2023年12月15日金曜日

『「戦前」の正体—愛国と神話の日本近現代史』辻󠄀田 真佐憲 著

戦前の日本を神話をキーにして読み解く本。

「大日本帝国は、神話に基礎づけられ、神話に活力を与えられた神話国家だった(p.6)」。しかし、それが狂信的な「国家神道」(この用語は本書では注意深く避けられている)の押しつけの結果だったかというとそうでもない。神話は「大日本帝国」を支える物語ではあったが、神聖不可侵な存在ではなく、意外にも民衆的な広がりを持った存在だった。

最近、政治の世界では戦前的なものが復活しつつある。その一つが神話や神社、日の丸といったものである。これらは悠久の昔からの日本のアイデンティティを構成するものと思われているが実はそうではない。明治維新の際、新政府側がその正統性を箔づけるために持ちだしたのが「神武創業」であり、神話だった。

そこでは、天皇の統治は天壌無窮の神勅に基づき、「臣民」は神話的古代から天皇に忠節を尽くしてきた、という虚構の歴史が語られた。軍人勅諭や教育勅語は、そうした歴史に基づくものとして、まるで神典のように扱われた。そして日本は、万世一系の天皇が歴代統治し、それを臣民が支えてきたという万邦無比の「国体」がある国だとされ、その理想を世界に敷衍していく(つまり世界征服して日本が世界を統治する)ことが使命だとされたのである。

実際に、日本は日清・日露戦争に突入していくが、そこで政府が利用したのが神功皇后である。神功皇后は神話に登場する皇后で、神話では三韓征伐を行ったとされている(史実ではない)。神功皇后は、明治時代には神武天皇よりもよく知られており、日本ではじめて政府紙幣に肖像画が採用された人物でもある。当時の軍歌には神功皇后がたびたび登場している。ところが面白いことに、日露戦争が終わる頃には神功皇后はあまり人気がなくなり、次第に実際の戦争で活躍した人物がフォーカスされるようになった。例えば北白川宮能久親王(明治維新の際の輪王寺門跡だった人物)。彼は台湾で陣没したためヤマトタケルと重ねられ、台湾神社(のちの台湾神宮)などで祭神として祀られた。

後に、日本は日中戦争、そして大東亜戦争と世界大戦に参戦していくことになるが、興味深いことに、江戸時代の国学者たちは日本が世界征服をすべしとする理論を提唱していた。平田篤胤の門人の佐藤信淵は『宇内混同秘策』で、日本を「世界万国の根本なり」とし、大真面目に世界征服プランを立案している。世界征服すべしとする根拠にはもちろん神話が援用されていたが、彼らは神話を字義通りではなく、都合のよいところをピックアップして、時には歪曲して使った。また神話の価値が高まるにつれて、『竹内文献』のように、『古事記』『日本書紀』以前に書かれたとされる古代の文献が偽作され、荒唐無稽な内容ながら権威を帯びるようなこともあった。神話は、かなり自由に解釈され、時には創作されていた。

昭和15年は折しも皇紀2600年に当たっており、これを記念して日本各地で祝祭行事が行われた。この年に最も注目を集めたスローガンが「八紘一宇」である。これは、『日本書紀』の神武東征の神話にある「八紘(あめのした)を掩ひて宇(いえ)にせむ」の言葉を基に、日蓮主義者の田中智学によって大正2年に造語されたものであるが、「日本が世界を統一する」という理想が重ねられた言葉だった。この年、宮崎県は全国から切石を集めて「八紘一宇の塔(八紘之基柱)」を建設。発案は宮崎県知事の相川勝六で、設計は日名子実三である。なお日名子は「皇軍発祥之地」と「日本海軍発祥之地」も設計している。

さて、「八紘一宇」は、本当に世界征服を意味する言葉だったのか? これがなかなか面白いところで、「八紘一宇」自体が田中智学の創作であったことからも分かる通り、政府の公式見解でそう表明されていたわけではなかった。だが、人々の方が神話を調子よくアレンジした軍歌や詩やモニュメントをつくって消費し、神話を拡大解釈し、そこに誇大妄想的な日本の自画像を重ね合わせていたのである。佐藤春夫が「詩編 大東亜戦史 序曲」で「新世紀の神話時代」と謳ったのはその雰囲気をよく伝えている。彼らは政府から依頼されて嫌々ながらプロパガンダ詩を書いていたのではなく、けっこうノリノリでやっていた。

もちろん、大本営は戦争を遂行するためのプロパガンダを流していたし、神武東征と大東亜戦争の共通点をしつこく強調するキャンペーンなどをやってはいた。しかしそういう「上からの統制」だけで神話国家が出来上がったのではない。国民の方も、景気の良い物語を求めており、神話を「消費」することに旺盛だったのだ。神話をネタ元にした記念碑やレコードが続出したのは、時局に棹さすことで儲けたい企業と、戦争の熱狂を楽しみたい消費者の存在を抜きにしては理解できない。そして時には、プロパガンダを流していた政府自身が神話を真に受けて振り回されるほどであった。

そうした視点から、本書には軍歌、流行歌、記念碑といったものがたくさん取り上げられており、神話国家が「上からの統制」だけではなく、むしろ国民(企業・一般国民)の方からの自発的な運動として出来ていったことが強調されている。そしてその際語られる神話が『日本書紀』『古事記』を実直に読み解いたものというより、あやふやな記憶から都合よく切り貼りしたものである場合が多いことが指摘される。それくらい、神話が身近なものだったのである。

神話は、今風に言えば「国民に夢と希望を与える物語」だったのかもしれない。戦後、それは否定され、日本は自らを表象する「国民的物語」を失った。戦前の神話を知ることは、それを超克する新しい物語を生みだす第一歩となるだろう。

蛇足ながら、本書には、拙著『明治維新と神代三陵—廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』が参照されている。この場を借りて御礼申しあげる。

軍歌や記念碑を取り上げて、戦前日本における民衆の側からの神話を読み解いた良書。

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