2022年7月24日日曜日

『維新の衝撃 近代日本宗教史第1巻』(島薗 進、末木 文美士、大谷 栄一、西村 明 編)

幕末から明治10年代くらいまでを中心とした日本宗教史。

『近代日本宗教史(全6巻)』は、多くの研究者の協力の下、平易かつ本格的な近代日本宗教史として企画編纂されたものである。体裁としては通史というよりはトピック毎の論文となっており、その間に短いコラムが挟まっている。

「第1章 総論—近世から近代へ」(末木文美士)は、巻頭に相応しい、端正な歴史の概観である。これまでの研究成果を踏まえつつ、神仏分離から国家神道までの道筋を語り、今後の課題を提出している。国学では「幽界」と「顕界」の問題、仏教教団については特に西本願寺派(の島地黙雷)の動向に注目し、仏教界といえど単なる被害者ではなかったことを述べている。

「第2章 天皇、神話、宗教—明治初期の宗教政策」(ジョン・ブリーン)では、(1)宮中儀礼・祭祀、(2)伊勢神宮、(3)比叡山と日吉神社がケーススタディ的に述べられる。(1)では、神祇官の廃止は福羽美静など津和野派の求めた結果であったとし、国家儀礼としての天皇による祭祀を創出する取組を述べている。本節は、明治政府の当初の宗教政策を述べるものとしてもよくまとまっている。(2)では、伊勢神宮が国家の大廟として変貌した様を簡潔に描く。(3)では、最初に廃仏毀釈の被害者となった日吉神社について取り上げる。これは類書に比べかなり詳細である。さらに、まだあまり研究が進んでいない延暦寺の明治維新について概観している。延暦寺は「座主」に天皇の承認を必要とするなど朝廷との深い関係があったが、それが明治初期に急速に解体されていった。

「第3章 国体論の形成とその行方」(桐原健真)では、まず「国体」という言葉の持つ「魔術的な力」を表す象徴的な事件=金城女学校での「地久節不敬事件」(1908年)が取り上げられる。さらに「国体」という用語の出自について水戸学(特に会沢正志斎と藤田東湖)の思想が検証されるとともに、幕末の国学者たちが儒学的普遍主義の「国体論」から分離して日本固有の論理に基づいた新たな「国体論」に跳躍させたと説く。特に大国隆正は平田篤胤がこだわったあの世=幽界の問題から距離を置き、現世主義の考えから天皇を「世界の総王」であるとして「皇国」の「国体」の優越を説いた。ただし水戸学者たちと国学者たちの思想がどう連結していたかは記載がない。

「第4章 宗教が宗教になるとき—啓蒙と宗教の時代」(桂島宣弘)では、外来の概念"religion"に日本の「宗教」が合わせていった過程を述べている。岩倉使節団は外遊において、ヨーロッパ諸国の文明の基盤には宗教があることを発見し、また信教の自由が外交問題となっていることに衝撃を受ける。また森有礼は藩政時代にイギリス留学し、また維新後はアメリカに赴任していたため、早くから「政教分離」「信教自由」を主張していた。当然森は、明治政府の宗教政策を批判し、「自分でつくったreligionを人民に押しつける政府の企て」と非難した。森は「明六社」の創立者の一人であるが、明六社でも宗教論が様々に議論された。そういった趨勢の中、啓蒙知識人たちの間では、religion以前の宗教と見られた庶民の信仰は文明と相容れないものと見られるようになった。特に病気直しについては、西洋医学を阻害する有害な「迷信」と考えられた。そこで金光教などの新宗教は、本来は病気直しを中心とする素朴な民間信仰であったにもかかわらず、文明国に相応しい「宗教」へ自ら改革していくのである。一方、島地黙雷は神道をreligionと呼べるものではないと批判したが、国家の方でも神道儀礼を国民に強制する都合から、神道は宗教ではないとされた。開明的な仏教者であった島地と国家の思惑が奇妙に一致していたのが興味深い。

「第5章 近代神道の形成」(三ツ松誠)では、西川須賀雄を取り上げて近代神道の形成過程を追っている。西川須賀雄は佐賀藩出身で、六人部是香(むとべ・よしか)の門人となった。六人部は篤胤の門人であった神職である。佐賀藩には六人部の門人となったものが多かった。佐賀藩では学問が家禄や役職維持のための条件として使われ、藩校弘道館から大隈重信や江藤新平など俊英が輩出された。その講道館教授に枝吉神陽がおり、彼は矢野玄道の友人で国学的な思想を持ち、皇派志士に大きな影響を与えていたのである。西川須賀雄は大教院開講式で説教を行い、修験宗廃止令の後、出羽神社(羽黒山)に宮司として赴任。須賀雄の下で旧来の修験組織は「赤心報国教会」へ改変(!)、その他多方面に教化活動を展開した。

「第6章 新宗教の誕生と教派神道」(幡鎌一弘)では、幕末に遡って新宗教の動向が述べられる。明治政府は「神道は宗教ではない」と整理したので、神社神道から宗教としての「教派神道」が分離された。一見、新宗教(黒住教、金光教、天理教など)と教派神道は全く別の動きをしているがその動向は緩やかに繋がっていた。国家・社会の近代化なしに新宗教の勃興もあり得なかったからである。

「第7章 胎動する近代仏教」(近藤俊太郎)では、仏教勢力が国家の中に位置づけを得て自らを近代化していく様子が述べられる。神仏判然令以降、仏教は国家から冷たくあしらわれていたが、西本願寺の僧侶大洲鉄然は寺院寮を設けて諸国の寺院を管理させるよう政府に建議を提出した。これを受け1870年閏10月に民部省の中に寺院寮が設けられたものの、わずか1年後の1871年(明治4年)7月、民部省は廃止。以後、「社寺に関する庶務は戸籍寮のなかに設けられた社寺課で処理された(p.218)」。同年9月、島地黙雷は教部省の設置を求めた建言を提出。10月、左院では江藤新平が寺院省の設置を建議し、1872年3月には神祇省が廃止されて教部省が設置された。また、同年6月には「政府は仏教七宗に教導職管長を置き、それを通じて仏教を統制することとした(p.220)」。一方この時代は真宗にとっては画期的な意義を有し、「真宗」公称許可、真宗各本山住職の華族化、親鸞への大師号宣下などが教部省の下で実現した。教部省は各宗管長に「従来の宗規を調べて届け出よ」との達しを出し、これによって仏教教団は規則の調査・整備の必要に迫られ、近代化を進める契機となった。本節では、浄土真宗(特に本願寺派(西本願寺))がどのように自己改革をしていったのかを述べているが、その内容は、国家との関係でいえば、常に天皇・国家に融和的であったといえる。さらに本節では、自己修養と社会矯風を目指す「反省会」が取り上げられる。一種の仏教青年会であった彼らは、真宗を「新仏教」として規定し直し、過去の仏教との決別を図った。

「第8章 キリスト教をめぐるポリティクス」(星野靖二)では、幕末から明治初期のキリスト教・キリスト者の動向が述べられる。初期のプロテスタント集団「三バンド」(横浜、熊本、札幌)、札幌農学校のクラークのキリスト教的教育、漢文聖書による活動など、明治にキリスト教が徐々に広まっていく様子が概略的に理解できた。特にキリスト教を受容したのに旧幕臣が多かったという指摘は面白い。彼らは「キリスト教に日本の精神面における維新を仮託していた(p.260)」。明治初期には、キリスト教は文明の宗教であったが、一方でキリスト教は学問的知見と矛盾するという批判もあった。明治期、日本人は西洋文明をほぼ無批判に受け入れたが、キリスト教だけは必ずしも全面的に受容しなかった。そこに日本人や明治維新の特質が見られるように思う。

本書は全体として、「関心のある人には誰にも読めるような平易な通史を目指したい(巻頭言)」との意気込みがありながらも、「平易な通史」とは言えない。まず、各章ごとの独立性が高く、編年的に書かれていないために通史の体裁を為していない。また、何年に何があったというような年表風の記載がなく、各章で時代が行ったり来たりするのがわかりにくい。そして出来事の記述よりもその分析や論述の方が中心であるために、「誰にも読める」ものになっていないと思う。せめて巻末に年表をつけたらよかったのにと思う。

それから不思議なことに、本書では神仏分離と廃仏毀釈についてはごく簡単にしか触れていない。第2章で日吉神社の廃仏毀釈が取り上げられるくらいである。明治初期における宗教政策の動向を語る上で、神仏分離と廃仏毀釈については不可欠だと思うが、なぜ記述が軽いのか気になった。

一方で、既にこの分野の類書を手にしているある程度詳しい人にとっては、多角的に明治期の宗教史が検証できるので、本書は参考になるものだと思う。とはいえ、本書は多角的ではあっても体系的ではない。やや散漫な論文集の印象があるのは否めない。

近代日本の国家と宗教の関係に焦点を当てた論文集。

 

 

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