天皇の即位儀礼といえば、「即位式(+践祚儀)」とその後に行われる「大嘗祭」であるが、明治維新直前まではそれに加え「即位灌頂」という密教儀礼が行われた。本書は、この失われた「即位灌頂」を中心として天皇の即位儀礼について述べるものである。
このうち、即位式は令制以前にかさのぼる継承儀礼であり、大嘗祭は7世紀後半に天皇制とともに確立したものである。大嘗祭は、天皇を天照大神の子孫(皇孫)に位置づける神事で、「天孫降臨の再演(p.73)」として天皇自身がこれを行った(桜井好朗)。古代の即位式・大嘗祭においては、天皇の権威を支えたのは神だった。
しかし、桓武天皇以降は天皇の即位儀礼が「脱神話化(p.57)」していく。それは天皇の皇位継承が安定したものとなり、また先帝の意思に基づく譲位が常態となったことが影響しているという。
そして平安時代中期に即位灌頂が登場する。
即位灌頂の起源はインド国王の即位式にさかのぼるが、仏教儀礼としての灌頂は「正統な継承者となる」ために頭から水を灌ぐ儀式である(ただし天皇の即位灌頂では実際に水が灌がれることはなかった)。これはやがて琵琶や箏などの秘曲、和歌の奥義を授ける儀式にもなった。ともかく、秘説や秘伝を後継者に伝授する儀式が灌頂だったのである。
中国では、唐代に玄宗ら皇帝が灌頂を受け、また国内が混乱する中で皇帝が菩薩戒を受けており(皇帝菩薩)、皇帝への仏教的権威の付与がなされている。また日本でも空海が平城天皇・嵯峨天皇に戒を授け灌頂を行っているが(西本昌弘)、これはあくまで仏教儀礼として密教の奥義を伝授するものであった。
一方で、「皇位」は何者かが天皇に対し伝授するものではない。即位灌頂で天皇に伝授されたのは「印契(いんげい)」(両手指を組み合わせて仏を表現するもの)と「明(みょう)」(真言)の「即位印明」であった。そしてこれを伝授したのは基本的には摂関家であり、僧侶ではなかった。即位式において、天皇が摂関家から「即位印明」を与えられるのが即位灌頂だったのである。
そしてこの「即位印明」は、秘説として特別に伝授されるものであったが、口伝でありながら故実書や聖教に記載され、「公の秘説」として、ある程度の広がりをもって認知されていた。本書ではこの「公の秘説」がキーワードになっている。
初めて即位灌頂が行われたと推測されるのが後三条天皇(1068年即位)。後三条天皇に即位灌頂を行ったのは(摂関家ではなく)護持僧だった成尊(真言宗小野派)と考えられている。即位灌頂を自ら史料に残したのは伏見天皇(1288年即位)。伏見天皇は二条師忠から「金輪王躰金剛界大日印像」という印契を伝授されている。その後、二条家は即位印明を相伝していき、室町時代後期には二条家が「天下の御師範(p.97)」と号されることになった。
なお、孝謙天皇の頃には即位に伴う仏教儀礼として「一代一度大仁王会」という法要が行われたこともあったし、玉体護持のためには仏教も大きく協力していた。後三条天皇の場合、「延暦寺・東寺・園城寺から代始護持僧がそれぞれ一名ずつ選ばれ、天皇の在位期間中、玉体護持のために普賢延命法、不動法、如意輪法を修す「三壇御修法」が修された(p.21)」。即位灌頂については、摂関家と距離があった後三条天皇が新たな天皇権威の創出を企図して行ったものと見られる。しかしそれが結果的には摂関家の方を仏教的に権威付ける結果となったのは皮肉というほかない。
ところで大嘗祭は後土御門天皇(1464年即位)以降は斎行されず、220年余り中絶した。これが再興されたのは霊元天皇の後を承けた東山天皇(貞享4年(1687)即位)の時である。ただし次の土御門天皇では大嘗祭は行われず、さらに次の桜町天皇の時に吉宗の協力で再び再興されている。
なお、大嘗祭は夜通し行うものであるが、先述の通り大嘗祭は天皇親祭で摂政や神祇官の代行は認められない。では年端もいかない幼主の場合はどうしたか。その場合、やはり摂政がある程度の代行をしたようである(5歳で即位した崇徳天皇の場合など)。大嘗祭はなかなか手間のかかる儀式であり、しきたりもうるさく、しかも天皇の他、摂関家と特定の采女以外は知りえない秘伝が多かったため、故実を蓄積し式を補佐する摂関家の役割が大きくなっていった。そして秘伝を相伝していることが摂関家の権威をさらに高める結果となった。即位印明はこうした相伝の一環となり、「天皇に近い立場で権力を維持するためのもの(p.117)」であった。
しかし即位印明が単なる摂関家の権威を演出する道具として創作されたものかというとそうでもない。それは様々な形で解釈され、関係づけられ、理論化されたものであった。そもそも経典に基づかない即位印明がどのようにして生まれ、発展させられたのか。本書ではそこで夢に着目する。慈円の夢、花園院の夢(の記録)が分析されているが、特に花園院は3度もかなり具体的な夢を見、結果として北野天神の夢想感得像をつくらせるとともに、「即位灌頂秘印」が天神から授けられた(とされた)。
ところで、即位印明を相伝したのは二条家であったが、江戸時代になると五摂家にはその相伝を巡って相論が起こった。特に九条家は二条家に対抗し、歴代宝物や伝えられた神話を持ち出して相伝を主張。近衛家も関係文書の伝来を根拠に印明伝授を行う資格があると申し立てた。結果的には二条家により行われたが、二条家による伝授が正統とは決定されなかった。
このように、即位灌頂とそこで伝授される即位印明は、仏教儀礼というよりも摂関家の有職故実の世界にあったのだが、複雑なことに、即位儀礼そのものは寺院によって理論化・相承されていたのである(!)。例えば、東寺では大日如来からアマテラスを経て(!?)弘法大師に至る系譜が説かれ、神話と仏教的世界観が接続されたし、天台宗では法華経の偈自体に天皇の即位の正統性を読み込んだ。天皇の正統性を保証する「物語的機能」が即位灌頂の理論を通じて出来上がっていた。著者は寺家と摂関家は「一種の協働状態にあった(p.189)」という。
本書はさらに古代インド、タイの国王の即位灌頂について紹介し、その正統性を思想がどう支えたかを概観する。さらに仏教的世界観の中に天皇の存在を位置づける作業の一環として、仏教的世界観の認識が考察されている。その中心は須弥山である。仏教的な世界観の中心には須弥山があったが、その壮大な世界観において世界の王とされたのが金輪聖王(とそれを表す一字金輪)であり、天皇はそれらに擬された。金輪聖王とは、須弥山世界における4つの世界(四大洲)全てを統治しているとされる(我々の世界はその中の一つ南贍部洲)。
大嘗祭が天皇と神を一体化させる儀式であったとすれば、即位灌頂は天皇を仏教的世界観に位置づけて金輪聖王と一体化させる儀式であったといえる。
しかし、西洋の天文学が伝わると仏教的世界観に動揺が走る。そんな中で僧侶の普門円通は『天啓或問』を読んで旧来の須弥山説に疑問を持ち、それを科学的に解釈した『仏国暦象論』を著して地球説と地動説を批判。寛政年間には梵暦社を組織している。須弥山説は護法運動という政治的色彩を帯びて盛んに擁護された。「アジアのなかでも日本の須弥山論争は、17世紀から19世紀という長期に亘り、規模も儒者や国学者などの世俗的知識人をまきこみ、庶民にも影響を与えるなど大規模なもの(p.247)」であったが、事実によって否定されて仏教的世界観は崩壊。明治天皇の即位式では即位灌頂は廃止された(つまり明治維新前に廃止されている)。
ちなみに明治天皇の即位儀礼では、福羽美静の「思いつき」で地球儀が天皇の前に置かれた。これはたまたま調度品として利用できたことから置かれたという偶然の側面もあり、「新政府の構想を必ずしも正しく反映したものとはいえない(p.257)」が、結果的に仏教的世界観ではなく科学的世界観に立った君主として明治天皇をしつらえることになったのである。
全体として、本書はちょっと読みづらい。見慣れない用語が多く、時代が行ったり来たりする上に、著者の関心事項は非常に詳しく書いてある一方で、全体的な見取り図はあまり描かれないので、即位灌頂がどのようなものであったのか最後までよくわからなかった。
一番よくわからなかったのは、即位灌頂がどこで、どのように行われたのかである。例えば、即位灌頂は誰が同席していたのだろうか。群臣が参列する中で行われたのか、それとも秘密の儀式であったのか。これは注意深く読めば書いてあったのかもしれないが、私は見つけることができなかった。君主の正統性を示す儀礼であれば群臣参列が普通であるが、密教儀礼であれば秘密の儀式が妥当である。どちらなのだろうか。
本書は即位灌頂についてまとめたほぼ唯一の概説書であり、その価値は高い。ただし、私自身その内容を十分に理解したとは言いがたい。
失われた天皇の即位儀礼「即位灌頂」を明らかにする労作。
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