある。本書では真作としているが、どうだろうか。

そして覚鑁晩年の主著である有名な『五輪九字明秘密釈』では、大日如来(五輪)と阿弥陀如来(九字=オン・ア・ミリ・タ・テイ・セイ・カ・ラ・ウン)が同体の異名であり、「大日如来の頓悟」と「阿弥陀の往生」は同じ、極楽・密厳浄土も同一だとしている。さらに覚鑁は五大(空・風・火・水・地)が身体(五字厳身観)や五臓・五行思想などと重層され、「五大・五輪・五智・五臓・万法は不二にして平等」と述べている。なお本書では触れられていないが、本書で覚鑁は五輪塔が大日如来を表す(つまり阿弥陀如来も表す)ことを論じ、五輪塔の普及に理論面で一役買っている。

また『阿弥陀秘釈』では、「一心すなわち諸法」として心のあり方によって即身成仏が可能になるとし、「娑婆を厭い極楽を欣び、穢身を悪んで仏身を尊ぶ。これを無明と名づけ、また妄想と名づくるなり(p.157)」とすごいことを言っている。遠い理想世界への転生を願う欣求浄土は妄想であり、今ここにいる自分、ありのままの世界が仏であり浄土なのだ。

以上を概観すると、阿弥陀信仰と真言宗との融和といっても、覚鑁の場合は「念仏すれば往生できる」というような思想は皆無であるといえる。そして数々の苦行難行をやっていることを鑑みれば、彼は行者的な性格を持っているといえよう。しかもその著作は数多く、理論家としての存在感が大きい。この頃、高野山が念仏信仰に傾いて行った時期であることを考えると、覚鑁は旧来の真言密教の修行が、念仏信仰と矛盾しないことを理論的に述べたのだということができる。それは、念仏の勧めとは逆で、密教の修行をすることが念仏と一体であるのだ、ということが眼目のようである。

本書は最後に「真言密教の現在」として覚鑁の思想から見た現在の真言密教が語られているが、詳細は割愛する。

本書は全体として、苫米地誠一『興教大師覚鑁聖人年譜 上・下』を下敷きにして覚鑁の生涯と思想を平易に述べたものであるが、意外と読みにくい。それは、覚鑁の生涯が編年的に語られていないこと、年表がないこと、括弧を多用する独特の文体などが要因である。さらに、旧来の覚鑁の伝記に対して著者は強い不満を持ち、それを訂正しようとする意図が大きいために、叙述がやや感情的になっているように見受けられる。

私自身の興味は、覚鑁の「心」の思想にあったが、覚鑁の数多くの著作を概観して内容を紹介してくれていたのは「心」思想の検証には有り難かった。『真言三密修行問答』『三界唯心釈』などは、親鸞の信仰主義に繋がる内容だと感じられた。

覚鑁についての唯一かつハンディな貴重な評伝。

【関連書籍の読書メモ】
『増補 高野聖』五来 重 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/04/blog-post.html
高野聖に光を当てる本。覚鑁についても記載があるが、著者白石は五来の覚鑁観には賛成していない。

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