地球研(総合地球環境学研究所)が企画して人間文化研究機構が開催したシンポジウムに基づいた本。
本書では、動物行動学者の日高 敏隆(地球研の所長)が出した「人はなぜ花を愛でるのか」というテーマに基づいて、様々な分野からその答えを考えるヒントとなる事例が提出されている。大まかな内容は以下の通り。
「はじめに」(日高敏隆)では、本書の基調となる問題意識が説明され、それに対する日高氏なりの考えが提出されている。曰く「花は自分の気持ちを伝えてくれるような気がしていたのではないか。」
「第1章 先史美術に花はなぜ描かれなかったのか」(小川 勝)では、洞窟絵画に花の表現が一切存在しないことを指摘している。
「第2章 六万年前の花に託した心」(小山 修三)では、ネアンデルタール人の墓に花が手向けられていたかもしれないという事例について考察している。
「第3章 花を愛でれば人間か」(大西 秀之)では、人類の進化の歴史を簡単に振り返り、そもそも「花を愛でたかどうか」を確認するのは難しい問題だとしている。
「第4章 メソポタミア・エジプトの文明と花」(渡辺 千香子)では、実利的側面が中心のメソポタミアにおける花の扱いと、象徴や宗教的な価値が中心のエジプトにおけるそれを比較している。
「第5章 人が花に出会ったとき」(佐藤 洋一郎)では、花が人の身近な存在となったのは、「里」が誕生した約1万年前くらいのことだったろうと推測している。森林が中心の世界では花は目立たない。人が手を入れる草地が出来てからたくさんの花が存在するようになった。
「第6章 花をまとい、花を贈るということ」(武田 佐知子)では、日本では花を贈る文化がなぜあまり一般的ではないのかという問いから出発し、古代社会において花を頭につける習慣があったことをやや詳しく論じて、日本では花は下賜されるものだったのではないかと推測している。
「第7章 花を詠う、花を描く」(高階 絵里加)では、主に絵画(西洋絵画、東洋絵画)に登場する花についていろいろと紹介している。
「第8章 花を喰らう人びと」(秋道 智彌)では、花食の事例について紹介している。
「第9章 花を観賞する、花を育てる」(白幡 洋三郎)では、日本の変化咲きアサガオを紹介し、花を栽培しまた観賞する文化について考察している。
全体を通じ中尾 佐助『花と木の文化史』がたびたび参照されており、同書の内容をそれぞれの専門分野から補強するような論考が多い。また、「人はなぜ花を愛でるのか」という問いへの考察としては、同書で既に述べられていることを超える知見は残念ながらほとんどない。
ただ心に残ったのは、花は自分の気持ちを伝えるものだという日高氏の指摘と、花は他者との関係を取り持つ道具として使われてきたのではないかという白幡氏の指摘である。つまり、花は人と人との間に情緒を媒介してきた。花がなぜ情緒を媒介するのかということはさておき、これが山や海、岩や巨木といった他の自然物と花との大きな違いだと思う。
本書では、ほとんど「人はなぜ花を愛でるのか」という問いに答えられていないが、花と情緒の結びつきを考えてゆくことが、この問いへのより深い考察に導いてくれるような気がする。
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