2017年11月24日金曜日

『続・発禁本』城 市郎 著

明治以来の様々な「発禁本」を紹介する本。

著者の城 市郎(じょう・いちろう)は、「書痴」と呼ばれた斎藤昌三から薫陶を受けて発禁本の研究に入った人物。

本書に取り上げられている発禁本・テーマは以下の通り。
『恋愛文学』ほか……青柳 有美
『都会』ほか……生田 葵山
『復讐』……佐藤 紅緑
『ヰタ・セクスアリス』……森 鷗外
『ふらんす物語』ほか……永井 荷風
『男犯』ほか……武野 藤介
『クロポトキンの社会思想の研究』……森戸 辰男
『刑法読本』・『刑法講義』……滝川 幸辰
『大日本裏面史』……樋口 麗陽
『古事記及日本書紀の研究』……津田左右吉
宮武外骨と発禁本
梅原北明と発禁本
佐藤紅霞と発禁本
『相対会報告』……小倉清三郎
藤井 純逍と発禁本
『女礼讃』……宇佐美不喚洞
『寝室宝典』——性生活もの——ほか
『赤い風船あるいは牝狼の夜』…・・犯罪者同盟
『ファニー・ヒル』『グループ』『キャンディ』
そして巻末に、「資料・近代日本発禁小史」が付されている。

ここに取り上げられた本は、3分の1ほどが思想的な発禁本で、残りは性的な、つまりエロの発禁本なのであるが、発禁の理由は露骨な性描写というころよりもむしろ不道徳な描写の方にあった。

例えば、本書冒頭の『都会』には性描写はほとんどない。ただ、姦通(不倫)を仄めかす部分があるだけである。この程度のことで、かつて本は抹殺されたのである。

というのは、発禁は「安寧秩序を妨害し、又は風俗を壊乱する」ものと内務大臣が認めれば、すぐに発動することができた純然たる行政処分であり(新聞紙法第23条[当時]、出版法第19条[当時]等)、裁判も何もなく、内務省の役人のさじ加減一つで乱発されたからだ。終戦までの日本国では、国家権力はその気があれば無制限に言論を制限することができた。

この発禁を避けるため、艶本は次第に暗号めいたものになっていき、遂には「××××が×××××をして」といった伏せ字だらけで何を書いてあるのか想像で補うしかない産物になっていくが、それでも発禁処分が続いた。

しかし、当時の人が姦通などしない石部金吉だらけだったかというと当然そんなことはない。それどころか、男の姦通は罪に問われず、罰せられるのは女性の姦通だけというとんでもない不平等が大手を振っていた。後代の我々から見ると、そうした不平等の元にあったのが、言論の制限であったのかもしれないという気がする。

ところで「エロ本」など規制されてもしょうがない、という考えの人もいるかもしれない。無学な人間を慰めるための、くだらない本だと。確かに、本書に挙げられたエロ本の発禁本は、「猥褻」とされて発禁処分を受けたものであり、別段ためになる本ではない。しかしそうしたものに対してであれ、言論の規制をやむなしとすることは、やがてその規制がエスカレートする端緒となった。

そして、あらゆるものが「フーカイ(風俗の壊乱)」とされて、当たり障りのない大政翼賛的なものしか書けなくなっていく社会を招来することになったのである。著者は「(前略)ズタズタ無惨に削除したり、いとも簡単無造作に発売禁止にした日本の官憲、そしてさらにいうなら治安維持法を制定して(大正十四年)誰彼の区別なくしょっぴいた日本の官憲こそ、ワイセツという言葉をかりに使うならワイセツそのものではなかったのか」と糾弾する。全くその通りだと思う。

私が本書に惹かれたのは、津田左右吉の『古事記及日本書記の研究』について興味があったからであるが、この他にも宮武外骨は面白く読んだし、梅原北明については知らなかったので大変興味を抱いた。また、鷗外の『ヰタ・セクスアリス』とか荷風の『ふらんす物語』のような、今から見ると何も過激なところがない本が発禁処分を受けていたというのは、現代の日本にも通じる所があるように思い、空恐ろしくなった。

そしてさらに怖ろしいことに、この状態は戦後に改善されたとはいえ続いているということだ。本当に猥褻物なのであればちゃんと裁判にかけて裁判所が没収するべきであるのに、そういう手続きによらず不透明な行政処分により書物が規制を受けるということは戦前と変わっていない。今日も刑法第175条による押収が続いているのである。

しかも、その規制が行政の恣意的なさじ加減にあることも戦前と同じである。例えば、何が猥褻かという規定がはっきりとしておらず、陰毛・性器にモザイクをかければ頒布OKというのも、業界と警察との暗黙の自己規制ラインによるものであり、公式には何ら取り決められていない。国家権力は、ただ目を光らせるだけで業界に自主規制させ、それで「表現」を取り締まっているのである。

こうした不透明な規制を受け続けることで、「自己検閲」を課すことをまず何をおいても自ら恐れるべき、と著者はいう。本書を読むと、我々は決して権力者の顔色を窺って自己検閲してはいけないし、言論の弾圧に屈してはいけない、と言う思いを強くする。それがたとえ下らないエロ小説であっても、権力によって言論が歪められてはいけないのだ。

発禁本から権力と言論の対峙を考えさせる奥深い本。

0 件のコメント:

コメントを投稿