親鸞の伝記。
親鸞ほど歴史的事実が混乱し、評価の異なる高僧は少ないという。それは、親鸞の家族関係(妻・子)に関する史料の誤読や根拠のない伝説、勘違いのために、本来なら平易なはずの消息(手紙)が誤解され、複雑な家庭環境や教説を想像したことに原因があった。
著者が本書で指摘したこれまでの誤解のうち主なものを2つ揚げると、「親鸞の妻は2人いた」という誤解、 「下人の「いや女」を娘の覚信尼であるとした誤解」である。江戸時代以来こうした誤解があったために、親鸞の伝記は混迷を極めてきたのだという。
そこで著者は史料を注意深く考証し、これまでの伝説を排して実証的に親鸞の人生を再構成した。そのため本書には論争を挑むようなところがあり、「某の研究はここが間違っていて、正しくはこうである」といった指摘が多い。おそらく、発表当時はかなりの賛否があったのではないかと思う。しかし読者としては、先行研究を紹介し、それを糾合しつつ批判を加え、一次史料に基づいて事実を確定していくという態度がまことに堅牢であり、安心して読める伝記である。
本書を読んで心に残ったのは、法然の浄土教との理論的相違、親鸞の在俗主義への徹底、無教会主義とも言うべき伽藍との決別、親鸞の晩年における公私両面での苦労である。
第1の法然との相違は、親鸞自身は法然の教説を受け継いでいると自認していたものの、理論的には法然が「偏依善導」を標榜してもっぱら善導の理論に基づいていたのと比べ、親鸞は宋代の(つまり同時代の)浄土教の種々の理論を積極的に摂取して宗教理論を精緻化している。善導は当時から400年も前の人であるから、法然は随分古い理論に基づいていたわけで、親鸞はそれをキャッチアップさせたといえる。
第2の在俗主義への徹底は、そもそも比叡山を下りた契機に存在する。親鸞は20年間比叡山で修行したが、おそらくは性欲に関する苦悩から精進潔斎の生活は不可能であると悟った。そして山を下りた親鸞は、自らは(出家した)僧ではないという自覚を持ち続けた。事実親鸞は妻帯肉食し、大勢の弟子にかしずかれるようになっても自分は師ではないと主張し、親鸞に弟子は一人もいない、すべて朋友だという立場をとった。
第3の伽藍との決別は、在俗主義から帰結するものであったといえる。親鸞は教団的なものを率いるようになっても寺院を作らなかったし、弟子達が道場を組織するようになってもその建物を質素なものとするよう訓戒した。伽藍との決別は、精神的なものを重視する立場を具体化したものであり、また当時の顕密仏教への批判でもあったのだろう。
第4の晩年の苦労は、第2、第3の点から導かれた側面もある。親鸞自身はそう思っていなくても、弟子達は立派な伽藍を設け宗教指導者として信者の布施を受ける経営に憧れた。親鸞の晩年には、弟子達との方向性の違いから教団(親鸞は教団を組織する気はなかったのであるが)は分裂気味であった。それは教義上の差異もさることながら、在俗主義を貫いては教団の発展が望めないことに内在していたのである。また親鸞は家族のことでも苦労した。有名な善鸞の義絶だけでなく、孫の覚恵の生活の心配もあった。親鸞は高齢になっても世俗のごたごたと離れられなかった。しかし親鸞の在俗主義と家族の重視は、真宗教団が世襲的に維持されていく基盤にもなった。
ところで、本書は親鸞の行実に関しては充実しているものの、思想史的な部分は非常に簡潔である。例えば親鸞の主著であり浄土真宗の根本理論となった『教行信証』が、どうして著されたのかについて本書は述べるところがない。弟子でも『教行信証』を理解できたものは十指に満たなかったと考えられる。ほとんどの弟子には理解できないのに、なぜ親鸞は『教行信証』を書いたのか。それは当時の思想界での対立を踏まえてしか理解できないと思うが、そうした面に本書はあまり触れていない。
とはいえ親鸞の教義面の遍歴については丁寧に書いている。本書は教義を解説するものではないからあくまでも概略であるが、親鸞の教えの要諦とその人生の関わりがよく理解できると感じた。
史料の厳密な考証によって行実を明らかにした親鸞伝の好著。
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