2022年2月25日金曜日

『戸籍と国籍の近現代史――民族・血統・日本人』遠藤 正敬 著

戸籍と国籍からみる近現代の歴史。

「近代日本では戸籍法が、「国民」や「家族」をめぐるある種の道徳というべきものを生み出してきた(p.15)」。戸籍は単なる国民の登録ではなく、「日本人」を統制する装置であり、国民の「純血」を演出さえしてきた。本書は戸籍が「民族・血統・日本人」という虚構をどう形作ってきたか述べるものである。

「第1章 戸籍とはなにか」では日本の戸籍制度の総論が語られる。欧米にはない日本の戸籍の特異性は、第1に家族を編成の単位とすること、第2に本籍という観念的な場所に結び付けられていること、第3に「続柄」の記載があること、に集約できる。

欧米の身分登録制度は教会での登録を淵源に持ち、個人単位で記載事項も最小限のものとなっている。一方日本の戸籍では身分登録を越えた過剰な個人情報が記載されている。戦前の戸籍では、族称(士族・平民など)、犯罪歴や私生児・庶子の別なども記載され、婚姻や養子縁組に伴う身分変動と親族関係を時系列的に把握できたのである(徐々に改められていった)。これは戸籍がもともと治安維持の観点から編成されていたことの名残ではあるが、住民登録としては本来不要であるはずの時系列情報まで記載され、しかもそれが公開されていたことで戸籍を「純潔」に保たなくてはならないという意識が国民に生じた。「戸籍が汚れる」といった表現があったのはさほど昔のことではない。

また、戸籍は日本の家族観にも大きな影響を及ぼした。例えば夫婦同姓も日本古来の習慣ではなく、戸籍法成立時においては夫婦異姓(妻は元の苗字を維持する)であったのが、民法成立によって夫婦同姓が強制された。夫婦同姓は血統の因習に基づくものと考えられているが、むしろ戸籍制度によって生み出されたものであった。純粋に住民登録の面だけ考えれば、個人の姓の在り方を規定する必要はなかったのだ。

戸籍は単なる住民登録を越え、「日本人」の在り方を作ったとさえ言える。

「第2章 国籍という「国民」の資格」では、日本では国籍がどのような考えで規定されていたかを述べる。

国籍を定める原則には、その国で生まれたら自然に国籍を取得できるという「出生地主義」、父または母の国籍を受け継ぐという「血統主義」の大きく分けて二つがあり、各国の慣習や事情が違う以上、国際的に統一されていないのはもちろんである。

戦前の日本の国籍の原則は、父系血統主義で、外国籍者が取得(帰化)することは非常に困難で、また自らの意思では喪失もできない、ということが特徴であった。よって在米の(日本人の父を持つ)日系二世は日本の国籍を持ちつつ(離脱することができず)、出生地主義を採用する米国の国籍を持つ二重国籍となったため、戦争において日本に徴兵される可能性があり、米国では差別や収容の原因となったのだった。

そもそも誰を「日本人」とみなすか(日本国籍を与えるか)、という方針には戦争への動員が念頭に置かれていたことは言うを俟たない。帰化の要件は国家への貢献度をみる政治的な判断を要したため、国籍行政は外務省ではなく内務省の管轄となっていた。

もう一つの戦前の日本の国籍の特徴は、夫婦同一国籍であった。国際結婚の際、日本人男性+外国人女性ならば外国人女性が「日本人」となったが、これは「家」が個人より上位概念として規定されていたことの帰結であった。「家の一体性を維持するには家族は同一国籍の「日本人」であるべきという原則は、戦後に家制度が廃止されるまでかたくなに維持された(p.103)」

戦後は、国際的に国際法が父母両系主義へ改正される傾向となり、日本でも女子差別撤廃条約を締結したため、これに合わせて国籍法が父母両系主義へと改められた。これは「日本の国籍法をめぐる一大改正であった(p.106)」。

「第3章 近代日本と戸籍」では、近代の戸籍成立が概観される。

日本の戸籍は古代の「庚午年籍」から始まった。鎌倉時代には戸籍は編成されなくなるが、人的管理の必要性から「人別帳」が作られるようになり、幕藩体制では「宗門改」と「人別帳」が結合して「宗門人別改帳」が各地で作られた。これは支配階級である武士と「宗門改」を実施する僧尼は対象外であった。また江戸の人別改では、神職、修験、陰陽師、願人(門付けや大道芸人)、神事舞太夫といった宗教芸能者は町方では記載せず寺社における人別改の対象とするなど、調査範囲や扱いがまちまちで統一的なものではなかった。

明治維新になると脱籍者(住所不定になったもの)を厳しく取り締まるようになる。明治維新自体が、そういう浪人や藩の利害を超えたものによって成し遂げられたのだが、政府は治安維持の観点からそれらに「復籍」を勧告した。明治元年には「京都府戸籍仕法」が制定された。これは身分登録と家の系譜という後の戸籍の原型となった。また東京・京都・大阪では人口の流入が激しくなったことから明治3年9月には「脱籍無産の輩復籍規則」が制定され、村町の負担費用によって脱籍者を送り返すこととなった(だがあまり実行はされなかった)。

そして明治4年に戸籍法が制定され、翌5年に「壬申戸籍」が編成された。これは、族称を掲載するなど身分差別的側面を有してはいたが、僧侶などを特別扱いせず、個人を天皇の「臣民」として水平関係に凝集させるものだった。また戸籍は神道支配にも利用された。戸籍調査の際に氏神の「守札(まもりふだ)」をあわせて調査し、個人が属する神社を戸籍に記入したのである。戸籍1区に一つの郷社を置き、個人はその郷社に所属するものとされた。「守札」とはその郷社から戸長を通じて授与されるもので、「生まれてから死ぬまで一生これを所持し、戸籍と並ぶ「帝国臣民たる国籍所有の証明書」となりうるものであった(p.124)」。氏子調査規則は明治6年5月には早々と廃止されたが、区内氏神神社を記載する戸籍書式は明治18年(1885)まで続き、「神社組織を戸籍の行政単位に対応した形で再編(同)」する政策は長く尾を引いた。

しかしながら壬申戸籍は驚異的なスピードで編成されたものの、脱漏が多く制度には欠陥があった。特に戸籍に兵役逃れの抜け道があったことなどから、明治19年に諸規則を改正して新たな戸籍制度を設けた。これを「明治19年式戸籍」という。これは戸籍編成の原理を変えたのではなく、書式や事務管理を統一して厳密に作成できるようにしたものである。

さらに明治31年(1898)、「明治民法」の成立により戸籍は「家」中心の社会観を補強するものとなった(明治31年式戸籍)。というより戸籍そのものが「家」だった。「家」とは、「いわば明治国家において創作された概念(p.132)」であり、その具体的形態が戸籍だったのである。そして「戸主」の同意なくしては婚姻や養子縁組など新たな家族関係は形成することができないようになり、さらに戸主には祖先祭祀の権利などの特権が付与された。

もう一つの変更点は「本籍」が戸籍編成の基本となったことだ(それまでは家屋が基本)。そして外国人は戸籍の対象から排除された。血統主義、一家一籍、純血主義を戸籍が表現した。ただし明治31年式戸籍では身分登記簿が新設された。戸籍から徴兵や警察的機能の必要性が薄れたことを背景に、主務官庁が内務省から司法省に移管され、個人単位の管理が試みられたのである。しかし大正4年の改正で身分登記簿は廃止され、戸籍から個人主義的要素は一掃された。これ以後、戸籍法は戦後まで根本的な改正はない。

日本はその版図の拡大に伴い、戸籍の網も広げていった。樺太や琉球では、表向きには「臣民」として日本国籍が与えられたが、樺太では「旧土人」と載されるなど差別的扱いがあった。琉球の場合は家族制度や名前の方式が本土とは異なったため、日本式に名前を付けなおす琉球版「創氏改名」が行われた。

「第4章 植民地と「日本人」」では、植民地における戸籍政策が批判的に述べられる。

朝鮮、台湾、樺太は内地のみならずそれぞれの地域間でも法令が異なる異法地域だった。それらの地域で戸籍がどのように編成されたかは煩雑なので割愛する。しかし総じて、「外地」(日本の法が適用されない日本領土=植民地)の人を日本臣民として「保護」する一方で「抑圧」するという相反する目的が戸籍に付与され、同じ日本臣民でありながら内地人とは別に管理された。朝鮮では「創氏改名」が行われ、朝鮮人を日本人化したのに、実際には内地人と別に管理していた。

日本の植民地政策は「同化政策」であったと思われがちだが、実際には厳然とした外地人の差別があり、例えば内地人と外地人の結婚は、適用される法が異なるために有効に処理されない問題(共婚問題)もあった。日本は「多民族国家」になったが、それは制度上では統合されていない、見せかけだけの「多民族国家」であった。

そして外地と内地の戸籍法に通底するのは、「家」と「本籍」の原理であった。自由に移動できない「本籍」という観念的な場所に「家」があり、それを基準として戸籍が編成され、内地人と外地人の婚姻も「家」の原理で処理された。しかし外地では人々がダイナミックに移動し、また日本とは違った家族や社会の在り方があったので、「家」と「本籍」の原理は実態に即しておらずうまく機能しなかった。例えば在中国台湾人、在満州朝鮮人などは把捉自体が難しかった。

満州国に至っては、満州国が「建国」されたにも関わらず、満州国の「独立」をしつらえたい一方、満州における日本人の特権的地位をどのように規定するか結論が出ず、国籍法自体が成立を見なかった。満州国は体裁上独立国家であったにも関わらず、満州国国籍の明確な規定が存在しなかったのである。ただし国籍法・戸籍法に替わって身分登録法である民籍法が制定された。これは本籍のような観念的な場所を基準にするのではない居住登録制度であり、日本人が民籍に登録されても日本国籍は失わなかった。「日本人の処遇にかまけて肝心の「国民」も「国籍」も創出できなかった満州国に、日本の”傀儡国家”ではなく”独立国家”たる面目を見出すことは無理(p.224)」だった。

「第5章 戦後「日本人」の再編」では、戦後、旧植民地出身者の戸籍がどうなったかを述べる。

戦後、日本は外地=植民地を手放すことになったが、その際に驚くべき決定をする。これまで「日本臣民」として扱ってきた外地籍の人たちを、個人の意思とは関係なく「外国人」とするという決定だ。それまでは形の上では「同胞」として扱っていたのが嘘のようだった。特に在日朝鮮人や台湾人はすでに日本人化していたのに、それに選択の機会すら与えず強制的に外国人化したのは、とても近代国家の対応とは呼べない。在日朝鮮人が日本国籍であるにも関わらず外国人登録を受ける、という奇観を呈したのは、元をただせばこの対応に問題がある。

「戸籍を原初的な「民族」の表象とみなし、かつ壬申戸籍を源流として受け継ぐ内地戸籍こそが正統なる「日本人」の証しであるという思考は、「戸籍原理主義」と呼びうるものである(p.251)」。

一方、大陸に渡っていた「日本人」にも過酷な運命が待ち受けていた。終戦時、満州国には155万人の日本人が在住していたが、自国民救済の措置として引き上げ事業が行われたものの、1万4千人ほどは生死不明として一方的に戸籍を抹消されて事業が打ち切られたのである。また樺太にわたっていた朝鮮人については引き上げ事業すら行われず放置された。

沖縄については戦後米軍の統治下になり、従前の戸籍がほとんど戦災で焼失していたこともあって琉球籍が新たに編成された。だが誰を「琉球人」とみなすかは全くの米軍の随意であり、また琉球籍と日本の戸籍には互換性がなかった。しかし1953年に沖縄が軍人恩給の対象地に加えられると、激戦地だった沖縄では恩給を受給するために戸籍を作る必要が生じ、琉球政府ではマスメディアを活用しての「戸籍整備キャンペーン」が行われた。これには、「戸籍業務を通じてなしくずし的に沖縄と本土との一体化を図り、本土復帰への道筋を見出そうという日本政府の意図があった(p.274)」という。

このように、ひとたび「外国」となった沖縄でさえある程度柔軟に対応された戸籍業務が、外地においては非合理的なほど一律・暴力的に処理されたことは疑問を禁じ得ない。まさに戸籍は「融通無碍に政治権力によって駆使される「国民」選別の装置(p.274)」であった。

「第6章 戸籍と現実のねじれ」では、いまだに戸籍が抱えている問題が述べられる。

第1に、戸籍は外国人を排除している。戸籍が純粋な住民登録なら外国人の住民も対象にすべきなのに、戸籍は「日本人」を示す国籍の役割も兼ねているため、外国人は戸籍を持つことができない。「外国人登録制度」が廃止されて外国人も住民基本登録台帳で管理されるようになったことで制度的差別は若干軽減されたが、戸籍を持てないことによる生活者としての不利益は続いている。

第2に、婚外子への差別である。戸籍にはいまだに「嫡出」「非嫡出」の別が書かれている。そもそも、戸籍にこのようなことを書き入れる合理性は全くない。また、嫡出/非嫡出は、当の本人にとっては自分ではどうしようもないことであり、「法の下の平等」に反する憲法違反である(事実、相続における非嫡出子への差別は2013年に違憲判決が出た)。戸籍は、「本来は国家が干渉すべきではない親子関係について、それが「正統」なものか否かを法の名において当事者の意思を排して決定(p.280)」しているのが現実だ。

第3に重国籍者の取り扱いである。日本の法制度では重国籍者が存在しないように気を使ってきた。しかし世界的には重国籍は当たり前のものとなっている。重国籍だからといって国家に不都合はほとんど存在しないからだ。現在は、重国籍の発生防止よりもむしろ「無国籍」の発生防止の方がずっと国際的に重視されている。日本が重国籍を排除する背景には、「単一民族国家」という「血統」の理論がいまだに生きているからかもしれない。

第4に、日本の戸籍制度は非常に守旧的である。東アジアではかつて戸籍が広く用いられてきたが、韓国では民主的な要求によって家を基準にした戸籍法が廃止された。台湾ではまだ戸籍が残っているが、日本のそれとは違い生活の場所を基準としたもので、しかも本籍は廃止された。こうした東アジアでの戸籍の動向を鑑みると「日本の戸籍制度の守旧性が鮮明(p.295)」である。

「おわりに」では、戸籍の歴史と現在が総括される。

日本の戸籍とは、住民登録のような実用的なものではなく、観念的なものだ。それは「家」という枠組みで「日本人」の「純血」を示し、戦前においては他民族からの優越さえ戸籍によって仮構した。いまだに国家と個人を「本籍」という観念的な場所によって結び付けているのは、日本の戸籍の虚構性が失われていないことを意味する。戸籍の歴史と現在を考えてみれば、戸籍制度が抜本的な改革を迫られているのは自明であろう。

本書は、日本の近現代の戸籍にまつわる問題を包括的に取り上げた初の本だと思う(本書執筆の後、著者は『戸籍と無戸籍――日本人の輪郭』という本をまとめており、今はそちらの方がまとまっているかもしれない。未読)。それまでにも、家制度の問題などトピック的に取り上げた研究は多かったが、本書は戸籍制度が内包する問題を、歴史を概観して見通しよく整理したのが特色で、非常に価値の高いものである。

ところで、私自身の興味は第2章の戸籍成立の過程にあったが、壬申戸籍において、なぜ明治国家は西洋へのキャッチアップを目指したのに住民登録については独自の「戸籍」を選んだのだろうか、というところが気になった。当時の欧米の身分登録制度はどのようなもので、日本の為政者はどのように見たのだろうか。

戸籍を考えるための必読書。

【関連書籍の読書メモ】
『天皇と戸籍』遠藤 正敬 著
書径周游: 『天皇と戸籍』遠藤 正敬 著 (shomotsushuyu.blogspot.com)
天皇と戸籍の関わりについて述べる本。皇族の人生を戸籍の観点から繙き、皇族とは何か、戸籍とは何かを考えさせるエキサイティングな本。

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