2022年7月18日月曜日

『壱人両名—江戸日本の知られざる二重身分』尾脇 秀和 著

「壱人両名」を通じ江戸時代の身分制を再考する本。

「壱人両名」とは、村の百姓「利左衞門」が、同時に公家の家来「大島数馬」である、というように、一人で二つの名前を持ち、それぞれで活動しているものをいう。

ある村の百姓・A右衛門が、別の村の百姓・B左衞門であるというケースや、百姓〜町人、町人〜町人、町人〜武士など、様々な場所や身分を横断して一人二役をしていたのが「壱人両名」なのである。

江戸時代は身分差別の時代であり、百姓・町人と武士の間には超えられない壁があったと考えられてきた。しかし実際にはそうではなく、百姓や町人が武士になることは金があれば簡単にできたということは近年広く知られるようになった。ところが本書を読むと、百姓を兼ねる武士とか、親が百姓で同居の子どもが武士である(しかもそれぞれ相続していく)といった事例を通じ、そもそも江戸時代の身分とは何なのか? と改めてわからなくなってしまう。

身分を横断する「壱人両名」なるものが、どうして生まれたのか。

第1に、それは江戸時代の「名前」の在り方が関わっていた。江戸時代には、百姓は百姓らしい、武士には武士らしい名前であることが求められていた。名前が社会的立場を表示するものだったからである。そもそも、百姓は名字を公称することはできなかった。そこで、二つの社会的立場を兼ねる場合には、自然と名前も別になる素地があったのである。

第2に、江戸時代は徹底的に縦割りの社会であった。国家による一元的な国民管理などは存在せず、各「支配」に人々が所属し、その中での秩序が優先されていた。「支配」とは、今の用語とは違い、「上位のものから配分された仕事や領域、更には、分配されたそれらを管轄・統治することを意味(p.32)」する言葉である。百姓なら領主が「支配」であるが、これも○○村の領主は誰々…というような単純なものではないこともあった。村は各百姓ごとに領主が定まっている場合も多く(「相給」という)、この集落の領主は誰々…というような切り分け方ではなかったのである。「支配」はあたかもモザイクのように社会を切り分け合っていた。そして「支配」内の秩序は重視される代わり、幕府も各「支配」に統治を委任し、それぞれの「仕来り」を承認する考えであったので、「支配」間の整合性はどうでもよかった。

では、「支配」にまたがって活動する場合はどうなのだろうか。18世紀以降、様々な立場を兼ねる、つまり兼業するものが多くなったが、例えば町人が、勘定奉行の下でその「御用」(公務)にも従事するようになったらどうなるのか。町人は「町」の「支配」で、勘定奉行の下での仕事は、勘定奉行の「支配」である。このように二つの支配系統に属するものを「両支配」という。もちろん勘定奉行での仕事がフルタイムのものなら、「支配替」を行い、町人を辞めて武士になることもできた。ところが商売も続けるということになると、武士になることはできない(武士には商売は禁じられていた)。そこで、勘定奉行の仕事の間だけ武士になる、といういわばパートタイム武士(その間のみ苗字帯刀が許される)が生まれたのである。

第3に、江戸時代の戸籍ともいえる「人別」の仕組みが関係していた。「人別」は各「支配」ごとに作成されたが、それを統合する仕組みはなく、「支配」内で整合していればそれでよかった。ここでX村の百姓・A右衛門が、Y村の百姓・B右衛門の土地を購入して耕作することを考えてみる。A右衛門がY村に移住する場合は、X村の「人別」から抹消する手続き(「人別送り」)が必要である。これは、必ずしも法令では定まっていなかったが自然発生的に行われた慣習である。ところが、こうした手続きは個人ではできず、五人組などの共同申請が必要だった。そしてX村で元々耕作していた土地は誰かが耕作し続けなければ村としては困る。百姓ですらも名前が名跡となる「株」となっていた。

X村の土地も、Y村の土地も問題なく耕作され、年貢が納められることが大事であり、「人別」の仕組みを考えれば、A右衛門とB右衛門の「株」が欠番にならないことが大事だったのである。そこで、A右衛門がどちらの村に住んでいたにしても、X村ではA右衛門、Y村ではB右衛門としてそれぞれの土地を耕作すれば、何の問題もないというわけだ。このように一人が別の人別に登録されることを「両人別」といい、表向きは禁止されていたが、これは村の必要に応じたうまいやり方であり、A右衛門が何か問題を起こさない限りは決してバレなかったのである。ポイントは、A右衛門の事情と同じくらい、村の都合で生まれたのが「両人別」だったということだ。

もちろん、こうしたことはやらないで済むならそれに越したことはないので、例えばX村のA右衛門の「株」は息子のC次郎に継がせ、自分がY村でB右衛門の「株」を継承することで「両人別」を避けることができる。ところがC次郎が早死にした場合はどうするか。A右衛門(C次郎)の「株」が欠番になってしまうのを避けるためにB右衛門がX村のA右衛門を兼ねる、といった対応が必要になるわけだ。江戸時代の「人別」が非常に細かい範囲で縦割りに作られており、「人別」上の秩序が優先されることでこういう事態が生じるのである。また、百姓だけでなく武士や町人(商人)においても、それぞれの社会的立場は「株」化していた。そしてその「株」の欠番を避けるため、継承に適当な人物がいない場合でもそれが「空き株」として名跡(名義)が残され、別の人物がその役目を果たしている、ということが多かった。

であるから、「何屋何兵衛」が実在する人間か、それとも非実在の名跡であるかを、名前はもちろん「人別」を見て判断することもできないのである。 

第4に、武士の格式とその経済的な豊かさが見合っていなかったということがある。江戸時代、武士は支配階級として幅をきかせていたと思いがちだが、例えば植民地の支配階級のように我が物顔に振る舞えていたわけではない。それどころか、先述の通り商売が禁止されていたなど、制限も多かった。本書には書かれていないが、石高と格式にも対応関係はないのである。そして江戸時代中頃から、経済的に没落する武士が多くなり、武士の「株」は金銭で売買されるようになった。金さえ積めば百姓が旗本になることも簡単だった。

そこで、百姓や町人が武士の「株」を買って武士になることがよく見られたのだが、問題は武士には商売はおろか、町や村の土地を所有することもできず(居住もできず)、耕作も認められていなかったという点である。そこでこれまで通りの収入を確保するためには、武士であると同時に、百姓や町人としての経済活動を続け(町人名義で土地を所有して商売をし)なくてはならない。こうして「壱人両名」の状態になるのである。

また逆に、元は武士であるが小禄であるため、村の土地を買って耕作しようとする者も出てくる。その場合も武士のままでは土地の所有も耕作もできないため、百姓の名義にして購入・耕作ということが行われるのである。

なお、町人が百姓でもあるような「壱人両名」は「人別」を偽る行為であったので罪ではあったが、単なる公文書偽造であって重罪ではなかった(過料が通例)。ところが百姓と武士を兼ねるのは重罪で、これは明らかになれば追放刑などが科された。また当然、公議は名義上での土地の所有などを禁じていたが、ここには武士の経済という抜き差しならない問題が横たわっていた上、「支配」が徹底的に縦割りであるという仕組みがあったので、そういった「壱人両名」が横行したのである。

第5に、庶民の身分上昇への思惑があった。これまで見たように、江戸時代の身分は移動できないものではなかったので、身分・格式を高めようとする庶民がいた(だが、武士になったからといって実利はあまりなかったのに、やはり身分上昇を図ったのは今から見ると少し不思議である)。例えば、京都では町人が「地下官人」(朝廷の仕事を行う人)を兼ねることがよく見られた。地下官人は苗字帯刀が許されていたからである。

もちろん、「地下官人」は朝廷の「支配」であり、町の「人別」から抜け出ることになる。ところで今まで述べてこなかったが、「人別」は、武士や公家は対象外としていた。 それは、武士や公家には所属する「支配」の長=支配頭がいたので、庶民の「人別」に当たる「宗旨改一札」はあったものの、その「社員名簿」に登録されることが「人別」の代わりであり、身分の確認においては支配頭に確認すれば事足りたためである。

そこで庶民には、「人別」を抜けることが高い格式を得ることだといった意識が生じた。 そこで例えば「地下官人」になることが身分上昇の手段となった。ところが「地下官人」が専業だったら問題はないが、これは裕福な町人が名誉職的に得るものであり、無給であることも多かった。そこで元の職業を続けながら町人としての経済活動を続ける必要から、「壱人両名」が生じたのである。

類似の事例で興味深いのは、神職の場合である。神職の場合、吉田家が許状を出していた、という、「株」で理解される他とは異なる事情がある。吉田家は全国の神職の元締めとして、神職として認める(=神職としての名前を許す)許状を金銭と引き換えに出していたのである。例えば百姓が吉田家から苗字帯刀を認められれば、祭礼の間は武士身分と見なされる。それだけなら問題はないが、「自分は百姓ではなく神職である」と「人別」にそのように登録するように求めたらどうなるか。「壱人両名」が、次第に「人別」の離脱を図っていったのである。

このように、江戸時代の中頃から「壱人両名」は広く見られた現象であった。合法のものも非合法のものもあったが、非合法の場合であってさえ、おおっぴらにならなければ誰の迷惑にもならなかった。社会の秩序を維持する一つの手段だったのである。

ところが、明治維新になると「壱人両名」は終わりを告げる。京都府が明治元年に定めた「戸籍仕法書」では、村や町だけでなく武士・神職・僧侶など族籍ごとの戸籍を作ったが、このような縦割り戸籍では「壱人両名」が生じるなど、国民の正確な把握が困難であった。しかし明治4年4月には族籍別を廃止し、同じ町や村に住む人間を全て対象にした戸籍を編成することとした(=壬申戸籍)。さらに12月には華・士族・卒に農工商の職業を営むことが許可され、また身分別の土地設定が解消された。また明治5年には名前を一つだけにするという布告が出、「壱人両名」を成立させていた、制度的な基盤や身分格式の別がなくなっていった。

本書は「壱人両名」をテーマにしながら、「人別」の説明が丁寧で、また明治政府の戸籍行政の変遷もわかりやすくまとめている。これは意外と丁寧に説明されることがない事項なので参考になった。

また、本書を読みながら疑問だったのが、僧侶とその他の身分の「壱人両名」はあったのかどうか、ということである。神職と違い、僧侶の場合は剃髪するので、簡単に2つの身分を兼ねることができないように思う。本書には医師と町人を兼ねるケースが紹介されているが、医師も剃髪している場合があるので、髪型は関係なかったのかどうか気になった。髪型も身分格式を表示する重要な表象だったはずである。

それから、江戸後期に「株」の売買によって従前の身分と格式が非常に流動的になっていたことは、本書のテーマからは逸れるが興味を引いた。フランス革命の場合も、その前夜に売官の制によって新興の階級が実質的に貴族化していく現象が見られたが、江戸時代も全く同じ様相を呈している。江戸幕府を存立させる重要な前提であった「身分」が解体したことにより、黒船が来なかったとしても革命前夜の条件が整っていたのかもしれない。

江戸時代の社会の在り方を「人別」から見る良書。

【関連書籍の読書メモ】
『氏名の誕生 ——江戸時代の名前はなぜ消えたのか』尾脇 秀和 著
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今の日本人の「氏名」がどうして生まれたのか解明する本。日本人の「名前」について知るための必読書

『日本の近世7 身分と格式』朝尾直弘 編
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江戸時代の身分について考察する論文集。近世の身分について多角的に検討した充実した好著。

 

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