日本人は、どのような他界観を抱いていたのだろうか。他界には「死後の世界」と「異界」の二つの意味がある。これは概念的には全く別であるが、その二つは重なっていた。本書は、古代までの他界観の変遷を述べて、日本人の他界観を考察するものである。
日本の神話にはイザナギが黄泉の国に行く話がある。黄泉の国は死体が腐り蛆が湧く汚い場所で、イザナギはイザナミの死体に恐れおののいて急いで黄泉から戻ると、その穢(けがれ)を禊ぎで洗い流して黄泉の国との絶縁を完了した。どうやら神話の中では、黄泉の国は、簡単に行き来できると考えられていたようである。
この神話は、明らかに古墳の石室がモチーフとなっており、一見、古墳時代からの他界観を受け継いでいるようにも見える。
しかし装飾古墳(石室内に絵が描かれた古墳)の絵には、船の絵や舟形の埴輪が出ているから、古墳時代には、異界は海の向こうという認識があったのだろう。しかし黄泉の国は明らかに地上と地続きである。奈良時代に他界観に変化があったのか、それとも古墳を作っていた人々と神話を作った人々が別だったのか、いずれかである。
平安時代になると、死体が強く忌避されるようになったためか、鳥葬や風葬が普通になった。そこに他界観の変化を伴っていたかどうか、本書には詳らかでない。
著者が日本人の他界観を探るのに取り上げるのは、浦島伝説である。浦島伝説は、神話の「海幸山幸」を原型として様々なバリエーションが各地に残されているが、そこに描かれた他界=竜宮(海神の宮)は、財宝に満ちた理想郷であることと、現世と時間の進み方が違うことが共通している。そしてその理想郷が、道教的な要素を持っているということは注目される。
例えば『日本書紀』(雄略天皇22年)にある浦嶋子伝説では、浦嶋は海に入って「蓬莱山(とこよのくに)」に着き、「仙衆(ひじり)」に会う。『丹後国風土記』でも浦嶼(うらしま)の子が「蓬莱(とこよのくに)」「仙都(とこよ)」に行く。ここでの異界は明らかに神仙思想の影響を受けている。『古事談』に掲載された『浦嶋子伝』『続浦嶋子伝記』は、中国六朝時代後半に成立した道教経典『金庭無為妙経』『度人上品妙経』などの影響があるという。
日本人の異界観で「黄泉」の次に出てくるのが「常世(とこよ)」で、これは海の彼方にあるというイメージとともに、道教的な装いがある場所なのだ。では、常世は外来の概念なのか、それとも古墳時代からの海上他界を引き継ぐ概念なのか。本書では特に考察されていない。
平安時代には、山岳信仰も盛んになったが、そこでは山中他界が盛んに喧伝されていた。山中には数百歳の仙人が住み、そこでは不思議な能力を身につけることができた。ここでも神仙思想の影響が濃厚だ。だが、中国の神仙思想と決定的に違うのは、日本人は不老不死にあまり関心がなかったことで、山で修行した人々も、不老不死を希求していた形跡はない。古代以前には日本人は山に墳墓をつくり、また古墳も山になぞらえたものであると考えられるが、その他界観と山岳信仰の山中他界は接続するものなのかもしれない。
8世紀に入ると、火葬が貴族の間に普及してくる。すると野辺の煙が魂を思わせるものとして認識されたのではないかという。煙が空へ上ることも、山中他界のイメージに沿うものとして受け取られたかもしれない。
平安時代には、仏教的な他界観も浸透する。輪廻転生や六道四生である。六つの世界を生まれ変わりしながら、永遠に輪廻するという世界観で、その六つの世界の中で、特に日本人が強くイメージしたのが地獄であった。末法思想の中で、浄土に生まれ変わることは難しいと考えられたこともあり、人々は堕地獄を恐怖した。源信は『往生要集』で地獄の凄惨なさまを異常に力を込めて描き、極楽と対比させた。
こうして、死後の世界は急に具体的イメージを持って迫ってきた。例えば、人の寿命を司る泰山府君という神がいるとか、生前の罪を裁く閻魔大王がいるとかである。これらはいうまでもなく中国から伝わった概念であるが、日本人はそういった他界観をさしたる抵抗もなく受け入れているように見える。黄泉か地獄か、といった二者択一的な疑問は誰も抱かなかったらしい。
そして当然ながら、人々は地獄に落ちることを避け、浄土を希求した。本来の輪廻転生の考え方では、畜生道とか阿修羅道もあったのだが、それは理論的には存在しつつも、輪廻転生を超えた浄土の世界と、六道の一番下である地獄が他界の代表となっていった。 すなわち、地獄と浄土の二本立てが、日本人の他界観として確立したのである。
本書は全体として、大変文章がうまく、非常にすらすらと読むことができる。一読してなるほどとわかった気になる本だ。しかしながら、よく読んでみると展開があまり論理的ではなく、海上他界、山中他界、神仙思想などがバラバラに扱われているだけで、どうつながるのか、つながらないのか、曖昧な記述が多い。ちょっと厳しい言い方をすれば、著者の思う他界観に合うように事例をピックアップしてきたという感じを受けるのである。
その曖昧さは、他界を「死後の世界」と「異界」で都合よく使い分けていることに原因があると思われる。「死後の世界」としての他界を述べるならば、古墳時代から平安時代までの葬送の変化を述べざるを得ないが、そういう作業を本書はしない。その代わりに「浦島伝説」のような「異界」を述べて「黄泉」からの中継ぎとし、やはり「異界」である山岳信仰の「山中他界」を媒介して「浄土」へ至るのである。これはストーリー的にまとまってはいるが、「日本人の他界観」の歴史としては成立していないと言わざるを得ない。
興味深く読み応えもあるが、日本人の他界観を論理的には考察していない惜しい本。
【関連書籍の読書メモ】
『畜生・餓鬼・地獄の中世仏教史—因果応報と悪道』生駒 哲郎 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/blog-post_6.html
中世の畜生・餓鬼・地獄の世界観について述べる。事例紹介的で「中世仏教史」は名折れだが、中世の悪道の軽重を知ることができる手軽な本。
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