ローマ皇帝マルクス・アウレーリウスは、「善き人間」であることを何よりも目指していた。理知的で激情に流されることなく、公共の利益を最優先に考え、己の内にある欲望を抑制し、寛容で温和な人間にならんとした。そしておそらく、彼はそういう人間になった。事実アウレーリウスはその仁政で万人に敬愛されていたという。
しかし、彼は自然体で「善き人間」であれたわけではない。周りの俗物たちは彼の高邁な精神を理解することができなかった。妻や息子でさえも、彼の話し相手にはなれなかった。ただでさえ孤独な皇帝の地位にあって、彼には心を許せる人が誰一人いなかったらしい。それでなくても、在位中には蛮族の侵入が相次ぎ、彼は度重なる遠征で席の温まる暇もない程であった。本当は哲学者・書斎人になりたかったアウレーリウスが、軍人として生きなればならなかったのも悲劇であった。
さらには、本書には具体的な記載はないが、おそらく政権内での内紛、讒言や裏切り、佞臣、公共よりも自己の利益や享楽を優先する元老、無能な部下、彼はそういったものに悩まされていたように見える。そしてそういった俗物たちを、軽蔑し、憎み、叱責したくなる衝動に襲われることもあっただろう。彼はこう記す。
他人の厚顔無恥に腹の立つとき、ただちに自ら問うて見よ、「世の中に恥知らずの人間が存在しないということがありうるだろうか」と。ありえない。それならばありえぬことを求めるな。その人間は世の中に存在せざるをえない無恥な人びとの一人なのだ」(第9章43)と。彼は、そうした度し難い人間に対しても、寛容であろうとした。そうした人間も、ローマ帝国を構成する大事な構成員であると思っていたのである。だが、いくらそう思おうとしても、俗物への沸き上がる嫌悪感は抑えることができない時もあったようだ。そういう時には、「人間はお互い同士のために創られた。ゆえに彼らを教えるか、さもなくば耐え忍べ」(第8章59)というような言葉で、自らを慰めていたに違いない。諦めろ、人間とはそんなものだ、と。「よし君が怒って破裂したところで、彼らは少しも遠慮せずに同じことをやり続けるであろう」(第8章4)から。
このように、本書はアウレーリウスが自己を保つために書いた、自分への備忘録である。
彼の理想を実現するのは困難であった。俗塵にまみれた世界で、独り「善き人間」であることは超人的な努力を要した。何よりも、自分独りがいくら「善き人間」であろうとしても、その他大勢の俗物たちのなかで、それに何の意味があるのか。彼自身が、人生は儚い幻のようなもので、善いことも悪いこともすぐに忘れ去られる、というようなことを繰り返し述べている。「人間に関するものは全て煙であり無」(第10章32)なのだ。そして、自分の仕事が実を結ぶということすら信じられなかった。「万物は変化しつつある。しかしなに一つ新しいものの出現する恐れはない」。彼は、自らがいくら仁政を敷いても、人びとに愛されても、そこに何らの社会的意義もないことを自覚していた。世の中の全ては胡蝶の夢に過ぎなかった。
では何のためにアウレーリウスは超人的な努力を続けたのか。それは、徹底的に自己のためであった。自らがなすべきことをなすこと、あるべき人間でいること、それだけが彼の目標だった。究極の自己満足といってもよかった。「そして結局どこにも真の生活は見つからなかったのだ。それは三段論法をあやつることにもなく、富にもなく、名声にもなく、享楽にもなく、どこにもない。ではどこにあるのか。人間の(内なる)自然の求めるところをなすにある」(第8章1)のである。究極の目的は、自己の完成と救済であった。
こうして、彼は自己の裡へどんどん沈溺していった。社会の雑事は、彼にとっていかほどのものでもなかった。いや、どんなに気持ちをかき乱されても、いかほどのものでもないと思いたかった。「すべては主観にすぎないことを思え。その主観は君の力でどうにでもなるのだ」(12章23)自分にそう言い聞かせ、一方で、そのいかほどでもない皇帝としての仕事には真摯に誠実に取り組んだ。
こうして、マルクス・アウレーリウスはあるべき人間として生き、あるべき人間として死んだ。
決して幸福な人生だったとは言えない。彼が皇帝でなかったら、たいした学者になっていただろう。その方が、自己の救済になっていただろうと思う。「哲学するには、君の現在あるがままの生活状態ほど適しているものはほかにないのだ」(第11章7)と書いているように、悩みの多い皇帝としての生活は確かに彼を陶冶した。しかし、こう自分に言い聞かせねばならなかったほど、彼の人生は自らの「内なる自然」とは違う生き方を要求したのも事実である。
生き方は唯一無二だが、彼の哲学には独自性はないという。思想的には、彼の師エピクテートスの受け売りばかりなのだ。でも本書は哲学書ではない。立派なことを言うなら誰にでも出来る。本書は、立派なことを言うためにものされたものではない。日々の俗事に悩まされ、悲しみ、怒り、無力感にさいなまれ、それでも「善き人間」として生きようとした一人の人間が、自己を保つために書かざるを得なかった魂の葛藤の書なのである。
「しかし君が正しく、慎み深く、思慮深く行動するのを妨げうる者はいない」(第8章32)。最高の知性を持ちながら、ままならない人生を送らざるを得なかったアウレーリウス。それでもその境遇を託(かこ)つことなく、職務を全力で果たしたアウレーリウス。そして超人的努力の果てに、「善き人間」として生きたアウレーリウス。
本書を読めば、少しでも「善き人間」として生きようとする全ての人にとって、マルクス・アウレーリウスはよき友人となるであろう。
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