2023年9月30日土曜日

『近世の解体(日本史講座 第7巻)』歴史学研究会・日本史研究会 編

歴史学研究会・日本史研究会の第4次の講座の第7巻。近代の国民国家の形成過程を述べる論文集。

「近世の解体」というタイトルからは明治維新後を思い浮かべる人も多いだろうが、本書に収録された論文のほとんどは近世は内部から解体していったという立場に立ち、その解体過程を述べている。

1 18-19世紀転換期の日本と世界」(横川 伊徳)では、幕府の置かれた対外的状況が概観される。従来、幕府では貿易統制を行ってきたが、外国船が来港して直接の通商を求められるようになり貿易統制政策が変化。貿易の緩和を志向した。そして自然発生的に発展してきた蘭学を体制内に取り込む(文化8年、蕃書和解御用の設置)とともに、軍備が強化された。

2 伝統都市の終焉」(吉田 伸之)では、江戸時代後期の幕府の商業政策を述べる。元禄7年(1694)、江戸では「十仲間」が結成された。これは江戸の代表的な商人の組合である。享保6年(1721)、幕府は商売人の組織化を目論見、多業種で組合を作らせた。幕府はこの組合を通じて、相場を報告させたり、販売数量を把握したりした(十仲間・十二品問屋体制)。文化度になるとこうした組合はあらゆる業種に拡大し、総額1万200両の冥加金の上納を対価に〆株として株仲間数を限定し、いわば公認カルテルのような体制を構築した。ところが天保12年(1841)、幕府は逆にこれら株仲間の解散を命じる。株仲間体制が物価の高騰を招いているとして、カルテル体制を厳禁して自由競争に転換したのである。ところが市場は混乱し、自由競争にしても物価は下がらなかった。そこで約10年後の嘉永4年、諸問屋が「古復」されて組合を以前のように再興させた。ただし冥加金はなく株札を幕府から交付もしなかった。本章は、近世の解体というよりは、幕府の商業政策の混乱・迷走を描いている。

「3 地域社会の成立と展開」(奥村 弘)では、身分制の解体について研究史を振り返りながら述べている。近世身分制の解体に新しい視座をもたらしたのが朝尾直弘の「身分的中間層論」である(庶民の上層が領主の御用を請けることで地域財政システムの一部を担い、中間層として成立していくこと)。一方、かわたもの(穢多)がその職能を物権化させ、また職能化していったことによる身分上昇も見逃せない。この二つはその力学は違っていたが、それまでの身分・職能・格式が一体化したあり方を崩すものとして共通していた。しかし幕府はそうした動きと同時に身分制の強化も図った。それにより、身分が曖昧になっていくのではなく、一見「新たな身分」が作り出されていくような形となった。明治維新が起こると、明治政府は職能と身分の分離を図り、身分を解体する方向となった。さらに廃藩前(明治3年〜)には、統治身分としての武士を解体していく。この頃は、賤民解放令に代表されるように、身分を解体するのではなくて、「身分的なものを認めない」という形に変わった。現実を認めてそれを変えようとするのではなく、非身分的な社会の仕組みを規定して、そこから逸脱したものを取り締まっていくというやり方に変わったのである。

「4 近世的物流構造の解体」(斎藤 善之)では、近世後期に発達した新興海運勢力について述べる。近世初期には、近江商人など幕藩権力や領主に保護された存在が海運を担ったが、天明の飢饉を契機として、農民的商品経済を担う新しい海運勢力が勃興した。北前船、奥州廻船、尾州廻船がその代表であり、この3つで全国の海岸をきれいに三分割してカバーした。これらの新興海運勢力の特徴としては、運賃積ではなく買積であり、市場競争原理が優越していたこと、魚肥など農民向けの商品を積んだことである。彼らの活動によって幕藩制流通機構が解体させられ、近代国民市場が内側から形成された。

5 明治維新と近世身分制の解体」(横山 百合子)では、近世後期と明治維新後における身分制の解体を述べる。なお、私はもともとこの論文を読みたくて本書を手に取った。なのでやや詳細にメモする。最初に、朝尾直弘の「身分的中間層論」と塚田 孝の「身分的周縁論」による諸身分の形成という2つの学説が批判的に紹介される。朝尾は武士と農民・町人の身分の流動化により中間層が生まれて身分制が解体したという見地で、大雑把にいえば身分が曖昧化していったという見方である。一方塚田は、社会的分業の進展によって諸集団が生まれ、その諸集団が公的認知を得て身分を形成し、新しい身分が複雑大量に存在したことで収拾がつかなくなって身分が形無しになっていったという見方。本章はこの2つの見方を接続するような形で身分制の解体を述べている。

まず、近世には身分と御用(職能・職分)が次第に分離していった。これは、御用を申し付ける集団が身分上昇を求めた結果、名字帯刀などの権利を得ることで、幕府としても身分と職能・職分は別物だという整理にならざるをえなかったからである。そして、身分と分離されたことで、こんどは職分が身分化するようになってくる。

例えば、ある種の職分にある者たち(例として下金買・屑金吹が挙げられている)は、支配系列を町人ではなく金座附にするよう求め認められた。「支配」とは、(本章には述べられないが)町奉行とか寺社奉行とか、私領主といった、要するに領域的支配権を持った者たちであるが、彼らは職分を盾に町奉行の支配を離れて、金座―勘定所支配系列に入ったのである。こういうことは多くの職分で発生した。だがこれは、町が身分的共同体であることをやめたわけではなく、むしろ町が身分的共同体であるという前提があったからこそ、その支配から脱したのである。

職分と身分が分離していったことは、当然、同じ業種に身分の異なる者(例えば町人と武士)が従事するということも多くなってくる。そして職分が身分化したということは、従前の身分が無意味化していったということでもある。このあたりが非常にややこしい。そもそも身分とは何なのか。身分は職分と結びついて成立した概念であったが、身分が職分と分離した結果、身分集団の固有の政治的性格が弱まり、身分が階梯序列という意味合いになっていくのである。

職分と身分の分離を象徴するのが、慶応4年、エタ・非人を統括する弾左衛門に対して縦隊取建の功を賞して「身分平人」としたことだ。弾座衛門はエタ・非人だからこそ、その身分集団を統括していたはずなのだが、身分集団を統括する、という職分に対して「平人」とする処置がとられた。このように、幕末における身分をめぐる状況はななり複雑なものになっていた。

明治維新後、政府はむしろ身分政策については揺り戻しの方向になる。明治元年に百姓地・町人地の所持は百姓・町人に限るという措置を行い、また東京では武士地・町人地を峻別するなど土地の身分的性格を再び明確にした。そして同年11月には京都府士籍法・卒籍法・社寺籍法の全国適用によって身分の確定と再編を進めた。しかしながら、武士身分を戸籍によって把握することは非常に難しかった。町人地に混在していた脱藩士や無籍者もいたし、支配の系列がいろいろだったからだ。そこで政府は武士地・町人地・社寺地の区別なく府下を取締六大区四七小区に区分して(元来は府兵制の区)、明治2年11月、この区を基に士族籍・卒籍を編成することにした。支配ごとではなくて、属地的に再編成するための「新しい身分」が士族・卒であったということになる。

また明治2年8月公布の東京府戸籍編成法は、弾左衛門傘下のエタ・非人以外の多様な周縁的身分(梓神子、町医師、検校、勾当、角力など)を市籍に統合し、結果としてエタ・非人(賤民)が峻別されることになった。市籍は、多様な人々を属地的かつ戸主を基準にして編成するものであり、従来の擬制的な「家」「店」を単位とする把握とは違った原理に基づいていた。そしてその形式主義が貫徹された結果、男性尊属中心主義が確立していった。

さらに明治4年には戸籍法が公布。これは住居地編成主義によって、全ての人を属地主義によって把握するもので、戸籍編成原理としては従前の身分はなくなった。住居地編成主義は治安維持を目的として採用されたものであることは疑いがない。つまり身分を否定する目的はなく、むしろ行政は身分制(少なくともそれまでの社会の仕組み)の存続を前提としていた。しかし「属地主義による住民把握」と「身分組織に依存する行政」は非効率的で、「一ツノ人民ニ二ツノ触頭」という状態に陥り、東京府は士卒・寺社触頭廃止を弁官に上申した。明治4年12月、「政府と東京府は、武士地・町地・寺社地の区別を撤廃して空間の身分的性格を否定し(p.160)」身分制が解体していったのである。身分制の解体の主眼は国民国家創出のために四民平等を進めた、というような話ではないのである。

6 移行期の民衆運動」(久留島 浩)では、百姓一揆の変質を述べる。百姓一揆は無秩序な暴動ではなく、村役人によって組織され一定の決まりに則った民衆運動である。また広域における合法的嘆願運動である国訴は近世の民間社会の到達点である。こうしたものが天保期から変質し、一揆の作法からの逸脱行為が目立つようになってくる。村はそうした逸脱行為を懸念し、それまでの一揆の作法を改めて自覚するようになるとともに、逸脱層である青年たちを村に改めて取り込もうとした。地誌の編纂は村の自覚を促すものとして機能したという。維新後は、国家に対決しつつも下からの国民形成に寄与した自由民権運動によって民主主義的思想は回収されていった。

7 文化の大衆化」(神田 由築)は、近世の大衆芸能の変質について述べる。特に家元制をとらなかった浄瑠璃を題材として、興行を成立させる「場」と浄瑠璃の業界団体(因(ちなみ)講)、素人とプロ、侠客との関係など、様々な面から検証している。しかし私は芸能については疎いため、あまり理解できなかった。ただし、芸能関係では親子ではなく師匠―弟子という文脈が重要だったことや(身分制と違う点)、近世的な芸能は素人も参画したものであったが、近代には文化の「消費者」としての大衆が現れてきたという指摘にはハッとさせられた。

8 産業の伝統と革新」(谷本 雅之)は、産業の近代化について述べる。産業の近代化というと、工業制手工業の発達、すなわち資本と労働の集積が想起されるが、日本の近世では、生産設備の大規模化や高度化を伴わない産業の近代化があった。本章では綿織物産業を例にとり、様々な面の展開を述べている。それを約すれば、農家の副業を主体とした労働を問屋制が統合し、流通面での組織化が図られたこと、決済手段が現金取引から信用決済に移行し、金融の発達を催したこと、また輸入綿糸が活用されたことにより、問屋制家内工業が成立したのだという(これを「在来型経済発展」といっている)。器械製糸工場によってアメリカ向け輸出品が作られた工場制工業化の流れもあった(長野県諏訪郡の例)が、維新後も「在来型経済発展」は、民間経済の枢要な部分を占め続けた。

9 蝦夷地・琉球の「近代」」(岩崎 奈緒子)は、近世においては体制外にあった蝦夷地・琉球が国内に取り込まれた過程を述べている。蝦夷地の場合は、それが取り込まれたのは明らかにロシアの脅威への対抗措置であった。蝦夷地警衛が実現するのが寛政11年である。これから松前藩への復領(警備費用の負担が大きかったため)、そして幕末の再直轄へと変化する。そして再直轄後には、明確に開拓の方向性が打ち出された。一方、琉球の場合は清との関係があってより複雑だ。幕府や薩摩藩は琉球へも外圧が来ていることに危機感を抱いたが、表向きには琉球は清に服属していたために現状を積極的に変更することはなかった。ところがアヘン戦争などで清の国力に対する疑義が生まれると、琉球は日本に従属しているとする立場へと転換し、維新後、台湾出兵を契機に日本の琉球支配を認めさせた。

10 明治維新論」(羽賀 祥二)では、明治維新の経過を理念的に捉えなおしている。特に「大政奉還、版籍奉還、藩政奉還(武器・兵員・城郭の奉還)、家禄奉還と続く、奉還運動を通じて天皇を元首とする主権国家は創出されていった(p.325)」ことを述べている。本論はいわゆる大所高所からの議論、といったものでここに要約することができないが、私が注目していた2つの史料が取り上げられていたのでメモしておく。一つは幕末に陸軍総裁の松平乗謨(のりかた)の「病夫譫語」(版籍奉還と酷似した主張)、もう一つは民部省の杉浦譲が立案した「戸籍法原稿」で、戸籍法の理念が復古思想によって基づいて主張されているものである。

本書は全体として、専門的に勉強した人に向けて書かれており、初学者には向かない。上述したように私は芸能に疎いため、「7 文化の大衆化」については結局どういうことだったのかよくわからなかった。他の項目も理解には粗密があり、正直なところ精読していない論文もある。しかしながら、要するに本書は「明治維新での急進的な改革がそれほどの軋轢を生まずに遂行できたのは何故なのか」を近世に溯って示したものなのである。

それは、既に近世には社会の様々な面で地殻変動ともいうべき変化が起こっていたからなのである。それは概ね天保期を境にしていた。近世幕藩体制の基礎となるシステム、身分、流通、商業、対外関係などが、各主体によるそれなりに合理的な判断によって徐々に変容させられ、結果として社会がそれまで通りには動かないようなものに変化してしまった。だからこそ人々は明治維新後の急展開の改革に対応することができたのである。その意味で、近代は近世に始まっている、とはっきりということができる。

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