近世の紀行文についてのエッセイ的な本。
著者は近世の紀行文を専門とする研究者であるが、本書は学術的なような、エッセイのような、なんともいえない不思議な本である。一応、近世紀行文の世界を案内するという目的はあるものの、各章はかなり散漫なテーマになっていて、少なくとも体系的な近世紀行文の案内ではない。
それでは、著者の強調するポイントはどこにあるか。あえて本書の主張を一つ掲げるとすれば、「近世の紀行文というと、芭蕉の『おくのほそ道』以外は面白くないと思われているが、決してそうではない」ということである。
近世は、旅がとてもやりやすくなった時代である。そのため、「都から出発した旅人が鄙の淋しさやわびしさに耐えつつ、自己の孤独を抱いて歩きつづける(p.70)」というような、それまでの紀行文の枠組みは現実的でなくなった。そもそも紀行は都会から出発し地方を巡るもの、ということ自体が思いこみであり、近世には都会の案内記(としての紀行文)もたくさん著された。
そして、かつての紀行文は「歌枕」を巡るものだったが、近世では軍記物に描かれた「名所」(特に古戦場)がクローズアップされてくる。都会の人が頭の中で勝手に作った「歌枕」とは違い、歴史の証人としての「名所」は、地元の人にも大事にされ、伝説を付加させつつ観光地化した。つまり近世の人々は、歴史に強い興味を持ち、「名所」を通じて歴史に親しんだのである。本書で最も心に残った点はここである。
また、かつての紀行文はしばしば美しい文章そのものを目的にしていたが、近世の紀行文は、もちろんそういう作品もあるものの、多くはルポルタージュ的だ。特に、旅先で出会った珍しい話や変わった話を書き留め、伝達することに力が割かれた。その中におよそ事実とは思われない虚構(伝奇)が入り込むことも多いが、これは「そういう伝奇を聞いたことは事実」という形のルポなのだ。
一方で、美しい風景の描写などはほとんどないのも近世の紀行文の特色である。「あまり巧みな名文で花に限らず美景を描写すると、全体の雰囲気を壊すし、目立ちすぎて醜いという意識すら、あるのではないか(p.174)」と著者は言う。
ところで、近世以前の人々は神仏を素朴に信じていたと思いがちだが、実はそうでもない。「幕府の役人たちが薬草を採取する時の紀行文、いわゆる採薬記類などを見ていて感じるのは、この時代の人たちが時には現代の私たちよりよほど大胆に、迷信を拒否するということである(p.191)」という記述は目を引いた。わざと禁忌を犯して何事もなかったことを書いていたりするのである。そこには素朴な「懐疑的精神」があったのだ。
本書は最後に、紀行文に使われるいくつかの文体を整理している。記録文体や雅文体は、紀行文の一つの型をなしており、それらに沿って書く限り駄作にはならない、と言っているのが面白い。つまり近世の紀行文は、型が生みだされるくらい、大量に書かれたのだ。ちなみに雅文体を完成させたのは国学者たちだった。なお、『おくのほそ道』の歴史的な存在感とは逆に、『おくのほそ道』は同時代にはあまり影響を与えず、俳文体の紀行文自体が少ないというのは意外だった。『おくのほそ道』は、近世紀行文学の中では変わり種のようである。
本書は先述の通り、学術書でもエッセイでもない不思議な本で、突然著者のプライベートの話題が差し挟まれるかと思うと、慣れた人でないと読みこなせない紀行文の引用が長々と続くこともあり、読んでいるとなんだか「名物教授」に付き合わされているような気がした。全体的には平易だが、紀行文の引用はやや不親切なところがある(語義の注釈がほしい)。本書は近世紀行文の入門編でもなく、かといって研究書でもなく、その位置づけがよくわからないが、多分本人の気の向くままに書いたものなのだろう。
近世紀行文学を著者のエッセイも交えて紹介する、不思議な雰囲気の本。
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