著者は、『古事記』と『日本書紀』の神話、特に『古事記』の神話に登場する神々が、整然とした体系を持っていることに気付いた。それは、
アメノミナカヌシ→
【高天の原】イザナギ→アマテラス→ニニギ
【根の国】イザナミ→スサノオ→オオクニヌシ
→イワレヒコ(神武天皇)
という、高天の原系と根の国系が対応し、イワレヒコで統合されるというものである。それは自然に成立したものというより、何らかのイデオロギーなり国家哲学があったのではないか、と著者は推測する。
では、その背景に何があったか。津田左右吉は大正時代に「記紀は天皇家の支配体制の正当化を神話によって表現したものだ」という説を唱え、それが無批判に受け入れられてきたが、著者の考えは、記紀の編纂は藤原不比等が中心になって行われたもので、記紀は藤原家支配の正当化のためになされた、というものだ。
周知のように藤原家は、大化改新で政権奪取の立役者となった中臣鎌足から政権の重臣となった新興家系である。その頃は「氏姓(うじかばね)制度」で、基本的に家格と役職が定められており、ある意味では江戸時代の身分制度に似ていた。だが藤原氏は新興家系であるため、氏姓制度での後ろ盾がない。そこで鎌足の子、藤原不比等は、平城京への遷都と律令制によって法治国家の体裁を整え、氏姓制度に風穴を開けたのだ……と著者は考える。
そして、記紀が完成したのが、どちらも不比等が権力の絶頂にあった頃であることを考えると、記紀の編集には不比等の意向が反映していたに違いないという。というのは、記紀は元明女帝の頃に完成しているが、元明を擁立したのは他ならぬ不比等である(と著者は考える)からだ。
元明は天智の子、天武の子(草壁)の妻であり、文武の母である。文武の妻(宮子)が不比等の子で、その子が聖武である。重要なことは、不比等にとって天皇家との縁戚関係開始がこの宮子と聖武にあったということだ。だから文武が僅か28歳で死去してしまった時、不比等としては是が非でも次期天皇は聖武(当時は首皇子。不比等の孫)に継がせたかった。そのためには中継ぎとして文武の母=元明を担ぎ出す必要があった。そして元明→聖武という祖母→孫へという権力継承を企図したのである。
これが、アマテラス→ニニギという祖母→孫継承の母型として表現されている、と著者は考える。また、神話の登場人物は当時の権力者になぞらえられているとされ、例えば不比等はタカミムスビに当たるという。さらに、皇統の父系相承の継承原理「不改常典(あらたむまじきつねののり)」は初めて元明の宣命によって出されており、聖武への継承を絶対のものにするために導入されたものだという。
では、これらの証拠はあるのだろうか。著者は2つの和歌を手がかりにする。第1が「ますらをの 鞆の音すなり もののふの(物部の) 大臣(おほまへつぎみ) 楯立つらしも」という元明天皇の歌。第2が著者が元明天皇の歌と比定する「飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば 君があたりは 見えずかもあらむ」という歌である。説明は省くが、これらは強引に即位させられ、平城京へ遷都させられた元明天皇のそこはかとない無力感が表現されているという。
しかしながら、著者は最初の神々の体系が、どう藤原氏独占体制に繋がっているのかをしっかりと説明していないように見受けられ、本書はアイデアの提示だけで終わっているような感じを受けた。実際、本書が発表されるや、多くの古代史家がこれに反応して批判した。
著者の専門は哲学で、日本古代史は専門ではなかったのだが、それまでの通説を違った角度から否定し、生き生きとした新説を提示したことで、本書はかなり大きなインパクトを与えることになった。この頃は学際的な雰囲気があって、梅原猛や梅棹忠夫らと共同して日本史や日本文化論を考察したことは、新たな「日本学」を作った。
とはいえ、本書は著者自身も認めるように不完全なものであり、『続・神々の体系』でそれが補完されることになる。
藤原氏独占体制と日本神話との関係を探った重要な本。
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