2017年11月18日土曜日

『日本の名随筆 別巻74 辞書』柳瀬 尚紀 編

「日本の名随筆」の別巻シリーズから、「辞書」をテーマにしたもの。

昔の人々の考えを知る、というのはつい最近のことでも難しい。「辞書」に対する価値観もその一つで、インターネット(特にWikipedia)登場以後の世界にいると、以前「辞書」がどういう役割を果たし、人々がそれとどう付き合ってきたのか、ということがピンと来なくなってくる。

そういうとき、こういう随筆集を紐解くと、「ああ、そういえば辞書とはこういうものだった」と少し思い出すことができる。インターネットのない時代、手元で何か調べようと思ったら辞典を用意しておくほかなく、それも数種類の辞典を座右に置き、それはさながら「相棒」であり「先生」であったのである。

本書における「辞書」は、ほとんどは国語辞典を指しているが、その他の辞典類について書いた随筆もある。

通読してみると、(編者の好みが当然反映しているとしても)かつては「言海」の存在感が大きかったんだなというのがよくわかる。今の若い人は「言海」など知らないと思うが、明治時代に文部省により我が国初の国語辞典として編纂が企図されながら予算不足でプロジェクトが途中で座礁し、編者の大槻文彦が自費出版して以後増補を重ね、その後の国語辞典の規矩となったような存在である。

辞典の編纂とは、言語の海に櫂なく漕ぎ出すような壮大かつ困難なプロジェクトで、そこに隠された人間ドラマは非常に面白い。『言海』の大槻文彦の場合はもちろん、『大漢和辞典』の諸橋轍二、『広辞苑』の新村出といった人々が数々の困難を乗り越えながらなんとか辞典を完成させる様はドラマに溢れている(本書ではこういう話は中心ではない)。

ところで随筆では、国語辞典への不満といったものも多く表明されている。その一番は、説明がまずいことだ。それは、用例を十分に吟味することなく、先例の辞書を参考にしてしまう悪癖と、わかりやすい説明を行おうとする意志にそもそも欠けているというのが原因のようだ。これは私も感ずるところである。英々辞典と国語辞典を比べてみると、英々辞典の方が説明がスマートなことが多い。その他、収録する語彙の取捨選択においても、用例ではなく先例の影響が大きく、死語やそもそも用例のない語彙が堂々と載っていることなどが問題視されている。

だが、辞書にはそうした問題があるにしても、辞書を引くのはいいことだ、という観念は全ての随筆に共通しているように思われた。今であれば、「若い人はすぐにググる」というような批判があるものだが、「すぐに辞書を引く」のは美徳とはされてもみっともないこととは誰も思っていないようだ。同じ「調べる」という行為に対するこの態度の違いは、何に起因するのだろうか。


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