2023年10月13日金曜日

『暗殺の幕末維新史—桜田門外の変から大久保利通暗殺まで』一坂 太郎 著

幕末明治における暗殺を述べる本。

幕末には実に多くの暗殺や暗殺未遂事件が横行した。その数は百件を超す。また維新後も、数は減ったものの暗殺は続いた。本書は、そうした事件をほぼ時系列的に列挙して幕末維新の歴史を述べる「闇の維新史」である。

そのように暗殺が頻発したのは、日本史の中でも幕末しかない。それには天皇の存在が関わっていた。自らの考える「正義」が天皇に仮託され、「叡慮」を覆う奸臣、宸襟を悩ませる逆徒を誅することが「尊王」であると信じ、殺人をなんとも思わなくなってしまったのだ。

攘夷を叫ぶ人々が最初の標的にしたのは外国人だった。攘夷家たちは外国人によって神国が「汚される」と考えたのである。外国人暗殺事件の第一号は、安政6年(1859年)に、ロシア艦隊の水夫と海軍少尉が殺害されたものである。犯人は水戸の天狗党のひとりである。ハリスの秘書兼通訳のヘンリー・ヒュースケンも暗殺された。しかも犯人は捕らえられていない。イギリスが公館をおいた東禅寺は二度も襲撃を受けた。

開国に踏み切った井伊直弼が白昼堂々殺害された際にも、斬奸状には「実に神州古来の武威を穢し、国体を辱しめ」と非難されている。東禅寺襲撃犯の一人も「夷狄の為に穢れ候を傍観致し候に忍びず」云々という書を持っていた。外国人への反感が、「神国を穢す夷狄」という図式で正当化されていた。

しかし「文久2年(1862)以降は神国思想による狂信的なテロは少なくなり、政治的なパフォーマンスとしてのテロが主流になる(p.45)」。しかも確固たる理由があったのではなく、噂を真に受けて簡単に人を殺している場合が多い。国学者の鈴木重胤が暗殺されたのは廃帝の調査をしているという噂のためだった。暗殺者たちは、要路にある人物を殺害することで卑賤の身にすぎぬ者が政策決定に影響を与えるという誘惑に勝てなかったのである。

そういう殺害はやがて「天誅」と呼ばれるようになる。天誅第一号とみなせるのは、関白九条久忠の家士島田左近(文久2年)の殺害。犯人は薩摩藩の田中新兵衛であるが、裏には藤井良節らがいた。薩摩藩は過激な攘夷派を粛清した寺田屋によって評判を落としており、その人気を取り戻すためという側面もあったようだ。島田の首は青竹に突き刺されて鴨川の河原にさらされ、斬奸状には井伊直弼のブレーンだった長野主膳を批判しつつ、それと同調した島田を「天地に容れざるべき大奸賊也。これにより誅戮を加へ梟首せしむ者也」と述べてあった。グロテスクな見世物は大評判になり、人心を無視しえなかった彦根藩は長野主膳を斬罪に処している。天に代わって人を討つとは随分不遜な殺人があったものだ。

なお、田中新兵衛は後に土佐の武市半平太と意気投合。武市は「派手な暗殺で土佐の存在を京都じゅうにアピールしようとし(p.65)」ており、二人は京都に血の雨を降らせた。同じく土佐の岡田以蔵は、多くの大衆作品で描かれ人気があるが、彼は「殺人をゲーム感覚で楽しんでいた(p.71)」。桜田門外や坂下門外の浪士たちとは違い、岡田たちは「天誅」を大義に、「抵抗できない者をなぶり殺しにするサディスティックな快感に酔いしれながら、それを正義と信じていた(p.72)」。

治安を守るべき幕府の役人も標的になり、4人の首が処刑場にさらされた。これには薩長土と久留米藩の「志士」が関わっているという。町奉行所は報復を恐れて及び腰で、大抵の暗殺犯は捕らえられずに済んだ。治安が崩壊していたのである。

このように、文久2年は暗殺の年ともいうべき年であった。しかし高官を直撃するのはテロリストとしてもリスクが大きい。脅して黙らせるのが目的なら高官自身を狙う必要はなく、周囲の人物で十分だ。

文久3年(1863)、儒者の池内大学が殺され、その耳が三条実愛と中山忠能の屋敷に投げ込まれた。震え上がった二人は直ちに議奏を辞職した。岩倉具視や千種(ちぐさ)家も標的になった。先ほどの島田左近もそうだが、幕府側だけでなく朝廷側もかなり暗殺の被害を被っている。ちなみに公家自身が暗殺された最初は、攘夷公卿として知られた姉小路公知。過激な攘夷から態度を軟化させつつあった矢先の出来事であった。攘夷派は、国論が開国でまとまろうとするたびに暗殺でそれを妨害した。

こうした状況を受けて、会津藩主の松平容保(かたもり)は、暗殺が繰り返されるのは上下の事情が隔たり過ぎているからだとして、「言路洞開」が必要だとした。「言路洞開」はこの頃盛んに言われるようになっていた。容保はテロを取り締まるのではなく(というより町奉行所の取り締まりが期待できないので)、浪士たちを組織化して統率しようとし、その構想は後に「新撰組」として実現。奉行所と違って断固として治安維持を行ったので市民からの信頼を得た。

なお暗殺をしたのは浪士ばかりではない。例えば攘夷派の清河八郎は、新選組の母体の浪士組(芹沢鴨と近藤勇をそれぞれ中心とした2グループ)と朝廷を結び付けようとしたため、危険を感じた幕府によって暗殺された。また会津藩も、有栖川家に近づき宮家の警護を申し出た芹沢鴨を近藤グループに暗殺させている。

長州藩では、旗本の幕府からの親書を持ってきた中根市之丞が暗殺された。奇兵隊は中根が乗ってきた重陽丸を奪った上、藩がその返還を命じたのに返さず、ついには暗殺したのである。長州藩自身が奇兵隊に振り回されていた。この幕使暗殺という暴挙は、後に長州征討の理由にもなった。

孝明天皇が開国を勅許すると、「叡慮は攘夷にあり」と息巻いていた暗殺者たちは大義名分を失う。暗殺者たちは天皇の意を体しているつもりでいたが、孝明天皇は暗殺のような手段を憎んでおり、暗殺の横行は意に沿わぬものであったことは言うまでもない。

しかしその後も暗殺は続き、佐久間象山(開国を説いた)、中山忠光(攘夷公卿で長州藩に逃れたが、長州藩にとってはやっかいな存在)、イギリス陸軍の少佐と中尉、真木和泉の四男菊四郎、原市之進(徳川慶喜側近)、赤松小三郎(洋学者、薩摩藩に門人が多かった)、坂本龍馬、中岡慎太郎、伊藤甲子太郎(元新選組幹部、新選組に殺された)など、いろいろな立場の人物が次々と凶刃に斃れている。

幕末後期にあっては、暗殺はもはや異常なものではなくなり、各陣営にとっていともたやすく実行されるものになっていたといえる。攘夷・開国・幕府・藩・浪士など、主義主張や立場を異にする者たちが暗殺を使っていた。だが意外なのは、この時の最高権力者(天皇・将軍)が暗殺を用いた形跡がないことだ。下々の者は暗殺に狂っていたが、最高権力者の方は冷静だったのだろうか。

明治維新が起きると、明治元年(1868)1月に早速政府は暗殺を禁止した(暗殺禁止令)。そして暗殺が横行したのは「言路洞開」のルールがなかったからだとして、形の上では公然と意見を言えるようにした。それでも暗殺事件は絶えなかった。ここで本書では、明治11年までの代表的な暗殺事件について述べてその背景を探っている。

それを大雑把に述べれば、明治の暗殺者たちは「維新に乗り遅れたものたち」で、開国にかじを切った新政府を憎んで開化政策に反対していた。彼らは「維新」に裏切られたと思っていた。しかし幕末と違ったのは、そうした事件を起こした者たちが政府によってちゃんと裁かれたということだ。結局は、幕末に暗殺が横行したのは幕府の治安維持体制の弛緩による部分が大きい。

本書は最後に、暗殺されたもの・暗殺したものに対する顕彰運動について述べている。例えば明治40年、旧彦根藩の旧臣たちは井伊直弼の顕彰(銅像の建設)に乗り出した。ところが政府の元老たちは「井伊直弼は志士を弾圧した本人。顕彰などけしからぬ」と横槍を入れ、彼らに対抗して井伊を暗殺した浪士たちを「烈士」として礼讃。「桜田烈士五十年祭」を靖国神社で挙行した(主催はやまと新聞)。誰を顕彰し、誰を顕彰しないか、それは社会や政府の様々な思惑が働いていた。反幕側では、暗殺者は靖国神社に祀られ、官位の追贈を受けたものが多い。しかし全くそういう顕彰がなされなかったものもいる(例えば岡田以蔵)。

本書は、暗殺というテロ行為を主役にして幕末維新史を述べるものであるが、一言でいって、幕末の志士たち、少なくともその一部は狂っていた。天下国家を論じる大言壮語に気焔を上げながら、同時に人を殺すことをなんとも思っていなかった。それどころか、暗殺によって名を上げるために殺害に適当な人物がいないか探していた。武市半平太の門人の田中光顕は、京に上がって「さて誰を殺そう」と考えたというが、これなどはテロリストであるよりも、むしろ単なる殺人者であった。彼らは、芸者を侍らせ、一廉の人物として怖れられることを望んでいただけのならず者であった。

伊藤博文も噂話で人の命を簡単に奪い、しかもそれを終生反省していなかったらしい。正義が自分の側にあると信じて疑わなかったからだろうか。それとも、維新の過程は一種の「戦争」だったからだろうか。最近はあまり言われないが、明治維新は「無血革命」であったとされることがある。しかし多くの血が流されたことは間違いない。

明治維新の血塗られた側面を平易に語る良書。

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