2023年7月9日日曜日

『秩禄処分—明治維新と武家の解体』落合 弘樹 著

秩禄処分がいかにして行われたかを述べた本。

秩禄処分とは、武士の俸禄・知行を金禄公債と引き換えに廃止した行政処分であり、著者の譬えでは「公務員をいったん全員解雇して退職金も国債での支給とし、そのうえで必要最低限の人員で公職を再編するというような措置(p.4)」である。驚くべきことに、この荒療治はほとんど抵抗なく実施されたのであるが、それはどうしてだったか。本書はその過程を丁寧に追うことでその疑問に答えている。

「第1章 江戸時代の武士」では、そもそもの前提となる、武士の俸禄制度と身分について概説される。

武士は、軍役の義務と引き換えに幕府や大名から知行・俸禄を受けていた。知行には蔵米知行と地方(じかた)知行があり、また俸禄には米百俵などの実高が表示される切米の制度、下級武士の場合は一人当たり五合の計算で米を与える扶持米の制度があり、「十石二人扶持」のようにこれらが併用される場合もあった。なお知行100石といっても、実収入はその税分である現米40石であることにも注意が必要である。

そして、家格・禄高・役職はほぼ一体の関係を持っていた。 つまりある人物をある役職に昇進させる場合、家格が釣り合っていなければ禄高を引き上げて家格をも上げてバランスをとった。「禄」は「家」が負った義務に対する給与であったが、太平の世に軍役があるわけでもなく、次第に無役の家も増えていき、また石高の加増は財政負担も重かった。そこで吉宗は役職手当である「役高」を導入し、禄と役職の分離を図った。

幕末においては、幕府および諸藩で人材登用が行われ、家格主義は見直されて能力主義が採用されていった。特に近代軍制整備する場合は、兵士は画一的に命令系統に並べられることになったから、家格と旧来の軍制での位置づけは邪魔なものになった。しかし家格主義がなくなることはなかった。また言論においても、盛んに公論衆議が叫ばれ、家格にとらわれない建白などが行われた。こうした動向は武士身分の解体の前提となった。

「第2章 維新期の禄制改革」では、維新政府による廃藩置県までの禄制改革が述べられる。

明治2年に版籍奉還が行われる。藩は朝廷に奉還され、旧藩主が藩知事に任命された。これは形式的には将軍の代替わりごとの本領安堵と同じだったが、内実では旧藩主の私有が否定されていた。また藩ごとに様々だった統治機構が統一させられるとともに、様々な家格があった複雑な武士の身分は「士族」へと一本化された。

旧幕臣の場合は、駿河への移住(無禄覚悟)、朝臣化(新政府から禄を受ける)、帰農商の3つの選択肢があった。彼らを雇っていた幕府がなくなったのだから、路頭に迷ってもしょうがないのだが、新政府への帰順という選択肢があったところが面白い。 しかしその場合も、石高が削減されて最大1割にまで縮小した草高を設定し、さらにその二割五分を支給したから、かなり厳しい条件だった。特に石高が大きい場合に削減率が高く、微禄の場合はそれほどでもなかった。またこの削減率は、後に諸藩が行う禄制改革の目安となった。旧来の知行1000石は、明治2年12月の禄制では現石28石が家禄となっており、実収はわずか8%だった。よって、幕臣は駿河へ移住したり、商売を始めたりしたが、それらはことごとく失敗したという。 

一方、公家に対する禄制改革は明治3年12月に行われ、多少は優遇されていたがやはり禄は削減された。家禄の支給が、新政府の大きな負担になっていたからである。また、明治2年8月の官制改革で従来の百官(形式的なポスト)が廃止されていたため、公家の多くが失職状態ともなっていた。公家が夢見た王朝時代の再来は、あえなく露と消えた。

多くの諸藩は財政的に行き詰まりを迎えていたため、こうした改革をむしろ歓迎した。従前のように家臣団を維持していくことはできなかった。よって武士を帰農させたり(苗木藩は士族卒全体を帰農させた!)、家禄を禄券で支給させたりした。高知藩では家禄を家産化し、士族の身分制解体を併せて進めた。

「廃藩の時点までに諸藩の家禄支給高は全体で維新前より38%削減された。士族卒に限れば44%の削減率を示すが、これは廃藩置県後に政府が削減した分を上回る(p.90)」。こうした中で明治4年には廃藩置県が行われた。財政破綻寸前だった藩においては、むしろ廃藩後の方が家禄を受け取れた士族もいて、現場レベルでは廃藩は歓迎された。また藩においても、藩債と藩札の負担を逃れられたことは幸いだった。藩債は新政府が引き継いだが、債権者にとっては悪条件で償還され、藩債全体の8割が切り捨てられたという。なお旧幕府家臣団の債務は私債とみなされたため、江戸の金融を支えてきた札差たちは破産した。

「第3章 留守政府の禄制処分計画」では、岩倉使節団が外遊している中での、秩禄処分の計画とその挫折が述べられる。

廃藩置県では、士族を雇用していた藩がなくなったのだから、士族は無職になったのであり、理屈の上ではその時点で家禄の支給を停止することもできた。しかし新政府は士族の動揺を防止するためや調査の準備期間が必要だったためもあり、削減した上ではあったが家禄の支給を続けていた。 明治4年の段階で、華士族の家禄・賞典禄と社寺禄は歳出の37%に上っていたのである。今だ財源の確立していなかった新政府にとって、これをさらに削減することは喫緊の課題だった。

また、新政府にとってもう一つの課題は(いや、課題ばかりが山積していたのではあるが)、士族による軍事義務の独占の解消であった。近代的軍隊を編成するためには均一的な兵士が必要で、国民皆兵による徴兵軍の創設には士族は解体せざるを得なかった。そして当然、家禄の至急は軍事義務の見返りの意味が大きかったので、士族の解体と家禄の解消(禄券での置き換え=秩禄処分)がセットになって推進された。

士族の解体については、「徴兵告諭」(明治5年11月)と「徴兵令」(明治6年1月)によって、武士が軍事を独占的に担う体制が明確に否定された。 

一方、家禄の解消の実務を担当したのが、大蔵大輔の井上馨である。そして秩禄処分に必要な財源は外国公債によってまかなうこととし、その募集を担ったのが大蔵少輔の吉田清成(薩摩スチューデントの一人)であった。ところが吉田が岩倉使節団と合流すると、森有礼と衝突する。森は、外債の募集を自分の仕事と考え、秩禄処分にも反対だったのである。森は、家禄は世襲の家産(私有財産)だと見なし、秩禄処分はその所有権を政府が侵害するものだと訴えた。森はアメリカの新聞にまで反対論を掲載してあからさまに吉田の仕事を妨害した。結局、明治6年、吉田はアメリカではなく、ロンドンで外公債の募集に成功し約1000万円を調達した。しかしながら、急速な秩禄処分は士族に動揺をもたらす可能性があったために、棚上げにされて井上馨は渋沢栄一とともに政府を去ることになった。

なお、諸藩での禄制改革の結果、全国で禄制が画一化され、それにともなって不利益を蒙ったものたちから苦情が殺到していた。「結果的には秩禄処分に対する士族の不満は禄制廃止そのものより、その前段階の処置に集中(p.130)」した。

「第4章 大久保政権の秩禄処分」では、明治6〜8年頃の秩禄処分に向けた動向が述べられる。

明治6年にいわゆる「征韓論政変」が起こると、大久保利通が中心となった政権が確立した。家禄処分については大久保は積極的で、木戸孝允は難色を示していた。そこで、とりあえず家禄に課税することが決まった。これは家禄を私有財産と認めたことになる。続いて、家禄奉還制が設けられた。これは家禄を奉還すれば家禄の6年分を産業資金(現金および8分利子付き秩禄公債が半額ずつ)が下付されるというもので、割と恵まれた条件であった。ただし地方官(現場)の対応は様々で、多くの士族がこれに応じた県もあれば、鹿児島のように皆無の地方もあった。

なお、家禄を奉還して帰農や商売をしたものの多くは失敗したため、奉還制度は明治8年7月に中止された。

追って、家禄の支給を現米から現金へ変更するという改革が行われた。全国的にも、既に現金(金禄)で渡している地方はあったが、米価の騰貴があって士族には不評だった。しかし明治8年9月、政府は画一的にこれを金禄化し、過去3カ年の貢納石代相場を平均した額で家禄賞典禄を支給することとした。

しかしながらこの時点で、家禄支給の名目はほぼ失われていた。士族の多くは無職で、なんら国家への義務が課されていないのに、給料だけはもらっていたのだから、「無為徒食」との批判が出るのも当然だった。家禄は私有財産であると言う理屈が、家禄支給の最後の砦であった。

「第5章 禄制の廃止」では、いよいよ秩禄処分の実施が述べられる。

明治9年には、朝鮮との間の外交問題が日朝修好条規の調印によって解決され、また政府内の権力闘争も一段落していた。内外の危機が去って改革に手をつけられるようになった政府は、明治9年3月にいわゆる「廃刀令」によって武士の特権を奪った。

その布告の翌日、大隈重信は禄制の最終処分を行うよう政府に提議した。ここでは、家禄には既得権は一切ないとして、廃止するのが当然、という立場が表明されている。政府内には、士族を国の中核として成長させていく考えの井上毅のような人もおり、木戸孝允も士族保護の方策がないなかで家禄を廃止することを憂慮したが、さしたる反対なく秩禄処分は明治9年8月に可決された。

その内容は、(1)6〜14カ年分(元の家禄の条件や金額で異なる)の家禄を公債で下付、(2)元金の払い戻しに30年かける(5年間の据え置き期間+25年間)、 (3)利子は5〜7分とする、といったものである。

これが実施されると、家禄の算定に不満があった人びとからの訂正要求が頻発し、それに応じた訂正作業は昭和期に至るまで続けられることになったが、意外と秩禄処分自体への批判は少なかった。この時期に頻発した不平士族の乱でも、その決起趣意書などに秩禄処分を攻撃する文言は見当たらない。士族たちは、概ねこれを受け入れたのだった。

「第6章 士族のゆくえ」では、 秩禄処分によって士族がどうなっていったかが概略的に語られる。

士族は、一応収入の柱であった家禄がなくなり、30年後には公債による収入もなくなることが既定路線となったわけで、自活する道を探る必要があった。政府は、士族の授産(産業に従事させる)には気を使い、東北の荒蕪地の開墾に振り向けようとしたり、また銀行を通じ士族授産事業への資金貸与を行ったりしたが、それらはやはり成功しなかったものが多かった。貸付金もほとんど回収されなかったという。士族授産事業への資金貸与は、当初は厳密に審査したが末期はある種のばらまきであったようだ。

しかしながら、そもそも大多数の士族は金利だけで生活できるわけもなかったうえ、インフレによって米価が明治13年には明治9年の倍になったので、公債を手放すものも多かった。ただし、確かに士族は全体として没落したが、地道に生活したものもおり、「士族の没落」はイメージ先行の面も大きい。例えば士族は教育への志向が強く、高度な教育を受けたのは士族が多かったので、結果的に要職の多くを士族が占めることになったのである。「結局、明治期を通じて日本の社会は階層間や身分間の大規模な逆転劇はなかった(p.234)」。

私は本書を、明治政府は武士が中心となってできたのに、武士の方では大きな反抗なく秩禄処分を受け入れたのかのはなぜか、という疑問から手に取った。また、社寺禄の扱いはどうだったのかも知りたかった。

その疑問は、前者についてはかなり明解な回答が与えられている。その要点は、武士の特権解体と秩禄処分は、表裏一体ではあったが、実際には別個の論理で行われたということだ。それは、徴兵令や廃藩置県によって武士が(形式的にではあれ)「解雇」された後も、家禄が支給されていたことから明らかである。しかし「解雇」されていた以上、武士にとっても家禄を受給する正当性はなくなったと感じられており、国家の役に立つ存在として自己を規定し直すことが求められていた。

後者の社寺禄については、残念ながら本書ではほとんど扱われていなかった。

全体として、本書は史料からの声とその分析・解説がバランス良く配置され、非常に明解かつ平明である。金禄公債の実態(個別具体の事例など)が書いていないのがちょっとわかりづらい部分があったが、秩禄処分の概要を述べる本としては申し分ないと思う。

秩禄処分について知りたくなったらまず手に取るべき基本図書。

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