2023年12月6日水曜日

『延喜式』虎尾 俊哉 著

『延喜式』の概説書。

平安時代の神祇や禁忌を見ていくと、『延喜式』の大きな存在感に気付かされる。奈良時代が律令の時代だったとすれば、平安時代は『延喜式』の時代だったとも言えそうだ。この『延喜式』がどういうものか知りたくて本書を手に取った。

まず「式」とは何か。中国の法律は律・令・格・式の4つの法典で構成されていた。これは律=刑法、令=行政法、格=律令の補足法、式=施行規則である。現代日本に置き換えると、律令=法律、格=施行令(政令)、式=施行規則(省令)ということになるかもしれない。

中国では律令格式がまとめて制定されたのであるが、日本の場合、律令に比べて格式の制定は1世紀も遅れた。しかし格は必ずしもなくてもよいが、式(施行規則)がなければ律令の施行ができない。ではどうしたか。日本では施行規則が「もっぱら個々の単行法令として制定公布されていた(p.10)」。当時「令師」と呼ばれた明法家(みょうぼうか)たちが、『大宝令』の直後から必要な細則を制定する活動をしていたのである。それらの施行規則は、『八十一例』(81の条文)など次第に「例」としてまとめられるようになった。

しかしながら、体系的な施行規則である「式」は作成が困難で、長く編纂されることがなかった。それが遂に、延暦期に編纂されることになる。延暦期は、法典編纂の気運が高まった時代だったのである。

まず、延暦10年(791)に『刪定律令』24条、さらに時期は不明だが『刪定令格』45条、次に延暦11年(792)に『新弾令』83条、続いて延暦18年(799)までに和気清麻呂による『民部省例』20巻、その後延暦22年(803)に『延暦交替式』が撰上された。この時代に個々の法令の制定を超えた法典編纂が行われたのは、明法学の発達がその背景にある。

このような趨勢の中、桓武天皇は信頼する実務官僚の菅野真道に格式の編纂の命を下した。ところが、まもなく桓武天皇が崩御して事業は停滞。次の嵯峨天皇の時代、弘仁年間に編纂が再開され、弘仁11年(820)、格10巻、式40巻の『弘仁格式』が完成した。

こうして律令格式が遂に揃ったが、法令は絶えず改正し続けられるので、『弘仁格式』は早晩改正の必要があった。それが改正されたのが貞観年中で、これを『貞観格式』という。藤原良房が人臣初の摂政となって藤原氏独占の摂関政治が開始された時代である。しかしながら、『貞観格式』は、『弘仁格式』を廃止することなく、その編纂後の訂正・増補された事項のみをまとめたものであったので、『弘仁格式』と『貞観格式』は併存した。つまり、両方を見なければ法令の内容がわからないから、はなはだ不便だった。

そこで、延喜年間、醍醐天皇の治世に『弘仁式』と『貞観式』を統合させ(と本書にあるがおおそらく「格」もあわせて)、体系的な格式を編纂することが左大臣藤原時平に命じられた。この頃は、「延喜聖代観」に見られるように、後世から理想とされた時代であるが、実際には律令制が有名無実化していく末期にあり、最後の班田が行われるなど律令制の維持が試みられるも崩壊していった頃である。国史編纂も『日本三代実録』(延喜元年(901))を以て終了している。『延喜式』の編纂は、律令制の最後のあがきだったといえるかもしれない。醍醐天皇は式の編纂になみなみならぬ熱意があったという(醍醐天皇は自ら式に細かい修正意見を出しており、醍醐天皇の修正意見は『短尺草』という史料に見える)。

最初に完成したのは『延喜格』で、延喜7年(907)に完成して翌8年には施行されている。ところが『延喜式』の方は翌9年に時平が死去したこともあって遅れ、最初の編纂委員のほとんどが死去して延長5年(927)、通算22年もかかって完成した。なお、『延喜儀式』と『延喜交替式』も編纂され、ここに律令格式・儀式・交替式が揃ったのである。

ところが『延喜式』は奏上後、ながく施行されることがなく、なんと40年後の康保4年(967)に至ってようやく施行された。なぜそのように長く放置されたか。一つには、『延喜式』は『弘仁式』と 『貞観式』を統合したもので新しく効力を持つ条文はほぼなかったので急ぐ必要がなかったのと、奏上後も修訂作業が必要であったためと考えられる。また式の規定そものが有名無実なものになっていたせいもある。

こうして放置されていた『延喜式』を改めて施行したのが村上天皇で、その背景には天徳4年(960)の内裏が全焼したとされる火災があると著者は考える。焼失した内裏の再建に活躍した藤原在衡こそ、『延喜式』の施行を主宰した人物だったのである。

次に、本書では『延喜式』の内容について行政組織ごとに簡単に紹介している。これは全部をメモするとかなり煩瑣になるので、気になった点のみ触れる。

『延喜式』には、遣唐使関係の規定が散見される。しかしすでに遣唐使は廃止されていたどころか、唐自体が亡んで存在していない(延喜7年滅亡)。にもかかわらず遣唐使関係の条文が残ったのは「『延喜式』の性格の一面をよく伝えているといわなければならない(p.96)」。『延喜式』の編纂は法令の制定である以上に文化事業なのである。 

『延喜式』の編纂にあたって、伊勢神宮から『儀式帳』が提出されており、その内容は(純粋に儀式敵な部分以外は)ほとんど『延喜式』に取り込まれた。

「祝詞式」(本書では『延喜式』の民部省の巻を「(延喜)民部式」などと略称しているので以下それに従う)は古い祝詞を伝える貴重な史料である。また「神名帳」(本書では「神名式」)は、神社の格を確定させる上で大きな影響があった。

「図書式」には、当時の行政機構が必要とする紙の必要量が規定されていて大変興味深い。またこれにより各官司の机上事務量の多寡を計ることが出来る。

一部の職名以外は、訓読される習いであった。例えば「図書式」は、「ずしょしき」ではなく「ふみのつかさ」と読む。しかし本メモでは訓読のルビは割愛する。

「大学式」で規定される大学の学生の定員は400人で意外と多い。

「民部式」の国郡一覧表は『倭名類聚抄』と並んで古代の地名を知るための最も基礎的な文献。 「民部式」には、課税を負担する子を5人育てればその父親の課税は免除されるという規定がある。「民部式」は、課税・収税・そのための帳面の作成など重要な規定が多い。しかし「こういう律令文書行政の形式がのこっていることは興味深いが、それが全く形式だけの遺存にすぎないことはいうまでもない(p.164)」。

「隼人式」には、隼人が特殊な任務を帯びていたことを伝えている。「この隼人式にかかげられた二十ヵ条の規定は、すべて隼人についての貴重な史料をいわなければならない(p.170)」。 

「弾正式」には、「京中で病人を家の外に遺棄することに対する取締り(p.196)」が規定されている。罰金刑を認めないで体刑とする上、それを隠匿したものも同罪とするという意外と厳しい規定である。

「左右京職」については、なぜ同じ組織を左京・右京にそれぞれおいたのが興味が湧いた(他に「左右近衛式」、「左右衛門式」、「左右兵衛式」、「左右馬式」なども)。そして同じように行政が整えられたのに右京が衰微したのはなぜなのだろうか。

ちなみに、兵庫寮は令政では左右二寮に分かれていたが、寛平8年(896)に左右二寮が合併されている。これによって兵器の作成・保管の業務が一元化された。これが普通の行政組織のあり方だと思う。左右に分けるのは本当に不思議だ。

……このように、『延喜式』の内容は厖大かつ多岐にわたるのであるが、制定の意義はいかなるものであったか。これについて著者は「論ずべきほどの意義は存しないといってよい(p.88)」と容赦ない。つまり律令が有名無実化する中にあって、その施行細則などあってもあまり意味はなかったのだ。

しかしながら、法令としての価値はそうであっても、文化事業としての価値、古いしきたりや社会の様相を記録する意味での価値はとても大きかった。

『西宮記』(源高明)や『北山抄』(藤原公任)には『延喜式』が引用されているし、後三条天皇時代の関白藤原教通は車(牛車であろう)に必ず『延喜式』を携帯したという。院政期においても藤原頼長は『延喜式』を1年以上かけて読了している。これは法令そのものより故実への関心で読まれているように見受けられるが、もちろん明法家も『延喜式』を研究した。令宗允亮(よしむね・ただすけ)の『政事要略』、藤原通憲(この人は明法家ではないが)の『法曹類林』などで『延喜式』は研究・利用された。

中世にも引き続き『延喜式』は参照の対象となり、室町時代には特に「神名帳」が唯一神道の興隆と結びついて注目された。卜部兼俱の『神祇式神名帳頭注』はその代表的なものである。

このように『延喜式』は決して無意味な法令だったのではなく、「延喜の聖代」を伝える重要な文献・権威・規矩としての役割を果たした。『太平記』には、「あら見られずの延喜式や」との言葉が見え、『延喜式』が「かた苦しさや儀式ばったことの代名詞(p.224)」として否定的意味で使われており、こういう用法があったこと自体、『延喜式』が広く知られた傍証である。

近世になると、徳川家康は幕府の法制を整備するための資料として、古書の蒐集と謄写を命じたが、これによって多くの古書が湮滅を免れた。『延喜式』も一部の欠巻がありながらも謄写され、後に他の写本がみつかって慶安元年(1648)に遂に完本が公刊された。さらに、松江藩主松平斉恒・斉貴親子の努力によって雲州本と呼ばれる周到な校訂本が文政11年(1828)に完成した。

また個別研究としては、特に祝詞・神名・諸陵の各式の研究が盛んに行われた。中でも賀茂真淵の『祝詞考』は「祝詞式」に対する初めての本格的研究であり、本居宣長、平田篤胤と研究が進められ、鈴木重胤の『祝詞講義』に至って最高潮に達した。「神名帳」については伴信友の『延喜式神名帳考証』が著名である。

明治維新後は、大学南校の法科で『延喜式』が必読書の一つとされるなど、明治維新の復古主義に支えられて重んじられ、現代でも歴史研究の対象・基礎文献として利用されている。しかしながら、戦後は『延喜式』を直接の対象とする研究論文はあまり見られず、そんな中で宮城栄昌の『延喜式の研究』は最初の総合的研究として価値が高い。

本書は全体として、『延喜式』の世界を平易に概観しており、『延喜式』について知りたくなったら先ず手に取るべき本として推奨できる。というよりも、本書以外に『延喜式』の概説書はないといってもいい。本書の公刊は1964年で約60年ほど前になるが、未だ本書を越える本は登場していないのかもしれない。

ところで、本書は3度も増補されており(書き換えではなく、追記が3つ付いている)、研究の進展によって改訂の必要がある箇所もいくつか存在し、著者自身が「○○頁から○○頁は全面的に改訂の必要がある」などと追記で書いている(それなら改訂してほしかったところだ)。そろそろ『延喜式』の最新の研究をまとめた概説書が出てもよいと思う。

本書を読んで思ったのは、『延喜式』は律令制が有名無実化していく中で最後に作られた、ということが逆説的だがその命脈を保つのに役だったということだ。なにしろ『延喜式』は施行されたその時に、すでに法令としての役割をほとんど担っていなかった。よって、『延喜式』は改訂されることなく、不朽の法典になったのである。また、『延喜式』は律令のような国家の根幹に関わる法典でなく、施行規則であったことも重要だった。律令は形無しになれば意味がなくなるが、施行細則の場合、儀式のやり方、神社のランク、祝詞の文言といった細かい内容は、いつまでも無意味にならないからだ。『延喜式』は、律令国家の置き土産として長く日本社会に影響を及ぼしたのである。

有職故実の世界に大きな影響を及ぼした『延喜式』を知るための必読書。

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