2017年2月15日水曜日

『神都物語:伊勢神宮の近現代史』ジョン・ブリーン著

現在の伊勢神宮がどうやって形作られたのかを説明する本。

伊勢神宮というと、天皇家の神話的祖先である天照大神を祀る天皇の神社であり、国家的性格を持つ神社でもある。しかしこうした伊勢神宮の在り方は、伝統的なものとは全く違う。これは明治維新後につくられたものだ。例えば、明治になるまで天皇は伊勢神宮を参拝したことがなかった。

江戸時代において、天皇と伊勢神宮が全く関係なかったかというとそうではない。遷宮の諸儀礼の日取りの宣下、幣史の派遣など、特別な関係にあったことは間違いない。しかし天皇家の宗廟として祀られていたわけではなかった。庶民のレベルにおいても、天照大神を祀る内宮(ないくう)はさほど注目されず、豊受大神を祀る外宮(げくう)の方が参拝客がずっと多かった。

これが劇的に変貌を遂げるのが明治になってからである。明治維新は、王政復古、すなわち天皇が治めていた古代王朝のリバイバルを己のレジティマシー(正統性)の旗印にした。このため、神社政策は国家統一の重要な1ピースであった。徐々に改められて政策自体は世俗的になっていくものの、最初は「神祇官」が置かれ文字通り祭政一致の体制が取られたほどだった。

こうした趨勢の下、伊勢神宮は国家的神社としてまるきり作りかえられる。まず天皇との特別な関係が樹立され、天皇が参拝する神社となった。それを主導したのは、岩倉具視や木戸孝允、そして神社政策を委託されていた津和野藩の亀井茲監(これみ)と福羽美静(ふくば・びせい)らだそうである。そして、自治的・世襲的に運営されていた伊勢神宮は国家の管理化に置かれ、人事が国家政策となり、「浄化」されていった。

具体的には、まず廃仏毀釈が行われ、伊勢から仏教勢力が一掃された。そして神宮大麻(お札)の頒布を担っていた御師(おんし)と呼ばれる世襲職をはじめ神宮の世襲役職が全て廃止され、宮司も中央からの任命になり、祭主も皇族が務めるようになった。また伊勢の街自体が「神都」として作りかえられ、猥雑な妓楼街は主要道路から遠ざけられ、自然消滅させられていった。さらに、天皇との特別な関係の樹立のために、今に続く数々の儀礼が定められ(『神宮明治祭式』)、新しい神道理論も確立していった。この際に26の明治以前の儀礼が廃止され、新しい儀礼が21も取り入れられたという。伊勢神宮は、こうして明治以前のそれとは全く違う神社になっていったのだ。なお、こうした改革を主導したのは、内宮の神職だった浦田長民(ちょうみん)という人物である。

しかしこうした改革は、伊勢神宮がこれまで数百年に渡って培ってきた地域社会や全国の信者との関係性にも大きく変更を迫るものでもあった。交通の改善や伊勢の観光地化、旅館による広報といった数々の策が打たれたが、こうした改革のために参拝者は明治以前よりもむしろ減少してしまった。つまり神宮には矢継ぎ早の改革が行われたが、伊勢という街を見た時には明治初期は停滞の時期であった。

1929年の式年遷宮がこうした停滞を打ち破る画期となる。式年遷宮の当日に、総理大臣はじめ多くの国務大臣など国家の要人だけでなく、軍までも参加した。そして遷宮当日は休日に指定され、文部省は全国の小学校に奉賀式を執り行うよう指示した。文字通り国家儀礼として式年遷宮を行ったのである。こうなるとメディアでも伊勢神宮が多く取り上げられるようになり、国民の間に国家の神社としての認識が浸透してくる。また、小学校では「一生に一度は神宮に参拝した方がいい」と教えられはじめ、遂には「参拝しなくてはならない」に変更された。これを受けて修学旅行での伊勢神宮参拝が広まり、参拝客はどんどん増加していった。特に1935年の「国体明徴声明」(天皇を立憲君主ではなく時空を超越した聖なる君主として位置づける声明)以後はこれに拍車がかかった。開戦により伊勢神宮自体の整備は停滞したが、1941年の参拝客は年間400万人に達し、また神宮大麻の頒布数も1945年には当時の世帯数とほぼ同じ1400万体にも登っている。ただしこの頃、参拝客はまだ内宮ではなく外宮を中心に参拝していた。

戦後、「国家神道」の中心であった伊勢神宮はGHQにより存続の危機に立たされた。天皇の宗廟として細々と存続するのか、それとも単なる神社となるかを迫られた。伊勢神宮側は、当初は天皇の宗廟となる意向であったが、それだと予算的にも限られ宗教活動も制限されるということで、私的宗教法人となる道を選んだ。

しかし伊勢神宮は、単なる神社にはならなかった。GHQの目が光っているうちは表立った活動は控えていたが、徐々に天皇家との特別な関係も復活させていった。さらに、国家的な神社としての性格も獲得していった。本書の用語ではそれを「脱宗教法人化」という。その象徴となったのが1959年の正月、岸信介が総理大臣として参拝した時であった。戦後にも私的に参拝した総理はいた(鳩山一郎、石橋湛山)。しかし岸は、非公式参拝としていたにもかかわらず、随行者60人以上を連ねて明らかに公的行事として参拝を行ったのである。これに続き、池田勇人は神宮にある「八咫(やた)の鏡」が神話に基づくものであり、公的なものであるという答弁書を決定した。こうして、戦後日本でも神話が公認されて、天皇の神的性格は確認されたのである。天照大神は、国家に公認された神になった。

こうして、交通(バイパス)整備という事情もあって、戦後にはついに内宮への参拝者が外宮へのそれを上回るようになった。一度「単なる神社」になりかけた伊勢神宮は、また戦前と同じように国家と皇室の神社として国民に認識されるようになった。2013年、安倍総理大臣は戦後の首相として初めて式年遷宮に参列した。伊勢の式年遷宮は、またしても国家儀礼になりかけている。

伊勢神宮というと、古代より続く伝統の牙城のように思われている。しかしそれは事実とは全く異なる。むしろ国家が民衆支配の道具として創り出した伝統の方が多い。ただし、伊勢神宮は国家に翻弄された存在というわけでもない。積極的に国家と関わり、自らの権威を高めるように働きかけたのも伊勢神宮だった。

本書を読む上での私の興味は、なぜ伊勢神宮だけがこのような特別な存在になれたのかということだった。靖国神社や明治神宮ならば、最初から国家が創ったものだから分かる。しかし伊勢神宮は、最初から国家の神社だったわけではないし、そうならない道もあったように思われる。だが伊勢神宮は国家の神社となった。なぜなのだろうか。その答えは本書にはない。ただ、それは明治政府の誰か偉い人が決めたというより、地元伊勢の人を含めて多くの人の思惑が絡み合っていることだけは確かだ。

その大勢の中の一人に、薩摩出身の田中頼庸(よりつね)という人がいる。田中は明治時代に神宮の大宮司となり、浦田長民と対立しながらも神宮の改革を手がけた上、神社の宗教活動が禁止されると(神道は宗教でないということになり政教分離に抵触しないとされた)神宮を飛び出して「神宮教」という宗教を立ち上げて神宮大麻の配布などを行った異色の人物である。本書は田中の事績を辿るものではないからその全貌はわからなかったが、この人物もより掘り下げて知りたいと思った。

近代に成立した国家の神社としての伊勢神宮の姿に迫る、コンパクトながら内容の濃い歴史書。


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