大宰府の概略的な歴史。
古代から中世初期の九州の歴史において、大宰府は絶大な影響を及ぼしている権門の一つだ。大宰府は形式的には九州を治めるための地方行政機関ではあったが、実質的にはそれ自体が国家に準じるような存在になった時期もあった。
官衙(役所)としての大宰府の淵源は、推古朝あたりに作られた「筑紫大宰」である。当時は新羅の圧迫によって任那(日本が朝鮮半島に権益を有したらしき地域)を失いつつある時期で、筑紫大宰はこうした外交関係の処理を担うため中央行政府の出先機関のような役割を果たしたと考えられる。
しかしその後の対外関係の悪化から白村江の戦いの敗北を受け、九州は朝鮮半島の緊張をモロに受ける最前線へと変化する。そこで筑紫大宰はより守りの堅固な内陸に移転することとなり、選ばれたのが太宰府町(現・太宰府市)であり、そこに設けられたのが大宰府である。よって大宰府は地方行政府であると同時に、国家の防衛を担う役所として出発したのである。ここは辺境防衛隊である防人(さきもり)配備の拠点でもあった。
よって大宰府の規模や任官の位階は他の行政組織を凌いでおり、律令制最大の官司であったということができる。長官(かみ)は中央政府でみれば大納言に次ぐ高位ポストで、しかも大伴旅人のような有力者が任命された。また大宰府の官人は経済的にも優遇されていた。なお租庸調のうち、租は国衙に、庸調は中央政府に京進することとなっていたが、大宰府管内諸国の場合は庸調が全て大宰府に集積され、府用に宛てられた残余が京進されていた。
また大宰府には府庁と隣接して、天智天皇により観世音寺が建立された。種々の事情から造営には80年近くかかったが、これは地方における第一級の寺院となっただけでなく、西海道諸国の戒壇にもなり、東大寺戒壇院、下野薬師寺とともに「天下の三戒壇」をなして平安前期まで大いに栄えた。
さらに大宰府の北東に位置する宝満山は竈門(かまど)山と呼ばれるが、ここに竈門山寺が奈良時代中期(推定)に創建された。ここでは最澄・空海も修行したという。宝満山は神仏習合が進むにつれて英彦山(ひこさん)とならぶ修験道のメッカとなった。
9世紀に入ると大宰府は徐々に変質していく。長官(帥(そち))には親王が遙任官(現地に赴任しない任官)として宛てられるようになり、また副長官級(権帥(ごんのそち))には政治的敗者・罪人が左遷ポストとして赴任させられるようになる。大宰府の役人は位階は高いが都から遠く離れていたため、左遷にはぴったりであった。大宰大弐(次官級)であった小野岑守(みねもり)の意欲的な改革はあったが、律令制の弛緩に伴って大宰府の政務も次第に形骸化していった。
菅原道真も大宰府に権帥として赴任させられて現地で死亡した。道真は怨霊になったと信じられ、その霊をなだめるため北野神社(天満宮)と安楽寺が創建された。これらは明治の神仏分離までは同体であり、安楽寺天満宮あるいは天満宮安楽寺などと呼ばれていた。安楽寺は道真の墓所であり菅原氏の氏寺であったが次第に官寺化し、また九州各地の荘園が寄進されて、九州では宇佐神宮と並ぶ大荘園領主へと成長した。安楽寺は大宰府の政治的保護すらも必要としないようになり、日宋貿易にも進出して経済的基盤を強化した。他方、それと対照的に観世音寺は大宰府に密着して自立を怠り、大宰府の衰退とともに衰微して東大寺の末寺となった。
ところで、菅原道真の建言によって遣唐使は廃止されたが、遣唐使の廃止以後も大宰府は海外との交流の拠点であり続けた。公館であった鴻臚館も遣唐使廃止以後は民間商人の宿泊施設となったようである。むしろ遣唐使時代は、九州は大陸との窓口ではあったが文化は素通りしていった。民間の交流が盛んになってからの方が、海外交易が九州に大きな文化的・経済的影響を与えたと見られる。
平清盛が大宰大弐の地位を手に入れたのも日宋貿易を独占するためだったと考えられる。継いで弟の頼盛も大弐になり実際に赴任。その着任2ヶ月前には宇佐大宮司公通(きんみち)が権少弐に任命されている。安楽寺や筥崎宮、宗像宮も平氏と親近関係になっていた。平氏はこうして九州に一大権門として君臨したのである。ところが平氏は源平合戦で敗れる。その結果、九州における平氏関係勢力が駆逐されて関東御家人が下向し、九州地方の勢力図は中世的に再編されていくのである。
大宰府においても、文治2年(1186)、伊豆の有力御家人天野遠景(あまの・とおかげ)が鎮西九国奉行人に任命されて大宰府の政務を処理するようになり、それにより大宰府守護所(幕府が大宰府を支配する機関)が成立。さらにその後任として赴任した中原親能(ちかよし)や、筑前・肥前・豊前などの守護として下向してきた武藤資頼(すけより)によって九州支配の構図が代わっていく。特に資頼は大宰少弐にも任命されたがこれは大宰府の歴史に重要な意味を持ち、彼は鎌倉から赴任した鎮西奉行でありかつ大宰府の役人でもあるという二重構造の支配を行い、やがて「大宰府」は実質を失って、武藤氏が少弐を世襲する九州支配機関の名として便宜的に用いられるに過ぎなくなるのである。 そうして武藤氏は「少弐氏」を称するようになり、大友・島津氏とともに中世の九州を三分する勢力となっていくのである。
ところで本書は、昭和40年代に行われた大宰府政庁の発掘調査の成果に基づいて1979年(昭和54年)に書かれ、それまでの大宰府史を概略的に訂正する目的をもっている。よって、おそらく現代の研究水準からはやや古びた点があると思われることと、概略であるために若干隔靴掻痒の感が否めない。宇佐八幡宮との関係や交易の実態、大宰府と各国司の関係などもう少し突っ込んで知りたくなった。
やや物足りないところもあるが、大宰府のコンパクトな通史。
【関連書籍】
『列島を翔ける平安武士—九州・京都・東国』野口 実 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/blog-post_13.html
平安時代から鎌倉時代にかけての武士のネットワークを南九州にフォーカスして述べる。
大宰府が九州に及ぼしていた種々の影響が実例によって知れる。
0 件のコメント:
コメントを投稿