日本の科学技術は、明治時代の文明開化で急に発展したのではなく、江戸時代から西洋の知識が流入しており、高いレベルに達していた科学者も多かった。それは明治以降の科学の発展の土台となったのである。
とはいえそれは、江戸時代の知識人の本道ではなく、西洋の科学に取り組んだものはたいてい変わり者で、反骨精神があった。本書は、そうしたかぶきものならぬ「かがくもの」を描くものである。
私は本書を2つの関心から手に取った。第1に、江戸時代の科学者たちがどのようにして「西洋」に出会ったのか、ということ、第2に、彼らはどのような身分であり、またその科学知識は彼らの身分を上昇させたのかどうか、ということである。以下、その点を踏まえてメモする。なお、本書には4つの章が設けられているが、以下のメモでは章別けは無視した。
高橋至時:高橋至時(よしとき)は、幕府天文方を務め、伊能忠敬の年下の師匠としても有名。シーボルト事件で処罰された高橋景保の父でもある。明和元年(1764)生まれ、父は大坂定番同心で、父を継いだ後に趣味で数学や暦学を学び、麻田剛立に弟子入りした。麻田は天文の研究のため脱藩して大阪で町医者になっていた人物。至時は、同門の間重富が桑名藩主松平忠和(ただとも)から入手した中国の天文書『暦象考成 後編』に出会い、一門をあげて研究。この本には天動説とケプラーの楕円運動論による天文・暦学が論じられており、この研究で至時は頭角を現し、寛政7年(1795)、幕府の命を受けて暦の改正に取り組んだ。時に徳川吉宗は、蘭学書物の輸入規制を緩和しており、西洋の文物や知識がどんどん流入する時代になっていた。天文観測に長けた重富と理論に長けた至時は協力して新暦「寛政暦」を完成させた。
その後至時はフランスの天文学者ラランデの天文書(のオランダ語訳)の翻訳を若年寄堀田摂津守正敦(まさあつ)から言い渡された。そこには地動説に基づいた天体運動が論じられており、寝食を忘れて翻訳に没頭。わずか半年で『ラランデ暦書管見』11冊を完成させた。この翻訳によって日本でも西洋の天文学を直接学ぶ道筋が付けられた。
志筑忠雄: 江戸時代で最高の翻訳家。彼は長崎の資産家に生まれ、志筑家の養子になり稽古通詞になったが、生来病弱なため早くに退職。生家の中野家に復帰し、学究の道に入った。大木良永から蘭学の手ほどきを受け、イギリスの自然哲学者ジョン・ケイルの著作に出会ってニュートン力学に目覚める。彼はケイルの著作の翻訳を生涯の仕事と定め、『求力法論』『暦象新書』などを翻訳した。これらの著作で、引力や重力、真空、分子といった訳語を定めたほか、「ー、+、÷、√」といった数学記号を日本にはじめて紹介した。また「鎖国」という言葉は、忠雄がケンペルの『鎖国論』を翻訳したことで生まれたものである。「人と交わるのが苦手な忠雄は生涯長崎を一歩も出ず、家にこもり、(中略)蘭学の研究に没頭した(p.49)」。他の蘭学者ともほとんど交流を持たなかった。
橋本宗吉:「日本電気学の祖」橋本宗吉は、宝暦13年(1763)、大坂の傘の紋描き職人の家に生まれた。貧しい職人として働いたが、非凡な記憶力や知能が間重富に注目され、重富は蘭方医の小石元俊と費用を負担して、宗吉にオランダ語を学ばせるために江戸へ留学させた。江戸では蘭方医の大槻玄沢の門に入り、帰坂後、宗吉は蘭方医として修行しながら、元俊と重富のために蘭書の翻訳に精を出した。さらに寛政9年(1798)、自身も医院と蘭学塾を兼ねる「絲漢堂」を開いた。そして翻訳だけでなく自ら実験もし、特に『エレキテル訳説』の翻訳では自身で電気学の実験を行った。さらに自らの実験をまとめ、日本初の実験電気学の書『阿蘭陀始制エレキテル究理』をまとめた。ただしこれはなぜか幕府の許可が下りなかったため生前は出版されなかった。晩年はシーボルト事件の影響で絲漢堂を閉じざるを得ず、おそらくは公議を憚ったために死後も墓は作られなかった。しかし彼の学統は、孫弟子の緒方洪庵によって継承、発展した。「大坂蘭学の祖」とも言われる。
関孝和:関孝和は幕臣内山永明の次男として出生。長じて甲府藩勘定役を務める関五郎左衛門の養子となった。吉田光由の『塵劫記』を読んで数学に目覚めたとされる。しかし特定の師にはつかず、書物を通じた独学で数学を学び、朱世傑『算学啓蒙』によって天元術に触れた。これは算木や算盤を使う中国の代数学である。孝和は算木ではなく記号によって代数学の大系を作り、延宝2年(1674)、『発微算法』にまとめた。これは生前刊行された唯一の著書である。他の和算家が数学を解法として見ていたのに対し、孝和はその背景にある一般理論に興味を持った。そしてライプニッツに約10年先駆けて行列式を考案。ベルヌーイとほぼ同時に「ベルヌーイ数」も示している。孝和の業績は「関流」和算として発展させられ、建部賢弘はその跡を継いだ。賢弘は『発微算法』の一般向け注解書『発微算法演段諺解(げんかい)』を上梓している。こうして江戸和算の全盛期が築かれた。「算額」を奉納する風習はその象徴である。「江戸期には庶民のための数学入門書がベストセラーになり、全国に数学塾が開かれ、西洋とほぼ同等の記号による数学が隆盛をきわめた(p.88)」。なお、孝和は主君が六代将軍として江戸城に入ったので江戸詰となり、勘定方吟味役にまで昇進している(数学との関連は不明)。
平賀源内:平賀源内は、「博物学者であり、鉱山技師であり、電気学者、化学者、起業家、イベントプランナー、技術コンサルタントであり、日本最初の西洋画家であり、ベストセラー小説『風流志道軒伝』や人気戯作『神霊矢口渡』の作者であり、「本日丑の日」で知られる日本最初のコピーライター(p.91)」である。彼は高松藩の下級武士の子として生まれ、生来利発で13歳から藩内の儒者の下で学んだ。21歳で家督を継ぎ、御米蔵番として出仕。同じ頃に藩の薬園の御薬坊主の下役に登用された(ダブルワークなのだろうか?)。本草学者としてのスタートである。さらに長崎に遊学し、帰藩後、藩に退役を願って許可され、妹に婿養子をとらせて平賀家を継がせ、自分は自由な身分で江戸に移った。27歳の時である。すぐに頭角を現した源内は、再び高松藩主(松平頼恭(よりたか))に召し抱えられるものの、藩の枠内に留まる不利が勝り再び辞職を願い出た。許可されたが「仕官御構」(=今後他藩に仕えてはいけない)の条件が付けられた。
源内は学究肌というよりは事業家肌で、様々なことに取り組み、しかもその事業は時代に先駆けていた。ただ、失敗も多く、殖産興業の努力はあまり実を結ばなかった。最後は殺人事件を起こし、獄中死した。彼は科学者としては一流ではなかったが、「科学と国益を結びつけて考えたこと、さらに進んで科学・技術と産業を結びつけようとした点(p.116)」に真骨頂がある。
宇田川榕菴:宇田川榕菴は、大垣藩医で蘭学者の江沢養樹の長男として生まれ、13歳で津山藩医宇田川玄真の養子となった。玄真は『西説内科撰要』18巻を書いた大学者で、幕府の蕃書和解御用にも任用された蘭学者の泰斗であった。榕菴は最高の環境で勉学に励み、オランダ語を学んだ。とりわけ興味を抱いたのが植物分類学。『菩多尼訶(ボタニカ)経』というお経仕立てのリンネ植物学の本が最初の著書である。江戸を訪れたシーボルトとも親交を結び、シーボルトは顕微鏡とドイツ語の植物学入門書を榕菴に与えた。28歳で宇田川家を継ぎ、幕府から蕃書和解御用にも任じられた。同時期に大槻玄沢も同ポストにいた。ここで榕菴は、ショメールの百科事典を翻訳し、全70巻+続編32冊におよぶ大著『厚生新編』を完成させた。翻訳には30年以上かかった。シーボルト事件ではかろうじて難を逃れ、その後も訳業と著述に励んだ。『遠西医方名物考補遺』では元素、酸素、水素など「〜素」の訳語を始めて使用した養父の著書の補遺で、本書では、親和、物質、流体、凝固、気化、酸化、還元、酸、塩などの用語が始めて使用された。またリンネ植物学を体系的に述べた『植学啓原』では花粉、葉柄、気孔、柱頭、葯といった植物用語を定着させた。さらに畢生の大著『舎密開宗』では、ラボアジエの化学理論を始めて体系的に紹介した。これらの本は、単に洋書を翻訳するだけでなく、自身も実験や分析を行っていた。榕菴は多才で、コーヒーや西洋音楽の研究にまで手をつけている。「蛮社の獄」では榕菴には政治的発言がなかったので処分されなかったが、病のため48歳で死去した。
司馬江漢:司馬江漢の生まれはよくわかっていない。町絵師江漢は、なぜか蘭学に心惹かれ、平賀源内と交流した。そして彼の影響で日本で始めて銅版画を制作。また油絵にも取り組んだ。写実的な洋風画を描きたいという欲求は、世界の真実を知りたいという欲求と重なり、長崎に遊学。やがて天文地理に興味を持ち、日本で初めての銅版画による世界地図「輿地全図」、その説明書『輿地略説』を刊行、また『和蘭天説』でコペルニクスの地動説を論じた。その後も地動説の普及のためにいくつかの書物を刊行した。またカラクリの才もあった。一言でいえば彼は奇人で、人に馴染まなかった彼は歳を取って孤独になり寂しく死んだ。彼は多芸多才ではあったが、どの道でも第一人者とは呼べなかった。しかし「終生、権威や権力におもねることなく、一芸術家、一好学者(p.157)」であった。
国友一貫斎:当時としては世界的な性能の反射望遠鏡を作ったのが一貫斎こと国友藤兵衛重恭(しげゆき)である。国友鉄砲鍛冶の中で、ひときわ才能があった一貫斎は、いわゆる「彦根事建」で諸大名から鉄砲の受注ができるようになり、そのおかげで西洋の文物に触れる機会を得た。また事件の詮議のために江戸に出て解決後も含め5年滞在し、技術を学んだ。そして松平定信から命を受け、鉄砲の製作マニュアル『大小御鉄炮張立製作』を献上、刊行した。松平定信が鉄砲製作法を公開するという異例の対応をとったのは、ロシア船出現などを受けた国防の強化にあったと見られる。なお一貫斎は江戸で平田篤胤と交流している。一貫斎は尾張犬山藩の江戸屋敷でオランダ製グレゴリー式反射望遠鏡を見、そのとりことなった。一貫斎は10年の準備期間を経て製作を開始、約1年で完成させた。彼でなければ完成は不可能だったと言われている。その望遠鏡を使い、一貫斎は種々の天体観測を行った。特に、太陽黒点の観測は約1年間にわたって克明に記録したもので世界水準である。その外にも様々な発明品・製作品がある。彼はひたむきな努力の人で、独学で物理学、化学、天文学、博物学、軍学などを修め、またその人間性で多くの支援者を得た。
緒方洪庵:緒方洪庵は、文化7年(1810)、備中足守藩の下級藩士の三男に生まれた。元服後、父に従って大坂に出、蘭学者中天游(橋本宗吉の弟子)の私塾「思々斎塾」に入門、医学と蘭学を学んだ。家督は継げないから医術で身を立てようと思ったのだ。さらに江戸へも遊学し、坪井信道に入門、学頭に抜擢されるとともに、宇田川玄真に薬学も学んだ。そして長崎へも遊学し、医者を開業しながら博学のオランダ人商館長ヨハネス・ニーマンから西洋医学や自然科学も学んだ。大坂に帰って医者を開業し、さらに蘭学塾「適々斎塾」を開いた。最高の教育を受け、たぐいまれな見識と技術があった洪庵には入塾希望者が殺到。福沢諭吉、橋本左内、大鳥圭介、大村益次郎、佐野常民などが学んだ。医師としては種痘(牛痘)の普及活動に力を入れ、大坂に除痘館という幕府公認の種痘所を設立した。またコレラの治療にも最善を尽くした。こうした評判は幕府に聞こえ、幕府から奥医師へ招聘され、あわせて西洋医学所の頭取も兼務した。町医者から医学界の最高位まで上り詰めたのである。なお当時の奥医師は総勢19名、すでに3分の1が蘭方医であった。洪庵は医師としても一流で、また日本最初の画期的な病理学書『病学通論』を著すなど学者としても一流、さらに教育者としては超一流であった。適塾の血気盛んな生徒たちが、みな洪庵に心酔し、それぞれが新しい時代を開く人材になった。
田中久重:田中儀右衛門久重は、久留米藩のべっこう細工店を営む田中弥右衛門の長男に生まれた。久重は幼いころから工作に才があり、『機巧図彙(からくりずい)』を参考書に独学でからくりを作り始めた。15歳の時に絣の織機を製作し評判となる。久重はさまざまなからくり人形を作り、「茶酌娘」はその代表作である。祭の見世物でのからくり興行が大評判になり、ついたあだ名が「からくり儀右衛門」。創意工夫もさることながら、歯車やぜんまいなどの加工技術がものをいっていた。
彼はからくりに魅せられ、家を弟に継がすと、妻子を置いて修行の旅に出た。修行の成果として、「弓曳童子」というからくりが最高傑作として残されている。旅を終え大坂に落ちつき、妻子を呼び寄せ時計師の店を出し「無尽灯」(ランプ)を開発。京都に移って「雲竜水」(消防ポンプ)も開発した。そして京の嵯峨御所から「大掾」の称号を与えられた。芸能の最高位である。さらに久重が持てる技術の全てを注いだのが和時計。この際、彼は天文の基礎から学び、京で蘭学塾「時習堂」を開く広瀬元恭に入門して西洋の物理・化学の原理も学んだ。こうして万年時計が完成。世界にも類のない時計だった。使用された歯車やぜんまいは、すべて久重の手作り(工作機械を使わない)で、一度巻けば225日も動いたという。その後、54歳の久重は佐賀藩から招請を受け、佐賀藩の近代化事業に従事。「精錬方」に配属され、蒸気船「凌風丸」を完成させた。久留米藩からも招聘を受けて郷里に帰ったが明治維新となり、明治6年には、70代になっていたにも関わらず電信機製造のために招聘されて東京に移住、見事成し遂げて、彼の工場は「東芝」につながっていく。
川本幸民:川本幸民は、文化7年(1810)、摂津三田藩の藩医を務める家の末子(三男)として生まれ、早くに父を亡くし長兄に育てられた。藩校では抜群の成績で「三田藩始まって以来の秀才」と言われ、医学の勉強に早くから取り組んだ。長兄が参勤交代で藩主に従って江戸詰めになるのに同行を許され、費用は全額藩が負担して留学した。全く異例の措置である。藩主九鬼隆国の格別の温情によるものだった。江戸では高名な蘭方医足立長雋の門に入り、たった1年で師に認められ、さらに坪井信道の門へ移った。しかし酒席の諍いから藩の上役を傷つけ、蟄居・謹慎を命じられる。なおこの期間中に「蛮社の獄」が起こっている。
浦賀奉行の池田将監頼方のおかげで謹慎が解けると、医学のみならず物理学や化学を研究。日本近代科学史上の記念碑的著作『気海観瀾広義』を上梓し、蒸気船など最新科学技術を解説した『遠西奇器述』も公刊。薩摩藩は彼に講義させており、昇平丸の建造には『遠西奇器述』が参照されている。さらに化学分野での翻訳書も公刊し、万延元年(1860)には代表作『化学新書』を出版。これは元素・化学反応・化学式といった最新知識を詳述し、日本近代化学の礎となった。こうした業績を受け、安政3年(1856)に蕃書調所の教授手伝(→のち教授)に任命され、幕府の直参に出世した。さらに幸民は三田藩から薩摩藩に籍を移し、島津斉彬の下で洋化事業に従事した。ただし幕府の蕃書調所の仕事もあったので、薩摩藩には弟子の松木弘安を派遣。電信機の製作に成功した。斉彬死去後は蕃書調所に戻ったが「安政の大獄」で調所も縮小された。大政奉還後には江戸を離れて郷里の三田で塾を開き、後に新政府から出仕を求められたが61歳で死去した。
最後に、冒頭で述べた2つの関心事項をまとめておく。第1に、江戸の科学者たちはどうやって「西洋」に出会ったか。 洋学は「江戸時代の知識人の本道」ではないと述べたが、洋学は藩主や幕府といった権威が導入していたことも多かった。また吉宗の蘭学書物の輸入規制緩和のおかげで、洋書の翻訳が盛んに行われ、本を通じて洋学に出会った人も多い。つまり非合法な方法によって洋学を知ったのではないということは重要だ。
第2に、彼等の身分について。本書に取り上げられている人の生まれは3パターンで、(1)下級武士、(2)技術者(職人)、(3)商人である。
(1)下級武士の場合は、普通の武士(つまり役人)の場合と、医師の家の場合がある。また、医師以外の場合には職務と科学には関連性はなく、家が世襲してきた役とは別に科学に関連する職種(蕃書、天文方、奥医師等)へと登用されていることが多い。概ね科学により身分が上昇している。
(2)技術者(職人)の場合は、幕府や藩に登用された場合(田中久重)と、一好事家のままだった場合(橋本宗吉、司馬江漢)がある。なお(1)にも事例が多いが、医師を開業している場合(橋本宗吉)は、出仕とは違った意味での身分上昇と考えられる。
(3)商人の場合は、本書には志筑忠雄の場合しかないが(とはいえ彼は通詞の家に養子に行っているので、商人と呼べないかもしれない)、家のお金をつかって好きに生きているイメージである。これはヨーロッパの貴族が学問をするケースに近い。
なお西洋の場合は、近代以前の科学者は多くが貴族である。あまり働かなくてよいので余暇を使って天体観測をしたり、実験に取り組んだり、数学を研究した人というのが多いのである。一方、近世の日本では西洋とは階級のあり方が違ったので単純な比較はできないが、有閑階級(例えば上級武士・大地主)の研究というケースは少なく、余暇を使って研究しつつも、それが職業や身分上昇に繋がるケースが多いと考えられる。それは、社会から科学技術が役に立つ「実学」と見なされたためであろう。これは、蘭学がまず「蘭方医」によって実用化し、奥医師に蘭方医が多く進出したことが象徴していよう。
要するに、近世社会において科学技術は、異端的というよりは、先端的であったのだ。彼等は総じて変わり者ではあったが、時代のトレンドを先取りしていたのである。
気軽に読める江戸時代の科学人物誌。
★Amazonページ
https://amzn.to/3vNFmf8
0 件のコメント:
コメントを投稿