2020年1月2日木曜日

『六祖壇経』柳田 聖山 訳(西谷啓治・柳田聖山編『世界古典文学全集36A 禅家語録 I』 所収)

唐代の禅僧、恵能の言行録。

恵能は貧しい生まれで教育を受けず、字が読めなかった。彼は薪を売って母親を支えていたという。だが町でお経を読んでいる声を聞いて突如発心し、母を棄てて出家し弘忍という高僧の下で修行した。字が読めないので最初は下働きのような形だったが、彼は生まれながらの禅匠であり詩人だったのでやがて頭角を現し、遂に禅の第五祖弘忍から後継者と認められ、ダルマから引き継いだ袈裟を譲られて六祖となった。

しかし字が読めず生まれが卑しかったことで弘忍の弟子たちは恵能を認めず彼を暗殺しようとする。そのため恵能は逃亡。こうして恵能は禅僧としての人生を激動のうちにスタートさせたのである。

本書は、恵能が役人の韋璩(いきょ)という人の求めに応じて行った公開説法の模様を弟子の法海がメモしたものである。恵能のドラマチックな人生と、深遠な教えが縦横に展開されており、禅籍らしからぬ面白さである。

しかしながら、本書にはほぼ全く書いていないが実は『六祖壇経』を額面通り受け取ってはいけない事情がある。というのは、これは恵能の弟子であった荷沢神会(かたく・じんね)という禅僧が、自らが正統な禅の継承者であることを主張するため、師の恵能を持ち上げるべく創作した部分もかなり含まれているからなのである。

荷沢神会は当時大きな反響を呼び起こし、禅の歴史を大きく変えた人物である。彼は自らの正統性を鼓吹するため様々な新説を考案した。例えば、先述した「恵能はダルマから代々引き継いできた袈裟を譲られた」(「伝衣(でんね)説」という)というのも彼の創作である。それまで、法統を継ぐ証しとして袈裟を与えるという慣習自体が存在していなかったと見られる。しかし『六祖壇経』では、あたかもそうした慣習があったものとされてドラマが展開し、恵能に反発した弘忍の弟子たちが袈裟を奪いにやってくる…といった場面が描かれるのである。

神会はまたダルマから自らにいたるまでの祖師の系譜を作為し(「西天八祖説」)、遂に恵能が禅の六祖であることを社会に認めさせた。恵能の生前には、彼は六祖でもなんでもなかったのである。

また神会は禅の思想をもかなり変質させた。彼は北方の禅で行われていた長い修行や座禅を回りくどいものとし、悟りとは一瞬の認識によって得られるものと考えた。そして自らが迷っているという認識を得ることで仏陀になる、迷いが即ち悟りであるという「煩悩即菩提」の「頓悟禅」を推し進めた(頓悟=一瞬で悟る)。こうしたことから、北方の禅が長い修行や座禅によって真理に到達しようとする「漸悟」であり、神会の主宰する南方の禅は「頓悟」であるのでより優れているという「南頓北漸説」をも鼓吹した。

そしてこうした神会の説は、当然のごとく六祖恵能に仮託され、『六祖壇経』に描かれる恵能によって語られているのである。しかしだからといって、恵能の言説の全てが神会の薄っぺらい創作であると思うならそれは間違いだ。『六祖壇経』ほど異本の多い禅籍はないと言われるが、様々な優れた言説が恵能に仮託され、いわば禅の超人として恵能がアイコン化してゆき、超人の言行録として成立したのが『六祖壇経』なのである。

であるから、恵能の言葉は非常に含蓄があるものが多い。確かに神会は恵能を超人として演出したかもしれないが、それは非現実的な瑞祥(花弁が降ってきたとか)をちりばめることによってではなく、あくまでも言葉の力によってなされたものだからである。確かに恵能のような師の下では一瞬に悟ることができるかもしれない、と思うようなところがある。その教えの要諦は「自己に目覚めよ」の一言に集約できる。本来の自己を見つめること、それができたならもう仏陀であるという。これは非常に力強い言葉であって、『六祖壇経』は迷いの中にある人にとって道標になりうる本である。

内容は歴史的事実ではありえないが、創作的人物としての恵能の言説が魅力的な本。

【参考文献】
『禅の歴史』伊吹 敦
↑荷沢神会についてはこの本を参照しました。

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