2023年5月4日木曜日

『真木和泉』山口 宗之 著

真木和泉の評伝。

維新史において、真木和泉は「最も早く王政復古を主張したものの一人」として必ず出てくる。しかし彼が何を考えて王政復古を着想したのか、どんな人物だったのか、といったことはよく知らなかった。そこで手に取ったのが本書である。

真木和泉は、文化10年(1813)、久留米藩の水天宮の神官の子として生まれた。父は中小姓格に列し、年60俵扶持であった。神官であるとともに、下級武士としての待遇を与えられていたということだ(「格」なので武士そのものなのか疑問があるが)。

和泉は体格に恵まれ、力士に間違われるほどであったが、学問に励み、漢学や国学を学んだ。わかっている彼の蔵書を分析すると、水戸学や国学を中心とした志向が窺える。

和泉は、父の死によって11歳で神官を継ぐ(文政6年(1823))。たった11歳の和泉が、父の葬儀を仏式でなくあえて神式で行ったことは注目される。また10年後の天保4年(1833)には、先祖の仏式の法号を全て廃して霊神号に改めている。彼には廃仏傾向があった。

19歳の時に、9歳年上の女性(睦子)と結婚、5子をもうけ3人が成人することになる。20歳で吉田家より大宮司の許状を得、従五位の下に叙せられ和泉守に任じられた(それ以前も通称として和泉を使用)。

32歳の時に水戸に遊学し、会沢正志斎に親しく教えを受けた。時を同じくして、久留米藩では有馬頼永(よりとお)が襲封する。彼は23歳の英邁な藩主で、楠木正成を敬慕する尊王家であった。頼永は倹約によって財政を改善するとともに、長崎からの情報を摂取して実学を盛んにした。これによって起こった実学派を「天保学連」という。和泉もこの一員だった。弘化3年(1846)、和泉は改革意見を頼永に提出。そこでは「国土は全て朝廷の所有するもの」と早くも主張している。ところが同年7月、頼永は25歳で死去してしまった。

同年8月、和泉は孝明天皇の即位式に公卿の野宮定功の随身として参加。激しい感動を受けた。一方、藩内は頼永亡き後、改革を担ってきた天保学連が外同志(和泉はこちらに属する)と、内同志の2派に分かれ、抗争し、不祥事を起こした。嘉永4年(1851)、藩主を継いでいた頼咸(よりしげ)が入部すると、外同志は「内同志たちが頼咸廃立の陰謀を図っている」と頼咸に直訴。それをきっかけに取調が行われたがその事実が立証されなかったため、逆に外同志たちに重い処分が下った。こうして和泉は水天宮神官の職を取り上げられ、弟の大鳥居理兵衛が留守別当職を勤める水田天満宮で、10年以上もの幽閉(三里構い)の日々が始まるのである。

しかし、これは幽閉とはいえ、あまり厳重なものではなかった。「三里構い」の意味は本書に詳らかでないが、三里以上離れてはいけない、ということなのだろうか(和泉はたびたび外出している)。和泉は敷地内に小舎を建てて「山梔窩(くちなしのや)」と名付けて読書生活をし、和泉を慕ってここに多くの青年が集うようになった。 彼らの多くは武士ではなくせいぜい村役人クラスの百姓であった。

また和泉の弟外記と嗣子主馬は、彼の耳となり手となって情報収集を行い、和泉は山梔窩にいながらにして内外の諸情勢を把握していた。彼は幽閉中にもかかわらず、『魁殿物語』『急務三箇条』などを草し、『急務三箇条』は三条実万に提出している。そこでは神武創業の精神にかえり討幕・王政復古を仄めかしている。また野宮定功に『経緯愚説』を上程し、簡潔ではあるが討幕・王政復古への具体策を述べた。さらに『大夢記』では、天皇が親征して幕府を滅ぼし、親王を安東大将軍として江戸城を治めるという討幕のシナリオまで書いている。吉田松陰ですら討幕を考えていなかった時期に、驚くべきエネルギーである。

そういう48歳の和泉の下へ密かに訪れたのが平野次郎国臣で、二人は意気投合。平野から桜田門外の変や和宮降嫁問題などの切迫した状況を聞かされ、もはや幽囚している時ではないと和泉は決心。久留米藩を動かす術はなかったので、薩摩藩に頼ってことを起こすこととし、門人3人(うち一人は次男菊四郎)と共に脱藩して薩摩藩へ向かった。和泉50歳であった。彼らは、白昼堂々と久留米藩を脱出。あまりの迫力に捕吏たちは手出しができなかったのだという。

薩摩藩では大久保利通や小松帯刀ら要人に会い、連日非常な持てなしを受けた。何の後ろ盾もない和泉らが歓待されたのは不思議だ。11年も幽閉されていたのに、和泉の名が知られていたことは間違いない。しかしながら、公武合体を志向する薩摩藩では、和泉の即時討幕の意見は受け入れられることはなく、薩摩藩からは退去することを求められた。

薩摩を離れ上京した和泉は、薩摩藩士の過激派である有馬新七らと合流。彼らは討幕の挙を実行せんとして寺田屋に集結したが、久光は鎮撫使を派遣し、彼らは斬殺された。寺田屋事件である。しかし和泉は寺田屋の別室にいたので助かり、久留米藩に預けられた。薩摩藩は穏便にことを済まそうとし和泉を処分しなかった。和泉は久留米藩の定宿に70日ほど勾留された。

さらに和泉は久留米藩に護送され、拘禁された。しかし久留米尊攘派を中心に和泉赦免の運動が起こり、公卿への働きかけの結果、正親町三条実愛から頼咸へ解囚の命が下り、和泉は自由の身となった。一転、和泉は頼咸へ召されて重用された。彼は薩築連合を説き、今度は藩命を帯びて薩摩に下ったが、やはり久光には相手にされず帰還した。それでも和泉は、あくまで朝廷を中心とし、天皇が政務・軍事の指揮権を握る体制を夢見ていた。

一方で、頼咸には確たる政治信念が無く、重臣の意見に振り回される面があった。和泉らは一度は寵を得たものの反対派の巻き返しにあい、和泉らの一党はふたたび捕縛された。これを「和泉捕り」という。またもや赦免運動が展開され、公卿等も藩主に穏便な取り扱いを求め、また前藩主頼永の実弟亀井茲監(津和野藩主)も藩士を久留米藩に派遣し解囚を切言した。一方和泉は、自分がこれ以上久留米藩にいると藩内の不調和が続くとして『退国願』を提出。自主的に久留米を去り、朝廷の直臣になろうというのだ。

これは藩内に動揺をもたらし、却下されるところだったが、ちょうどその時、中川忠能の次男忠光が久留米藩に来た際、その対応を誤ったこと、解囚を勧める関白鷹司輔煕の内旨書があったこと、長州藩が和泉の解囚を勧めたことなどから許可された。和泉の処遇を重要人物たちが気にしていることからも、彼の存在感がわかる。

こうして久留米藩と縁を切った和泉は長州藩に赴いた。長州藩では藩主毛利敬親から信任を受けて重んじられた。そして藩命により再び上京するのである。京都でも一貫して討幕・朝廷中心の政体樹立を主張(『五事建策』)。彼は公卿にも大きな影響力を持った。和泉は学習院御用掛に任命され、「このころ和泉は「先生」「大人」「王人」と仰がれ「今楠公」と称せられて志士たちの尊敬するところとなっていた(p.164)」。鷹司関白はいつ参上しても必ず会ってくれた。和泉の生涯で最も得意な時だった。長州藩が朝廷を手中に収めた時でもあった。

そして和泉の建言に基づき、いよいよ天皇の大和行幸・攘夷親征の詔勅が発せられた。ところが、ここで「八月十八日の政変」が起こる。薩摩・会津藩が朝廷から長州藩勢力を駆逐した政変である。天皇としても、朝廷が長州に牛耳られていることは不本意で、その間の勅は真のものではないと言い切った。こうして長州勢は京都から退却し、攘夷派の公卿7名も長州へ落ち延びた(七卿落ち)。

和泉は再起を期し、敬親に建白書を上呈して挙兵上京を説いた。敬親親子はひたすら恭順の姿勢で赦免を請う方針だったので和泉の意見は容れられなかったが、 彼はめげることなく、薩摩と連合しようとするなど(不発)、討幕に向けた策動を続けた。そんな中で、京都では長州を討伐するというムードになり、長州の進退が窮まった。こうして敬親親子まで含めた5隊が編成され長州に進発した。一応、藩主親子の冤罪を哀訴、浪士鎮撫などの名目だった。浪士隊(清側義軍)の第一隊では、和泉と久坂玄瑞が総管であった。

しかし、戦うことが目的でなくても、京都に大軍を差し向ければ、京都守護職の松平容保としては迎撃せざるを得ない。徳川慶喜も長州藩征討を決意。長州藩としてももはや引くに引けず、「君側の奸」松平容保を除くため進撃を決めた。こうして「禁門の変」が起こった。しかしあえなく鎮圧。天王山に逃げた和泉は、禁門に対して刃を向け、藩主親子に罪を重ねさせた責任をとり自刃した。

なお和泉とともに17名が自刃しているが、実はこの中に長州藩の人間は一人もおらず、久留米藩4人、福岡藩1人、熊本藩6人、高知藩4人、宇都宮藩2人となっている。禁門の変は、単純な長州と会津の戦いではなかったことに注意が必要だ。

真木和泉は、ほぼ40歳から50歳までを幽囚の日々で過ごし、身分も高くなかったのに、かなりの影響力を持った。それは人柄と思想の力のなさしむるところだった。

人柄については、一族が和泉に協力を惜しまなかったことでも知れる。和泉には人を虜にする魅力があったのだろう。

思想については、水戸学をさらに突き詰めたと評価できる。水戸学では現実の封建体制(江戸幕府)を否定するどころか、会沢正志斎も将軍への恭順を主張していた。水戸学からは直接は討幕は導かれないのである。しかし和泉は、正式な武士身分でもなく、幽囚の身でもあり、藩の機構に組み入れられることも、その後援を受けることも叶わなかったために、かえって藩意識から自由であり、早い段階で「天皇の直臣」としての意識を持ったことが特筆できる。「恋闕の人」和泉は、情熱的に天皇を追い求め、たとえ国土・民族滅亡することがあろうとも、天皇にひたすら従い「国体」を守ることが日本人としての務めだと考えた。であるから当然に天皇中心の時代に復古することが彼の目的となった。

しかしながら、彼の思想には3つの弱点があった。第1に、彼は西洋のことをよく知らず興味もあまりなかった。よってその思想は日本の近代化を見通したものではなく、時代錯誤な復古主義にならざるを得なかった。第2に、彼は一貫して反幕府的であったが、封建的体制への絶対的肯定があり、いわば将軍の位置に天皇を据えることのみが彼の統治論であった。よって民衆へのまなざしは皆無で、自ら建白の随所に「言路洞開」を求め、どのような身分でも勤王に身を尽くすべきとしながらも、身分制の解体に向かうどころかそれを強化しようとさえした。第3に、彼は他の志士のように藩という組織の中で現実の行政に携わった経験がなかっため、その論策が現実性に乏しく、名分をただすというような理念的なものにとどまった。しかしながら、彼の思想は論理的・現実的であるより、感情的・夢想的であることに魅力があったのも確かである。

そして最後に、和泉は他の志士より年代が一回り上だったことも、その影響力の一因だった。西郷隆盛より14歳、木戸孝允より23歳も年上なのだ。横井小楠と佐久間象山と同世代で、志士の中ではかなりの年配に属した。若く血気にはやる志士たちの中で、和泉が頼りにされリーダー格になったのは年齢も大きかったのだろう。

本書を読みながら、私は真木和泉と吉田松陰との対比を考えた。松陰も若くして家督を継ぎ、罪を得て幽囚の時を過ごした。そして幽囚の中で読書生活をし、自らの思想を先鋭化させた。そういう点で和泉と松陰には共通点が多い。水戸学と国学に大きな影響を受けたのも共通している。しかし松陰の場合は、西洋を知り、現実の外交関係を考慮したことが和泉とは決定的に違う。そして高弟に恵まれたのも和泉と好対照をなした。和泉は、多くの人に影響を与えながらも、それを受け継ぐ人が育つことはなかった。

それは、和泉の思想が理論的なものではなく、彼の人格と絡み合った情念によるものだったことを示唆する。そして「恋闕の人」でありながら、結果的に禁門の変で禁裏に対して戦い、賊臣として死んだことも、その論理を徹底させられなかった悲劇であるとみなせる。それは二・二六事件の青年将校たちを彷彿とさせる。

皮肉なことに、彼は「天皇」の名において「国家」に反逆する最初の典型となったのである。

【関連書籍の読書メモ】
『吉田松陰—「日本」を発見した思想家』桐原 健真 著
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