2023年11月17日金曜日

『伊勢神宮の成立』田村 圓澄 著

伊勢神宮・天照大神がどのように出来上がったか推測する本。

伊勢神宮は古代以来、朝廷・皇室によって最も貴ばれた神社であるが、その成立は謎に包まれている。というより、意外と古い歴史がないようなのだ。では伊勢神宮が、どうして国家の宗廟となっていったのか。著者は主に『日本書紀』に拠り、慎重に伊勢神宮の成立を考察している。

天照大神は、日本神話の中心的な神であるが、『日本書紀』の古い部分には存在していない(※『日本書紀』は記事が「一書」の形で挿入されているが、それを分析すると段階的に成立したことが知られる)。古い神はタカミムスビノ神で、天孫降臨も原初的記事ではタカミムスビが命じるものとなっている。倭王が奉じていたのも、タカミムスビであった。

ではいつ天照大神はタカミムスビと入れ替わったのか。天照大神は、『日本書紀』では他に「日神」「大日孁貴(オオヒルメノムチ)」「天照大日孁尊(アマテラスオオヒルメノミコト)」の4つの名で記載されている。このうち古態を示すのが「日神」で、雄略期ごろに伊勢地方の地方神に「日神」が重ねられ、「日神」(伊勢大神)→「大日孁貴」(日神を祀る巫女の神格化)→天武期に「天照大神」となって伊勢に祀られたらしい。

天照大神が祀られたことが明確なのが、持統天皇の即位式で中臣大嶋が奏上した「天神寿詞」。 『日本書紀』の新しい部分では、天孫降臨説話で中臣・忌部氏の祖先神が随伴しており、天照大神の成立にあたって中臣・忌部氏が影響したことが示唆される。

天照大神の前に大和で信仰された中心的な神はおそらく三輪神であった。しかし三輪神があくまでも三輪山の土地神であったために新しい国家体制にそぐわず、天照大神にその地位を譲った。

天照大神が登場したのは、『日本書紀』によれば天武元年(672)6月。壬申の乱に際して大海人皇子(後の天武天皇)の「直観と自覚を通じて」その原像があらわれたのだ、と著者は考える。

天照大神が誕生した要因を私なりに3つにまとめると次の通りである。

第1に、天皇の存在を神話・歴史によって説明すること。特に天皇が天照大神の子孫であることがその核となり、天皇は「明神」となった。ムスビ(生産力)の神であるタカミムスビではその役割が果たせない。『金光明経』に説かれる「帝王神権説」がその背景にあったのではないかという。

第2に、持統天皇→文武天皇の祖母→孫の継承を正当化し、日嗣の法(直系で天皇の地位を継承していく法)を確立すること。

第3に、律令国家構想の中心的イデオロギーとして、「国家」・「国土」の観念とそれを天皇の所有に帰する理論を提供することである。律令国家は公地公民であるが、それまでは地方豪族が土地や人々を私有しているという感覚が当然だったであろう。これを打破するための理屈が、日本という「国家」とその「国土」は、天照大神によってその子孫に永遠に譲られたとする神話であった(天壌無窮の神勅)。『日本書紀』では天皇に「天の下治しめす天皇」などと、天皇の統治者としての性格が執拗に強調されているが、これはその傍証だ。

要するに、国家統治のために生みだされたのが天照大神であり、それは「政治的な神」であった。

では、具体的には天照大神はどう祀られたのか。律令制では神祇官が置かれ、「天神地祇」を祀った。全国の豪族が祀っていた神を序列化し、班幣(幣を頒つ)などによって国家と関連付け、その序列の最高位に天照大神を置いた。律令制を神のレベルで支えたのが神祇官であり(これは中国の律令制にはない組織)、その主神が天照大神だったのである。

一方、伊勢神宮はいつ創建されたか。はっきりとはわからないが、持統2年(688)の第1回目の式年遷宮とされる時が、社殿の創建の時期であると著者は考える。これは藤原京の造営開始時期と連動したものであったと推測される。そして文武2年(689)、『日本書紀』ではじめて「伊勢大神宮」の文字が登場する。ここが伊勢神宮の成立の時であるという。

伊勢神宮が特徴的なのは、正殿を五重もの垣が取り囲み、皇室から伊勢へ派遣された皇女(斎内親王)ですら第二重までしか進むことができず、それ以外の神官に至っては第三重どまりであった。そして伊勢神宮には拝殿もない。これは、伊勢神宮が「天皇ただ一人のための神宮(p.224)」であったためだと考えられる。天皇自身は伊勢に参拝することがなかったために拝殿は必要なかったのだ。

ちなみに当初の祭主を務めたのは中臣氏で、特に中臣大嶋(おおしま)は天照大神の形成と祭祀に深くかかわったと考えられる。一方、忌部氏は社殿の造営に携わり、心御柱の用材の伐採・造形には忌部氏が独占的に携わった。他、禰宜を世襲した荒木田氏、豊受宮(外宮)の禰宜を世襲した渡会氏がいる。

ところで、神祇官が行う祭りの中で最も重要だったのが践祚大嘗祭である。祭祀は斎の期間により大祀・中祀・小祀に分けられるが、践祚大嘗祭は唯一の大祀であり、一月の斎を要した。『日本書紀』における即位礼としての「大嘗」の初見は持統5年(691)で意外と新しく、おそらく持統天皇がこれを初めて行った。それまでの倭王の即位は単なる地位の継承であったが、ここに天照大神により委任された統治権を受け継ぐという神権的意味が付与され、「天皇」即位という画期的な意義が生まれたのである。

中祀には、祈年祭、月次祭、新嘗祭、神嘗祭の4つがある。このうち祈年祭と月次祭は、「天神地祇」を祀るもので(ちなみに大嘗祭も天神地祇を祀る)、祈年祭では3132座の神、月次祭では304座の神を祀る。神祇官は天照大神の権威を使って、全国の神々を祀る(=祭祀権を持つ)ことができたのである。なお新嘗祭は、古いムスビノ神の祭りの名残と考えられる(伊勢神宮への奉幣がない)。

天照大神・伊勢神宮の成立は、単なる一神社の創建ではなく、「天皇」・「日本」・「天照大神」の三位一体で考えなくてはならない。天照大神の登場と軌を一にして倭→日本、倭王→天皇、という転換が起こり、天皇制国家が誕生した。天照大神は「天皇による日本統治のみにかかわる神(p.313)」であり、臣・民の神ではなかった。五重の垣に守られて、人々は伊勢神宮正殿に近づくことはできず、私に幣帛を封建することは重い禁断であった。

本書は全体として、細かい項目ごとに考察していくスタイルをとっていること、『日本書紀』がフリガナ(と送り仮名)がない漢文で引用されることから、なかなか読みにくいものである。とはいえ、考察が延々と続くわけではなく、項目ごとで見れば簡明で、史料に基づいて、あまり想像を交えずに結論を出していることから論旨は堅牢である。

ただ、少し気になったのは、明らかに上山春平『正・続 神々の体系』に影響されているように見えるのに、参考文献には一切挙げられていないことだ。『続・神々の体系』で述べられた「神祇革命」のアイデアは、本書によりほぼ論証されたと言える。上山がアイデア的に書いていたことが正しかったのである。著者の田村圓澄は、上山が専門の古代史家ではないので参考に値しないと判断したのではないかと思われるが、『正・続 神々の体系』を結果的に無視した形になったことは奇異な感じがした。

また、『正・続 神々の体系』で強調されながら、本書ではほとんど触れられないのが、天照大神のデザインにあたって藤原不比等が大きく影響しているのではないかという説である。藤原不比等が実際にどのくらい影響しているのかを実証的に述べることはできないとはいえ、影響があること自体は明白だ。本書は、実証的であろうとするあまり、意図的に藤原不比等の存在から避けているように見受けられる。

もう一つ不十分だと感じたのが、本書では豊受宮(外宮)は考察から外す、という立場であることだ。しかも、なぜ外宮を考察から外すのかは全く説明がない。伊勢神宮の特徴は内宮と外宮がセットとして存在していることなのだから、合理的な理由なく外宮を考察外にしたのは、重大な瑕疵のように感じた。

そのような欠点も散見されるものの、天照大神の成立を『日本書紀』の丁寧な読解で明らかにした堅牢な本。

【関連書籍の読書メモ】
『神々の体系—深層文化の試掘』上山 春平 著https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/10/blog-post_30.html
日本神話編集の背景を推測する本。藤原氏独占体制と日本神話との関係を探った重要な本。

『続・神々の体系―記紀神話の政治的背景』上山 春平 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/11/blog-post.html
前著『神々の体系』を補完する本。記紀神話を新たな視点で読み解いた先駆的な著作。

★Amazonページ
https://amzn.to/4bbJUMn

0 件のコメント:

コメントを投稿