親鸞は、800年以上前に生きた浄土真宗の宗祖である。であるから、当時の史料は僅かしか残っておらず、様々な伝説が後世に付加されている。従来の伝記ではそういった伝説も織り交ぜて親鸞像を描いていたのであるが、厳密な史料批判により、信頼できる史料のみに基づいて親鸞の生涯を描いたのが本書である。
なお、本書の原書は2011年に刊行され、その後に各所から批判を受けた。本書は、そうした批判に応えて書き直され、文庫化された改訂版である。
親鸞の生まれた時代は、仏教界の改革の気運が高まった時代であった。この時代は顕密仏教(≒南都仏教+密教)と国家が相互依存した状態(=顕密体制)にあり、顕密僧は官位と朝廷の法事に公請(くじょう=招聘)されるという特権を持っていた。しかし彼らがいくら鎮護国家を祈っても一向に効き目はなく、東大寺は焼け落ちてしまった。何か根本的に間違っているのではないか。そう考えた僧侶は、仏教の改革が必要だと考えるようになった。彼らは官位を持たず、聖とか沙弥とか聖人などと呼ばれる人々であった。
穏健改革派が掲げたのが戒律興隆である。栄西・貞慶・明恵・俊芿・叡尊などが採ったのがこちらの道である。一方、急進改革派の法然・親鸞・道元・日蓮らは、仏教を王権に超越するものと考える仏法至上主義によって、顕密体制から飛び出ようとした。事実、法然の『選択本願念仏集』は朝廷によって禁書になっている。日本の禁書第一号である。
さて、親鸞の伝記『親鸞伝絵(でんね)』では、親鸞は高位の貴族の子であり、9歳で慈円の下で得度したとあるがこれは本当か。『親鸞伝絵』を制作したのは親鸞の曾孫覚如。彼は親鸞の直弟子たちから主導権を奪って本願寺中心主義を樹立した人物で、相当なやり手だったことに注意しなくてはならない。
著者はまず親鸞の二人の伯父、日野宗業(むねなり)と日野範綱を取り上げ、どのように昇進しているかを分析する。宗業は学問で身を立て、儒学者として苦労した末、後鳥羽院に取り立てられて71歳にして遂に殿上人へ昇進した。一方、親鸞の養父ともいわれる範綱は、生涯後白河院に仕え、鹿ヶ谷事件でも流罪になっている。後白河院の側近中の側近であったことは間違いない。彼らの事績を詳細に検討すると、彼らは高位の貴族ではなく、中下級貴族に過ぎなかったことが明瞭である。まず、親鸞は高位の貴族の子ではなかった。
顕密僧になるためには、入室(弟子入り)・出家(得度)・受戒の3段階があった。親鸞は、実父が生きていたのに範綱の養子として入室している。日野一族の出世頭が範綱であったので、家柄に箔を付けようとしたのだ。なにしろ、当時の顕密僧の出世は、出身の家柄とリンクしていた。『親鸞絵伝』は脚色も多いが、親鸞の公名(きみな=父祖や養父の官名に基づいて出身家格を示すもの)は、範綱の位階を正確に反映しており、後世の附会ではありえない。よって9歳での得度は事実である。
慈円は天台座主にもなった実力者であるが、親鸞入室の頃はまだ立場が不安定で、鹿ヶ谷事件で反平氏の色がある範綱の子を弟子に取ることは政治的リスクが大きい。そして、『親鸞絵伝』の言うように親鸞が慈円の下で9歳から29歳までに20年間を過ごしたとすると、慈円に関する厖大な記録の中に親鸞(当時の名は範宴)の名が出てこないことは不自然と言わざるを得ない。
また、当時の延暦寺では、台密・天台宗・浄土教の順に重んじられ、台密を学ぶことがエリートコースであった。慈円は唯密(台密専門)である。一方、親鸞は延暦寺の堂僧を務めていたことが恵信尼(親鸞の妻)の書簡により明らかで、唯顕の僧侶であり、教義的つながりがない。また慈円と親鸞は居住場所が違ったと考えられ、範宴という名も慈円と共通点がない。よって慈円の下に入室したことは事実でなく、親鸞は名に「宴」がつく僧侶の下に弟子入りしたと思われる。
ところで当時の顕密仏教は、文献実証主義であり、論議(公開討論)を重視した。院政時代には院権力が仏法興隆を進め、二会・四灌頂・三講といった国家的法会が整備される。こうした法会で論議が行われたが、その論争に勝つためには経典とそれをめぐる学説が頭に入っていなければならない。そのために延暦寺はさながら総合大学の様相を見せた。鎌倉期には、そうした学問的な仏教文献学を土台として、思想としての仏教が現れてくるのである。
やがて親鸞は比叡山を下り、六角堂に百日参籠。95日目の暁の夢の中で聖徳太子から「行者宿報偈」「女犯偈」を示された。これは「宿報により女犯しそうになった時は救世観音が身代わりになって犯されてやるので、それを皆に広めなさい」との不思議な内容の偈である。赤松俊秀『親鸞』では、この時の親鸞の悩みは性欲に関するものだったとしているが、そうなのか。当時の顕密僧の妻帯は常態化しており、特に顕教系は妻帯が普通だった(密教系は祈祷の有効性から妻帯しない僧侶もいた)。これは、上皇が出家・受戒するようになったことも影響しており(彼らは出家・受戒後も俗的な生活を続け子をもうけた)、妻帯して子を持ち、子に院家を継がせるのが一般的になっていた。
つまり、中世の顕密仏教界で妻帯は公然と認められていた。であるから、著者は「実際には女犯が宿命であるはずがない(p.103)」として、ここでの「女犯」は「本人の意志を超えた普遍的で絶対的なあらゆる罪業の象徴表現と化した(同)」としている。しかし、厳密な実証主義に立って著された本書において、この主張は少し奇異である。そんなことは史料のどこにも書いていないからだ。また、妻帯は公然と認められ戒律は形無しになっていたのだから、親鸞が性の問題に悩んだはずはない、という考えも短絡的に感じる。例えば、現代は妻帯は普通で俗人に戒律はないが、性の問題に悩む人は多い。なぜ親鸞が性の問題に悩んだはずはないと断定できるのか。やはり信頼できる史料に「女犯」と書いてある以上、それが親鸞の悩みだったと考えざるを得ないと思う。
ともかく、この偈が契機となって親鸞は法然の下に入った。当時は法然の教勢が拡大した時期にあたる。元々浄土教では念仏の考えはあったが、それは凡夫のための方法で、徐々に高度な哲理により手法へ高めていくのが顕密仏教の考えであった。ところが法然は、人は皆平等に凡夫であるとして、専修念仏の教えを説いていた。しかも法然は念仏以外の行による往生を認めなかったから、顕密仏教との間に種々の軋轢を生じ、遂に貞慶が顕密八宗を代表して「興福寺奏状」を執筆して法然門下を批判。間の悪いことに法然の弟子による後鳥羽院の女房との密通事件が起きて「建永の法難」に至った(1206年)。ただし「建永の法難」では、密通事件の首謀者ら4名が死罪となっているなど刑罰が異様に厳しく、後鳥羽院による私刑の側面があるという。
そしてこの事件で還俗・流罪の処分を受けたのが親鸞である。当時の親鸞は、法然門下の中では傑出した存在ではなかったが、『選択本願念仏集』の書写が「興福寺奏状」の半年前に許されていて、興福寺側が親鸞を主要な弟子と考えたようだ。
こうして親鸞は越後に赴いたが、その流人生活は意外と穏やかだった。当時は小さな政府の時代で、流罪といっても在庁官人や御家人に身柄を一任しており、その裁量で自由に行動できたからだ。どうやら親鸞が預けられた人物は親鸞に庇護を加えており、それどころか妻となった恵信尼はその人の娘らしい。彼は流罪中に専修念仏の弾圧を批判する申状を朝廷に提出さえしている。なお玉日伝説(親鸞が九条兼実の娘玉日と結婚したという伝説)はとうてい史実ではありえない。
ちなみに、恵信尼はおそらく後妻であり、息子善鸞は前妻の子であると考えられる。前妻は「壬生の女房」であると思われる。恵信尼が三善為教の娘であるとする通説は根拠が薄弱で、むしろ「壬生の女房」こそ三善為教の娘である可能性の方が大きい。恵信尼の父は越後の勢力ある在庁官人であること以外は不明である。
親鸞は建暦元年(1211)に赦免されるが、京に帰らず、越後に留まってやがて東国へ伝道の旅へ出発する。「ここに親鸞という人物の個性があらわれて(p.176)」いる。
しかし、弾圧でも揺るがなかった親鸞の信心が、東国伝道の中でゆらいだ。そのきっかけに、上野国(群馬県)佐貫での経験がある。佐貫ではひどい旱魃にあたり、おそらくは地元の人たちの要請に応えて親鸞は浄土三部経を一千部読誦しようとし、途中で辞めている。専修念仏の考えと矛盾するからである。しかし読誦の中止は、地元の人々の力になってやりたいという慈悲の気持ちとも矛盾していた。さらにそこから20年ばかり経って、親鸞は「寛喜の大飢饉」に遭遇。無茶苦茶な気候の年で、鎌倉幕府にもどうしようもない、餓死者が溢れた大飢饉であった。読経してもせずとも、どうせ人々を救えないのであれば、せめて心に寄り添い南無阿弥陀仏を唱えようと親鸞は決心し、迷いが消えた。
さて、親鸞の思想といえば悪人正機説であるが、実はこれは覚如により事実を歪曲して伝えられたものである。では実際の親鸞は何を説いたか。『歎異抄』(唯円)と『口伝鈔』(覚如)に親鸞の思想の核心が似た文言で書かれているが、重松明久はその内容が全く違うことを発見した。
それは、「世の中の人は悪人でさえ往生するのだから、善人が往生するのはいうまでもない、といっているが」(ここまでは共通)、
【歎異抄】「他力を頼みにする悪人が元々往生の正因だが、善人でも他力を頼めば往生できるので、悪人が往生するのは当然だ」(悪人正因説)
【口伝鈔】「阿弥陀の本願は悪人のためのもの(正機)なのだから、善人が往生できるなら悪人が往生するのは当然だ」(悪人正機説)
とまとめられる。結論(=悪人が往生するのは当然だ)は同じだが、その理由に微妙なズレがある。
そもそも悪人正機説は親鸞の独創でなく、中国の浄土教で早くも主張されており、顕密仏教でも認められ、無住の『沙石集』にも表明されている。これを人は皆凡夫(=悪人)であるのだから、あらゆる人が対象になるのだと転換したのが法然であった。『口伝鈔』はこれを引き継いでいる。ところが『歎異抄』では、「他力を頼みにする悪人が往生できるのは当然であるが、善人は他力を頼む心が欠けているから弥陀の本願に適わない。だが善人が自力の心を翻して他力を頼むようになれば往生できる」と、「悪人」の方をプラスに評価しているのである。逆に「善人」を親鸞は「疑心の善人」と呼んでマイナスに評価する(『正像末和讃』)。つまり親鸞は「悪人」と「善人」の評価を逆転させているのである。よって、『歎異抄』と『口伝鈔』では結論は同じであるが、「善人」「悪人」の評価の逆転があるかどうかで内容が全然違うというわけだ。
そもそも、親鸞にとって(世間一般の倫理基準による)悪人か善人かの区別は本質的でなく、それよりも他力を頼みにするかどうか、すなわち信心の方が重大な問題であった。『正像末和讃』でも、「不思議の仏智を信ずるを、報土の因としたまへり」「信心の正因うることは、難きが中になを難し」などと信心を往生の決定的要因としている。親鸞はいわば「信心正因説」なのである。そして主著『教行信証』の化身土巻では、善人は念仏を唱えることを自分の善根と思っているから「信を生じること能わず、(中略)報土に入ること無きなり」と述べている。『正像末和讃』では、「自力称名のひとは皆、如来の本願信ぜねば、疑う罪の深きゆへ、七宝の獄にぞいましむる」とさえ述べている。本願を疑った罪がそんなにも重いものだとは私には意外に感じるが、ともかく親鸞にとっては信心こそ全てだった。なお、この信心主義ともいうべき思想には、親交があった聖覚の『唯信鈔』(1221)の影響が考えられる。
親鸞はやがて帰洛し、布教第一の生活から、子の自立を考えた暮らしへ転換する。そこで起こったのが東国門徒の動揺である。東国門徒の中で「阿弥陀仏はどんな悪人でも救ってくれるのだから悪を怖れる必要はない」との悪行・欲望を肯定する考え(造悪無碍)が広がり混乱した(とされた)のである。そこで親鸞は子の善鸞を派遣。ところが善鸞は「親鸞は自分にだけ本当の教えを授けた」と主張して東国門徒を支配しようとした。そこで親鸞は善鸞を義絶するに至った。この「親鸞義絶状」は、偽書説が主張されてきたが、形式や由来を考えると本物であると結論できる。
ちなみに、造悪無碍で肯定された悪がどんなことであったかというと、女犯、肉食(肉食のケガレは鎌倉時代に極端に肥大した)、囲棊・双六などであり、今から見ればさほど重大には思えないことである。
ところで、北条時頼は仏教政策を転換し、顕密仏教界を縮小させて禅と律を支援した。これには時頼の権力抗争が関わっている。時頼は朝廷の政策を無視して禅宗の単独寺院を建立(それまでは天台・真言との併置が条件となっていた)。この禅律保護政策の中で、「持戒念仏という形をとれば、念仏の教えを安定して布教すること(p.279)」が可能になった。それは一方では戒律や精進へのプレッシャーが増すことを意味し、東国門徒の造悪無碍が強調されて親鸞に伝わり、対応を誤ったのだと考えられる。
こうして親鸞は晩年に至り、末法の世に対する絶望を深めた。『正像末和讃』文明開板本では、「浄土真宗に帰すれども、真実の心はありがたし」と述べ、門徒たちの信心を信頼することができなくなっている。親鸞はそれまで内発的な主体性(=信心)を重視していたが、その内発的主体性が頼りないものだとすれば、どうして阿弥陀の本願に適うことができるのか。むしろ信心すらも「弥陀が廻向したもの」(私たちに与えたもの)ではないのか。こうして親鸞は「信心」を解体し、最晩年の自然法爾消息(1258)では「他力には義なきを義とす。(中略)弥陀仏は自然のやうを知らせむ料なり。(中略)義なきを義とすということは、なほ義のあるになるべし」と記している。
親鸞は、あらゆるはからいを捨て、他力信心すら捨てて、全てありのままを弥陀に委ねるという思想に至ったのである。
本書は全体として、史料批判のお手本のような鮮やかな手法によって書かれており、講演調の文体とも相まって、大変読みやすくまたエキサイティングである。著者が本書を書いた動機は赤松俊秀の『親鸞』を乗り越えることにあったというが、まさにその目的を達していると感じる。ただし、本書は親鸞の伝記そのものとは言いがたいので、 赤松俊秀『親鸞』を合わせ読む方が理解しやすい。
そして、赤松俊秀『親鸞』も論争的なのだが、本書はさらに論争的であり、通説への批判、そして旧著への(特に末木文美士からの)批判に応えた部分の挑戦的な書き方は、実に面白く読ませてもらった。まさに学者の喧嘩といった風情である。
私が本書を手に取ったのは、「信心」の問題を知りたかったからであるが、本書は親鸞の思想を解説するものではないので割とアッサリと書いている。しかし著者は「晩年の親鸞は思想的に破綻していったと考えている(p.290)」としており、その破綻の内実についてはもう少し書いてもらいたかった。つまり「信心」という概念そのものに行き詰まりが内包されていたのか、それとも造悪無碍事件などで傷心したために親鸞自身が「信心」を信じられなくなったということなのか。私は前者であると思うが、本書ではどちらかというと後者に比重があるように感じた。
歴史学における親鸞研究の到達点。
【関連書籍の読書メモ】
『親鸞』赤松 俊秀 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/01/blog-post.html
史料の厳密な考証によって行実を明らかにした親鸞伝の好著。
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