2020年12月22日火曜日

『倭寇―海の歴史』田中 健夫 著

倭寇を軸に、14〜16世紀の東シナ海の歴史を描く。

倭寇と一口に言っても、時代も場所も様々であり、日本人も朝鮮人も中国人もおり、その目的も略奪から交易まで多様だった。そもそも、大陸では秀吉の朝鮮出兵も「倭寇」と見なされており、「倭寇」はカッチリとした歴史概念ではない。

広義に考えれば倭寇は日本と大陸の関係が生じてから20世紀に至るまで存在していたのであるが、本書では狭義の倭寇を叙述の対象とし、その活動が最も激しかった「14〜15世紀の倭寇」・「16世紀の倭寇」にフォーカスして述べる。

なおこの二つは、時代が違うだけでなく、その性質が全く異なるものであるため区分されている。人によっては「前期倭寇」「後期倭寇」と呼ぶこともあるが、この用語では連続したものの前期と後期に区分しているというイメージとなるということで本書では採用されていない。

14〜15世紀の倭寇

【高麗における倭寇】 高麗は、元の侵攻によって存亡の危機を迎え、空前の混乱状態となって警察・軍備もグダグダになった。すなわち、沿岸警備が疎かになり、この空隙を塗って倭寇の活動が急激に活発化したのである。1350年から高麗王朝が倒壊した1392年までの約40年間、倭寇は朝鮮半島を荒らし回った。

この頃の朝鮮半島の倭寇は、略奪行為が中心だった。倭寇は船数数百、兵数数千というような大軍で押し寄せ、騎馬隊までも引き連れていた。彼らは糧食を奪い、また人も掠って奴隷として売っていた。

もちろん、こうした不法行為に対して、朝鮮側は日本に対して抗議を行った。高麗時代はその効果は限定的であったが、李氏朝鮮が成立すると太祖李成桂は室町幕府に倭寇の禁止を要求する。足利義満はこれを受けて賊船を禁止し、また被虜人を送還して朝鮮との友好的な関係を樹立した。

さらに、李氏朝鮮は、それでも活動する倭寇には懐柔策を以て当たった。投降すれば土地や家財を与え、妻を娶らせ、また貿易の権利を与えて優遇するというものだった。倭寇(対馬、壱岐、松浦地方の人が多かった)はこれに続々と従った。こうして降伏した日本人は「投化倭人」などと呼ばれ、やがて朝鮮政府の中枢にまで入り活躍していく。

また、朝鮮は倭寇への懐柔策として日本の諸豪族に通商の許可を与えた。こうして朝鮮との貿易が活発化。ただしあまりに多くの豪族(の使節)が朝鮮に渡航してその接待が負担になったため後に貿易は制限する方向となった。ともかく、李氏朝鮮政府は、日本とちゃんとした外交関係を樹立し、倭寇として活動していたものを「投化倭人」や貿易商人へ変質させることで倭寇の猛威を収束させた。

【中国における倭寇】元と日本とは正式な国交はなかったものの、両国間で貿易は盛んに行われた。特に寺社の造営費用をまかなうために大寺院が貿易船を派遣した。また禅僧の往来も多かった。この時代、貿易を目的に渡航して、思うような成果が出ない場合に略奪を働いた場合が多かったらしいが、元代の史料はあまり残っていないので実態はよくわからない。

明代には、倭寇の活動はかなり激しくなる。その内容は、高麗の場合とほぼ同様であった(時代的にも同じ)。明の太祖洪武帝は、国際秩序の確立のためにも倭寇の問題を解決しなければならなかった。洪武帝は懐良親王に使節を送り、懐良親王を日本国王と認めて国交を開こうとしたが、懐良親王は今川了俊らに抑圧されその任を果たすことはなかった。

一方、この時期、明では洪武帝による功臣の粛清に関してもめ事があり、その余波によって日本との通交は断絶、また中国人民が海上に出ることを禁じた「海禁政策」を強行した。これにより諸外国との明との通交は朝貢一本に絞られることとなった。

足利義満は、征夷大将軍を譲り、剃髪して、国政の官職から離れてから、洪武帝没後の応永8年(1401)、明に使節を送り通商を求めた。彼は律令体制外にある一種の「自由人」として、日本国王として振る舞えた。明では義満を日本国王と認めて巨大な金印を送り、日本を中国中心の国際秩序(華夷秩序)に位置づけ倭寇の鎮圧を命じた。これに応じて義満は倭寇の取り締まりを行い、そのために倭寇の活動は下火となっていった。

義満死後、日明間の通交が断絶していた時期には、倭寇の船団が明の防衛によって全滅に近い被害を受けた「望海堝の戦い」があり、また朝鮮が倭寇の本拠地と見なした対馬を征伐する「応永の外寇」が起こった。幕府の取り締まりや、これらの戦いで15世紀には倭寇の活動は終わりを告げた。

それを埋め合わせるように、東シナ海では貿易が活発になっていく。明が海禁政策をとったことで、琉球が東南アジアとの中継貿易のハブとして栄えることとなった。また、幕府やその傘下の豪族(特に大内氏と細川氏)、堺の商人たちが綯い交ぜになって行われたのが明への朝貢の形をとった日明貿易である。応永8年(1401)[前出]から天文16年(1547)に至る約150年間に19回、遣明船が派遣された。

明の海禁政策は、中国の国民が海上に出ることを禁じた政策だが、多国間の貿易が盛んになる中で国家がこのような規制を行うことは無理があった。そのため、役人に賄賂を送って行う密貿易が盛んになっていき、15〜16世紀になると密貿易の方が主流になってしまった。

また、遣明船が入港していた寧波では、大内氏と細川氏の争いから「寧波の乱」が起こった。この結果遣明船は大内氏が独占したものの、大内氏の没落とともに遣明船は終止符を打つ。

一方、この時期にポルトガル商人たちが東シナ海を頻繁に訪れるようになった。明ではポルトガル商人たちを倭寇と同然に見なしたが、沿岸の住民たちは彼らと交易を望み、密貿易が行われるようになった。その中心が雙嶼(そうしょ:リャンポー)である。これは寧波の東方に浮かぶ島で、許棟(きょとう)の兄弟が仕切って一大貿易拠点となった。その傘下で活躍したのが有名な王直である。

しかし、嘉靖27年(1548)、雙嶼は大摘発によって潰滅させられた。許棟は捉えられ、王直は逃亡、賊徒は多数殺され、船は焼き払われた。これを主導したのが朱紈(しゅがん)という剛直な官僚であった。だが朱紈のこの強引なやり方は批判され、後に彼は自害し、その後海禁は緩むこととなった。

16世紀の倭寇

王直は以前から日本人と関係を持ち貿易を行っていたので、逃亡後、私貿易が出来る場所として五島、追って平戸を拠点とした。平戸での彼は二千人の部下を擁し、豪奢な屋敷に住んで王者さながらの生活を送った。彼は学問に明るく、とかく争いが起こりがちな密貿易における調停者としての資質にも優れていた。まさに王直は倭寇国の王であった。

また王直は、中国大陸においても舟山群島の瀝港(れきこう)を半ば黙認された形の密貿易拠点とすることに成功した。しかしやがて瀝港も明政府によって掃討され、潰滅してしまった。こうした摘発・攻撃を受けたことは、密貿易団の性格を変えていった。雙嶼時代は、不法行為ではあったが平穏に貿易が行われていたのであるが、雙嶼潰滅後の密貿易団は武装するようになり、海賊化していく。嘉靖32年(1553)、王直は倭寇の大船団を引き連れて中国沿岸を襲った。こうした劫掠は「嘉靖大倭寇」と呼ばれ嘉靖35年頃まで続いた。

なお、王直と同類の海賊の首領に、徐海、陳東、葉明がいた。このうち、徐海は日本では明山和尚と呼ばれて尊敬された人物で、大隅に縁があったようだ。陳東は、伝説では薩摩の領主の弟というが、その真偽はともかく薩摩人を多く部下に持っていた。嘉靖大倭寇は、現地住民や日本人、ポルトガル人などと協力しながら展開した反政府的な寇掠であった。なお「倭寇」といっても、この頃の倭寇の主体は中国人で日本人はそれほど多くなかった模様である。

一方、明では倭寇対策が重要な政策課題となった。しかし海防の責任者(総督)は次々に更迭され、指揮命令系統は混乱していた。そのために倭寇の活動が可能となったのである。嘉靖35年、そんな中で総督になったのが浙江巡撫 胡宗建である。彼は日本に使者(蒋洲、陳可願)を派遣し、王直に「もし帰国するなら、海禁を緩めて貿易を許可し、罪は問わない」と利を以て誘った。王直はこれを信じ帰国したが、王直の罪を許すべきでないという廷義によって、嘉靖38年(1559)斬首された。胡宗建は、結果的には王直を騙し討ちにしたことになる。

こうして王直が討伐されたことは、他の倭寇集団を弱めることになり、徐海の一党も潰滅。倭寇はその後もなくなったわけではないものの、かつてほどの勢いはなくなった。

そして明の隆慶元年(1567)、200年にわたった海禁令が解除され、中国人の海外渡航や貿易が許可されることとなった(ただし日本への渡航は引き続き禁止された)。こうして倭寇出現の根本原因が取り除かれたため、16世紀末には倭寇の活動はほぼ終熄した。

倭寇の大きな出現原因は、日中間の貿易が自由化されていなかったにも関わらず、互いに貿易の必要性は大きかったことであった。例えば、ちょうど日本は戦国時代で、鉄砲の火薬のために硝石を大量に必要としたが、日本では硝石が産出せず、中国から輸入するしかなかった。そのため非合法ルートの貿易が必要になるのである。その一つが倭寇だったように思われる(本書でははっきりそう書いてはいない)。

もちろん、生糸、水銀、古銭(日本には自国の鋳銭がなかった)、薬材なども日本の需要は大きかった。また『論語』『大学』『中庸』といった古書(古典)も重要な輸入品であった。

それに関して、ちょっと面白いのは、日本は朝鮮からたびたび「大蔵経」を輸入しているということである。高麗では元の侵略を避ける願を掛け、国家の総力を挙げて「高麗版大蔵経」六千数百巻を彫造していた。日本はこれを盛んに求め、康応元年(1389)から天文8年(1539)までの150年間に83回も「大蔵経」を求め、43部が渡来している。足利義持などは版木までも要求した(当然断られた)。なぜ日本は「大蔵経」をこぞって求めたのか興味が湧いた。

ところで、倭寇は中国人の間に日本人の凶暴な印象を与えたが、一方では、倭寇の時代を経たことで、中国の日本に対する認識が一新されたという副産物があった。それまでの中国には『魏志倭人伝』くらいしかまとまった日本の情報がなく、日本へも無関心であった。だがこの時代、中国は倭寇対策のために日本研究が盛んに行われ、日本に関する正確で具体的な情報がまとめられた。その主なものは次の通りである。

『日本国略考』(1523):定海薜俊(せつしゅん)による明代日本研究書の先駆。所収の日本地理図は中国における最古の日本地図。
『日本図纂』『籌海図編』(1561、1562):鄭若曾が蒋洲・陳可願に聞き取りし、また様々な取材と情報収集を経てまとめたもの。倭寇研究のバイブルとなり後の多くの日本研究の書物が『籌海図編』の記述を踏襲した。
『日本一鑑』(1565):豊後大友義鎮の下に滞在した鄭舜功の書。戦国時代の日本を知るうえでも優れた史料。日本人の美点を多く認め、中国人の日本人観を一変させた。
『日本風土記』(1592):侯継高『全浙兵制考』の付録。倭寇対策よりも、日本の事物を知ることを楽しんだ様子の書。

倭寇は、いろんな意味で中国・朝鮮と日本の間にあった存在だった。日中・日朝の関係が確立し、穏やかな交流が行われていれば存在し得なかった。いくら利が大きかったにしても、討伐されてしまえば意味はない。そこに彼らが存在する隙間があったからこそ、活動できた。軍事・防衛の隙間、交易の規制の隙間があったということだ。ということは、彼らを理解するためには、中国・朝鮮と日本の外交関係、そしてそれぞれの国の内政を理解しなくてはならない。その編み目がほころんだ部分に、倭寇の生きるフィールドがあった。だが、私にはその基本となる前提知識がないので、本書をしっかり理解できたのか心許ない。

明や李氏朝鮮の歴史、室町幕府の外交政策などを勉強してから、改めて本書を読んでみるとかなり理解が進むのではないかと思った。

倭寇の動きを追うことで、東シナ海の激動の歴史を垣間見られるエキサイティングな本。

【関連書籍の読書メモ】
『海洋国家薩摩』徳永 和喜 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/04/blog-post.html

鎖国体制の中でも薩摩が東アジア世界と繋がっていたことを述べる。倭寇が活躍した時代、薩摩ではまた別の形の密貿易が行われていた。

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