人間が環境をどのように受容するかについて、情緒的な部分に注目して語った本。
「トポフィリア」とは、著者イーフー・トゥアンの提唱する概念で、「人々と、場所または環境との間の、情緒的な結びつき」のことである。とはいえ本書は、「トポフィリア」を大上段に論証・研究する本ではなく、それをテーマにしながら、人間が身の回りの環境をどう理解し、受容し、評価してきたかを述べるものである。
著者は、人間主義的地理学(humanistic geography)の創設者であり、 また現象学的地理学の旗手だという。この聞き慣れない学問は、要するに「人間の主観を頼りに地理を理解する」というものらしく、例えば普通の地理学が文字通り地形や地質を相手にしたり、人間社会の地理を考察するのでも統計や各種のデータを相手にしたりするのとは異なって、人間がそこをどう感じるかを糸口に地理を研究するもののようである。つまり、心理学的地理学とでもいえるだろう。
本書は、主に3つの内容で構成されている。
第1に、古代からのコスモロジー(宇宙観)について。コスモロジーは、我々が環境を知覚する際に大きな影響を与えてきた。世界を秩序として見るか、混沌として見るか、そして秩序として見るなら、その秩序の中心に何を見るか(例えば、神?)。そして世界の秩序を模するものとして、都市が建築されたりもした。コスモロジーは環境評価の土台を与えるものなのだ。
第2に、主に自然の景観に対する評価の仕方とその変遷について。例えば山は、ヨーロッパではかつて不毛で怖ろしく、不気味なものだった。それが19世紀のロマン主義により、気高く美しく、崇高なものとして受容されるようになる。それどころか、レクリエーションの場ともなって、ハイキングや登山が流行するようになった。山そのものは19世紀以前と以後で変わったわけではないのに、その受容の仕方は随分と変わったのである。知覚(視覚や聴覚)の対象が変わらなくても、その感じ方は変わってしまうことは多い。一方で、時代や場所によって変わらない、普遍的と思える環境の評価もある。例えば島、谷、海岸は様々な文化で描かれるユートピアが備えている特徴である。こうした近代以前の例を中心にして、人間の基本的な環境の認知の仕方について考察する。
第3に、 都市に対する両義的な評価について。都市は、繁栄やきらびやかさ、自由や洗練といったプラスの評価と同時に、悪徳や貧困(スラム等)、抑圧や汚穢といったマイナスの評価も受ける両義的(アンビヴァレント)な存在である。都市への評価はその両極端に振れながら変遷してきており、都市が発展するのと平衡して、田園の生活を理想視する態度も形成されてきている。そして都市と田園のいいとこどりとしての郊外(田園都市)という形態も発展してきた。アメリカの都市の発展を中心に、人々がその発展をどのように受容してきたかを考察している。
本書は、大まかには上記3つの内容を持ちながら、「あれもあるこれもある」式でいろいろなことがエッセイ風に書かれ、悪く言えば散漫に、よく言えば多角的に場所と人間との結びつきを語っている。何かを論証するような本ではないので、本書を読んで何がわかるかというと特にこれが分かるというものはなく、その意味では物足りない感じもするが、いろいろなヒントをもらう本として読むのがよいと思う。
特に心に残ったのは、風景であれ芸術作品であれ、審美的な目で(美しいなあ、という感動を持って)見られるのはせいぜい2分間だ、という指摘。それ以上楽しもうとするなら、そこには批評の知識など何か他の理由がいる。視覚の快感は「時間」が非常に限られたはかないものだということは、あまり指摘されないように思うがとても重要なことだと感じた。しかしかといって、視覚的なものが短時間しか人々の心理に影響しないかというとそんなことはなく、例えばゴミゴミした汚いところにずっといれば精神的にも混乱・衰弱してくる。清潔でよく整頓された美しい街にいることは「自分が自分でいられる」ための重要な条件ともいえるのである。視覚による快感は一瞬のものでしかないが、それによる影響は持続的なのだ。
このように、本書は1970年代に上梓されたものであるが未だ現代的といえる慧眼に溢れており、環境への評価を考える上での基本図書の一つと言えるかもしれない。
だが、これは現象学的地理学の弱点と思われるが、環境に対する人間の心理を問題にしながら、それがほとんど確固たる基盤を持っていないことは指摘しておかねばならない。本書では、文学作品に表現された環境(土地)への評価、アメリカの都市についてはアンケートといったものを取り上げているが、それだけでは科学というには弱いところがある。先ほど「エッセイ風」と書いたように、「こうとも考えられる」というような部分があまりに多いので、人間の心理を出発点とするなら、そこにもっとしっかりした土台を設けなくてはならないと感じた。
というような不満はあるものの、「トポフィリア」という概念はまだまだ考究する余地と価値がある。やや散漫で何かを分かった気にはなれないが、ヒントに溢れた論考。
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