2023年12月31日日曜日

『本地垂迹』村山 修一 著

本地垂迹を中心として神仏習合について述べる本。

本地垂迹とは、本地たるインドの仏が、日本に神として垂迹(すいじゃく)したという理論である。その淵源は法華経寿量品にある文で、そこでは久遠実成の釈迦を本地とし、歴史上の釈迦が垂迹とされている(ただし、本書には書いていないが、法華経の本文に本地や垂迹の文字はない)。

また僧肇は『註維摩』で、「本に非ずして以て跡を垂るる無く、跡に非ずして以て本を顕わす無し」と述べ、智顗は本迹関係を体系的に分類し考究している(『法華玄義』)。ただしここでいう本迹は日本の本地垂迹とは違い、仏の本体を本地とし、その顕現を垂迹として捉えるもので、譬えるなら、本地とはプラトン哲学のイデアのごときものであった。

中国では仏教の受容にあたって道教・老荘思想が媒介の役割を果たしていた。仏教は中国においてすでに神仏習合的風潮があった。

こうした基盤の上に、本書では古代日本の仏教受容について述べているが、戦前の史学を基礎としているためにやや学説は古い(日本書紀の記述を史実として扱っているなど)。ともかく、仏教受容の初期から神社への神宮寺の建立、神前読経などの神仏習合が進んだ。特に八幡神は習合的な性格を強く持ち、神仏をうまく使い分けて国家との深い関係を樹立した。

なお、承平年代(931〜938)に大宰府から筥崎宮(八幡)に出した宝塔造立を命じる牒状に「彼宮此宮その地異なりと雖も権現菩薩垂迹猶同じ」とあり、これが権現思想の初出であるという。

神仏習合思想に影響したものに、御霊信仰がある。怨みを持って非業の死を遂げた人物が神になり、祟りをもたらすという考えである。 この頃、政治的失脚者が続出する情勢となっていたことがその背景にあった。そして災害や天候不順は怨霊のせいであるとされ、怨霊を鎮めるために読経や造寺が行われた。またこの時期に頻発した疫病も怨霊の祟りと結びつけられた。それらは民衆側からの自然発生的な考えだった。そこには、政争の結果として災害や疫病が起こったのだ、という悪政への批判が込められていたのかもしれない。朝廷もこれを無視しえず、貞観5年(863)には合同慰霊祭ともいうべき大規模な御霊会を京都神泉苑で開催した。

御霊信仰によって、神となった怨霊を仏教によって慰めるという形式が確立するとともに、それまでの自然神に替わって、人格神的なものが登場したのである。神仏習合のみならず神祇観念の転換としても御霊信仰は重要だ。

さらに、御霊が特定の政治的敗者ではなく、疫病を起こす神として表象され、陰陽道や宿曜道の影響の下に生まれたのが牛頭天王とそれを祀る祇園天神堂(観慶寺感神院)である。これはやがて天台座主良源によって延暦寺末に取り込まれる。祇園の御霊会では民衆は熱狂的に盛り上がり、藤原道長が祇園社での奇抜な見世物を停止させる宣旨を出すと、神は怒りの託宣を出し、果たしてその夜内裏が全焼。朝廷は祇園社を含む4社へ陳謝の奉幣を行った。民衆が朝廷に勝利したのである。良源はこのエネルギーを欲しがったのかもしれない。

祇園社には牛頭天王だけでなく雑多な神が祀られ、蛇毒気神・八王子・大将軍といった神もあった。牛頭天王も異形の神であるが、民衆は恐ろしくて力のある、降魔的な神を求めていた。

天満天神(菅原道真)もそうして生まれた神である。その背景には、沙門道賢の『冥途記』もあるという。これは道賢が死んで幽界へ行き帰ってきた記録で、その中には幽界の王として威徳天=道真も出てくる。道真の霊は、怨霊から威力のある神に変質し、さらに文道詩作の神へ変わっていくのである。

ところで、御霊信仰の成長期は修験道の形成期にもあたっている。修験道は、仏教と山岳信仰が習合したもので、特定の教祖がいるのではなく、僧侶や貴族たちの自然発生的な信仰から生まれた。摂関期には金峯山参詣、いわゆる御嶽詣が流行し、道長が寛弘元年(1004)の御嶽詣で行った納経は有名である。なお、修験道の主尊というべき金剛蔵王権現については、当初「金剛蔵王菩薩」として登場する(例えばさきほどの『冥途記』)。これがいつ「権現」になったのか。これは本地垂迹思想の解明にとっては重要だが、本書には記載がない。ともかくやがて金剛蔵王は釈迦の垂迹、熊野十二所権現は弥陀・薬師・観音・大日等の垂迹であり、山は浄土であるとみなされるなど、山の神たちはことごとく本地が定められて垂迹思想の中に吸収された。

院政時代には、個別具体の本地仏が次々と定められて本地垂迹説はほぼ完成された。これによって、神の世界の父・母・子などの関係が仏の世界の脇侍・眷属・護法神に置き換わり、本地仏の特色による霊験などが強調されるなど、神格がよりありがたいものへと変わった。特に護法化・眷属化された神祇には降魔的性格が付与されているのは注目される。

本地垂迹思想は、いわゆる鎌倉新仏教にも受け入れられ、日蓮宗に至っては神祇信仰との習合を積極的に理論化した。しかし日蓮の本地垂迹説は、すべての本地が久遠実成の釈尊であるとしつつ、神祇は釈尊以外の諸仏・天などと同様に扱われるなど特徴がある。また彼は日本から神祇は去ったと考え、一時は神祇不拝を主張した。しかし日蓮後には、神祇がかわるがわる法華経を護るという三十番神の思想が確立した。日蓮宗は神仏習合的ではあったが、本地垂迹的な要素は少なかったように思われる。

鎌倉新仏教の中では、臨済宗も特徴的である。臨済宗は権力者の庇護を受けたために民衆的な習合思想に迎合する必要はなかったが、詩文を大切にしたことから天満天神が聖神として祀られるようになり、これを媒介にして神祇信仰との融和が進んだ。そして儒仏一致の思潮から神儒一致の風潮を生じ、近世儒家神道興起の遠因となったのである。

さらに本書は、「縁起譚と習合文芸」と題して、いわゆる「縁起物」について述べている。この内容は類書には少なく、本地垂迹説とは何かを考えるのに大変参考になる。

縁起物は、神社の由来等の物語であるが、これは本迹関係成立に至るまでの(空想的)歴史を述べるものとなっており、「地獄や兜率天のごとき現世から遠くかけはなれた異郷の展開は空間的・時間的遠隔感を信者に与えることによって本迹関係の偉大さ、ひいては神秘的ありがたさを強く印象づける結果(p.216)」をもたらした。本地垂迹説は、荒唐無稽なるがゆえに、かえって神祇の不思議さありがたさを強調したのである。

縁起物の中でとりわけ大きな影響を与えたのが『神道集』である。著者は安居院(あぐい)、成立年代は文和3年(1354)~延文3年(1358)の頃と考えられている。『神道集』の内容は(1)神道論的なものと、(2)本地垂迹を縁起的にとくもの、の2種で構成され、(1)においても諸経を引用して「和光同塵」を主張。天神七代・地神五代の歴史を述べながらも、本地垂迹思想によって神道の由来を説明している。

(2)では、例えば『上野国児持山之本縁譚』の話は面白い。いわれなく流罪になるなど辛酸をなめた男女が神から「神道の法」が授けられ、「妻は群馬の白井保内武部山に児持明神としてあらわれ、(中略)本地如意輪観音となられ、和理(※夫)のほうは見付山手向に本地十一面観音の明神としてあらわれた(p.226)」という。この話の面白いところは、人間だった男女が神になり、事後的に本地仏が設定されているところで、「インドの仏が日本で神として垂迹した」という本地垂迹説から明らかに逸脱していることである。人間が神になるという発想は御霊信仰と似てはいるが、著者はこれを「人本神迹」と呼んでいる。

そしてこういう説話においては、もはや「ありがたい仏が本体であるから…」といった縁起ではなく、神仏がともに尊しとされており、本地関係はその尊さを増幅させる意味にしかなっていない。これらの説話は、人生の苦悩や悲哀と戦ってそれを乗り越えた人間が神になるという筋書きが、史実を無視した由来によって潤色され、「かえってそれが民間における無智な人々の真摯な信仰の姿を象徴(p.244)」している。つまり素朴な人間中心主義が本地垂迹説を援用して表現されているのである。しかしながら、これは現世的刹那主義へ傾く危険も内包していた。

さらに「神影図と習合曼荼羅」では、本地垂迹説に基づいて製作された神像や曼荼羅が述べられる。日本における最古の神像は仏像に近い表現であり、次に官人風の俗形となっていった。平安中期には図像表現が行われるようになったが、図像の場合は影向図などではっきりとは姿を描かないものがあることが注目される(例えば「春日明神影向図」)。仏の場合は姿を表現するのに、神ははっきり描かないという違いが面白い。さらに、八幡曼荼羅をはじめとし、神の世界が曼荼羅として表現されるようになった。

習合曼荼羅は、熊野曼荼羅のように仏教の曼荼羅的な構図もあるが、自然の風景が描かれているものも多い。そんな中で圧倒的な製作数があるのが山王曼荼羅。日吉社では多くの神が神仏習合理論によって複雑に体系化されたので、山王曼荼羅図も多様なものがある。これが大量に製作されたのは、天台の修法儀式に先立って山王諸神に供饌する「山王本地供」という修法の本尊として山王曼荼羅図が用いられたためである(景山春樹)。

他、室町末から江戸初期にかけて各地の社寺参詣が観光要素を含んで盛んになり、絵解きや名所図会式の曼荼羅が生みだされている。

本書はさらに「天台の神道」「真言の神道」「卜部家の神道」として、神仏習合によって生みだされた神道を概観している。

「天台の神道」では、『法華経』の本迹門を基調としつつ、摩多羅神、新羅明神、赤山明神など異形・異国の神も護法神として取り込み、玄旨帰命壇のような秘法も生みだした(元禄の初めに禁止されて廃絶)。天台座主公顕は「日本人は神祇に祈るのが仏に祈るよりよい」という神本仏迹立場を表明している。慈円にも「まことには神ぞ仏の道しるべ 跡をたるとは何故かいふ」の歌がある。宝地房証真はこうした信仰のごった煮ともいうべき状況を憂慮し、『三大部私記』30巻を著して文献主義に徹して本覚思想(=人も自然もあるがままで悟っているとの思想)を批判している。

しかし神本仏迹的な神仏習合の思潮は変わらず、天台の神道は『山家要略記』『耀天記』『渓風拾葉集』などで理論化された。それらの内容を簡約すれば、日本は大日如来の本国、諸神は仏であり、日本の国土自体が仏国土に重ね合わされ、北斗七星の信仰を通じて陰陽道が結合し、比叡山の神猿は釈尊の化身である…というような、まさに信仰のごった煮だ。さらに室町期になると『日吉本記』『厳神抄』『日吉山王利生記』など多数の文献が出た。信長の比叡山焼き討ちからの復興を成し遂げたのが生源寺行丸で、復興のための記録として『日吉神道秘密記』を書いている。これら天台の神道は、天海によって山王一実神道として公的なものとなった。

「真言の神道」は、金剛・胎蔵両界の曼荼羅の教説をもとに形成され両部神道と呼ばれる。広い意味では天台の神道もこれに包摂されるが、ここでは狭義で使う。両部神道の理論で早くに現れたのが『三輪大明神縁起』(14世紀初め)。この書では三輪寺が来訪した叡尊を肉身の釈迦と見なして、叡尊に寺を献じ大御輪寺と称している(有名な聖林寺十一面観音があった寺)。なお叡尊の影響下で三輪神道が成立したと本書にあるが、詳細不明である。ともかく三輪神と伊勢神は同体であるとか、三輪が本で伊勢が迹であるなどと述べているところを見ると、三輪神が伊勢神に対抗するために仏教理論を援用してできたものらしい。

同時期の『八幡愚童訓』では神国思想・神威高揚が企図されるとともに、板東八国は胎蔵界、九州は金剛界とか、釈迦・弥陀の本地は大日如来、といったように二重三重の本迹関係を作りだしている(はっきり言ってよくわからない)。

次は、伊勢神宮の関係を取り上げる。外宮関係で有名な「神道五部書」では、『造伊勢二所太神宮宝基本記』で「心は神明の主たり」「神々の加護をうけるには正直が何より根本だ」「神をまつるには清浄をもって先とし」とするなど(p.333)、それまでの神仏習合理論とやや違う毛色が感じられる。それは心のあり方を問題にしているのである。『孝子』や『礼記』などの中国古典、歴史や『日本書紀』などをやや無節操に使いつつ、陰陽五行思想や儒教思想をも用いて、雑多な理論で「心」を強調しているのが『宝基本記』である。

「神道五部書」を受けて制作されたと考えられるのが『麗気記』で、おそらく外宮祀官の手によるもの。ここではかなり理論が整理され、誰にでもわかりやすいものが志向されている。

内宮関係では、通海の『大神宮参詣記』がある。ここでも道教・陰陽道の信仰が援用され、両界曼荼羅を内宮・外宮に対応させるなどの理論が展開される。注目されるのは、伊勢神宮で仏教を忌み遠ざける習慣を批判しているところである。

こうした神道理論を一段と発展させたのが北畠親房の『神皇正統記』で、そこでは「儒教も仏教も超えた原始の世界に立ち帰る」ことを進めるなど、近代神道へ続く発想が生まれている。

「卜部家の神道」では、吉田神道が概観されている。吉田兼倶は『唯一神道名法要集』で神仏習合的な神道を否定し、自らの元本宗源神道(唯一神道)を称揚した。ここでは絶対無為の道教的な理想状態が措定され、その神道は天児屋根の託宣によっているとする。そして「三教枝葉花実説」を主張(神道が根で、仏教・儒教は花や実であるとする理論)。「唯一神道なるものは、彼がしりぞけた両部神道や陰陽五行説・儒家・道家の思想を根拠としたもの(p.357)」であった。

最後に、林羅山の神道が取り上げられる。彼は兼俱の子清原宣賢を通じて吉田神道を受け入れ、「理当心地神道」と呼ばれる神道理論を述作した(『本朝神社考』『神道伝授』)。そこでは、「心の外に別の神なく別の理なし、心清明なるは神の光であり、行迹正しきは神の姿である(p.368)」など宋学の心即理の考えをもとにした心学的性格が強く、これを王道に結びつけた儒本神迹的思想を展開した。彼の神道は尾張侯徳川義直に受け継がれ、『神祇宝典』に結実している。

著者はこれらの流れを総括し、「その理論構成は顕密両教・陰陽道・道教・儒教に、新たに伝わった宋学の説をも加えて煩雑極まりない習合説を形成し、本地垂迹説本体の姿はその跡かたをとどめないまでに変化した。それゆえ神と仏を対置してその本迹を論ずること自体あまり意味がなくなり、権実思想は権威を失ってついに本地垂迹説の宗教界における指導的地位に終止符が打たれた(p.371)」と結論している。

全体を通じて、本書は事例列挙的な部分が多く、やや読みにくい。本書の前半は辻善之助の神仏習合論(『日本仏教史 第1巻』)を明らかに下敷きにしているが、不思議なのは、辻がこだわった垂迹思想の始まりを(おそらくは)意図的に曖昧にしていることである。本書では、本地垂迹説は奈良時代以来の神仏習合の思潮から連続的に生まれてきたとされているが、それは本当なのだろうか。そして権実思想についても、本書ではその始まりを明確に書いてはいない。本書の問題は、「本地垂迹」を書名に掲げながら、本地垂迹の歴史を真正面から扱うことをせず、事例の列挙に終始していることである。

そういう問題はあるが、神仏習合事典として見れば、本書はよくまとまっているように感じた。特に近世の神道が心学的に変容していく様は、本地垂迹説との関連はともかく蒙を啓かれる思いだった。

本地垂迹説についての扱いは小さいが、神仏習合理論について豊富な事例で学べる本。

【関連書籍の読書メモ】
『吉田神道の四百年—神と葵の近世史』井上 智勝 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/03/blog-post.html
神道で有名な吉田家の近世史。平易かつ面白く吉田家の歴史的意義を理解できる良書。

『神道とは何か—神と仏の日本史』伊藤 聡 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/09/blog-post.html
神道の歴史を概観する本。中世神道を中心に、神道の多様な側面を描いた良書。

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